誕生日の幽霊
一年前。お父さんが生きていた頃。私と夏菜の仲はあまり良くなかった。お互いコミュニケーションが苦手だったから。お父さんがかろうじて二人をつないでいる状態だった。お父さんも大概人と話すのは苦手だったが、災難なことにそんな役回りを請け負う羽目になっていた。
私と夏菜は、同じ家にいながら、まるで他人のような関係だった。
そんなある日だった。今から一年前の夏。お父さんが、交通事故にあった。病院に運ばれたが、お父さんは亡くなった。
私は思った。お父さんがいなくなったら、私たちはバラバラになってしまう、と。
そんなことはあってはならないと思った。もう私には夏菜以外には家族は誰もいないのだ。そして、夏菜だって、私以外には親はひとりもいない。今私たちがバラバラになれば、私たちは本当の一人ぼっちになってしまうじゃないか。私はその時そう思った。
だから私は、夫の死にくじけそうになりながら、でもくじけずに、夏菜と向き合った。何度も夏菜と関わり合った。お父さんがいないことで寂しさを感じることもあった。だけどくじけないで、私は夏菜と話した。そうして、私はいつの間にか、夏菜のことが好きになっていた。私たちは、いつしか仲良くなっていた。私たちは、お父さんがいない寂しさなんてものともしなかった。
私たちは、とても幸せだった。こんな幸せがいつまでも続けばいいと、そう思った。
だけどやがて、夏菜が、病死してしまうことになる。
宵の頃。私たちはやっと家に帰り着いた。夏菜は、もう一歩も動けないというほどに疲れていた。私の方も、さすがに少しばかり疲れがあった。
帰りしなに惣菜を買ってきておいて、それを夕食とした。エアコンをつけ、ついでに扇風機も引っぱり出してきてから、例のテーブルで二人で食べる。
「疲れた―もうご飯も食べられないー」
夏菜はそう呟きつつもだらだらと食卓に着く。扇風機の風が夏菜の髪を揺らしていた。夏菜はコロッケを口にした。
「……あんまりおいしくない」
不満そうにぶーたれる。
「惣菜とはそういうものよ」
私は澄ました顔でコロッケを口に運ぶ。
「……えー」
夏菜はやはり不満そうだった。
夏菜はそっぽを向き、ぼそぼそ声で呟いた。
「……明日はちゃんとお母さんが作って」
言い終えると、またコロッケに向かい、何事もなかったかのようにコロッケを食べ始める。不自然なほど華麗な変わり身だった。
「ええ、いいけど」
その言葉に、私は少しだけ、戸惑った。だって、それじゃあまるで、夏菜が私の手料理を食べたがっているみたいだったから。そんなことを直接的に言われたのは初めてだった。だから嬉しさよりも戸惑いが先立ってしまう。
「……」
私は、そんな戸惑いをごまかすように、横髪を小さくかき上げてみる。
扇風機の首が私の方に回ってきて、長い黒髪が風になびいた。風に揺れる髪は、まるで何かに迷っているようでもあった。
だけどやがて、戸惑いに追い越されてしまっていた嬉しさが、少しずつ顔を出し始める。
何事もなかったかのようにコロッケを食べている夏菜に、私は言った。ほんの少し微笑んで。
「……分かったわ。明日はちゃんと作る」
「……うん」
夏菜はただうなずくだけだ。私もそれで満足だった。
私は、そして恐らく夏菜も、ずっと寂しかったのだ。二人で和解して仲良くなれた矢先に、夏菜が病気で倒れ、そうしてやがてその命を落とした。二人が仲良く過ごせた時間というのは、信じられないくらいに少なかった。だから、ずっと寂しかった。
ここから、私たちはまた一緒に暮らせる。仲良しの二人で。それは、いつからか、ずっと抱え込んでいた寂しさを癒すのかもしれない。
ずっと寂しかった分、それを取り戻すように楽しく過ごせれば。
それはどんなにいいだろう、と、そう思った。
「あ……今日誕生日……」
翌朝。二人はまた、例のテーブルに向かい合って座り、朝食を食べていた。そして夏菜が、今更気付いたかのように呟いた。
そう、本日8月22日は、夏菜の誕生日であった。
幽霊に向かって誕生日とは、少し矛盾があるとは思うが。
「気付いてなかったの?」
私は呆れたように言う。
「うん……」
夏菜は照れ気味に口をすぼめた。
「でも、幽霊なのに誕生日って、なんか変な気分だね」
不思議そうに目を細める。
