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ひまわり畑に  作者: 山々
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夏菜の記憶

 いつの間にか。いつの間にか、布団は膨らんでいなかった。息遣いも消えていた。布団をめくってみても、誰も、いないのだ。どころか、誰かがそこにいた形跡すらない。さっきまで人が眠っていた布団だというのに、その感触はただただ無慈悲に冷たかった。

「夏菜……!?」

 少し遅れて混乱が始まる。不安が、的中してしまった。ただの杞憂だったはずの思い。だけど、それは予知夢か何かだったのだろうか? 漠然としていた不安は、今や確かな恐怖となって私を襲う。混乱と動揺で視界が揺らいでいく。私の視界にあるのは、めくれた掛け布団と、誰の影もない敷布団。視界の中で布団の情景が揺らいでいる。まるで夢のように。私は目の前にある冷たい布団を信じられなかった。いっそ、夢であったなら、と私は思う。夢なのではないか、と本気で信じかける。

「……あ……」

 しかし私は、その時気付いた。もしかしたら布団にいないだけで、どこか別の部屋にいるのかもしれない、別の部屋に行っているだけなのかもしれない。

 きっとそうだ、きっと、どこか別の場所にいるんだ。この部屋からいなくなっただけなんだ。

 それは、半ば自分に言い聞かせるような言葉だったかもしれない。

「夏菜……どこ……!?」

 私は寝室を飛び出し、家の中を捜し回った。居間、洗面所、風呂場、そして、夏菜の部屋。捜せるところはすべて捜す。

 だけど、夏菜はどこにもいない。

 私は夏菜の部屋で立ち尽くす。

 その時だった。

「え……?」

 私の頭から、唐突に「八月二十二日」の記憶が消えた。

 それは突然のことだった。何の予告もなく、その記憶喪失は訪れた。

 二十二日は、夏菜の命日だ。だけど……夏菜が亡くなったあとのことが、どうしても思い出せない。そこの記憶「だけ」が故意に消されたように抜け落ちている。

 そして……八月二十三日の記憶が抜け落ちる。この日のことは、ほとんど全てを思い出せない。二十二日のことは、夏菜が亡くなるところまでは記憶にあるが、二十三日に至っては丸一日分の記憶が抜けていた。

 この時、私は気付いた。夏菜の誕生日の時と、同じようなことが起きている、と。夏菜との思い出が、抜け落ちているのだ。この記憶喪失は、夏菜が消えてしまった時に、必ず起こる現象。私はこの時理解した。やはり、夏菜が消える時には、夏菜と私の二人の思い出も一緒に消えてしまうのだ。私は、恐ろしくなる。一日として失くしたくない、夏菜との日々。それが、いとも簡単に消え去ろうとしている。今この瞬間に。

 続いて、二十四日、二十五日……と、順番に記憶がなくなっていく。まるで手のひらから砂がこぼれ落ちていくように。やがて私は……今日の記憶さえ、忘却の彼方へ追いやってしまった。

「わたしは……何を……?」

 二十二日からの全ての記憶を忘却した。直近の記憶は、夏菜が亡くなったこと。その時からの記憶は、ほとんどなかった。今家にいることも、時間帯が夜であることも、全くつながらない。私は激しく混乱しながら、頭を振る。

 何かを捜そうとしていたような気がする。とても大事なものを失くして、だから、その大事なものを捜そうとしていた気がする。何もかもが不明瞭な状況で、そんな漠然とした記憶だけが頭の隅に残っていた。ただ、何を捜していたのかは分からない。それも忘れてしまったのだ。ただ、漠然とした「捜さなきゃ」という強迫観念のようなものが、頭の片隅にぼんやり残っているのだ。

「…………」

 あまりにも曖昧な記憶だったが……

 記憶を失った私には、その漠然とした思い以外に、頼るものはなかった。漠然とした思いは衝動へと変わり、やがて私を歩かせることになった。

「…………!」

 私は自分が何を捜しているのかも分からないまま、ゆっくりと歩き出した。どこに向かおうとしているかも分からないけれど、とにかく歩いた。

 夏菜の部屋を出て、廊下を進む。左脇にはいくつものドアが並んでいる。私はその中のドアの一つの前に引き寄せられるようにして向かった。

 その部屋は――寝室だった。

 かつて私と「夏菜」が一緒に寝ていた部屋。

 今はもう、いない。一人ぼっちになってしまった。

 私は訝しげにドアを見つめる。廊下は静寂に包まれている。

 やがて、私はゆっくりと、ドアノブに手を伸ばす。そして、ドアノブを握る。握った手に、汗が流れる。ドアノブを握る手が滑ってしまいそうだ。この先に何があるのか分からない。一体、何があるのだろう。

