夏菜の消滅と、星の記憶
夏菜は本当に、私の前からいなくなってしまう。その事実を、ますます実感を伴って私は理解する。
――しかしその時、私の頭の中に、私自身の声がささやく。
――夏菜はまだ「終わりの挨拶」を済ませていないと判断される。だって夏菜は、まだ全然幸せになんかなってないはずだから。
だから、またお父さんに追い返される。
――だから、夏菜が成仏したって問題ない。私は今、不安にかられる必要も、悲しみに暮れる必要もない。夏菜は、「終わりの挨拶」をできていないから、またこっちに戻ってくるはずなんだ。
そんな言葉が、ひとりでに頭の中を駆け巡った。自分を安心させるための言葉……「まだ夏菜と一緒にいたい」という、私の甘え。
それはただの甘えであっても、しかし確かに真実であるはずだと思った。
私はまだ夏菜を幸せにできていない。夏菜はこの一週間の夏休みでは、まだ「幸せ」をつかんでなんかいない。私の力が足りなかったから。私はまだ夏菜の心を開くことができないでいるから。夏菜と繋がることができていないから。
夏菜はきっと、楽しいこともあった。けど、辛いことも多かったこの一週間の夏休みを、「楽しい思い出」とは、思っていないだろうから。
そう、思っていたはずだった。
なのに。
――では、その時、どうして。
「……ねえ、夏菜」
私は、答えの分かりきった、その問いを、夏菜に投げかけたのだろうか。
「……何……?」
――答えが分かりきっている「つもり」の。
「……夏菜は、この一週間の夏休みにさ、私と一緒にいて、『幸せ』っていうのに、なれた?」
……私は、何を訊ねているんだろう。何を、訊こうとしているんだろう。
「…………」
夏菜は、朝靄のように漠然としたその瞳で、私のことをじっと見た。まるで、何かを見定めようとするように。私は、その瞳がこれから何を話し始めるのだろうか、と考えて、少し不安になる。
夏菜は、やがてゆっくりと口を開いた。
「そんなの、決まってるよ……」
夏菜の声は、私の耳にはっきりと響いた。夏菜のそのすべてが曖昧な夢へと変わり果てようとする中で、その声だけは、私の耳にはっきりと届いた。
……生前の夏菜。幽霊になる前の夏菜。彼女は、まだ現世に心残りを持っていた。
だから、また幽霊として現世に戻ってきた。心残りや不幸を、今度こそ取り返すために。
そして、私と二人きりの夏休みが始まった。楽しいこともいっぱいあった。夏休みの一番最初に遊びに行ったのは、まさに今私たちのいる、ひまわり畑だった。突然目の前に現われた娘の幽霊に戸惑いながらも、次第にこの女の子のことを、また好きになっていった。生前と同じように。
その次の日は、夏菜の誕生日だった。二人でケーキを買いに行き、そして二人で食べた。夏菜のことがますます愛しくなってきて、だからこそいつか来るであろう「成仏の日」が、とても怖くなってしまった。不安な夜を、夏菜と過ごした。
夏菜の髪の毛を切ってあげたこともあった。一緒にお風呂に入ったりもした。夏菜は体を洗うのをすごく嫌がるから、苦労した。
辛いこともあった。夏菜がふさぎ込んで、布団から出てこない時があった。だけど、夏菜はまた再び布団から出てきて、そして、私たちは一緒の朝ご飯を食べた。
今日は、そんな夏菜を、一週間前と同じひまわり畑に連れ出した。一週間ぶりのひまわり畑は、やっぱりすごくきれいで。一週間前と少しも変わらない美しさを、私たちはこの目にしたのだった。
今。目の前の夏菜が。私が、彼女に一番訊きたかった質問、それに答えながら。
どんな表情をしていたのか。
「そんなの、決まってるじゃない……っ」
大粒の涙が。夏菜の頬を、次々とこぼれていって。彼女の頬を、ぬらしていく。
泣き顔、だった。激情に歪み、くしゃくしゃになった顔の。
「……そうよね」
そうだ。当たり前のことだった。決まりきったことだった。
私が言ったとおり。“答えは最初から分かりきって”いたんだ。
夏菜の、彼女の感情そのもののようにあふれ出す涙を見れば。辛そうな、それでいて嬉しそうで、だけどやっぱり悲しそうな、その顔を見れば。
嫌でも分かる。嫌ってほど、伝わる。
“……確かに夏菜の言う通りに、あとで辛くなるのは嫌だけど。でも、あとで辛くなったとしても、その辛い気持ちの分、楽しいこともあった、ってことでしょ。なら、いいんじゃないの”
口から出まかせで、夏菜にいい加減なことを言った。決してポジティブな人間ではない私が、頭の中から無理にひねり出した、前向きに過ぎる理屈。
だけど、目の前の泣き顔を見ると。あながち間違いでもないんじゃないかな、なんて思えてきて。
いつの間にだろうか、幾筋もの滴が、私の見ている景色をにじませながらあふれだしていくのが分かった。滴は、やがて私の頬を伝い、そしてどこかに落ちていったようだった。しかし、私は滴が頬を落ちていくのにほとんど気付かない。ただ、未知の感情がこの頬をとめどなく流れていくような感覚だけがあった。
私は、その未知の感情に賭けて。
きっと私たちは、「幸せ」っていうのになれたんだって、胸を張って言うことができた。少しの迷いもなく、断言することができた。
そして。
来るべき時を見計らったかのように。
それは、やってくるのだ。
「……あ……」
――二度目の、星の光の顕現。私はそれを、この目で見つけた。
光は今度もまた、夏菜の中から現われる。まるで、元々夏菜の所有物であったかのように。夏菜の中からゆらりとはい出してきて、空中をただよう。
夏の終わりの炎天下の淡くも眩しい輝きの中でなお、星の光は不思議に心を惹かれる輝きを放つ。それはまるで、遠い夏の思い出のように、何か、懐かしい輝き。
「……?」
光は、前のように空へ昇るわけでもなく、私の目の前でただ所在なさげにふらふらしていた。
何のために出てきたのだろう。そういえば、昨夜の風呂場の時も星の光が何をしていたのかは不明だった。
星の光は、何のために姿を現すのだろう。この美しくも儚い光は、一体何のために存在しているのだろう。
曰く、奇跡を呼び起こす光。
曰く、「星の記憶」が眠る場所。
曰く、幽霊である夏菜の、なれの果て。
一体、これは何なんだ? 一体、どんな意味があるんだ?
