レッツゴー ひまわり畑へ
すっかりエアコンが効いた居間は、少し肌寒いほどだった。まだご飯を食べている夏菜を尻目に、私はぼちぼち出かける準備を始めることにした。
二人分の帽子を棚の引き出しから引っぱり出してきて、テーブルに座る夏菜にそのうちの一つの青い帽子を目深にかぶせる。
「うわっ」
夏菜は驚いたようだった。私はその時、幽霊だけど触ることはできるんだな、と今更のように知った。
続いて電車代を計算して、財布に入れておく。あとはかばんを持って準備は完了だ。
「行くわよ」
私は夏菜に声をかけた。
「あ、うんっ」
夏菜は目玉焼きをまだ食べ終わっていなかった。急いで食べる。
「玄関の方で待ってるからー」
私はそう言い残して玄関に向かう。
居間の方から食器やら箸やらのかちゃかちゃいう音が聞こえてくる。夏菜が焦って早食いをしているのだろう。
私は黙って夏菜を待つ。
……未だに信じられないことだが、彼女は、いわゆる「幽霊」なのだ。一度この世を去り、そしてまたこの世界に戻ってきた、一種のオカルト的存在。
正直、幽霊の彼女には、まだ少し慣れなかった。ついこの間息を引き取った私の娘が、また家の居間で朝ご飯を食べているなんて未だに信じられない。
目の前にいるこの幽霊少女は、本当にあの夏菜なんだろうか?
まだ、心の整理がつかない。この幽霊が現われたのは、あまりに急なことだった。心を整理するには、まだ時間が必要だった。
私は、戸惑っていた。
この感覚は、父が亡くなった時と同じだ。
父は私たち母娘をつなぎ止める唯一の存在だった。二人は一度、バラバラになった。それでも、また一から関係を作り直して、そしてその時、本当の意味で親子になれたんだ。
それなら今回も同じだ。ここからまた始めていけばいい。焦る必要はなかった。
夏菜も急いで私に続く。
夏菜はまだ緊張気味だったが、口の中に残っていた目玉焼きをのみ込むと、輝いた瞳で、
「レッツゴーっ」
握り拳を突き上げた。
二人はここからかなり遠い駅まで行ける切符を買い、電車に乗り込む。
電車の中は割と空いていた。大きな窓が、白く眩しい夏の光を四角く切り取り、車両内に投げ出している。だけど暑くはない。冷房がガンガンにかかっているので、むしろキンと冷えている。
二人は空いていた座席に並んで座る。かばんはひざの上に置いた。
やがて電車が出発する。出発の反動で二人の体は揺さぶられた。電車が進み出す。
私が、いくらかの沈黙のあと、静かに話し始めた。
「……あなたは何故ひまわり畑が好きなの?」
そう訊ねた。
夏菜は何故か妙に恥ずかしがりながら、ぼそぼそ答える。出発前の元気さが嘘のようだった。
「え、えと、ひまわりが、好きだから……」
夏菜はますます顔を赤らめる。ひまわりを好きなのが恥ずかしいんだろうか、と私は思った。
夏菜は帽子を目深にかぶり直して、黙り込んでしまう。
「……」
また沈黙がやってくる。沈黙はしばらく続いた。
そして沈黙が破られたのは、私が思い出したように夏菜に話しかけたからだった。
「……そういえば、生前はあまり一緒にお出かけできなかったわね」
私は寂しそうに言う。
「……うん」
夏菜もうなずく。
「で、でも、楽しかったと思うよ……意外と」
夏菜はさっきの反省を生かしてか、会話を続けようと頑張る。
「そうなの? あなたが楽しいような思い出なんて、あったかしら」
「……あ、あったよ……」
だけど実際、私にとっても、夏菜が楽しいと思っていたことが意外だった。夏菜には寂しい思いばかりさせてきたと思っていたから。
「……ん? でも……」
と、そこで私はある事実に思い至った。夏菜が幸せな人生を送っていたというなら、何故成仏できないのだろう。幸せだったなら、未練なく成仏できるはずだ。それとも、幸せではあったけど一つだけ後悔があった、というような話なのだろうか。
目の前にいる幽霊に訊いてみようか、とも思った。だけど……
