幸せの記憶
「もう、消えたいよ……」
突然だった。湯船の中に座り込んでうなだれていた夏菜が、小さな呟きをもらした。
「夏菜……?」
私は夏菜を見た。
「もう、成仏しちゃいたいよ」
悲痛なまでに率直に、そして端的な言葉だった。夏菜は続ける。
「幽霊になってみたって、一つもいいことなかったよ。もしかしたら、死ぬ前にできなかったこと、できるかもしれないって思ったけど」
一度乾いたはずの滴が、また夏菜の頬を濡らしていって。
「いいことなんて一個もなかった。それで、そのうちに成仏の日が来た。さっさと成仏したいと思った。でも、追い返された」
やがていくつもの滴が夏菜の頬を離れ、湯船に溶けていく。
「わたしはもう、死んじゃいたいのに」
大切な何かが壊れたような音が、耳を撫でていったような気がした。
そうして、気付けば私は夏菜の両肩に手を置いていて、
「そんなこと言っちゃ、駄目」
無意識のうちに、今までにないほど強い語調で夏菜に言い聞かせていた。
「…………」
夏菜はきまりが悪そうに目を伏せる。それでも私は夏菜の伏せた目と自分の目を合わせるようにして、夏菜に言い聞かせ続ける。
「夏菜はまだ生き続けなければいけない。お父さんがそう言ったんでしょ? なら、きっとその通りなんだよ」
夏菜は、成仏することを、死んでしまうことを、ずっと怖がっていた。幸せになれないまま消えてしまうことを。そんな夏菜が、死にたいなんて願うはずがない。不幸なまま消えてしまうことに、耐えられるはずがない。今の夏菜は、ただ強がっているだけだ。本気で消えたいと思っているわけではない。
むしろ、逆なのだ。夏菜は、まだ生きたがっている。あともう少し生きて、そして……
「ね、明日、ひまわり畑に行かない? ひまわり畑、好きでしょ?」
私は夏菜の目を見つめて、静かに問いかけた。夏菜はなおさら目をそらそうとして、そっぽを向く。
「……行きたくない」
意地を張り、夏菜はまたそんなことを言った。私は、諭すように問いかけ続ける。
「お母さんね、分かったのよ。夏菜は、幸せになれば成仏できる。夏菜が本当に星の光の力でここにやってきたのなら。そして、星の伝説の通りなら。多分、間違いない。私さんには、分かる」
私はそこで一旦言葉を切り、息つぎのような間を空ける。そしてまた話し出す。
「だからね、また楽しい思い出を作りましょう。それで、幸せになるのよ。そして、心残りがなくなったら、次こそは、今度こそは……」
今度こそは、成仏できる。私は、そう続けようとした。だけど言葉がのどをつっかえて、出てこなかった。代わりに、正体不明の感情が込み上げてきて、目の前の景色がすべて、形をなさなくなるほどにじんでしまった。さっきまで追いついてこなかった体が、今更のように心をつかまえる。滴が、一筋二筋、私の頬を流れていく。
次こそは、二人の永遠の別れなのだ。夏菜は、おそらくもう二度と戻ってこない。今度こそ。それも、夏菜を幸せにすることによって。
しかし、それでも私は、夏菜を幸せにしてあげたかったのだ。私にとって、夏菜を幸せにしたいという気持ちは何物にも代えがたい決意だった。たとえ、一人取り残されることになろうとも。
だから、私は夏菜を抱きしめた。戸惑い気味な夏菜は、結局されるがままになる。なぜだろう、私は、その両腕に柔らかな温かさを感じた気がした。それはいつの間にか、腕を通して体を包みこみ、胸の中まで染み込んでくるようだった。私は、心の底から安らいだ気持ちだった。
その時。
それは、ひたすらきれいだった。
いつの間にだろうか、夏菜の中から、ゆらりとはい出してきて――やがて風呂場の天井を突き抜け、静かな夜をほのかに照らし出しながら、ゆっくりと空を昇っていく光。
それは、星の光だった。奇跡を呼び起こす、漠然とした輝き。
星の光が、空を駆け上がっていく。
