夏菜との出会い
やがて私は、とある病室の扉の前に立った。そこは、かつて夏菜が入院していた病室だった。
「――」
声は、私をこの部屋へと導こうとしていた。ただし、部屋の中から直接声が響いているわけではない。それならば、病院の外にいた私のところまで声が届くはずはない。声は、頭の中に直接響いていた。内側から語りかけるように。
もしも、この声が幻聴でないならば。
この部屋の中には、何があるというのだ?
私はゆっくりと手を伸ばし、スライド式の扉のその取っ手に、手をかけようとする。心臓が早鐘を打っていた。扉に手をかける前に、一度深呼吸をする。そして。
自分でも気付かないうちに、わずかな期待のようなものを込めながら。
今度こそ、扉を引く。
ガララ、という扉を引く音は、静かすぎる室内に響いた。室内では、動きを持つものは、あの真っ白いカーテン以外になかった。カーテンは眩しすぎるほどに夏の光を反射して、輝いてすら見えた。
……やはり、何もない。当たり前だが。
ベッドの中や陰を確認してみても、やはり誰もいない。
そこまで確認したあと、私は我に返った。
私は、一体何を期待していたんだ。死んだ人間が生き返ったとでも、思ったのだろうか。
急に馬鹿馬鹿しくなってくる。馬鹿な自分に呆れかえる。
やっぱり、幻聴だったんだ。本当の夏菜の声ではない、幻の声だったんだ。
やはり、どう考えても疲れていた。
もう、帰ろう。帰って眠ってしまった方がいいだろう。とにかく疲れていた。それも、幻聴を聞いてしまうほどに。ゆっくり眠って、疲れをとってしまった方がいいだろう。
私はこの肩すかしのせいでますます疲れたような気持ちになって、一つ大きなため息をつく。
私はそのため息で気持ちを切り替えたように、今度こそ踵を返してその部屋に背を向けた。
――その時だった。
私はもう一度、病室をゆっくり振り返る。見間違いかと思った。白いカーテンの陰を、もう一度凝視する。寄せては返す波のように揺れ、その内側を隠したり、さらけ出したりしている。
――その「内側」に、誰かがいたような気がしたのだ。
私はよく見る。見逃さないように。やがて、カーテンが一際強い風に押されて、「内側」をさらけ出す……
その時「私たち」の間で、目の前の現実という「映像」が、スローモーションに動いていた。強い風に押されたカーテンは、まるで永遠に帰ってこないかのようにも感じられた。
カーテンの内側にたたずんでいたのは。不安と戸惑いの表情で、そこに立っていたのは、見間違うはずもない、
死んだはずの娘、夏菜だった。
「……夏菜……」
私は、戸惑う。
「あなた…………」
夏菜は死んだはずなのに、何故まだこんなところにいるのだろうか、と。
私は恐る恐るといった様子で、少しずつカーテンへと近づいていく。その間、カーテンははためいているので、夏菜はカーテンの陰に見え隠れする。夏菜が着ていたのは、彼女が何年も使い古している、薄い水色の、綿のパジャマだった。
やがて夏菜の前に立った私は、夏菜に手を伸ばす。恐る恐るゆっくりと、その肩に触れる。
夏菜はされるがままで、上目遣いに私を見つめるばかりだ。
「……どうして……?」
私はその一言だけを、訊ねる。
それに対し夏菜は、困ったような顔をして、
「分かんないけど……」
そしてこう続ける。
「わたし、成仏できなかったみたくて……」
と。
「…………」
私には、何が何だか分からなかった。理解の範ちゅうを超えていた。
「えっと……だから、つまり、その……」
夏菜は言うべきかどうか迷っているようだったが、意を決して、そのことを伝えた。
「わたし、幽霊になっちゃった、みたいで……」
私はとりあえず、家に帰ることにした。幽霊(?)の夏菜を連れて病院を出て、電車に乗って家に帰る。
その間、多分、通行人は夏菜の存在に気付いていなかった。
私は夕方になって、ようやく家に帰り着く。安いアパートである。××県、●●市。私たちの住む町。
家に帰って一通り気持ちを落ち着ける。それで、ようやく夏菜の話を聞く気になった。
二人は居間に集まり、話し合うことにした。
全体的に、こぎれいな居間だ。この家の居間は、畳敷きとなっている。そして、おしゃれな小さな棚と、26インチほどのテレビなどを置いていて、部屋の中心にはちんまりとした可愛らしいテーブルを備えている。
