成仏と花火大会
数日前の、誕生日。あの日夏菜は、一瞬ではあったが、しかし間違いなくこの世から消滅していた。そしてその一瞬の間、私の記憶から幽霊の夏菜のことが抜け落ちていた。そして、昨日の出来事。夏菜が、誕生日の時と同じように、消滅した。そして前回同様、私の記憶も抜け落ちた。そのあと夏菜が世界にもう一度現われたと思ったら、今度は体がすり抜けるようになっていた。
この三つの事柄から、私は「夏菜は恐らく成仏しかかっているのだ」、と判断した。そして夏菜が成仏する時には、私の記憶もなくなるのだ、と推測した。
私はこんな内容のことを、記憶の喪失云々の部分を除いて、すべて話した。
「……だから夏菜、あなたはきっと、もうすぐ、成仏するのよ」
私は重々しく、夏菜に告げる。
「…………」
布団からの反応は、ない。不気味なまでに、何の反応も示さない。動いた気配は少しもなかった。
「……夏菜……」
しばらく間をおいてから、私が再度夏菜に声をかけようとしたその時だった。
「……っ……う……」
布団越しに、小さなすすり泣きが、聞こえた。
「…………」
私は、ただ黙っていることしかできない。
夏菜のすすり泣きは、とても静かだった。布団越しでもあったから、聞き間違いだったと言われても納得できる。
泣くことを我慢しているのだろうか。なんという意地っ張りなのだろう。
夏菜の泣き声の一つ一つはささやかなものだったけど、だからこそ、その消え入りそうな泣き声の一つ一つが胸を突き刺した。夏菜の涙は私の心にまで流れ込んできて、そして、黒い悲しい染みを心に広げる。その泣き声を一つ聞くたびに、体の芯を強く揺さぶられたような感覚があって、それは大きすぎる動揺を伴い、体の芯が大きくぶれた。
そして、私は考える。最後には成仏する、ということは、確かに二人の間での約束ではあった。だけどそれは、生前の心残りをすべてなくした上で、という前提があった。成仏の条件が、心残りをなくすことなのだ、と勘違いしていたし、これを機に再び幸せを目指そうと思ったから。
だけど、成仏の条件は、幸せになることではなかった。消滅は、心残りがあるかどうかなんて関係なく、時間の経過とともに近づいてくるのだ。否応なく。それに、消滅は一瞬で終わるのではなく、少しずつ進行していく。夏菜は人間としての機能を失いながら、余生を過ごすことになる。
二人がやっとで送り始めた幸せの日々など、お構いなしだった。それに、これからは人としての機能が更に失われていくだろうから、むしろ、夏菜の求める幸せは遠ざかる。
だから夏菜は、今悲しんでいる。きっと、成仏をするのが嫌なのだろう。不幸なまま成仏することを、夏菜は何よりも恐れているのかもしれない。
夏菜の恐れることは、それだけで、同時に私の恐れることとなる。私は、少なくとも今は、夏菜を成仏させたくないという気持ちになってしまっていた。
「う……ふ……す」
鼻水をすする音も布団越しだからくぐもっていて、余計みっともなかった。私には、それがまたもの悲しい。
夏菜は、しばらく涙に暮れた。何分、あるいは何時間かが経過した。
「す……ん……」
その頃になって、夏菜がそろそろ落ち着きを取り戻し始める。今は涙も流していないし、鼻水の余韻が残っているくらいだ。
しかし本当の意味では、気持ちの整理はまったくできていないだろう、と私は思う。これは、何分や何時間で整理できるような悲しみではないのだ。私にはそれが分かった。
「……明日、花火大会に行かない?」
だから私は、気持ちを切り替えるように薄く微笑んでみせて、そんなことを提案する。
「………………」
やはり、返事はない。
「明日、近所で花火大会やってるのよ。毎年やってる祭りだし、わたし達も昔は行ってたから、知ってるでしょう?」
「……いきたくない……」
その時夏菜は、初めて声を伴った反応を返した。私ははっきりとしたそんな反応を嬉しく思ったが、その内容は残念だった。
「……そう……なら、仕方ないわね……」
私としては、夏菜を無理矢理花火大会に連れていく気はなかった。あくまで夏菜の気持ちを尊重しようとしていた。
また、会話がなくなる。二人の間に沈黙が降りた。
私は、沈黙の中で考える。
夏菜は、花火大会に行きたくないと言った。その理由について、私は考える。夏菜は、また通行人に認識してもらえないことが怖いのではないだろうか、と。それに、今は人混みにでも出くわせば、自分の体がすり抜けることをまた強く実感してしまう。夏菜は今、世界から隔離されつつあるのだ。