星は、観測する。幸せな記憶を。
星の一つに数えられるような、ちっぽけで優しい、幸せの記憶を。
――私は、夏菜と一緒に風呂場の中にいた。目の前には、泣き腫らしている夏菜。そしてそういう自分も、目にいっぱいの涙をためているようだった。
私は、夏菜の涙を止めてあげたかった。涙に暮れるその肩に寄り添ってやりたかった。だから私は、夏菜を抱きしめる。
「……っ!」
夏菜は少々の驚きを示し、私の腕にわずかに抵抗する。私は、構わず抱き続ける。
すると、なぜだろう、私は自分の両腕に確かな「体」の感触を覚えた。夏菜は幽霊のはずなのに、私の両腕が夏菜の体をすり抜けないのだ。
夏菜が私の腕に抵抗したのは、最初だけだった。夏菜は徐々に私の腕を受け入れ、やがて、入りっぱなしだった肩の力を抜いていくような気配が腕の中でした。腕の中の夏菜は、温かくて、胸が安らいだ。確かな温もりを、嘘じゃない、本当の温かさを今だけはこの腕に感じられた。それはやっぱり、嘘みたいな温かさだった。
私は、夏菜の存在を確かめるように、もう一度強く抱きしめる。
「い、いたいっ」
夏菜は涙声のまま思わず声を上げた。私は少し申し訳なくなった。腕の力をゆるめる。
夏菜は、確かにここに存在している。幽霊なんかじゃない。
突然私の目の前から立ち去り、私に永遠の別れを告げた、あの日の夏菜。
彼女が今ここにいるんだと、私はそう思った。
生前の夏菜と、私。二人は仲良くなれなかった。お互いが、お互いに対する接し方を知らなかった。そして、二人は寂しいままで繋がりを断たれた。夏菜はその胸に寂しさを抱えたまま。私はその心に後悔を背負ったまま。二人は、永遠に離れ離れになった。
繋がれないまま、お別れを告げたあの日の夏菜が。今、腕の中で泣き腫らしている。確かな温もりとして、腕の中にある。
私は夏菜と話をしたいと思った。私は胸に埋めさせた夏菜の顔を一度引き離す。泣き腫らして目元が赤い夏菜と、しっかりと目を合わせる。
「夏菜」
私は、夏菜の名を呼びかける。夏菜は上目遣いに私を見た。二人は目を合わせると数秒の間固まった。私には色々話したいことがあって、だけど何から話せばいいのか分からない。そんな迷いが、私に沈黙を強いている。そんなこんなで、私はなかなか話し出せなかった。
そんな沈黙を破って。
「……お母さん」
夏菜がふと、口を開いた。
「何?」
私は不思議そうな顔で夏菜を見つめる。すると。
夏菜は、ぺたんと座り込んだその膝の上で、二つの拳を握り込んだ。
そして。
不意に、夏菜の頬を伝っていった小さな滴。
その滴が、湯船の水面を静かに打って。
私には、その涙の理由を訊ねる暇もなく。
「成仏なんてしたくないよ……もっと……もっと一緒にいたいよっ!」
気付けば、また涙をいっぱいにためた夏菜が、胸の中に飛び込んで来ていた。
「えっ……」
私は、突然のことに驚きを隠せなかった。重さを失っているはずの夏菜の体が、しかし今はずっしりと重みを持って私にぶつかっていく。
夏菜が、恐らく初めて、ありのままの思いを私に伝えた。一緒にいたいという、ただそれだけの単純な思い。だけど、それは何よりも切実な気持ちだったのかもしれない。
私は、そんなむき出しの強い思いに、少し戸惑ってしまう。
夏菜はまた、私の胸で泣き始める。私は胸に滴が伝っていくたびに夏菜が泣いていることを理解させられた。その涙一つ一つが、まるで胸を突き破って体の中に染み込んでくるように、切実な響きを持って私に訴えた。
「もっと……一緒がいいよ……お別れなんて、やだよ。成仏しなきゃなんないなんて、嘘だよ。もっと……一緒にいたいよ」
夏菜の口から、せきを切ったように言葉があふれ出す。純然たる、ただひとつの、私への願いが。
「ひまわり畑だって……もっと行きたいよ。お母さんとなら、何回だって行きたいよ。他にも、いっぱいやってほしいよ。髪も切ってほしいし、他にも、他にも……」
