一緒にいたい
「あっ、ちょっと、待って!」
おいて行かれた私は、急いで夏菜のあとを追った。ひまわり畑の中に飛び込む。飛び込んでみると、今まで遠くから見ていたひまわりたちが自分に近くなって、その分迫力が増した。ひまわりは私の前に悠然と立ち、力強さをみなぎらせていた。とても美しかった。それらは意外と背が高くて、どのひまわりも二メートル近くの高さがある。そんなひまわりたちに見守られながら、すでにはるか遠くまで走って行ってしまった夏菜を追いかける。
夏菜の走る速度がだんだん遅くなって、なかなか縮まらなかった距離がやっとのことで縮まり始めた。夏菜のいるところまで、あと50メートルだ、というその時。駆けだすのが突然ならば、止まるのも突然だった。夏菜は、ひまわり畑のど真ん中で唐突に足を止めた。私はびっくりして、思わず夏菜につられるように、自分も足を止めてしまっていた。
「どうしたの、夏菜?」
私は訊ねる。
「ひまわり畑、きれいだねー」
やけに嬉しそうな顔で私を振り返り、夏菜は遠くの私に聞こえるように大きな声でそう言った。質問の答えになっていなかった。
「生まれ変わったら、ひまわりになるのもいいかもしんない」
いきなりなんだと思った。唐突な話題だった。
生まれ変わり? 急に何だというのだ。何のつもりだ。
……まさか、自分のことを言ってるのだろうか。
「……ひまわり? やめといた方がいいわ。大体あなた、同じところにずっと植わっていられるの?」
「いられるよっ。馬鹿にしないでよっ」
「無理だって。ひまわりだってきっと大変よ。夏菜には無理よ」
「無理じゃないよっ。できるよっ」
「どうかしらね」
言いながら、私は思わず笑ってしまった。
「何笑ってるの?」
夏菜は少し怒ったように言った。ますますおかしくなる。
「もー」
夏菜はすっかりすねてしまう。
二人の間に、わずかな沈黙が落ちる。それは、お互いが何かを譲り合っているかのような、よそよそしい沈黙。
譲り合う? 何を?
それは。
「……急に生まれ変わりの話なんて。どうして」
したのよ、と、私は夏菜に訊ねる。夏菜を遠くの正面に見据えて。
正面の夏菜は、黙り込む。また、沈黙が続く。
だけど、その沈黙を破ったのは、他でもない夏菜だった。
彼女の髪がうしろからのそよ風に吹かれる。一瞬、彼女の表情の何もかもを隠した。
やがて、そよ風は止む。彼女の顔が、再び現れる。
そして。
「多分ね……私はもうすぐ、成仏しなきゃいけないんだ……」
彼女は寂しげに、そう言った。悲しそうに、辛そうに。
燦々と照りつける太陽が、いつの間にか白い雲に隠されていた。ひまわり畑と、その真ん中に立つ私たちに大きな影が覆いかぶさる。夏菜の帽子の下の顔に影がかかり、一瞬、恐ろしい表情を見せた。
「あとちょっとで、成仏する。なんとなく分かるの」
夏菜は、大きな雲が作る大きな影の下、淡々と続ける。
「…………」
私は何も言えないでいた。ただ夏菜が話すのをぼんやり聞いていることしかできなかった。
「……だからね、もう、ここでお別れ」
「…………そんな」
まだ早いわよ、と私は小さく呟いた。その呟きが夏菜に届いたのかどうかは分からない。
だけど、まるで私の希望を打ち砕くかのように、成仏の予兆が始まる。
「……夏菜……あなた……体が……」
見れば、夏菜の体が、だんだん透明化していく。
元々半透明だった体だが、今度こそ、完全に透明化していく……つまり、この世界に存在できなくなる。
それが、成仏の始まりを私たちに思い知らせる。いつか来ると分かっていた、終わりの始まりを。
「……はは……ほんとだ……」
夏菜は困ったような笑顔を作ろうとしたが、失敗した。不自然な表情のゆがみだけが顔に残った。
「もう、本当に、消えちゃうんだ」
今度は笑わなかった。夏菜は、神妙な顔をして、静かに言った。実感として心になじませるように。現実を受け入れようとするように。
夏菜は、消えるのだ。今、初めて現実感を伴って、私の頭が理解した。
夏菜は、消える。