二人はそのテーブルに向かい合って座り、話し合う。下は畳なので直に座る。昔から、ご飯を食べる時も話をする時も、とにかく何をするにも、このテーブルを使うというのがこの家の暗黙の了解だった。
「……で、その、幽霊っていうのは……」
私は不信感を隠さずに、夏菜にそう訊ねる。
夏菜は、きれいな黒髪を持つ女の子だ。現在は平常より髪が長く、病気がちになる前は肩までだったその髪は、今は背中まで伸びている。前髪はその目を隠しそうほど長い。
「う……うん……」
夏菜はためらいながらも、ポツポツゆっくりと話し始めた。
「……えっと。私が……死んだ時のこと、憶えてる?」
憶えてるも何も、今日起きたことだ。まだ一日も経ってないのに、忘れるはずがないだろう。
「私、あの時ね、『やっぱり死にたくない』って思ったんだ」
どことなく暗い色を持つ彼女のその目つきは、うつむきがちなことと髪が長いことで、こちらからは見えづらい。
「……うん……」
「で、そしたら……星の光が、わたしのとこにやってきたの」
「…………」
いきなり意味が分からなかった。私は思わず眉をひそめ、何とも言えなくなる。
「あ、え、えっと、意味分かんないと思うけど」
夏菜は少し動転気味に言葉を継ぎ足す。目つきに陰はあるけれど、少しばかり童顔なので、時折あどけなく見える子だ。
「……星の光、って?」
私は訊ねてみる。
しかし私は訊ねながらも、同時に、星の光と言う言葉に思い当たる節がないでもなかった。私がその不思議なフレーズを耳にしたのは、恐らく相当昔のことだ。私は少しずつ思い出していく。過去の記憶を、例えば、この町に来た時の記憶を、一つずつたどっていく。
そして、私は思い当たった。恐らく私は、その話をこの町のどこかで耳にしていたのだ。
そう、それはまさしく、
「星くずの伝説……」
私は呟く。星くずの伝説とは、この町に広く伝わる伝説のことである。その内容は、私の記憶では確か「星の光が奇跡を起こす」、というような伝承だった。
なんとも、曖昧な内容だ。まず、「星の光」からして何を指しているのかよく分からないし、奇跡というのも具体的には何を起こしてくれるのか、分からない。
「星くずの……伝説?」
「……この町には、星くずの伝説っていうのがあるのよ」
私は言う。
「あなたの言う『星の光』が、奇跡を起こしてくれるらしいっていう伝承」
「……奇跡を……?」
夏菜は私の言葉を受けて、考え込み始める。
……私も少し考える。
しかし、夏菜が本当に「星の光」を見たというのなら……
夏菜にも奇跡が起きたということだろうか?
この場合の奇跡と言えば……
それはもちろん、死んだはずの夏菜が今私の目の前にいることだろう。
「…………」
私には星の伝説のことは分からない。だから私からはっきり言えることは何もなかった。
「うーん」
夏菜の方も、星の伝説とやらにはいまいちピンとこないようだった。
ならば、この夏菜は結局幽霊なのか、幽霊でないのか、その結論はどうなるのだろう。
といってもこの夏菜は普通に触れることができるし、足首もちゃんとある。外面だけ見れば幽霊ではない。
しかし、夏菜という人間は確かに死んでいる。それならば、今私の目の前にいる夏菜はいったい何者なのか。
「……あ……」
その時、夏菜が不意に、何かを思い出したように呟いた。
「何?」
「う、うん、えと……」
私が訊くと、夏菜はおそるおそる話し出そうとして、
「……あ、その……死んだあとの、ことなんだけど……」
「ええ」
「そ、その…………」
そこで夏菜の言葉が止まった。
「……何よ。話すなら話しなさいよ。気になるでしょ」
「……や、やっぱり、なんでもない」
夏菜はそう言って話すのをやめてしまった。
中途半端に止められるのが一番困る。
「言いたいことがあるのなら言いなさい」
私はまだ根気よく訊ね続ける。
私はふと、夏菜の目には、自分の姿が怖い人間として映っているのかもしれない、なんてことを考える。
「………………」
ついには、夏菜は黙り込んでしまった。夏菜はうつむいてじっと座り込んでいる。
「………………」
私はまだ待ち続けていたが、夏菜に話す気がないことを見てとって、やがて私も諦める。結局夏菜が何を言おうとしたのかは分からなかった。
ふと窓の外を見ると、二人が話し込んでいる間に、日はとっくに暮れていた。
「そろそろ、ご飯を作るわ」
「う、うん」