涙と一緒に言葉もこぼしていくみたいに、次から次へとあふれ出す。私の胸は、もはや涙でびしょびしょだった。
「……うっ、ぐす……えぐ……えぐっ……」
ついには夏菜の言葉は形をなくし、あふれる思いはただ涙と嗚咽のみによって私に届けられる。
「…………」
私は、初めて夏菜の本当の思いを知った。いや、違う。夏菜が何を求めているかだなんて、多分大体察しがついていた。だけど、今この瞬間、夏菜のありのままの思いが初めて明確な形をなして、私の元に届いたのだ。夏菜の口から直接思いの丈をぶつけられることによって。
一緒にいたいという、言葉にしてしまえば拍子抜けするほど単純な願い。だけどその思いは、単純であればこそ、純粋であればこそ、まっすぐに突き刺さって。
私はしばらくの間、何も言えないままただ黙り込んでいた。ゆっくりと、次に夏菜に投げかける言葉を、探していた。夏菜の思いに応えうる言葉を、自分の中から見つけようとする。
夏菜のむき出しの思いに触れ、困惑している自分がいる。初めて知る夏菜の気持ちに、自分の心が揺さぶられてしまっているような気がした。
だけど、いやだからこそ、私の中にも新しい気持ちが――あるいは、忘れしまっていた気持ちがあふれ出した。まるで、夏菜が私に強い思いをぶつけたことで、私の中から埃みたいな古びた思いがよみがえったような。はるか昔に覚えた、何か不思議に美しい思い。鈍く輝くそれを、私は慎重に確かめる。よく見れば、それは輝く見た目とは違って、なんでもない、ちっぽけな代物だった。だけど、なぜだろう……それは、どこにでもある、ちっぽけな代物でありながら、とても大切なものに思えた。何故か、私の胸の奥を温かくしてくれる。絶対に手放したくない、そう思わせる何か。
やがて私は、夏菜に伝える言葉を見つけ出す。それはやはり、言葉にしてしまえばごく簡単で単純なもの。だけど、大切な、宝物だった。
私は、胸の中で泣く夏菜を優しく抱きしめる。
「この夏休み、楽しかったね」
ゆっくりと、思いの丈を言葉にして紡いでいく。
「うん……」
腕の中の夏菜はわずかに安堵の表情を見せて微笑み、小さくうなずいた。
「ひまわり畑も、誕生日も、髪を切ったのも、お風呂に入ったのも、楽しかったね」
一つ一つの言葉に思い出を込めて、夏菜に話す。
「うん、うんっ……」
あふれ出す思いを抑えきれないみたいに、二度強くうなずいた。
「夏菜が病気でこの世を去って、その後幽霊になってわたしの前に出てきて……それで辛いこともあったけど、でも、それでもね、わたしはすごく楽しかったよ」
私はそう言い切る。
だけど、夏菜はどう思っているのだろう? 私は、ずっとそのことを考えていた。幽霊の夏菜と、本当に最後の夏休みを過ごす中で。
夏菜は、幸せだったのだろうか、と。十六年の人生と、数週間の夏休み。その短い生を経て、夏菜は、幸せになれたんだろうか。未だに答えを出すことができなかった。
多分、私はずっと、夏菜を幸せにしてやりたかったのだ。夏菜がこの世に生を受けてからずっと、そして夏菜が幽霊になってからも。夏菜に幸せになってほしかった。それだけが、私の願いだったのだ。
今、夏菜は幸せなんだろうか? そんな疑問がいつまでも胸の中に渦巻いている。私にはまだ分からない。だけど、分かっていることも少しだけあった。
二人一緒にいれば、きっとそれだけで幸せだと。
そんな、私の願望も多分に混じっていそうな根拠のない考え。だけど、根拠も何もなくても、私にはなんとなくそんな気がしていた。なんとなく、そう思った。だから、それでいいのだ。間違いかどうかなんて、関係ない。
「私も……もっと一緒にいたいよ」
だから、私は夏菜を優しく抱きしめる。ずっとそばにいようとする。
「お母さん……っ」