もちろん、それは最初から分かっていたことだ。いつか消える、いつかいなくなる、と、どんな時も心の中で唱えていた。いつか来る終わりを。再び喪失しなければならないことを。
いつでも胸に刻んでいた。忘れたことは一度もなかった。
今日はひまわり畑に誘った。夏菜と一緒に楽しい思い出を作ろうとした。
夏菜は、幸せになれれば成仏できるはずだった。だから、今度こそ幸せにしてあげようと思った。
そうすれば、夏菜は成仏できる。それに、一度目の不幸な死とは違う、幸福な成仏……それを、夏菜に与えてあげられる。
だから。
「……行かないで――!」
気付けば。
私の口から、空に響きわたるほどの大きな叫びが発せられていた。
そんなことを言うつもりはなかったのに、口が勝手に動いていた。
意思に反した叫びは、私自身の口からなおも発せられる。
「行っちゃ、駄目。まだ、行っちゃ駄目よ。だって、まだ全然楽しいことしてないじゃない! 夏菜が戻ってきて、まだたった一週間なのに、まだ、何にもやってないのに、それなのに……まだまだいっぱい、やりたいことあるのに!」
覚悟は決めていたはずだった。夏菜の成仏を、受け入れるつもりだった。だって、夏菜が「終わりの挨拶」を済ませて成仏できたってことは、幸せに、心残りなく成仏できたってことだから。それが、夏菜にとっての幸せであって、私にとっての幸せでもあると、私は思っていた。
だけど。
ああ。いざとなると、覚悟なんてあっさり消えてなくなってしまうものだ。
いざ、夏菜が成仏し始めて、私は初めて「夏菜が消える」ということの意味が分かった。
消えるということは、いなくなるということ。いなくなるということは、もう会えないということ。どこに行ったって、たとえひまわり畑に行ったって、もう夏菜には会えないということなのだ。
……そんなの、信じられない。
朝起きて、ご飯を作る。夏菜を起こしに行く。夏菜と一緒に、朝ご飯を食べる。そんななんでもない日常が、今目の前から消えていこうとしている。
なくしそうになった途端、その何でもない日常の尊さに気付いて。
手放すのが、惜しくなる。いつだってそうだ。
夏菜が今に成仏するというその時になって、今更のように駄々をこねてしまう。
「そんなこと言ったって……もう無理だよ」
夏菜は寂しげな笑顔で言う。
まるで、何もかも諦めてしまったかのような笑顔。何もかも、投げ捨ててしまおうとしているような笑顔。
本当に、諦めてしまったの? 誰より死を恐れていた夏菜が。成仏することを恐れていた夏菜が。
こんな簡単に、すべてを諦めてしまったの?
「まだ……まだ、成仏しちゃ駄目。夏菜だって、ほんとは嫌なんでしょう? あなたが、成仏なんて受け入れるわけない。不幸なまま消えることを、受け入れるわけがない」
私は続ける。
「まだ、楽しい思い出なんて全然作ってない。これからじゃない。これから楽しいこといっぱいして、それで、不幸なんて忘れるの。そして……」
「お母さん!」
だけど。私の言葉をさえぎるように。
夏菜が、真剣な表情で言った。
夏菜はそのあと一呼吸置くと、また改めて話し始める。
「お母さんさ、言ったよね」
泣き出しそうな、だけど、笑顔の表情で、夏菜は言う。
「ずっと……ずっと、さ」
一体、何を言い出そうとしているのだろう。私には、見当もつかなかった。
「ずっと、私と一緒にいたいって。言ってくれたよね」
夏菜は、言いながら、こらえていた涙をついにこぼしてしまう。最後の言葉は、涙混じりになってしまった。頬を伝った涙は、やがて顎から落ちていく。涙がとめどなく流れる。
だけど。涙のあとが光る、その頬に浮かぶ表情は。
涙にぬれてもなお生き続ける……笑顔だった。
それは、眩しく輝くほどの。
矛盾だらけの、顔だった。
どうして……涙がこぼれているのに、笑っているの?
「ずっと一緒にいたい」。夏菜は、私が彼女にそう言ったのだと話した。だけど……
私には、そんなことを夏菜に言った記憶は、なかった。
夏菜は確かに私がそう言ったと話した。涙と笑顔を同時にこぼしてしまうくらい、感極まりながら。
だけど私には、そんな記憶はない。そんなことを言った覚えは、ない。