「……そうね。誕生日が来ても年なんてとらないわ。もう死んでるもの」
「……うん……」
夏菜のきれいな瞳が、少しだけ、震えるように揺れ動く。
やがて、私は朝食を食べ終わる。そして立ち上がって言う。
「じゃあ、仕事に行ってくるわ」
「え……仕事?」
夏菜が不安そうに私を見つめた。
私はちょっと困った。
「そうよ。今日は月曜日だから。あ、ケーキは仕事帰りに買ってきてあげるわ」
「……うん……」
夏菜はほんの少しだけ不満そうだった。
「……あー、じゃあ、わたしも一緒にケーキ選んでいい? あそこのケーキ屋さんでしょ?」
夏菜が提案する。
「いいわよ、もちろん」
私はうなずく。
しかし夏菜は、まだ何か言いたいことがあるようだった。
「んー。……だけど、ケーキ屋まで行くの、メンドクサイな……」
「……あなたね。ケーキ屋なんてすぐ近くじゃない。十分もかからないわよ」
私はまた呆れて言う。
「……うー。分かったって。行くよ。行けばいいんでしょ」
「あなたが行きたいって言ったんじゃないの。店でケーキ選びなさい」
「分かったよー。チョコレートケーキね」
何故かチョコレートケーキを買うことがすでに決定していた。
「じゃあ、仕事に行ってくるわ」
私は夏菜を振り返り、そう告げる。
「……いってらっしゃーい……」
夏菜は何だか不満そうな様子で、しぶしぶ私を見送った。
私の仕事が終わったのは、空が夕焼けに染まる頃だった。私は会社から電車で帰ってきて、町に到着する。
私は夏菜と一緒にケーキを買うべく、まずは夏菜に連絡を取る。携帯電話で夏菜のスマホの番号を呼び出した。
「もしもし。私です」
『もしもし。仕事終わったの?』
夏菜はほんの少しだけ、喜びの色を声ににじませながら応答した。
「ええ。今からケーキを買いに行くわよ」
『ああ、そっか……はーい』
夏菜は少し億劫そうな声を出す。そのあと、電話の向こうで何やら準備をしているような気配がした。夏菜は、私を数秒間待たせたあと、再び電話に戻る。
『出かける準備できた。今から行くから。切るね』
「ばいばい」
私は一応別れの挨拶をする。
『ばいばーい』
夏菜も挨拶を返す。そこで電話は切れる。
私はスマホをかばんにしまい込む。そしてケーキ屋を目指して歩き出した。
ケーキ屋に到着すると、夏菜はすでに店の前で待っていた。
「あ……お母さん……」
夏菜は夕方の風に吹かれて、その黒色の髪は震えるようになびいていた。
私を見つけると、少しだけ安心したような顔をした。
「……夏菜?」
そんな夏菜の様子が、私に小さな不安を抱かせる。私は目で問いかけるようにした。
そんな問いかけに気付いているのかいないのか。
「……あの、さ。幽霊だからなのかな……」
夏菜はそんな風に話を切り出した。
「みんなさ、わたしのこと……」
夏菜はそこで少しだけためらう。だけどやっぱり、話すことにしたようだ。
「……見えてない、みたいなんだよ」
「……」
夏菜自身も、戸惑っているようだった。
……本当を言うと、私は、そのことには気付いていた。一緒に病院から帰る時も、一緒にひまわり畑に行った時も、夏菜は通行人に認識されていなかった。
夏菜も、薄々気付いていたのではないだろうか。誰にも夏菜が見えていないことを。
一体何が起きているんだ。幽霊になるって、こういうことなんだろうか? 私以外の誰にも認識されず、誰にも触れてもらえない。誰ともお話しすることもできなくて、誰にも見つけてもらえない。
そもそも私は幽霊という言葉の意味を履き違えていたのだろうか。
夏菜は私からすれば普通の人間と変わりなくて、目に見えるし触ることもできる。一緒にご飯を食べたり、ひまわり畑に行ったりすることもできる。
だけど、やっぱりこの夏菜は普通の人間とはどこかが決定的に違っているのだ。当たり前と言えば当たり前だ。だって夏菜は、一度はこの世を去った「死人」なのだから。普通の人間とは違うに決まっている。
だから、私以外の人にはその姿さえ視認できなくて、一緒に話すこともできない。
それが、「幽霊」になる、ということなのか。
ならば、夏菜は生き返ってなお、一人ぼっちになるのが宿命だということか。
心残りを解消するために現世に戻ってきた夏菜。それなのに、心残りをなくすどころか、また世界にひとりぼっちになってしまうのか?