涙声のままの夏菜が、慟哭にも似たその声で私の名を呼ぶ。私はただ、夏菜を安心させてやるように、彼女の頭をなでてやることしかできない。
そう、二人は、もっと一緒の時間を過ごしたかった。ずっとそばにいたかった。いつまでも同じ時を過ごしたかった。
だけど。その願いは、絶対に叶わないから。
夏菜は、きっともうすぐ、成仏しなければならないから。
永遠の別れが、きっとすぐそこに迫ってきているから。
最後の慟哭が、私と夏菜の二人の間で響く。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
また泣き始めてしまった夏菜を、私はただ見守ることしかできない。ただ抱きしめてあげることしかできない。
夏の終わりごろのあの日、二人は結局最後まで繋がり合うことができないままお別れした。その直後、神様が最後にくれたチャンスだとでも言うように、幽霊の夏菜が私の前に現われた。だけど夏菜は幽霊だったから、やがて私と身を触れ合わせることすらできない体となり、二人の間の断絶は結局断絶のまま変わらなかった。長い夏休みを共に過ごしても、二人は最後まで心の壁を破ることはなかった。どんなに近づこうとしても、二人はお互いを弾き合った。
繋がり合えなかった二人。だけど、今この瞬間だけは。
今この瞬間だけは、私は夏菜を抱きしめていた。私の手の中に、夏菜が存在していた。幽霊ではない、本当の夏菜。抱きしめても、すり抜けることもない。
確かな温もりを、その手に感じる。
お互いが胸の内に抱えていた思いを、初めて吐露し合って。どこかで心が繋がり合ったのが分かって。
それがやがて断ち切られてしまう繋がりだと理解していても。
「大丈夫……」
私は夏菜の頭をなでてあげる。夏菜が落ち着くようにそっとその美しい髪を梳いていく。
「……うっ……ぐす……すん……」
それでも夏菜は泣き止まない。
「大丈夫だから……」
私は、夏菜が泣き止むまで、ずっとこのままでいようと思った。せめて、泣き止むまでは。
だけど夏菜は、いつまでもいつまでも、私の胸の中で泣き続けた。しょうのない子だった。
草木も寝静まってしまったような、真っ暗な夜の中。暗闇の底で私たちは確かに存在していた。
私はいつまでもいつまでも、夏菜のそばにいた。いつまでもいつまでも、夏菜の温かさを感じた。
この後きっとやってくる別れさえも、私にはさほど重要でないことのように思えた。夏菜と繋がり合えたという実感だけが、この手の中に現実として宿っている。
この思いを、いつまでも守っていきたいと思った。
夏菜とお別れすることになっても。
どれほどの時が流れても。
何が起きたとしても。
この思い出だけは。
やがて……私は、それをこの目で見つけるのだ。
星の光――
漠然とした輝きが舞い降りていく、不思議に幻想的な景色を。
光は、今まで空にいたのか? 星の光が、この空で一体何をするというのだろう。この奇跡の光が、私たちの頭上で、どんなことをしていたというのだろう。
……私たちを、眺めていたのか。ふと、脈絡もなく私はそう思った。根拠も理由もない。ただなんとなくそんな気がしただけだ。
光は、私たちのことを見ていたような、そんな気がするのだ。それは、不思議な確信を持って言えることだった。
光は、暗い夜の底をぼんやりと照らしだしながら、やがて夏菜の元へと集った。
何故夏菜の元へ集まるのか――そんな疑問がふと頭の隅に浮かんだのもつかの間、光は、突如明滅を始める。まるで私に合図を送ろうとするかのように。
「……?」
何の合図かは、分からなかった。光が不規則に明滅するのみで、そこには何の意味性も見出せそうにない。
ただ。星の明滅を見つめ、一つ思ったことがある。
星の光が、私にしゃべったような気がしたのだ。
その優しい輝きが、私に語りかけるようにして。
ありがとう、と、ただ、その一言を。