0話
「お母さん、それとって」
「はいはい」
八月の半ば、夏の暑さはピークを迎えていた。うだるような暑さの中、ありもしない陽炎さえ幻視してしまいそうな気分だった。
「お母さん、それもお願い」
「はいはい」
真っ白な部屋にいた。真っ白なベッド、真っ白なカーテン、真っ白な壁、真っ白な床。それらあらゆる白が夏の日差しを反射させて、目に眩しかった。だからだろうか、この部屋にいると頭がくらくらしてくる。
「…………」
「…………」
真っ白な部屋に二人きりの私と娘は、たった四言の会話をしたっきりですぐに黙り込んでしまった。
娘の方は、もう何年もここで暮らしている。私は毎日通っているだけで、住み込んではいない。
ここは病院、だった。様々な形の、死、あるいは死を目前にした命が集う場所。文字通り病的なまでに、真っ白な施設。
二人はその病院の中の病室の一つにいた。娘はベッドに横たわっていて、私は脇のいすに座っている。
娘は、重い病気だった。それも、死に至るほどの。もう、治らないことも決まっている。
余命も、あと一ヶ月を切っていた。
「…………」
私は娘になにも言わない。娘も、私に何も話しかけない。
娘は私がとってあげた、ゴリゴリ君とクーリッジュを食べ比べしている。私としゃべる気はないみたいだ。
沈黙が、場を支配していた。
といっても、夏菜の病気が原因でこんなにしゃべらなくなったというわけではない。
元々、私たちはあまり会話をしなかった。娘は人と関わるのが苦手で、私も言葉数が少ないタイプだった。だから、私たちは対話を通して打ち解け合い通じ合うような理想的な親子関係とは、全く無縁だった。
二人は、繋がり合うことなく。通じ合うこともなく。
「……やっぱゴリゴリ君の方が好きかな」
娘が、アホの子みたいだった。一体何をやってるんだろう。
「……あ、そ」
私は素っ気ない風にそう返事する。
だけど。
繋がり合えなかったとしても。
私は娘のことをずっと見つめ続けていた。彼女が生まれてきてからずーっと、私は彼女から目を離したことはなかった。
そしてまた娘も、私に見つめられ続けてきた。彼女が生まれてきてからずーっと、私に見られ続けてきた。
私は、彼女のことが好きだった。彼女のことなら、たいていのことは知っていた。
「……ふふ」
夏菜の馬鹿な呟きに呆れつつも、私は思わず笑ってしまう。
夏菜には笑っていることを気付かれないように、すぐに表情を戻す。
そんな、私たちの何でもない日常は。
夏菜がこの世を去るその日に向けて、動き出す。
夏の終わりが、今始まるのだった。