夏菜が死んだ日
――この町に代々伝わる言い伝えがある。「星の奇跡」の伝説だ。
曰く、「君が暗闇の世界に落ちた時、この町にいくつもたたずむ『星の記憶』が星の光となって、君をもう一度温かな世界へ帰すだろう」と。
曰く、「星の奇跡を起こした者はみな、星の中に眠る『星の記憶』を、心に受け取ることだろう」と。
曰く、「君が、星の奇跡を受け取り、そして温かな世界に『終わりの挨拶』を済ませたら、今度は君が『星の記憶』を星の光に変えるだろう」と。
――また一人の少女が、星の記憶をその手にした。
もう一度、あの世界へ帰って行くため。
大事な人に、本当の思いを伝えるため。
やがて少女は、その温かな世界へと再び帰っていく。
女の子が、深刻な病気を患い、ベッドに伏していた。ここは病院。そして、その女の子の病室だ。窓辺では、病院らしい真っ白いカーテンが風にもてあそばれていて、時折、女の子の姿を隠す。そろそろセミの元気もなくなろうかという、八月の終わりごろであった。
ベッドの傍らには、その女の子のお母さんがいすに座っている。憂いを帯びた瞳で、ただ女の子を見つめている。手を握ろうとして、でもやっぱり握らない。
三年前のことである。女の子は突然の病に倒れた。お母さんがすぐに救急車を呼んで、女の子は病院に運びこまれた。そして、病院での診察の結果、彼女は大病にかかってしまったということが判明した。
今は、その病気の峠。女の子は生きるか死ぬかの境をさまよっていた。
「夏菜……」
お母さんは、あくまで動きの少ないその表情の中にも少しの不安をにじませ、娘の名を呼んだ。夏菜と呼ばれた女の子は、
「……ごめんね……」
涙をこらえた声で、一言謝る。
夏菜には、もう分かっていた。自分の命がもう持たないことが。夏菜が息を引き取るまではもはや時間の問題だった。
「ごめん、ね……」
夏菜は、もう一言だけ謝る。そして、その言葉を境にしたように……
夏菜の命が途絶えた。
「……っ……」
その時、お母さんは、こらえていた涙をついにあふれさせてしまった。激しくは泣かなかった。静かに、粛々と泣くばかりだった。
昼間。病院のエントランス。たくさんのいすが並んでいて、たくさんの患者がそのいすに座って呼び出しを待っている。
いすに座っている人々の中に夏菜の姿を探してみても、もちろんそれは見つからない。当たり前のことだった。
夏菜。彼女はなんていうか、一筋縄ではいかない女の子だった――私は彼女がそばにいた日々を思い返して、そう回想する。
彼女は人と関わるのが苦手な子だった。友達もあまり多くなかった。いつもひとりで、休みの日でも家から出ることはほとんどなかった。
母である私さえも、彼女と何を話したらいいのか分からず、二人の会話はやはり少なかった。あまり、理想的な関係を築いているとは言いにくい、そんな親子だった。実際傍目からでは、二人はあまり仲がよさそうには見えないだろう。むしろ、険悪にさえ見えるかもしれない。
だけど。正直に言うと、私にはそんなことはどうでもよかった。
確かに、夏菜は一筋縄ではいかない女の子だった。会話もあまりしなかった。
しかし、それがなんだというのだろう。私は、会話が多いことがそのまま仲の良さを表すとは、思わない。たとえ言葉はなくとも、通じ合うことがなくとも、人は、人を好きになれる。
私は夏菜が好きだった。一筋縄ではいかない、不器用で友達も少ない、そんな彼女が好きだった。
たとえ、繋がり合えなくても。ずっと、そばにいてほしかったんだ。
そんなささいな願いさえ、神様は見届けてはくれない。神様は残酷にも夏菜を私の元から引き離してしまった。
夏菜は、病によりこの世を去った。ついさっきの出来事だった。夏菜がいなくなってしまっただなんて、いまだに実感がわかなかった。出来事はまるで夏の夜の夢のように淡く漠然とした像に感じられた。本当にそんなことが起きたのか、疑ってしまうほどだ。だけど、本当のことなのだ。夏菜は、もうこの世にはいない。いくらその顔を見たくなっても、もう見ることはできない。
笑ってしまいそうなほどはっきりしていた。夏菜はもういない、というその事実だけが。頭の中は、まだ夢の中みたいにぼんやりとしているのに。
だから、この病院にはもう用はなかった。夏菜は、今日をもって退院だ。私もこれからはこの病院に通う必要もなくなってしまった。夏菜が入院していた頃は、毎日お見舞いに来ていた。だからこの病院もすっかり慣れ親しんだ場所となってしまったが。この病院とも今日でお別れだった。
様々な人々が行き交うエントランスの中を、私は病院の出口に向けて歩き出す。足どりは重く、なんだか、もうろうとした夢でも見ているような気分でゆっくり歩を進める。
これからどうしようか、なんて、ある意味のん気なぼんやりした気持ちで、とつとつと考えを巡らす。
そんな、夢うつつの心地で。そうやって、ぼんやりしていたからだろうか。
「…………?」
その時。私がふと見上げた夏空に。
光が――「星」の光が、姿を現す。
蛍大の、玉のような光。
……「星」? なぜ星だと分かったのだろう。まだ星が出てくるような時刻でもないのに。
しかし、光源すらないこの光の玉は、どうやって現われたのか不思議だった。ただ一つの独立した光の玉として、夏空を漂っている。それこそ星のように。
やはり疲れているのだろうか。こんな不可思議なものを目にしてしまうなんて。幻が見えてしまうほどに疲れていたというのだろうか。
光は、どこか目指す場所があるみたいだった。迷いなく一方向に進んでいく。なんとなく光の行方を目で追っていた。
「…………あれ」
すると、光はどんどん病院の方へ近付いていく。ついには病院の壁をすり抜け、直接中へ入っていった。
「…………」
病院に用があるのか? あの光は。
一体、どんな用が?
……そう思ったのもつかの間。ふと、私の耳に声が届いた。
「…………?」
私を呼ぶような声が。頭の内側だけに、響いた。それはあまりにも弱々しく、また淡い響きだった。
誰かが、私を呼んでいるのか。
その声には、聞き覚えがあった。
「…………」
私は踵を返し、先ほど通り過ぎた病院のエントランスへとまた戻ってくる。そして、声の呼ぶ方へ、吸い寄せられるように歩き出した。
聞き覚えがある、どころではない。いつも隣で聞いていた声。間違うはずもなかった。
しかしだからこそ、おかしい。この声は、もう二度と聞けないはずだった。
どうして、まだ、声が聞こえるの?
ゆっくり歩いていた私は次第に早足になっていく。
私の足は、どうやらいくつもある病室の一つに向かっているらしかった。長くのびる廊下には病室の扉がいくつもあるのだが、私はそのすべてを無視して、ある一室だけを目指していた。
声は、今もまだ確かに私を呼んでいた。その声は、やはり聞き慣れたそれだった。
どうして、あの子の声がまだ聞こえるのか?
私は、考える。もしかして、幻聴なのだろうか。あり得なくもないかもしれない。私は夏菜の病気のことであまたの困難を味わってきて、さすがに疲れ切っていた。幻聴を聞いてもおかしくないのかもしれない。
しかし、もしそうではないとしたら。私はまた考える。もし幻聴でなければ、なんだろう。確かに、彼女の声だった。私を呼ぶ、彼女の声。なら、彼女の声がまだ、この耳に届いている意味は?
――一体、何が起きているのか。今すぐに、確かめなければならなかった。