夏菜が消える
私たちはお風呂を上がり寝間着に着替えると、寝室(私の部屋)で寝る準備をする。二人で協力して、二人分の布団と枕をタンスから取り出し、部屋の床に敷いた。夏菜は早速布団の中に潜り込む。
「あなたは、本当に布団が好きね」
「自堕落な子みたいに言わないでよ」
タオルケット越しのくぐもった夏菜の声が心外そうにそう言った。
「自堕落でしょ」
「違うし」
「そうかなあ」
私も布団に入ることにする。敷布団に横になり、体にタオルケットを掛ける。
今日も色々なことがあった。夏菜と一緒にお風呂に入ったり、夏菜に背中を流してもらったり。
私にとっては、夏菜と過ごすこの夏休みは、夢のような時間だ。いつか確かに二人で過ごしたことがある、優しい時間。その続きが、今私たちの間にあるのだ。夏菜がいなくなったあとには、永遠に失われるはずだった時間。そんな日々を、今私たちは過ごしている。
それは、一度は失いかけた日々。だけど、夏菜が幽霊になったことで、また私たちはこの日々を取り戻した。そしてそれは……夏菜が成仏する時には、また失わなければいけない日々。
そうだ。夏菜が成仏する時には、この淡く脆い夢のような日々は失われる。そして、夏菜の成仏の時は、恐らくもうすぐそこまで来ている。
二人の日常は、もうすぐ終わりを告げるのだ。
「…………」
それでも……私は、夏菜と最後まで一緒にいようと思った。最後まで、幸せな日々を続けようと思った。今度こそ、夏菜が心残りなく成仏できるように。不幸なまま現世から消えることがないように。たとえ、幸せになればなるほど、別れが悲しいものになると分かっていても……それでも、私は、夏菜に幸せになってほしかった。自分の人生に満足してから、成仏してほしかった。
そろそろ眠る時間なので、部屋の電気を消さなければいけない。
私は小さくあくびをしながら、かぶったタオルケットから少しはい出してきて、部屋の電灯のリモコンを手にし、電気を消す。
私たちの部屋に、暗闇が舞い降りる。夏の凛とした夜の静寂が訪れる。静寂ゆえの耳鳴りのような雑音が、ずっと耳の中に小さく響いている。暗くなってしまったからか、隣から、夏菜の気配を感じられなくなった。仰向けに寝ている私の視界には、暗い天井が映るのみ。
「…………」
なんとなく、落ち着かない気分だった。妙に目が冴えて寝付けない。
「夏菜?」
なんとなく夏菜が気になって、話しかけた。
「ん……?」
眠気混じりの声が応える。
私は夏菜に話したいことを探してみる。
……やっぱり、一番話したいことは。
「夏菜は……いつかは、成仏するつもりなの?」
夏菜の思いの核心に踏み込む問いだった。
夏菜の答えは。
「……分かんない」
たった一言、それだけだった。
「分かんないって……何よそれ」
「だって、分かんないんだもん」
夏菜は少しむくれて言った。
「まあ、仕方ないか……」
夏菜だって幽霊になったのは今回が初めてだ。分からないに決まっているだろう。
それに、夏菜は一番最初に、「成仏したくない」ことを私にはっきり打ち明けていた。そして、夏菜はおそらくそれゆえにまた幽霊として現世に戻ってきたのだろう。
「でも、いつかは成仏しなきゃいけないのよ」
厳しいかもしれないが、私は夏菜にそう言った。
「……うん……」
少し落ち込んだような声がそう応えた。
自分で言っておきながら、少し夏菜がかわいそうに思えた。
「いつか成仏する時に、心残りなく成仏できたらいいね」
そんな慰めのような言葉を夏菜に言う。
「成仏する時……」
夏菜が私の言葉を反復する。
「そう。いつになるかは分からないけど」
「うん……」
なんとなく実感がつかめていないような様子の夏菜だった。
「じゃ、寝よっか」
私は話を打ち切るように一言そう言うと、改めて布団に入り寝る態勢になった。
夏菜も今度こそ布団にもぐりこみ寝る準備を済ます。
「おやすみ」
夏菜がそう言うと、
「おやすみなさい」
私はそう返事した。
――夏菜は、今幸せなのか?
夏菜は、現世にまだ未練があって、だから幽霊になってまたここに戻ってきた。
夏菜はこの先、未練を果たせるのだろうか? 生前、幸せになれなかった分まで、幸せになれるのだろうか?
もしも、ずっと未練を果たせないままなら。
夏菜は、現世に未練を持ったままで、成仏することになるかもしれない。
「幸せじゃなかった」と、「不幸だった」と、悲しみの涙を流しながら、この世界から消えてしまう。
そんなことになるのかもしれない。
――それだけは、なんとしても避けたかった。
私は、夏菜が不幸なままで終わる結末だけは見たくなかった。
幸せになるためにまた現世に帰ってきた夏菜が、結局不幸になってしまうなら、この夏休みは意味がないのだ。
この夏休みは、私と夏菜に残った、最後のチャンスなのだ。
私は、どうしても不安になってしまう。
夏菜は幸せに成仏することができるのか。未練なく消えることができるだろうか。
それに、夏菜は、いつ成仏してもおかしくないのだ。それは一ヶ月後かもしれないし、もしかしたら……
今日かもしれない。
理不尽だけど、それが現実なのだ。なすすべもない。私たちはただ運命の流れに身を任せることしかできないのかもしれない。
……そんなことを考えながら起きた朝。
なんだかよく眠れなかった。悩み事が多すぎるのかもしれない。
まぶたは重く頭もぼんやりしている。重い体を何とか持ち上げ布団から起き上がる。
「うっ……」
少し立ちくらみがした。今日は、なんだかやけに調子が悪い。
部屋に差し込む朝日は眩しく、今日も暑い日になる予感がした。
一つ大きな伸びをして、私は立ち上がる。
そして、隣を見た。
そこには夏菜が眠る布団がある。
……私は、さきほど考えていたことを思い出す。
――それに、夏菜は、いつ成仏してもおかしくないのだ。それは一ヶ月後かもしれないし、もしかしたら……
今日かもしれない――
私はまた、唐突に考えた。夏菜が、消えてしまうのではないか、と。
私は、ふとした時、いつも夏菜が消えることを恐れていた。私はいつも、そんな不安を抱きながら日常を過ごしていた。いつものことだからといって、慣れるようなことはない。いつでもこの不安に心をかき乱され、恐怖に怯えていた。そして、それは今もそうだ。
私は夏菜がいることを確認する。布団は膨らんでいるし、わずかな息遣いも聞きとれる。夏菜は確かに隣で寝ている。
そうだ、確かに寝ている。確かに隣で眠っている。夏菜は消えてはいない。
「…………」
なのに。私の不安はむしろ増すばかりだった。それは、漠然とした、形のない不安。正体の分からない不安。胸の中には、まるで予知夢のような恐怖がわだかまっている。何に恐怖しているかも分からないけれど。
私は夏菜が消えていないということを確かめようとして、夏菜に触れようと手を伸ばす。夏菜の体はすぐ近くだった。手を伸ばせば届く距離。
私はその時、あともう少しで夏菜に触れられるところだった。そして、夏菜がいることを確かめて、この根拠もない不安の渦を終わらせようとした。杞憂でしかないのだということを証明しようとした。
だけど……
私が夏菜に触れようとした瞬間、不意に、その漠然とした不安がまた増大していく。増大したそれは、漠然としていながら、胸が張り裂けそうなほどの恐怖だった。
そして。
「……夏菜……?」
私が伸ばしたこの手が夏菜に触れることはなかった。




