翌朝
翌朝。私は寝室兼自分の部屋で目を覚ます。寝室は、相も変わらずな景色。クローゼットに鏡台、そしてタンスその他。よく言えば素朴、悪く言えば殺風景と言った風な様相だ。
寝起きは元気な方なので、体には疲労感の類も感じない。普段通り早い時間の起床。二度寝を敢行することもなく、あっさりと掛け布団を払いのけて一日をスタートする。
「…………」
ふと、私の隣にもう一つ敷いてある布団に目をやる。
隣の布団は、さっさと起き出した私にも構わずいまだ朝寝をむさぼっていた。中の寝坊さんは頭から布団をかぶっているのでその寝顔さえ目にすることはできない。どんな表情をして眠っているのだろう、とふと気になったが、わざわざ布団をめくって顔を拝むのも悪いので、私は彼女の安眠を邪魔することなく部屋を出た。
昨夜の洗濯物を洗濯機に放り込み、二人分の朝ご飯を作る。
夏菜と一緒に朝ご飯を食べるため、布団に頭からくるまる彼女を起こしに行く。
「ご飯できたよ。起きなさい」
「…………ん~」
中で夏菜が眠っているはずなのに、「少しの膨らみもない」布団に向かって、声をかける。しかし夏菜は生返事をするばかりで、まともに応じない。
「冷めるよ」
「ん~…………」
夏菜はめっぽう朝に弱いのだ。いくら目覚まし時計をかけようと、いくら私が起こそうと、なかなか布団から出てくれない。それは、幽霊になっても変わらないらしい。
「起きて―……」
しかしいくら起きないからといって、その肩を揺さぶって無理矢理起こすことも、今の夏菜にはできない。
「…………」
私はだんだんいらついてきた。ふと、優しさという、社会で生きる上で一グラムの価値も持たない代物について考えてみる。
やはり一グラムの価値も持たない感情なので、私は捨てることにした。
「ふっ……!」
私は不意に掛け布団に手をかけ、短い掛け声とともに一気に引き剥がした。
「きゃっ……!?」
掛け布団は何の抵抗もなくあっさりと引き剥がすことができた。中から驚愕とおびえに身をすくめた夏菜が出てくる。自身の頭を抱え込んだ彼女の腕の隙間から、ちらとおびえる視線が飛んできて、目があった。
「……起きろっ」
続いて、私はムーンサルトプレスまがいを夏菜にお見舞いすべく、またもや掛け声とともに、中空へと舞い上がる。
「えっ……」
夏菜の絶望に満ちた声が耳に届いた気がしたが、構うことなく夏菜のふところへ飛び込む。やがて、夏菜のお腹に着地。
「あれっ」
したはずなのだが、しかし足には人間の柔らかい感触はなく、ただ布団越しのかたいフローリングが足に多大な負担をかけるばかりであった。。見れば、私の足は夏菜の体を貫いて、敷布団に着地していた。
夏菜は幽霊だから、ムーンサルトプレスをしてもすり抜けてしまうのだということを忘れていた。
「何やってんの」
夏菜は私が上に乗っかっているのにも構わずにさっさと布団から起き上がると、多分に呆れを含めた一言をくれる。
さっきまではおびえていたくせに、今私の目の前に立った夏菜は、ムーンサルトプレスに失敗した私を馬鹿にした目で見ていた。呆れかえったという様子だ。
「あなたね……」
大体、夏菜がいつまで経っても起きないのが悪いのだ。夏菜がなかなか起きようとしないから、私は暴力を使ってまで夏菜を起こそうとしたのだ。夏菜がさっさと起きれば万事解決していたのに。
そんな次から次へとあふれる愚痴を今ここでぶつけてやろうかとも思ったのだが、
「ふわあ……」
悪意も悪気も全くなさそうな夏菜のその大欠伸を見ると、なんだかこっちまで気が抜けてしまって、のど元まで出かかったこの愚痴は、結局行き場をなくして空気の中に溶けていった。
やっと起き出してきた夏菜は居間のテーブルに座って、少し遅い朝食を私と二人で食べ始めた。そしてやがて食べ終える。
今は、ご飯を食べ終えた後の気だるい食休み。私たちはまだテーブルの間に向かい合っていた。
「ひまわり畑に行こう」
私はテーブルの上に腕を組んだ姿勢で少し身を乗り出し、そんな風に話を切り出した。
「……ひまわり畑」
夏菜はぼんやりした目をこちらに向ける。彼女は私の言った言葉を繰り返しただけで、他には何も言わない。
「昨日も言ったよね。一緒にひまわり畑に行きたいって」
