ひまわり畑に行く
そもそも――と、私は不意に、今更のような違和感を覚える。そうだ、そもそも、私が昨日の夜、風呂場で夏菜を誘った時に。ひまわり畑に行こうと話した時。
夏菜は何と答えたのだっただろうか。昨日の時点での返事は、「行きたくない」という、明確な拒否ではなかったか。
その小さな違和感は、やがて私と夏菜の間に起こったある大きな齟齬へと、私の考えを至らせる。
そうだ……昨日の夜、お風呂場でのこと。私が、すり抜けるのも構わずに、夏菜を抱きしめた後。
光が。星の光が、私たちの目の前に現われて。そして、空の向こうへ駆けのぼっていった……。
そしてそのあと、私は「すぐに」星の光が舞い戻ってくるのを見た。やがて光は夏菜の中へと入り込んだ。何故星が夏菜の元へと戻ったのかは分からないが。そうして、何事もなく夜は更けた。そう、何事もなく。
だけど……何か違和感が残るのだ。例えば、そう、何か、大事なことを忘れているような……。いや、違う、正確に言えば、あるはずのない出来事が起きていたような、言うなれば、まるで、夢、のような。
「あるはずのない記憶を、記憶している」、と。そんな奇妙な感覚が、頭に残っているのだ。
夏菜は、覚えているのだろうか。昨日、何が起こったのか。
訊いてみようかとも思った。だけど、あまりに奇妙な質問になりそうだ。やっぱり、訊かないでおくことにした。
「じゃあ、行こっか。ひまわり畑」
奇妙な違和感を頭の隅に残したままだったが、それはいったんさておき、私は出発の合図代わりに夏菜にそう声をかけた。
「おっけえ」
夏菜はそう返事すると、そそくさと出かける準備を始める。帽子と、お出かけ用の白いワンピース。それらを準備すると、夏菜の支度はもうそれで終了だった。手には鞄も何も持たない。手ぶらだった。娘ながらラフな格好だった。
私の方は鞄くらいなら持っていくがそれ以外には特に持っていくものもなかった。この親にしてこの子ありということか。
やがて、出発の準備は完了する。私は玄関に向かう。遅れて、夏菜が小走りに私のあとをついていく。
私はふと夏菜の様子が気になって、彼女を振り返った。夏菜もこちらを向いたので、目が合う。
夏菜のその深い黒の瞳。その瞳が、わずかな光をたたえていて。
そして、夏菜は言った。
「レッツゴーっ」
拳を突き上げた。
我らが最寄り駅、葦屋駅へと足を運び、電車に乗り込む。
電車の中は眩しい夏の日差しが窓の四角から差し込んでいたが、冷房のおかげで快適な涼しさだった。天井のつり広告、そこそこ多い乗客、夏の日差し。これが夏休みの電車の風景だった。
私たちは座席に座る。やがて電車は走り出した。
「アイスが食べたい……」
外に出て早々に暑さにやられた夏菜が、膝に手を突きうなだれて、そう愚痴った。まったくふ抜けた娘だった。
「電車の中でガリガリ君食べたら迷惑でしょ」
私は夏菜を諭す。
「なんでガリガリ君確定なの」
「あなたが食べるアイスなんてガリガリ君以外ないでしょ」
「まあそうだけど」
「我慢しなさい」
「うーん……。せめて、何か体が冷えるようなアイテムがあれば……」
「あなた幽霊のくせに何が冷えるアイテムよ」
「だってしょうがないじゃん。暑いから」
それはそうだけど。
「なら、うちわであおいであげようか?」
「え? うちわあった。の?」
「ええ。あるわよ」
「じゃあ、お願い」
言われるがまま、私は鞄からうちわを取り出した。そして、うちわをあおぎ夏菜に微風を送る。
「うーーん、普通」
「…………」
夏菜は小さく伸びをしながらなんともムカつくセリフを吐いた。しかしそんなしょうもないことではいちいち怒ったりはしない。ただ黙ってあおいであげた。
「うちわってただ暑い空気を移動させてるだけだよね」
「……あなたね……」
さすがにむかついてきた。
ふと、優しさという社会生活において(略)。
うちわを逆手に持ち変え、うちわの持ち手を前に突き出す。
「覚悟っ」
うちわの持ち手を目に突き刺して、眼つぶし。
「うわっ」
……つぶせなかった。当たり前のように、すり抜けた。
「急に何!?」
今の夏菜にはあらゆる攻撃が意味をなさないのだった。眼つぶしはできず、結局うちわであおぐのを再開した。
「そろそろ着くね」
夏菜は不意にそう呟いた。
夏菜の言う通り、目的の駅へはもう四、五分すればたどり着く。
「そうね」
「……楽しみ」
夏菜は、独り言のように小さく呟く。
