ずっと一緒にいる
「……何の話?」
だから、そう応えるしかなかった。そんなことは言ってないと、否定するしかなかった。
何故か、それはとても悲しいことのような気がした。
「…………憶えてないの?」
夏菜が、寂しげにそう呟いた。信じられないという表情で。
「……どうして……」
何事か小さく呟いているのが聞こえる。
しかし、本当に記憶にないのだ。
夏菜は憶えているのに、私は憶えていない。どういうことだろう。私は、何か大切な記憶を忘れているのだろうか。何の記憶を? そして、いつ頃の?
……そこで、私はある事実に思い至る。
そうだ。昨夜の、風呂場でのこと……私は、昨夜の風呂場での記憶に、違和感を持っていたのだった。昨日の風呂場で、何か忘れてはいけない大事な出来事があった。ような気がしていたのだ。だけど、その出来事がどうしても思い出せない。
もしかして、夏菜が言っているのは、この出来事に関連する話なのだろうか?
「……そっか。憶えて、ないんだ……」
夏菜はそう呟いて、一人で勝手に納得していた。
「待って、夏菜。昨日の……風呂場でのことでしょう? 今、思い出すから……」
私はまだ食い下がろうとする。だけど、
「うん、もういいよ。憶えてないなら、いい。きっとあれは、星だけが観測できた記憶なんだ……」
「……?」
夏菜は私には分からないようなことをちょっと呟いて、そして今度こそ一人で納得してしまった。
一体、昨夜に何があった。というのだろう? 夏菜が言うような会話は、私の憶えている限りでは起こらなかった。では、私だけが忘れているのか? 何故?
「お母さんが、憶えていなくても」
考えている途中で、まるでその思考をさえぎろうとするかのように、夏菜は言った。
「私は、この約束を守るから」
「……え?」
約束……。
それは、夏菜がさっき言っていた、いや、昨夜の私が話したという、思いのこと?
ずっと一緒にいたい。
やはり、そんなことを言った覚えはない。
「約束を、守る? それは、どういうこと?」
「ずっと一緒にいたい」という約束を、守るとは?
夏菜は、何を言おうとしている?
夏菜は私の目を見つめ、私の質問を頭の中でゆっくり咀嚼するように、一呼吸置く。
そして、次の瞬間、真正面から目を合わせたまま、夏菜はその答えを話した。
「……私も、ずっと一緒にいる」
「…………」
その声は、遠くからでもはっきりと耳に届く。
だけど、意味がまだよく分からなかった。
「お母さんが、ずっと一緒にいたかったって願っていたことを、無駄にしない」
その声は、夏のざわめきさえも飛び越えて、私の耳へ響く。
「私は、お母さんの、ずっと一緒にいたいっていう思いを、約束を、守るの」
「…………」
夏菜の言うことが分からない。
だって、私がそんなことを願っていたなんて、私は憶えていないから。
それに、ずっと一緒にいる、だって?
それはつまり、どういうことだ。
夏菜は、今まさに成仏しようとしている。この世界から消え去ろうとしている。もう、私のそばにはいられないのだ。
ずっと一緒にいることは、できないだろう?
何のつもりだ? 何を、言っているのだ?
「……どういうことなの?」
たまらず、私は夏菜に問いかけていた。
「……うん」
夏菜はそれを訊ねられるとあらかじめ分かっていたようだった。
「私はね、成仏したあと、星の光になるの」
「……星の、光?」
夏菜はまた私に分からないことを言う。
星の光? ……それは、星の伝説に出てくる、あの「星の光」のことだろうか?
「成仏したあとは、消えてしまうんじゃない。星くずの世界に行くの」
「星くずの世界」? また新しい言葉だ。もう何が何だか分からない。
星の光になる、とは? 夏菜が、あの空を昇る不思議な光になるのか? それも、成仏することによって。
成仏というのは、普通死を意味するものだろう。だけど、夏菜は死ぬのではなく、星の光になる、というのか?
「……夏菜っ!?」
話している間にも、夏菜の体は徐々に世界から剥離していく。少しずつ、透明化していく。
「……ごめんね。もうそろそろ、行かなきゃ」
夏菜は困ったように笑ってみせる。その笑顔さえも次第に薄れていく。
「夏菜……!」
本当に。本当に、消えるの? 夢でも嘘でも、偽りでもなく。
本当に、消えてしまうの?
……そこで私は思い出す。そうだ、昨日の夜、風呂場で夏菜が一度成仏したことがあった。だけどあの時、夏菜は追い返された。成仏した先に父親がいて、夏菜を追い返した、と彼女自身が言っていた。
私は、「終わりの挨拶」が済んでいなかったから追い返されたのではないか、と考えている。
……ならば、今回の成仏でも、夏菜は「終わりの挨拶」を済ませていない、と「あちら側」が判断したとしたら。
夏菜は、また追い返されるのではないだろうか?
夏菜が心残りを感じていれば。夏菜が、幸せでなければ。夏菜は、また現世に戻ってこざるを得ないのではないだろうか?
そうなれば、私はまだ夏菜と一緒にいられる。また一緒に朝ごはんを食べて、一緒にひまわり畑に行って。そんなちっぽけな、だけどかけがえのない日常をもう少しだけ続けられる。
夏菜がいつか消えてしまうということは、頭では分かっていたつもりだった。だけど、本当に消えてしまうという時に、見せかけの覚悟はあっさりと崩れ去ってしまった。元々、覚悟なんてできてなかったのだ。そもそも、そんなに簡単に娘を失う覚悟を決められるわけがないじゃないか。そうだ、それは私が考えるほど簡単なことじゃなかった。夏菜に幸せな成仏をさせてあげたいといったって、そんなの、それこそ現世に残り続けることが一番の幸せに決まっているじゃないか。もちろん、いつかは夏菜も成仏しなければならないとは思う。だけど、それは今じゃない。まだ、もう少しだけ、現世で過ごしたっていいんじゃないか? もう少しだけ、私と一緒に過ごしても、いいんじゃないだろうか?
「……夏菜っ!」
そんな考えをつらつらと頭の中で巡らしている間にも、夏菜の成仏は進行していた。成仏が進行し存在感の薄れたその姿は、まるで朝靄のように漠然としていた。
「待って……!」
私は、今にも消え入りそうなその姿に不安を抱き、気付けば駆け出していた。夏菜の元へ。
数十メートルの距離を一息に詰め、夏菜のすぐそばに立った。
「……はは……」
夏菜は泣きそうな笑顔でそこにいた。夏菜の姿はもはや、まるで煙が人の形をなしたかのような有様だった。今にも消え去ってしまいそうな、儚い姿。
それこそ幽霊らしく、夏菜にはもう足首がなかった。
「あっ……」
そして、夏菜はついに自分で自分の体を支えきれなくなって、地面に、倒れるようにして座り込む。
「夏菜、大丈夫!?」
「……ん、平気……」
私は夏菜に触ることはできなかったけど、すかさず夏菜のそばに寄って夏菜を介抱するように抱き、声をかける。夏菜はこちらを弱々しく振り向き、消え入りそうな声で言葉を返した。
夏菜の体は徐々に消えていく。消えた体は一体どこに行くのか、不思議でならないけれど、夏菜は間違いなく成仏するのだ。




