透明化
「お、かあさん?」
夏菜が、不安そうな瞳で私を見つめていた。私はその瞳を見て、我に帰る。
「ね、ねえ……どう、したの? さっきから……」
真夜中、身を包み込むような深い闇の中で、震える瞳が訊ねる。なけなしの握力で、身にまとった布団の端っこを握り込む。
「………………」
私は何の答えも返さなかった。ただ、夏菜の弱々しいその瞳を見つめるだけだった。
そして、私は夏菜を見つめながら、残酷な可能性について考えた。
夏菜との思い出を失うなんて、受け入れられなかった。成仏の時まで、一緒に幸せに過ごすと誓った。夏菜を幸せにしたあとで、次こそ本当に成仏させてやろうと考えた。夏菜がいなくなってしまって辛くなったとしても、二人で作った思い出さえあれば、きっとわたしは生きていける、と思っていた。
だけどもしも、私の記憶から、夏菜の思い出が消えてしまうというなら……いや。
私は、そこである可能性に思い至った。
もし、私の記憶が消えるというなら……「夏菜の記憶も」、同じようになくなってもおかしくないのではないか、と。
もしもその通りならば……
そこまで考えて、私は心か体か、またはその両方がどっと疲れるのを感じた。
「お母さん……?」
夏菜が不安そうな目で私を見る。布団にくるまったその姿が、あまりに儚く見えた。私は、何も言わず夏菜を抱きしめた。
「えっ?」
腕の中の夏菜が動揺しているのが分かる。
だけど、少しも抵抗になっていなかった。
それほど、弱い存在なのだ。夏菜は。
私は、思う。そんな夏菜を、これ以上苦しめるようなことは、もうやめて下さい、と。
私たちの思い出が夏菜から消えてしまうのなら、これまでの日々の価値はなくなる。夏菜がもう成仏を怖がらないように、今度こそ幸せにしてやろうと思った。そして、私たちの新しい日々が始まったのだ。だけど……夏菜の記憶が消えてしまうなら、意味がなくなる。夏菜は、「死にたくない」とおびえたまま、世界から消えなければならなくなる。それでは、残酷すぎると、私は思った。
夏菜は、弱い存在だ。私は、こんな残酷な結末が夏菜に与えられるなんて、受け入れられなかった。ただもう、言葉をなくすしかなかった。
「お母さん……さっき、何をしてたの?」
と、その時突然、夏菜が私の腕の中で訊ねた。とても不安そうな声音で。
「え……?」
さっきとは……夏菜を捜していたことだろうか? 私はそう推測した。
私が突然部屋を飛び出して、夏菜を捜し始めたこと。誕生日の時は、夏菜は、自分が消えかかっていることに気付いていない様子だった。きっと、今回も、自分が消えかかったことに気付いていないのだ。それならば、私が「夏菜を捜し」に出たことは、夏菜には意味がわからなかったのだろう。きっと、自分はずっとここにいたのに、と思っているのだ。
私に自分の存在が認識されていないかもしれないとなれば、不安になるのは、当然だった。夏菜は、幽霊になってから、周りのすべての人々から認識されなくなった。そして、私だけが唯一夏菜を認識できる存在だったのだ。その私さえも夏菜を認識できなくなったとなれば……夏菜はどう思うだろう?
「ごめんね、本当に……」
私は夏菜をもう一度抱きしめた。夏菜の戸惑いの色が、その体温から伝わってくるような気がした。
「思い出したから。ちゃんと、幽霊の夏菜のこと、覚えてるから」
私は、夏菜に言い聞かせてあげるように、そう言った。
「……?」
夏菜の顔に疑問符がいくつも浮かんでいた。
「……えっと……」
私は、話していいものかどうか、迷った。だけど、
「…………」
夏菜の瞳が、震えたように見えた。もはや、隠せる段階ではない。それに、今話してあげなければ、夏菜の不安はずっと消えないだろう。
私は、話せることはすべて話そうと、この時決めた。ただ、夏菜の記憶が消えてしまうことだけは、隠しながら話そうと考えて――
その時だった。
最初に起きた、異変。
それは、布団が、夏菜が身にまとっていたはずの布団が、脈絡もなく床に落ちたこと。いや、それだけなら、異変とは言えないだろう。事実、最初は、単純に夏菜の体から布団がずり落ちただけだと勘違いした。だけど、その次の異変は……決定的だった。
「あれ……夏菜……?」
ずっと腕の中に感じていた、戸惑いをまとったような夏菜の熱。不安そうな身じろぎ。夏菜の規則的な呼吸。肌の、体の感触。
そして、鼻腔をくすぐっていた、夏菜の髪の毛の甘い匂い。
夏菜は、確かにそこにいる。確かに、そこに存在している。それは間違いない。間違いないはずなのだ。
なのに。
夏菜の、すべての感触が、匂いが、温もりが、あとかたもなく、まるで最初からなかったみたいに――
私の腕の中にいる夏菜から、消えていたのだ。
「……夏菜……」
私は朝ご飯を作り、食べ、そして、洗濯物を干した。
