いつかの、ひまわり畑
いつかの、出来事。私は、いつものローテーブルの前に、腰かけていた。
夏の終わりの淡い日差しが居間に差し込み、それに眠気を誘われた私は、テーブルの前に座りながらうつらうつらと船を漕ぎ始めるところだった。
居眠り中のぼんやりとした思考を、あちらこちらへ飛ばしていく。
まずは、もう一人いたはずの、この家の住人について。そう、目の前の席に座る誰かが、もう一人いた……はずだったのだが。
でも、今はもういない。どこかに消えてしまったのだ。いや、死んでしまったのだったか。……そうだ、彼女は、不治の病を背負っていたのだった。病はやがて彼女の体をむしばみ、ついには彼女の体を死に追いやった。
そういう筋書きだった気がする。いや、間違いなくそうだった。娘は、病死したのだ。病院のベッドの上で、白いカーテンに、夏の終わりを煽られるように。
「…………」
しかし……不思議なのだが、それだと、妙な違和感が残るのだ。もちろん、娘が亡くなったことは間違いない。そんな重大な出来事を間違うはずがない。
だけど……。
娘が亡くなった、そのあとにだ。
亡くなった直後、そして、まさに、娘が死んだその病室で。
娘に再会したような……そんな、気がするのだ。
おかしな話だ、というのは分かっている。死人に会えるわけがない。それも分かっている。そもそも、娘に会ったといっても、それは実におぼろげな記憶だった。確信を持ってそう言えるわけではない。あくまで、「会った気がする」というだけだ。だから、ただの気のせいなのかもしれない。
だけど、この「気のせい」には、まだ続きがある。
病室で、いわゆる、娘の幽霊と邂逅を果たしたあと。私と娘の幽霊は、一緒に「遊んだ」ような気がするのだ。それは、やっぱりおぼろげな記憶だけど、でも確かにそんな記憶がある。何をして遊んだかは忘れてしまったけど、私と娘が、同じ時を過ごし、同じことで笑い、同じことで泣いた……そんな物語が、どこかで起こっていた気がするのだ。何故か、記憶はあやふやだけど。
それとも、それは一夏の淡い夢のようなものなのだろうか。夏の終わりの感傷に当てられて、あったかもしれない遠い夏を、夢に見ただけなのだろうか。柔らかい夏の日差しに、船を漕ぎながら。
娘の、幽霊。そんなものが、果たして本当に私のところに来ていたのかどうか。実際のところは分からない。だけど、もし本当に幽霊が来ていたとしても、その幽霊も既に成仏してしまったあとだろう、と思う。
なぜなら、この家には、もう私以外の人間が居ないから。ちょっと前まで私の向かいに座っていたはずの娘も、今はもういない。
私は、一人ぼっちになってしまったのだ。
お父さんも娘も、私の前からいなくなってしまった。たった三人の家族だったのに、私はそれすら奪い取られてしまったのだった。
「ん……すう……」
そろそろ本腰を入れてきた睡魔が私のまぶたを下ろす準備に取り掛かり始めた。眠気混じりの取りとめのない思考も、睡魔がやってきたことでついに途切れてしまう。私の意識はやがて、深い眠りの底へと落ちていく。
頭にあるのは、ただ眠りたいという欲求だけ。考え事も悩み事も忘れて、今はただ眠ろうと思った。
ベッドに横になるわけでもなく、ただテーブルの前に座りながら居眠りをする。家の壁を背もたれにして。
空から降る、清水のようにきらめく夏の日差しが居間を照らし、私の元に日だまりを作る。
この日だまりさえあれば、あとはもう何もいらない、と思った。
この温かさがあれば、安らかに眠ることができるから。
今は、これだけあれば、他には何もいらなかった。
……我知らずこぼれてしまっていたその滴は、だから、知らないふりをする。
独り居眠る昼下がり、夏の日差しが作り出す日だまりの中に、悲しみの滴は溶けていった。
そして、私は夢を見る。
あるいはそれは、夢なんかではなくて。
夏菜が私に残した、「星の記憶」なのかも、しれなかったけれど。
「……××」
声が、聞こえる。
「……×××」
……声の高さから判断して、女の子だろうか? 私のことを呼んでいるようだ。
「……×××」
私の意識はまだ薄ぼんやりとしていて、夢見心地だ。今まで眠っていたのだろうか。
しかし、ここはどこだろう。眠っていたというのならば、ベッドの上だろうか。
不意に、激しい蝉の鳴き声が耳をつんざき始める。
と思えばそのすぐあとに、耳元で、私を呼ぶ大きな声がした。
「××××!」
「わっ!?」
突然だったので、私は大きくのけぞってしまい、思わず声の方向へ振り向いた。
「な、何っ?」
言いながら、声の方向にいる人間を確かめる。
やはり女の子だった。白のワンピースを着て青い帽子をかぶった女の子がそこに立っていて、私を見下ろしていた。帽子の下にある顔立ちは少しあどけなく、目はぱっちりと大きい。全体的に整った容貌だった。しかし表情にどことなく険のようなものがあって、それがマイナスだ。
「何、じゃないよ。××××が全然起きないから、起こしてあげたんだよ?」
「……はあ……?」
よく分からないが……。やはり私は眠っていたのか?