「楽しみね」
独り言のような言葉にも、応える。
「ひまわりは、まだ枯れないで咲いてるのかな」
「咲いてるんでしょうね」
「すごいな」
「ええ」
「早く、みたいな」
私でなければ分からないだろうけど、夏菜のその仏頂面にくっついた瞳が、わずかに輝きを増していく。ワクワクを抑えきれないみたいだ。私は、その表情を横目に見て、ひそかに一人笑った。
そんなとりとめのないやりとりをしているうちに、いよいよ電車は目的の駅の目の前まで来たようだった。
夏菜は、気持ちがはやったのか、車内で一人だけすでに立ち上がっていた。
「わあ……」
電車に乗ること一時間弱、私たちは一週間ぶりにまたひまわり畑に来ていた。
夏菜が興奮を抑えきれないように声をもらした。隣に私がいる手前、恥ずかしがって、分かりやすく喜び飛び跳ねるようなことはなかったけど、その瞳の輝き、ワクワクした表情は隠し切れていなかった。
私も夏菜にならってひまわり畑に臨み、美しい花のじゅうたんを検分してみる。
なるほど、確かにきれいだった。
咲き誇るひまわりたち。その上に覆いかぶさるような青空。眩しいほどの黄色が、青い空に咲き誇っている。ひまわりは、何に臆することもなく力強く、そして健気に咲いていた。いつか散る運命と知りながら。刹那の希望を、満足げに咲き誇らせていた。
どうしてそうしていられるんだろう、と、疑問に思った。
隣の夏菜の様子をうかがう。
と思ったら、夏菜はもうすでに隣にはいなくて、どこかに行ってしまったみたいだった。
夏菜の姿を探す。それはすぐに見つかった。夏菜は斜め前、ひまわりのすぐ近くにいた。夏菜は、ひまわりを触りに行っていただけだった。私もあとを追う。
「…………!」
今度こそ夏菜の隣に立つ。夏菜は、おそるおそるひまわりに手を伸ばしているところだった。初めて触るから、緊張しているみたいだ。そういえば前に行った時はどうして触らなかったんだろう、と今更のように疑問を覚えた。
おっかなびっくり、まずは花びらに触る。指先で花びらの表面を少し撫でてみる。少し嬉しそうな夏菜だった。だんだん慣れてきたようで、もっと大胆に触ろうとする。ひまわりの花を両の手で優しくつかまえて、その真ん前に鼻先を突き付けて、にらめっこでもするかのようにじっと観察する。大真面目な顔をして、やってることはひまわりの観察だから見ていておかしい。
実際には、夏菜はひまわりには触れられはしないのだが。
……それはそれとして、夏菜とひまわりとの組み合わせは本当に絵になった。白のワンピースとひまわりの黄色のコントラストは、眩しくすらあった。
刹那的な存在が、刹那的であるがゆえに持つ、一瞬の眩しい輝き。
私はそれを、ずっと眺めていたいと思った。
そろそろ太陽もてっぺんに登ろうかという頃合い。夏菜のひまわり観察も一通り済んだところで、私たちはまたひまわりを遠くから一望できる位置に戻って、そして何をするでもなくぼーっとひまわり畑を眺めていた。
昼間の日差しは、朝のそれにもましてうだるような暑さだ。陽炎さえ立ちのぼるそんな暑さの中でも、ひまわりは変わらず咲き誇っている。真昼の日差しを浴びるひまわりは朝に見た時よりもなお輝いて見えた。
私はふと、隣の夏菜を見やった。
夏菜はまるで放心してしまったかのようにぼんやりしていた。先ほど見た子供らしく興奮した様子は、いつの間にかなりを潜めている。どこか遠くに思いをはせているようでもあった。何事か考え込んでいるようにも見えるし、一方で何も考えていないようにも見えた。夏菜は風で髪が乱れようとも委細構わず、ただぼーっと遠くを見つめている。
空の青が映り込んだ、どこか寂しげな瞳で。
その姿は、青くて広い快晴の空に、ひとつだけ浮かぶ白い小さな雲と同じだ。
私は、ふと思う。
夏菜は、風に漂うことしかできなくて、そしていつかは消えていく運命にあるのだ。そんな、ちっぽけでか弱い白雲。
その時。
空の青さが目に染みたのだろうか、視界がにじんでしまう。目をこすってみても、またすぐににじんでしまって手に負えない。それどころかますますにじんでいく。大変だ。止まらなかった。
それは突然だった。
「たっ」
その小さな白い雲は、突然駆けだした。私の元を離れて、向かった先はひまわり畑だった。ひまわりとひまわりの間にちょっとした小道が設けられているのだが、夏菜はそこを一直線に駆けていく。