「……ん? 何?」
夏菜をじっと見つめていた私は、振り返る夏菜と目を合わせてしまう。
私は質問してみようかと思った。だけど言葉を発しようとした唇は、震えるばかりで、結局言葉を紡ぐことはなかった。
私は、まだ幽霊の娘を受け入れられていなかった。なぜなら、娘が死んでしまったことさえ、まだ受け入れきれていないのだから。
今目の前にいる娘は、ただの夢なんじゃないかと未だに思っている。
だから、夏菜に「死ねなかった」理由を訊くなんて、想像もできないのだ。私の中では、夏菜はまだ死んでいないから。
それに……
夏菜が生前不幸と感じていたこと、なんて、怖くて訊けるはずがなかった。
それから、また会話が続かなくなる。私が黙り込んでしまったからだ。
さっきまではりきっていた夏菜も、私につられて、だんだんしぼんだようになって静かになる。なんとなく気まずいような、何かがかみ合わないような、そんな空気が流れる。二人の間に動きはなく、ただ電車の発車と停車に合わせて体を揺らすだけだ。
だんだんと、退屈さと気だるさの波が押し寄せてきた頃、電車は、目的の駅に到着する。
車掌さんが駅の名を告げて、私はやっと到着したことに気付いた。
「降りるわよ」
私は夏菜の手をとり、電車を降りた。
「う、うん」
夏菜はされるがままに連れていかれる。
その駅からさらに何分か歩くと、ひまわり畑がある。二人は入園料を払い、ひまわり畑の散策を許可される。
「どんなんかな、ひまわり畑……」
夏菜は、独り言のようにぼそっと呟く。その瞳は、ほんのわずかに輝いている。
「……どんなのかしらねえ」
私はオウム返しのように応える。そんなことしか言えなかった。
やがて、二人はついに、ひまわり畑を間近で見ることとなった。
「……!」
第一声は、興奮を抑えようとして、でも結局抑えられていない夏菜の、感嘆の叫びだった。夏菜は口元に手を当てて、小さな叫びを発した。
「……」
私は何も言わず、ただ静かにひまわり畑を見つめている。夏菜はこういうものが好きだったのか、と今更のように知る。他人事のように、幽霊となった娘の存在を隣に感じた。
ひまわり畑は雄大であった。ひまわりは、何だかとても元気はつらつそうで、力のみなぎった黄色い花だ。その花が一面に植えられていて、そしてどこまでも続いている。眩しいほどにひまわりの黄色が満ちた風景。後ろには夏らしい、白い雲と青い空が控えている。空の青と白にひまわりの黄が映えて、一層眩しく思えるようだった。
私は、夏菜の方に目を移してみる。夏菜は帽子の陰で、眩しい夏の光をその目に映し、瞳をいっぱいに輝かせていた。私はその時、ふと思った。
この風景は、生前の夏菜が失ってしまった風景なのではないか。
私は、夏菜がひまわり畑を好きだったことなんて知らなかった。だから、ひまわり畑に連れて行ってあげたことはない。
夏菜はずっと、私と一緒にひまわり畑に行くことを夢見ていたのではないか?
生前の仲が良かった頃なら、いつでも行ってあげられただろうけれど。ひまわりを好きなことを恥ずかしがって言い出せない間に、病気になってしまって、結局一度も行けなかったのだろうか?
夏菜は今、生前叶えられなかった夢を叶えているのではないだろうか?
一度死んで、幽霊になったおかげで。
なんだか皮肉な話だけれど。
「…………」
私はもう一度、ひまわり畑へと振り返る。
切実な輝きを放つ、その黄色の花。精いっぱい、今を生きている。夏の雲と青空が、ひまわりを優しく包み込む。だけど、きっとすぐに散ってしまうのだ。夏が終わってしまう頃には、まるで最初からいなかったみたいに、あとかたもなく消えていくのだ。
「……お母さん……? お腹、空いた……」
「えっ?」
気付けば、夏菜がすぐそばに突っ立っていた。もじもじしながら私に話しかける。
私は少し驚きながら応える。
「……ええ、じゃあ、昼ご飯にしましょうか」
「うん」
夏菜はそう答えた。