それも座ったままで眠っていたのだろうか、私はどこか室外の場所にいて、土の地面に直に座り込んでいた。
……室外?
私は周りの景色を見渡してみる。
「…………」
私の視界に映ったのは見慣れた寝室の景色でもなく、またどこかのホテルの一室のような景色でもなかった。
一面の、ひまわり畑。
私は、ひまわり畑の真ん中で眠っていたらしかった。
「……ええっ」
驚きのあまり眠気が吹き飛び、私は思わず立ち上がった。
「な、なんでこんなところで……」
戸惑うのを通り越して、恐ろしかった。女の子は私のことをじっと見つめている。私は説明を求めるように、ひまわり畑と女の子を交互に見比べた。
「なんでって、そりゃ二人で遊びに来たからでしょ」
真面目くさった顔で、当たり前のように言う女の子。
「遊びに来た……?」
情けないことに、心当たりが一切なかった。それとも、ひまわり畑のど真ん中で眠っている間に、すべて忘れてしまったのだろうか。
私は、頭の中にある記憶の糸を一つ一つ丁寧に手繰ってみる。
ひまわり畑か……あまり、頻繁に行く場所でもない。というか、今日が初めてなんじゃないだろうか。それがまた今日は、何故急にひまわり畑に行こうなどと思い立ったのだろう。ひまわり畑なんて、どこにあるのかさえ知らなかったはずだが。
「…………」
そこで私は、もう一つの記憶の手がかりを、隣に座る女の子に見つける。女の子は私が見つめると不思議そうに見つめ返してくる。
「……ひまわり畑なんかに行きたがったのは、あなた?」
「そうだけど」
女の子は呆気なくうなずく。そして、ますます不思議そうな顔をする。私は何か変なことを訊いているのかもしれない。
「どうしたの? まさか、記憶喪失?」
女の子は冗談めかして笑いながら言う。
「…………」
その顔を見ながら、徐々に記憶の糸口が手元に手繰り寄せられていくような感覚があった。
そうだ。少しずつ、思い出してきた。
私は、今朝、この女の子と同じ部屋で起き、同じ朝ごはんを食べ、そして同じ朝を過ごしたのだ。
二人が集まるテーブルの席で、不意に女の子が言った。「ひまわり畑に行きたい」と。そのお願いを、私は聞いてあげた。そういうわけで、私たちはひまわり畑に行くことになったのだった。
「……だんだん思い出してきたわ」
「え? ほんとに記憶喪失だったの?」
「数分で戻る記憶を、喪失したとは言わないと思うわよ」
馬鹿らしい会話をしながら、私は少しずつ思い出していく。
今目の前にいるこの子。この子は確か、私にとって大切な子だったんだ。命に代えても守りたかったはずの、女の子。
だけど、守れなかった。その手をつかもうとして、だけど結局彼女の手のひらは私の手をすり抜けていった。そうして、彼女は私の前からいなくなってしまった。
それがどうしてか、その女の子は、今私の隣で笑っていた。
「まあそうだけどさ」
混じり気のない、本当に素直な笑顔。その笑顔は、私には、眩しくすらあって。
「……ねえ、××。あなた……」
だから、その先の言葉を口にするのははばかられた。
「何?」
小首を傾げて訊ねる女の子に、
「……いや、なんでもない」
私は首を振って答えた。
「……ねえ、」
そして、話題を切り替えるみたいに、私は言った。
「遊びましょうか」
私は、少し笑顔を作ってみせて、そう言い放つ。
「はあ」
夏菜は、少しいぶかしげな表情で私を見る。私がいつもと違う調子だから、少し不審に思っているらしい。
「せっかくひまわり畑にいるんだから、ひまわりを見ましょう」
そう提案するや否や、私は隣に立つ少女の手を引いて歩き始めた。
「え、ちょ、ちょっと」
少女は急に引っ張られたので少し足を引っかけつつも、しかし何とか私に追いつく。
「きゅ、急に何なの?」
「まあまあ、いいじゃない」
不審げな少女を適当にあしらいつつ、私は進んでいく。
ひまわり一つ一つを検分しようとするかのように、左右の畑を見回しながら、私は歩を進める。やがて、私の気に入るひまわりを見つけ、その前で立ち止まる。