 その時、一つ思い浮かぶものがあった。

 それは、一人の女の子だった。

 だけど、その女の子はもう何日も前に亡くなった、ということになっている。いるはずがないのだ。

 このドアの向こうは、かつての私たちの寝室だった。本当なら、そこに夏菜が眠っていて、そしてその隣に私もいたはずだった。

 だけど、そんななんでもない、だけど夢のようだった時間は、もう終わったのだ。

 夏菜はいなくなったのだ。

 何故、あの子のことが思い浮かんだのだろう。

「…………」

 不思議な気持ちで、私はドアノブをひねった。

 ドアを開け放つ。

 最初に目に飛び込んできたのは、見慣れた、自分の部屋。

「…………」

 部屋の中を見回しても、人影は一つも見当たらなかった。だから、最初は誰もいないのかと思った。しかし、その時……

「……あ……」

 部屋の中に「それ」を見つけた私は、思わず声を上げた。

 驚きを隠せなかった。心臓の鼓動が徐々に速まっていくのが分かる。

 信じられないことが起きていた。ついさっき、自分に言い聞かせるみたいに否定した私のその「夢」が、そこに存在していた。

 私が見つけたのは、部屋に「二つ」敷いてある布団のうちの、手前の方の布団。

 そこに座っている、ちっちゃな、人影。

「……おかあ、さん?」

 おびえた上目遣いで私を見る。震えた唇が、か細い声で私を呼んだ。

「……夏菜!」

 私は思わず、その女の子の名を呼んだ。制御しきれない思いが、心の中に一気にあふれる。

 私は、ゆっくりと、ためらいながら夏菜に近づいていく。

 迷いと戸惑いの中で一歩ずつ夏菜の元へ歩いていく。

 やがて、夏菜の元にたどり着く。夏菜の目の前に立ち、夏菜と、視線を交わす。私は戸惑いながら、だけど、何だか泣きそうになってしまう気持ちも胸の中にいっぱいあって、わけが分からなくなっていた。

 夏菜はおびえたような瞳でそんな私を見上げる。だけど同時に、何かを求めているかのような感情が見え隠れして――その時だった。

「え……?」

 突然、記憶の奔流が、私に流れ込む。それは……ついさっき失った記憶の数々。幽霊の夏菜との、思い出のすべてだった。夏菜の姿を目にした瞬間――幽霊の夏菜を目にした瞬間、全ての思い出を、私は取り戻し始めた。一つ一つ、八月二十二日から順番に、幽霊の夏菜との思い出を。

「……か、夏菜……」

 私はもう一度だけ、夏菜の名を呼んだ。やがて、記憶を完全に取り戻す。

 そしてそれにより、理解した。

 先ほどまでの自分が、「夏菜との思い出」を忘却してしまっていたということに。

 少し前にも、似たようなことはあった。それは、夏菜の誕生日の夜に起きた。あの時も、部屋の明かりを消したその瞬間、夏菜がいなくなってしまった。そして、しまいには私の記憶から幽霊の夏菜のことが抜け落ちてしまった。そして、この出来事によって、私は考えさせられることになる。「この先夏菜が成仏する時、夏菜とわたしが二人で作った思い出も消えてしまうのではないか」、と。

 いつか夏菜を成仏させるということは私の中では決まったことだ。だけど、成仏させることで夏菜との思い出がなくなってしまうのなら、それほど残酷なことはないと思った。だから、そんな悪い想像は、私が自ら強く否定した。気のせい、ということにした。決して信じなかった。そんな残酷な想像は、今日まで封印してやってきた。そうして、夏菜との日々を過ごしてきた。

 だけど……夏菜が消え、私が幽霊の夏菜のことを忘れるのは今回で二回目だ。少なくとも、もう気のせいでは、済まされない。今この時、夏菜は、一瞬といえども確かに消えていた。そして夏菜が消えている間、私の中から幽霊の夏菜との思い出はなくなっていた。それらは、事実なのだ。その事実だけはもはや否定しようがなくなってしまった。

「……っ!」

 そして、その時私の胸によぎってしまうのは、まぎれもなく、今まで考えないようにしてきた残酷な未来。

 やはり、夏菜との思い出は、なくなってしまうのだろうか、と。

 私は、想像せずにはいられなかった。

 考えずにはいられなかった。そんな可能性を。そんな私たちの行く先を。


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