そんなもろもろの用事を済ませたあとに……自分の部屋で、いまだに布団にこもったままの夏菜に、声をかける。
「…………」
夏菜からの返事はない。夏菜は布団に潜り込んでいるので、彼女の表情を確かめることはできない。潜り込むと言っても、布団は、すり抜けているが。ちなみに、この布団は寝室のタンスから持ち出してきたもののようだ。
私は夏菜が心配だった。夏菜はきっと、私が想像する以上に傷ついている。
何故夏菜が傷ついているかというと。それは、今朝起こったある出来事のせいに他ならない。
今朝の、あの時起こった出来事は、ある意味では予想通りだったかもしれないし、だけどやっぱり、予想外のことでもあった、と言える。
夏菜が、存在的に透明な幽霊へと、変化した。
つまり、「触れなくなった」。
私は夏菜の手や髪に触れられないし、また、逆に、夏菜も私やものに触ることができなくなった。触ろうとしても、すり抜けるのだ。とても……「幽霊らしい」特質ではある。むしろ、何故今まで触れることができたのかが分からないほどだ。
これは恐らく、成仏の前兆なのだ。夏菜という幽霊が消滅に向かう過程で、徐々にこの世界の人物でなくなってきている。段階的に消滅しているのだ。
幽霊として幸せだったか、生前や死後の心残りはなかったか、そんなような、人間ならぬ幽霊の機微も関係なく、その時が来れば成仏が始まる。
今や、唯一夏菜を目視できていた私でさえも、夏菜に触れることはできない。そして、夏菜はもうケーキも食べられないし、髪も切ってもらえない。お風呂に入ることもできない。
夏菜は、世界から切り離された。
「夏菜…………ご飯は?」
私はもう一度、小さく声をかける。私の胸には、大きな穴がぽっかり空いているような、そんなただただ虚しい気持ちだけがあった。
「…………」
夏菜は相変わらず返事をしない。私を拒絶し続ける。
人と関わるのが嫌になってしまったんじゃないだろうか、と、ふと私は考える。体で触れ合わずに人と関わることは不可能だからだ。今の夏菜には、握手もできないのだ。
「……ご飯、冷蔵庫に入れておくからね」
「…………」
私は、夏菜と話すことをいったん諦める。夏菜はまだ黙ったままだ。私は夏菜の部屋をあとにして、仕事に行く準備をする。
しかし、いざ仕事に向かおうとしたその時、やはり迷いが生じる。あんな状態の夏菜を放って、仕事に向かってもいいのだろうか、という不安だ。私の職業というのは、簡単に言うと文筆業だ。職場というものも一応あって、仕事を休む時はそこに連絡しなくてはいけない。休むべきか、行くべきか、考える。
「……でも、今の夏菜を放っておけるわけ、ないわよね」
私はあくまで深刻に呟く。最終的には、仕事を休むことに決めた。職場には、「娘が体調不良なので休みます」という旨を電話で伝えた。結果的に、仕事は休めることになった。
私は早速夏菜の様子を見るために、彼女の部屋に行く。
部屋の扉をそっと開けると、視界に入ったのは、相変わらず不貞寝をしたままの夏菜……が潜っている布団。夏菜本人は布団に隠れていた。私は今朝起きてから、まだ一度も夏菜の顔を見ていなかった。
「……夏菜?」
「……ふっ……?」
私が不意に声をかけると、夏菜は布団越しのくぐもった声で素っ頓狂な返事をした。驚いているようだった。夏菜はきっと、私はもう仕事に行ったと思い込んでいたのだろう。
「お母さんは、今日は仕事休んだから。話さなきゃいけないこともあるし……」
そんな夏菜に、私はそんな風に声をかけた。
「…………」
相変わらず、夏菜からの返事や反応はなかった。
ただ、彼女が安心したような気配が、布団の奥から少しだけ感じられた。
私は夏菜の枕の脇にしゃがみ込み、夏菜に話しかけ続ける。
「……とりあえず、布団から出てきて、ご飯を食べなさい」
「…………」
「朝ご飯、食べないの?」
「…………」
私も、もはや黙殺に慣れてきた。諦めず話しかけ続ける。
「じゃあ、せめて、布団から出てきてちょうだい。話があるから。夏菜も、気になることがあるでしょ?」
「…………」
依然として沈黙を貫いていた。だけど、布団の中に何やらもじもじしている気配があった。……私の言う通り気になることがあるのに、でも布団から出て私と話すのが嫌で、その二つの思いが葛藤しているようだ。
「はあ。じゃ、もういいわよ。布団の中に入ったままでいいから、聞いて」
私は夏菜のために、呆れ気味にため息をつきつつ折れてやった。改めて、夏菜のそばに座り直す。布団からは、お話を催促しているような雰囲気の沈黙が流れてくる。
私は覚悟を決め、話し始めることにした。
「夏菜、これは大事な話であって、辛い話でもあるわ。だから、覚悟して聞いてね」
夏菜にも覚悟を促す。
「…………ん」
わずかに、夏菜がうなずく声が聞こえた気がする。
その声を合図に、私は話し始める。




