透明化2
夜になる。夏菜は、また布団にもぐってしまっていた。動く様子も、出てくる様子もなかった。手や足が無造作にはみ出しているだけだ。その手足も、動く気配がない。
私はまた、夏菜の布団のかたわらに座り込んでいる。夏菜のことが心配だった。私は夏菜がもぐっている布団を見つめながら、考え込む。
花火大会で夏菜を元気づけるつもりだった。そのはずが、逆に花火大会が原因で夏菜はますますふさぎ込むことになった。私は、夏菜が成仏するまでの数日間を二人で幸せに過ごしたいと願っていたのに、その願いは叶わず、それどころか願いがだんだん遠ざかってきている。このままでは駄目だ、と私は思う。夏菜の幸せを見つけてあげなければ、夏菜を成仏させることはできない。不幸なまま成仏することを、夏菜は嫌がるだろうから。しかし、時間もない。夏菜の成仏はもうすぐだ。私は、焦り始めていた。
「…………!?」
その時だった。私は、ある異変に気付いた。不可解な異変。現実ではあり得ないことが、起こっている。私は、信じられない光景を見ていた。
「…………夏菜、ごめんね?」
見間違いかもしれないと思った。だから、真偽を確かめるために、夏菜の布団をゆっくりとめくる。
「…………っ?」
夏菜は布団を突然めくられたので、とても驚いた様子だった。
その夏菜の体、手足を、私はよく観察する。異変を、探す。
……いや、観察するまでも、探すまでもなかった。だってその異変は、一目見ればすぐに分かるものだからだ。否が応でも、一目でわかる。だから、夏菜もすぐ、気付く。
「…………」
「え……?」
夏菜の手足が……いや、手足どころか、体のすべての部位が、半透明になっているということに。
「……これ、は……」
私は考える。この透明化の理由を。意味を。夏菜が、また一つ「幽霊らしくなった」意味を。
答えは一つしかなかった。
夏菜の成仏が近付いている、ということだ。体がすり抜けるようになったことと同じように、だ。しかも今回は、前回と違って見た目に変化がある。そのことが示している事実も、私には何となく分かった。
それはつまり、成仏の兆しが見た目に現われるほど消滅が進行しているということで、
「夏菜、あなた……」
夏菜の成仏は恐らく今夜だとしてもおかしくないだろう、ということだ。
「……何で、透明に……」
夏菜の瞳が、動揺に激しく揺れている。すり抜けに続く消滅の兆しに、夏菜は動揺を隠せない。
「……わたし、どうして……」
夏菜は、ますます声を震わせていく。私は何も言えない。ただ黙り込んでいた。
「わたし、どうなるの……?」
わななく唇で、震えた言葉を弱々しく紡ぐ。痛々しいほどに、震えている。
夏菜の紡いでいく言葉は、その一つ一つがごく細い雨のように、私の胸を貫き、黒く濡らした。それは小さな染みだったが、私の胸に確かな痛みをもたらす。
そして、夏菜が透明化したのに従い、夏菜の言葉や表情さえもその印象を薄れさせていた。夏菜の悲しみも喜びも、どこまでも遠い場所へと消え去っていくような気がした。私は、深い虚脱感にさいなまれそうになる。
「わたしは、もう……」
夏菜は、ほうけたようにぽつりと呟いた。その目には、ここではないどこかを見つめているかのような色がある。それは、憂いを帯びた瞳だった。憂いを帯びて、どこか遠くを見つめている瞳。
夏菜は、自分の消滅を悟ったのだろう。私にも理解できた。
理解できて、だから、夏菜を抱きしめてやりたくなった。だけど、抱きしめられない。夏菜は幽霊だからだ。やり場のない気持ちを秘めて、私はただ夏菜を見つめるだけだった。
二人の間には諦念をはらむ不思議な沈黙が流れていた。
そんな中で、最後と思える夜が、静かに過ぎていく。
