夏菜の幸せ
「…………ふう」
意外とあっけなかったな、と私は息をついた。張り詰めていた緊張の糸が切れたように弛緩した。湯船に沈み込む。夏菜がいない分、湯船には私が足を伸ばす余裕があった。私は湯船の中でリラックスする。
長かった幽霊夏菜との夏休みも、これで終わりだ。夏菜と一緒に、楽しい時間や、辛い時、色々な日を過ごした。とにかく疲れた夏休みだった。そして、やっぱり楽しかった夏休みだった。色々なことが起きたが、それでも、やっぱり楽しかった。
夏菜も、そう思ってくれていたのだろうか――私はふと夏菜の思いを想像してみる。
夏の日、夏菜は幽霊として再びこの世界に生まれ落ちてきた。辛い思い出ばかりの、この世界に。幽霊だから、人には見えなかったし、しかも時間が経つにつれてものに触ることすらままならなくなり、次第に私にさえその姿が視認できないようになった。
夏菜は、きっと幸せを取り戻すために幽霊になったのだと私は思う。生前は手に入らなかった幸せを。だけど、幽霊として生まれ落ちたせいで、被らなくてもいいような様々な不幸が夏菜の身に降りかかった。
それで夏菜は幸せだったのだろうか、と私は考える。下手すれば、生前よりも辛い思いをしたかもしれない、と心配になる。
成仏もあまりに唐突だった。別れを言う暇もなく、あっさりと夏菜は消えた。本当にあっさりと。
最後の夜だったのだ、夏菜とお風呂に入って、なんでもない、だけど二人にとって一番最後になる思い出を作ろうと思った。同じ湯船にいて、同じ気持ちを共有しながら。だけど、そんなちっぽけな思い出を作ることもままならず、夏菜は消えてしまった。
やはり、私は考えてしまう。どんな思考回路をたどっても、最後に行きつく思いは同じだった。
「夏菜は、この夏休み、幸せだったのかな……」
そう呟いた途端。突然、胸の中にぽっかり穴が開いたような変な気持ちになる。何かが足りない、何かを求めている、そんな気持ち。何故そんな気持ちになるのかは、頭では理解できても何かピンとこない。どうやらなにげない思いを言葉にしてみたことで、夏菜が消えた悲しみが遅れてやってきたみたいだ、ということは分かる。しかし心が自分を追い越していくように、変な気持ちだけが先行して、自分自身では何も思わなかった。心はともかく、体はまだ呆然としていた。それなのに心の方では、何もない白色がのっぺりと心を掃除していくような感覚があって、大事なものまでゴミ箱に捨てられてしまうかのようだった。
胸だけが痛んでいる。心の全部がそこに集結したかのように。
そして心の全部は、夏菜に会いたい、といまだその名を呼び続けていた。まるで、まだ夏菜とのお別れは早いのだというように。
「夏菜……」
頭も追いついていないのに言葉だけが私の口をついて出て、思わずその名を呼んでいた。
「……」
その途端。私が今名前を呼んだ女の子が、私の向かいに唐突に「顕現」する。
「……えっ!? 夏菜……?」
「…………」
唐突だった。お別れが唐突なら、再会も唐突なようだ。私は、あまりの不意の事態に混乱してしまう。胸の中にぽっかり空いた穴はそのままで、むしろその穴の中にありったけの混乱を放り込まれるような感覚だった。何が何だか分からなくなる。てっきり成仏したものだと思っていたのに、本当はまだ成仏していなかったのか……と私はすぐさまそんな考えへ思考を巡らせた。つまり今まであったような、「しばらくの間、私からもその姿が視認できなくなってしまう」という幽霊特有の症状が、今回もまた起きただけだと。
しかし、今回ばかりは「成仏するだろう」という確信があったのだ。夏菜の体が透明化していき、もう夏菜はこれ以上現われ続けることはできないと直観した。夏菜の成仏は、絶対だったのだ。私は、そう思っている。
では、一度成仏したにも関わらず彼女がまた現世に戻ってきた理由は? 分からない。私には見当もつかなかった。
「……夏菜、どうして……」
私は夏菜に問いただそうとして、夏菜に近づいていく。夏菜は不機嫌そうな顔で、
「…………」
黙り込んでいる。
「……どうしてここにいるの?」
私は夏菜の肩に手を載せて、今度はゆっくりと訊ねる。
「…………」
それでも、夏菜は黙ったままだった。私には何が何だか分からない。夏菜が突然また目の前に現われた理由も、夏菜が不機嫌そうにしている理由も。
私がもう一度夏菜を問いただそうとした、その時。
「夏菜……?」
「……っ」
さっきまで変化のなかった夏菜の表情に、突然ゆがみが生じる。眉間に苦悶のしわを集めて、あどけない唇はこらえきれない何かが込み上げるようにゆがんでいる。やがて表情の均衡は完全に崩壊する。
「……っ、ぐす……うっ……」
「夏菜っ!」
夏菜はその場に膝から崩れ落ちた。私には状況が全く理解できなかったが、それはさておいて夏菜の背中に手を回すようにしつつすぐさま夏菜を介抱する。夏菜は、腕の中で粛々と泣き続ける。ぬぐってもぬぐってもこぼれる涙を、小さな手のひらで何度もぬぐう。そんな姿が妙に弱々しくて、不安をあおられる。