その二つの理由で花火大会を拒んでいるのなら、私は、その理由をおしてでも、花火大会に行って欲しい、と思った。だから、
「……誰にも見えてなくても、心配ないわ……わたしには見えるもの」
そんな言葉で沈黙を破ってみる。
「…………」
夏菜は、少し戸惑ったような沈黙を返す。声はない。
それでもいいというように、私は続ける。
「きっと、花火大会に行けば、また元気になれるわ……きっと、また楽しくなるはずだわ」
私は夏菜にゆっくりと語りかける。少しだけ、動揺しているような空気が、夏菜の布団から伝わってくる気がした。だけど、やはり返事はない。顔も出さないし、花火大会に行きたくないという意見も訂正しようとしない。
私のあと押しも虚しく、夏菜が花火大会に行く気になることはないようだ。
その時、夏菜が私とは反対の方向に寝返りを打った、ような気がする。
「……行きたくなったら、言ってね」
私はそれ以上は何も言わず、静かに夏菜の部屋を去る。そして廊下を歩き、やがて居間のテーブルに着く。
夏菜が布団に隠れようとする姿を見ると、胸が苦しかった。夏菜は、あまり強い人間ではない。今にも砕け散ってしまいそうな、儚い存在だ。だから、こんなにも重苦しい不幸があの子に降りかかっていることが、私には認められない。
夏菜は、16歳の夏に突然息を引き取り、そのあと幽霊として化けて出て、そして今は理不尽な理屈で成仏を強いられている。どう考えても、一人の人間に降りかかる不幸としては、あまりにも重すぎる。どうして夏菜が、と私は何度も思い悩む。
「……わたしは、どうすればいいの……?」
思わず、そんなことを呟く。頭を抱えるように、額に左手を当てる。
今はとりあえず、目先の花火大会のことを考えることにした。確かに夏菜は、はっきりと「行きたくない」と言った。その気持ちはきっと嘘ではないだろう。だが……やはり夏菜は、自分の体のことを気にしていて、それが理由で行きたくないんじゃないだろうか、と私は思う。夏菜は、すぐにくじけてしまうような子だ。とても弱い子なのだ。きっと今の幽霊の体のことも、そうとう堪えているはずだった。だけど体のことさえなければ、本当は、花火大会には行きたいと思っているに違いない。私はそう感じていた。
ならば、夏菜が嫌がらなければ、是が非でも連れて行ってやりたかった。花火大会に行けば、夏菜はきっとまた元気になるはずだ。夏菜が元気になれば、そこからまた二人の日々を始めればいいのだ、と思った。そして、夏菜の成仏の日がくる前に、夏菜を幸せにしてあげたかった。成仏するのが怖くならないように、最後に幸せにしてあげたかった。
夏菜が成仏するまでに残された時間は、あとわずかだ。無駄にはできない。
ただ……もう一つ心配事がある。実は、ちょうど花火大会の日あたりに、台風が直撃するかもしれないのだ。まだ確実にくると決まったわけではない。だけど、台風がきて大雨にでもなれば、恐らく花火大会は……中止になってしまうに違いない。
少し、不安だ。
そんな状況の中だったが、私には、まだ気になることがあった。
今更なことだが、幽霊という非科学的なものについてだ。
夏菜は、何故幽霊になれたのか、私は疑問に思う。普通、人間は死んだって幽霊にはなれない、と思う。少なくとも、死んだ夫が幽霊になって化けて出たことはない。
いや、それについては、夫が化けて出たこと自体を、「記憶喪失」しているのかも、しれないが。
知らないうちにそんなことになっていたとしたら、私はもはや自分を信じることができなくなるだろう。
だけど、あの人は本当にわたしのところにきたかもしれないな、とあっさり思ってしまう私もいた。
いや、それはともかく、夏菜のことだ。
そういえば、夏菜は、死にたくない、と願ったと言っていたが。
そこで、私の脳裏によぎったものがある。
「星の、伝説……」
私は呟く。星の伝説とは、この町に代々伝わる、「星の奇跡」の伝承である。星の伝説についての記述は、曖昧なものがいくつか残されているだけで、そのいくつかを読んでみても、星の奇跡がどんなものなのかまるで分からない。私もどこかで星の奇跡についての記述を読んだことがあるが、その時は、その記述が何を示していて、何を伝えようとしているのか全く分からなかった。
私は、その記述をどこで読んだのだろうか、と考える。そして、思い当たるものがあった。
「そうだわ……」
私は居間を出て、ある部屋へとまっすぐ向かう。
部屋の扉の前に立ち、続いて扉を開け放った。