天井の鈍い照明によって、どこか虚ろに照らし出された部屋。二人はその部屋にたたずみ、ただ黙って時を待つ。夏菜が消える時を。夏菜が成仏する時を。
二人の間に会話はない。私の中にはただ、何もかもすべて諦めてしまったことへの後悔とやりきれなさがあるばかりだ。虚脱感とともにうなだれることしかできない。
夏菜は、静かな動揺をその体のわずかな震えで表している。やはり、消滅することが怖いのだろう。死ぬことが、怖いのだろう。
「……夏菜、最後に、お風呂に入らないかしら?」
私はゆっくり顔を上げて、不意に長い沈黙を破った。後悔とやりきれなさになんとなく突き動かされ、意味もない提案をする。
夏菜は、透明な震えの中で、ゆっくりと顔を上げる。
「…………」
夏菜が考えていることは分かる。もちろん今の夏菜は、お風呂に入っても体を洗うことすらできない。お風呂に入っても意味はない。夏菜は、そんなようなことを考えていると思う。
「ま、いいからきなさい」
だけど、私としてはそんなことはどうでもいい。体を洗うことよりも二人でお風呂に入ることに意味があると思った。だから、夏菜の反応が薄いのにも構わず、夏菜を先導しようとする。
「……うん……」
私の言葉に、夏菜は存外素直に従う。私に連れられるまま、静かに歩き出した。
夏菜の部屋を出て、廊下を進んだ。静かに、歩を進めていく。会話は、なかった。
階段を下りると、居間に着く。居間の反対側にある風呂場へ向かう。
やがて風呂場兼洗面所に着いて、二人は服を脱いでいく。夏菜も、人生最後のお風呂には抵抗しなかった。二人はすっかり裸になってしまうと浴場に入った。浴場にはまだ湯船の湯気が立ち上っていることもなく、少し肌寒かった。私はまず浴場用に置いてある小さないすに腰掛けると、熱いシャワーで全身を軽く洗い流した。後ろにいる夏菜は手持無沙汰そうにもじもじしている。私は夏菜の処遇に困ってしまう。
「湯船にでもつかっておきなさい」
とりあえず、夏菜にはそのように指示した。夏菜は律儀にも指示通りに湯船につかることにしたようで、音もなく湯船に入った。私の方へ体ごと振り向いて、そしてまるで所在が定まったかのように落ち着きを取り戻し、黙り込む。私はそんな夏菜の様子がなんとなくおかしかった。
私はさっさと自分の体を洗い終わって、そして夏菜と一緒に湯船につかることにした。親子仲良く小さな湯船にぎゅうぎゅう詰めだった。二人は正面から向かい合うことになる。私はふと目の前の夏菜が身じろぎをしたように感じた。どうかしたのだろうか、と夏菜の表情をうかがってみる。
夏菜は、何か言いたげな、何かを口にしたがっている、そんな表情をしていた。
「……ねえ、わたし……さ、」
夏菜が、ぽつりと、不意の言葉を紡ごうとした。
「何?」
私が訊ね返した、その時だった。
「……えっ?」
私は思わず驚きの声をもらす。私が見たもの。……いや、「見えなくなった」もの。
たとえ半透明の幽霊であろうと、確かにはっきりと存在感を持って私の向かいにいた。彼女の瞳は確かに私を見つめていた。彼女は確かに存在していた。とてももろく今にも朽ち果てそうな姿だったが。
そんな、成仏を間近に控えた体が。
今度こそ。私の目の前から姿を消した。
「…………」
唐突な別れに、私は悲しむというより、ただ驚き呆然とするしかない。湯船に三角座りでつかったまま、動けなかった。しばらく固まる。
だけど、やがて目の前の状況に理解が追いつく。頭の中で今起きていることを整理してみる。
夏菜の成仏が間近だった。夏菜が、消えた。
たった二言で状況を説明できてしまう。要するに、夏菜は、今この瞬間、成仏してしまったということだ。こんなにもあっけなく。あっさりと。