一体なぜ夏菜は現世に戻ってきたのだろう。また、どうして夏菜は泣いているのだろう。私に分かることは何一つとしてなかった。目の前で泣き崩れている夏菜だけが知っている。
「……ねえ、どうして戻ってきたの? どうして、泣いてるの?」
私は、諭すような声音で訊ねる。やんわりと、刺激しないように。
「……うっ……ぐす……お、おと……ぐす……」
質問に答えるため、泣き止もうとする夏菜。まだ、涙がその瞳からぽろぽろとこぼれているが、それでも何とか問いに答えようとしている。私は夏菜の言葉をただひたすら待つ。
「……うっ……すん……」
やがて夏菜は、しゃべれるだけの落ち着きを何とか取り戻す。震えた涙声で、真実を告げていく。
「……お父さん、が」
「……お父さん?」
私は一瞬自分の耳を疑った。それだけ場違いな名前が夏菜の口から飛び出したからだ。私の戸惑いを承知の上で、夏菜はなお続ける。
「……そう。お父さんが、成仏した先で待ってて、『お前はまだ来れない』って、」
言われた、と夏菜はあくまで簡潔に説明した。しかしあまりに簡潔すぎて私の理解が及ばなかった。
成仏した先で、父さんが待っていた、とは。いまいち言葉の意味をはかりかねる。なぜそこで彼が出てくるのだろうか。成仏した先とは、どこのことなんだろうか。彼はなぜそんなところにいるのだろうか。次から次へと疑問が湧いてきて、処理しきれない。私は混乱してしまう。
成仏した先というのは、いわゆるあの世なんだろうか、と私は一つの疑問の答えに思い至ろうとしたところで、しかし私は思い出す。数日前、夏菜とひまわり畑に行った時、帰りの電車で夏菜と話したことを。
『あ、あの、なんていうか……星の光が来て、そのあとに奇跡が起きて、わたしは幽霊になったわけだけど……その、奇跡が起きた時さ……』
『……お父さんと会った…………ような気がするの』
『う、うん……死後の世界であったとか、そんなんじゃないよ? 幽霊になって、現世にまた帰って来ようとした時に、お父さんと会ったの』
……私は、頭の回転を急激に速めていく。
夏菜は、星の光に関わる場面では、必ず父親に会っている。それは、ひまわり畑に行った帰りに聞いた話や、先ほど夏菜から聞いた「父さんが成仏した先で云々」という話から分かる。では、星の光に関わる場面で毎回お父さんが出てくるのはなぜか。それはおそらく……信じがたい話ではあるが、お父さんが星の光に深く関わる人物だからだ。夏菜の言う「成仏した先」というのは、おそらく死後の世界のこと……ではないのだ。多分それは、星の世界とでも言うべきもの。そして、夏菜の話を信じるならば父はその世界に今も存在し続けている、らしい。なぜそんなところにいるのかは分からないが。
そして、その父が夏菜にかけた言葉……「お前はまだ来れない」と。「まだ来れない」とは、どういう意味なのか。つまり、星の世界に来る条件を満たしていないということ。
私はまた、星の伝説の言い伝えにある文言に思いを巡らせていた。
『あなたが、星の奇跡を受け取り、そして大事な人々に「終わりの挨拶」を済ませ、時間のない世界へ舞い戻ったなら』
「…………」
時間のない世界……つまり星の世界へ戻る条件は、「終わりの挨拶」を済ませること。
ならば……
「夏菜はまだ、『終わりの挨拶』をしていない……?」
私は確信の持てない仮説を口に出して呟く。
「終わりの挨拶」は、てっきりもう済んだものとばかり思っていた。なぜなら、夏菜の成仏はもう始まっていたからだ。事実、夏菜の成仏は進むところまで進んだ。そして、夏菜は、一度完全に消滅した、はずだった。しかし夏菜は、父に追い返されてまた現世に戻ってきた。
では、「終わりの挨拶を済ませる」という言葉の真意は? 私は最初、「死んだ夏菜がもう一度だけ現世に戻ってきて、私に文字通り死に際の挨拶をする」という意味だと思っていた。だけど、そうではないのだ。幽霊の夏菜と私とは、もう十分に話し合って、夏菜の死もお互い認め合った。それなのに、夏菜はまだ星の世界には行けなかった。ならば……と私は疑問に対するもう一つの答えを探し始める。そして、そのうちに私はある答えへたどり着く。
……ならば、「終わりの挨拶を済ませる」とは、夏菜が心残りなく幸せに成仏できることを指しているのではないだろうか? と。
そもそも、最初私は「夏菜を幸せにできなければ成仏させてあげられない」と考えていた。その考えが、間違いでなかったのだ。やはり、夏菜を幸せにしなければ、彼女を成仏させられない。いや、正確に言うならば成仏はできるが、心残りがあると、星の世界で追い返されてしまう。つまり何度成仏してもまた現世に出戻ってしまうわけだ。
先の風呂場での成仏では、夏菜にまだ心残りがあったのだ。だから、追い返された。
夏菜はまだ、幸せになっていない。