「見て、このひまわり。背がすごく高いわよ」
二メートル近い背丈を誇るひまわりが、私が指をさした方向に咲いていた。力強い立ち姿で、みる者を圧倒させる迫力があった。
「……う、うん……」
一歩遅れて私の隣に並んだ少女は、戸惑いながらも、やはりひまわりの美しさに感動しているようだった。
別名を太陽と名付けられたその花は、私たち人間の目線よりもさらに上に咲き、それを見上げる人間に日の光のような眩しさを感じさせた。
「……すごいっっ」
さっきまでの戸惑っていた様子が嘘だったかのように、はしゃぎ始めるが早いか、ひまわりに飛びつく。
「ちょ、ちょっと待って」
少女と手をつないでいた私は、必然少女に引っ張られるような形になり、こけそうになりながらも何とか少女についていく。
「わあ……」
ひまわりを目の前にして感嘆の声を上げたかと思うと、すぐさまひまわりにその手を伸ばし触ろうとする。少女は、ひまわりを傷つけないようにあくまで優しくそっとその手で触れる。誇らしげに高く伸びた茎、気持ち良さそうに日光を浴びて、生き生きとした生命力にあふれる葉っぱ、太陽のように眩しく輝く花。少女は、この花がこれほど大きくなった理由を探ろうとするかのように、茎や葉や花にまるで名探偵のような聡明な瞳を投げかけ、じっくり観察する。しかし、いくら観察してもその答えは分からないようだった。
「……きれいだね」
私はそう呟いていた。返事を期待した呟きではなく、独り言のようなものだった。
「そうだね」
だけど私の呟きにこちらを振り返った少女が、笑みをこぼしながらそう言葉を返した。
私は、ふと思う。
――こんな時間がずっと続けばいいのに、と。
……私はどうかしているのだろうか。私が願うまでもなく、この平凡な日常は、退屈なままいつまでも続いていくだろう。それなのに、どうしてこんなことを思うのだろうか。
――いつまでも、この子のそばにいたい。いつまでも、一緒に笑っていたい。
次から次へと、思いはあふれて。
……本当に、どうかしているのだろうか。
不意に、泣き出しそうな気持ちにさえ、なってしまって。
この正体不明の感情をどこに追いやればいいのか。どうしようもなくて、私は困ってしまう。にじんでしまった景色の中で、女の子はまだひまわりに夢中になっている。右に回り込み、左からのぞき込み、せわしなくひまわりの周りを動く。そんな様子が、妙に愛しくて、少し悲しかった。
だから。
だからこそ私は。
涙にぬれたこの瞳を少しぬぐい。もう一度、女の子の隣に立って。
そして、彼女の手を取った。
「夏菜」
彼女の右手はとても温かくて、その手を握っているだけで何故か安心した。
いつまでも、この手をつないでいたかった。
「何? お母さん」
夏菜は私を振り返って言う。
「ずっと、一緒にいましょうね」
私は、泣き出しそうなのを何とかこらえて、笑顔で言う。
――この記憶もいつか途切れて、星の一つになるのだろうけど。
「もちろん。ずっと一緒だよ」
夏菜は、当たり前のことみたいにそううなずいて。
――今度は、私の方に星が宿るんだ。
だから、いつまでも忘れずにいられる。
永遠の、夢。それはまるで、いつまでも降りやまない、スノーグローブのように。
私の中をいつまでも巡り続けるただ一つの星。
その星を目指して歩いていけば、きっと、いつまでも強くいられるんだ。
この記憶を胸に抱いていられれば、きっと私はといつまででも幸せなんだ。
そんな風に、思えた。
私は、いつか、夏菜をひまわり畑に残して、一人で歩き出すのだ。
夏菜を残したひまわり畑を後ろに振り返りながら、それでも私は一人で行くのだろう。
だけど、それでも。
夏の終わりの淡い輝きの中。
夏菜と私が「ずっと一緒にいよう」と誓ったこのひまわり畑は、いつまでもいつまでも風に揺れ、どこまでもどこまでも、その青い空の下に広がり続けているのだろう。
これにて完結です。ありがとうございました!