「……うん。言ってた」
「準備して、今から行こうよ。きっと楽しいよ」
「…………」
夏菜はそこで黙り込んでしまった。
「楽しい思い出作ろうよ。もっといっぱい、楽しいことしようよ」
私は夏菜に語りかけるようにして、何度でもそう誘う。
「……楽しい思い出を作っても、意味あるのかな」
そこで夏菜が、ぽつりと呟いた。取り繕ったほつれをまたほころばせようとするかのように。
「だって、私はもうすぐ……」
夏菜はそこまで言いかけて、途中で口をつぐんだ。セリフの続きは、もちろん私には分かる。私に分からなければ誰に分かるというのか。私が一番、夏菜のことをよく知っているのだ。
だから、夏菜が今、その小さな胸に抱えている気持ちのことも、痛いほど分かる。それはきっと、恐怖やおびえ――いや、そんな言葉では言い表せないほどの、何か苦しい塊。胸が張り裂かんばかりに膨れ上がる、正体不明の何か。
「楽しい思い出を作っても、意味ないのかも。むしろ、あとで辛くなるだけかもしれない」
夏菜はその顔に浮かぶ何かの感情を必死に取り繕って、あくまで無表情で語っていく。その姿は痛々しく、そして儚げで。私は夏菜が今に消えてしまいそうな気がして、夏菜をここにつなぎ止めておく方法を探した。
そして、私は言った。
「あとで辛くなっても、いいじゃない」
自分でも思いもよらない言葉が口を突いて出た。自分で言って自分で驚く。夏菜も、いぶかしげな表情で私を見た。
「何にもよくないよ」
当然夏菜は反論する。一方私の方は、反論に対する主張も何もない。なんとなく言った言葉だったから当たり前だ。しかし一度言ったからには言った責任がある。自分の口から出たセリフに、頭の中で慌てて理屈を後付けし始める。
「……確かに夏菜の言う通りに、あとで辛くなるのは嫌だけど。でも、あとで辛くなったとしても、その辛い気持ちの分、楽しいこともあった、ってことでしょ。なら、いいじゃないの」
本当は口から出まかせみたいなものだけど。よくもこう次から次へと言葉が出たな、と思う。
必死で理屈をでっち上げた結果、冷たい人間と人から言われ続けてきたこの私が、よりによって、こんなポジティブな考え方を編み出してしまった。
でも、出まかせだとしても、それを実際に口にしてみると、案外悪くない考え方のように思えてくるのが不思議だ。
そんな出まかせに対して、夏菜は。
「……何言ってるの?」
夏菜の視線がますますいぶかしげになった。私と違って冷静な夏菜だった。少し悔しい。
「ま、まあとにかく、たとえ辛い気持ちになってしまったとしても、楽しい思い出が心の中にあれば、それでいいじゃないってこと」
また慌てて取り繕うのだが、せいぜい敗戦処理程度にしかならない。もう何を言っても失言は失言のままだった。夏菜はこんな理屈で納得できるのだろうか。ひまわり畑に行く気になるのだろうか。
夏菜の様子をうかがってみる。
「…………」
夏菜は私が弁明し終えてしまうとそれなり黙り込んだ。やがて私を見つめていた視線がよそへ外れる。ぼーっとした視線はどこにも定まっていなくて、見るともなく中空を見つめている。何事か考え込んでいるような様子だった。
やはり私のエセポジティブ論では納得しなかったか。まだひまわり畑に行く気にならないのか。しかし、これ以上どうしろと言うのか。どうすれば、ひまわり畑に行く気になるのだろう。
やはり、根気よく諭し続けるしかないのだろうか……そう考え始めた時だった。
「うん。分かった。じゃあ、行こうよ、ひまわり畑」
突然だった。突然、夏菜が言葉を発した。私が夏菜の方に視線を合わせてみると、夏菜はいつの間にかこっちを向いていて、正面から目と目が合った。深い色をたたえた、夏菜の黒の瞳。私は吸い込まれそうになる。
「え……本当に?」
自分から誘っておきながら、そう訊き返してしまう。だって、私のあんなしょうもない言葉で夏菜の気持ちが変わるとは思えなかったからだ。
「うん。ほんと」
夏菜はそうとだけ答えて、わずかに微笑む。それ以上は何も言わなかった。心変わりの理由も全く話さなかった。ただ、うんとだけ。
「……そう……?」
私は不思議でしょうがなかった。もやもやした疑問がわだかまって、なんだかすっきりしない気分だった。