私の心は、この眩しい輝きにますます惹かれていって。
気付けば、目の前のそれに手を伸ばしていた。
「……っ!」
私は、形のない輝きにそっと手を触れた。何か、温かい感触がして。
その瞬間だった。
「記憶」が。
何故か、「夏菜だけが覚えていて、私だけが忘れていた」、その記憶が。夏菜にしか分からなかった、その記憶が。
忘れてはいけなかったはずなのに、忘れてしまっていた、「記憶」が、今、私の胸の中に灯る。
“成仏なんてしたくないよ……もっと……もっと一緒にいたいよっ!”
夏菜の、声が。聞き覚えのない、夏菜の言葉が。
何か大切なものが欠けてしまっていた、この胸の奥に、小さな光を灯すように。
“もっと……一緒がいいよ……お別れなんて、やだよ。成仏しなきゃなんないなんて、嘘だよ。もっと……一緒にいたいよ”
次々と、次々と、浮かび上がって。
“ひまわり畑だって……もっと行きたいよ。お母さんとなら、何回だって行きたいよ。他にも、いっぱいやってほしいよ。髪も切ってほしいし、他にも、他にも……”
……本当にこんなことを、夏菜が言ったのだろうか? こんな混じりけのない思いを、私に打ち明けてくれていたのだろうか?
何故、忘れていたのだろう……こんな、大事なことを。こんなに、大事な思い出を。
こんなにも、温かい気持ちを。
“私も……もっと一緒にいたいよ”
夏菜の言葉に応えて、私がそう言った。
夏菜が言っていた意味が、今ようやく分かる。夏菜は、このことを言っていたんだ。だけど、私はそれを分かってやれずに……
そうか、こんな、温かい記憶があったんだ。
知らなかった。忘れていた。どうして、忘れていられたんだろう? こんな大事なことを。
私は不思議で仕方なかった。どうして、記憶が消えていたのか。
星の光は、すぐに私の元を離れた。星が私の手を離れてしまうと、記憶の走馬灯は瞬時に途切れた。まるで夢のように。
「……そっか。あの記憶は、星だけが見たものなんだ……」
先の疑問に、決着がついた。
私だけが憶えていなかった、あの記憶……あれは、きっと星が作り出した夢だったんだ。
いや、もっと正確に言えば、「奇跡を起こす力を持つ星だけが、観測することができた記憶」、なんだ。
星は、奇跡を呼び起こす力を持つ。だから、その不可思議な力をもってして、「あるはずのない出来事」を作り出すことだって、できるんだろう。だから、あの記憶の中での夏菜は、幽霊なんかじゃなく、正真正銘の生身だった。きっと、最後の最後に夏菜を本当の意味で抱きしめてあげられたのは、星のおかげなんだ。
私の手を離れた光は、しばらくの間蛍のように宙を飛び回っていたが、やがて帰り着くべき場所へ帰る。
夏菜の、中へと。彼女の今にも消えてしまいそうな体の中へ、ゆっくりと身を横たえた。やがて、その輝きも見えなくなる。夏菜に取り込まれてしまったのだろう。ならば、星は夏菜の中で生き続けるわけだ。
「……お母さん」
夏菜はふと、消え入りそうなか細い声で私の名を呼んだ。
「何、夏菜」
私は夏菜の顔をのぞき込み、少し微笑んで訊き返した。
すると、雪解けのような、儚い笑顔で。
「ありがとう……」
夏菜は、最後にそう言った。
……星の光が彼女の中で生き続けるというのなら、あの思い出もまた、夏菜の中に残り続けるのだろう。
私は、星の光を持っていないから、きっともうすぐ忘れてしまうけれど。
だけど、夏菜が憶えているのなら、それでいい。
二人で作った思い出が、いつまでも夏菜を幸せにしておいてくれますように。
いつまでも、夏菜が幸せでいられますように。
私は、祈り続ける。いつまでも、いつまでも。
「…………」
気付けば。
いつの間にだろうか。
私の隣でいつまでも笑っていた、あのひまわりの女の子は。
きっと確かに隣に居たその女の子は。
空を見上げると、いつの間にか、天を覆っていたあの白い雲は風に流れてしまっていて、太陽が顔を出していた。
そして、私たちの座るこの場所に出来上がった、日だまり。そこから、逃げ出してしまうように。
小鳥は、いたずらをするように、私が気付かないうちに、光の中へ飛び立ったのだった。




