僕らはいつか花になる
ずっと見てた。あなたが名前をつけてくれた時からずっと。
紙の上を走るペン。お世辞にも綺麗とは言い難い字が、罫線の書かれた紙に紡がれていく。
機械音痴な彼は、パソコンもワープロも使えない。そもそも洗濯機でさえ回せるかどうか怪しい。だから、コンピュータが普及した今でも手書き。でも、それが嬉しかった。その方が彼の体温を、考えを、想いを、直に感じられる気がしたから。
「ああー! だめだ!」
叫んだかと思うと、彼は自分の髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。伸ばしっぱなしで肩まである黒髪は、鳥の巣みたいにぼさぼさになってしまう。
(あーあ、せっかくきれいなのに)
何か特別な手入れをしているわけでもないのに、彼の髪は雨に濡れたように艶々光って綺麗だ。
机に向かう際には決まって、顔の横の髪を取って耳にかける。その仕草を見るのが一番好きだった。
ペンを机の上に置いた彼は、紙を持ち上げる。そして、その紙を容赦なく丸めた。
小さくなった紙は、部屋の隅に置いてあるゴミ箱に向かって投げられる。緩やかな放物線を描いた後、それはゴミ箱の角に当たって外に落ちた。
周りには、そんな風にしてゴミ箱に入り損ねたくしゃくしゃの紙がたくさん転がっていた。
「構成が悪いのか……いや、でも……」
ぶつぶつ言いながら彼は、傍に置いてあるノートをめくる。
無罫線の紙に細々と文字が書かれたそれは、プロットというものらしい。物語の筋道を書いたものだと彼は言っていた。
顎に手を当てながら、真剣な顔でノートを覗き込む。そんな彼を目の端でとらえながら私は、自分の髪を手に取った。
おさげに結った薄い水色の髪は、毛先が腰元でくるんとカールしている。
この髪は、彼が最後の最後まで悩んでいたものだった。
髪のないつるつる頭の私は、黄緑色にするか薄水色にするかで悩んでいる彼を、わくわくしながら見つめていた。
何色になるのかしら、どんな髪型になるのかしら。髪は女の命というもの。期待や楽しみは、ほかの部分に比べて一等大きかった。
ほかの子たちに言われたことがある。
『あなたばっかり愛されてる』
それを聞く度、私はとても嬉しくなった。
どう見ても張りぼてのようなほかの子たちと違って、私はちゃんと命を持っていた。それは、彼に愛されているという何よりもの証だった。
しばらくノートを見ていた彼は、おもむろにペンを取った。そして、紙に一文字一文字丁寧に書き出した。
優里。私の名前が白い紙に書かれる。
人偏がつくりよりも大きな彼の字。人を大切にする彼らしいと思った。
優しい里。みんなにとっての故郷のような、優しく迎え入れてくれる人になってほしい。そう願いを込めてつけられた名前。何よりも大好きな私の名前。
それが書かれる度私は、彼に名前を呼ばれた気がして泣きたくなる。彼の名前すら呼べない自分が恨めしくて。
今日も彼は物語を紡ぎ出す。
それに乗って私は、自分の役目を踊る。たとえそれが、本当の意思とは違っていても。
それから10年が経った。
彼は相変わらず紙に向き合い続けている。寝る時や食事をする時、お風呂に入る時など以外は、ずっと机の前にいる。たまに、資料収集に図書館や本屋さんに出かけたりするぐらい。そのときも、決まって彼はノートを持っている。
茶色い表紙が印象的なノートは、もう70冊目になった。部屋の片隅には、使われなくなったノートが積まれている。その中には、私の物語も入っている。
風が涼しさを帯び始めた今日、彼は珍しくスーツを着ていた。
肩まであった髪はさっぱりと短く切られている。それが、なんだか寂しかった。
携帯電話が明るい音をたてる。二つ折りのそれを開けて、ディスプレイに表示された相手を見て彼は、きゅっと顔を引き締めた。
「は、はい!……はい、今から出ようとしてたところで……」
相手からは見えないのに、直立不動にして話す。そんな彼の姿を見て、私は小さく笑った。もう2年の付き合いにもなるのに、いまだに慣れないみたい。
「なーに、笑ってんの」
声が聞こえて、私は振り返る。そこには、ふわふわのウェーブがかかった栗色の髪を、腰まで伸ばした女の子が立っていた。
勝気そうなアーモンド形の目は、からかうように私を見ている。
「ミウナちゃん……」
「まーた、あいつのこと見てたの? 本当よく飽きないね」
隣にやってきながらミウナちゃんは、やれやれといった風に肩をすくめてみせる。その言葉に私は、照れ笑いを浮かべながら頬を掻いた。
「今日はよろしくね、ミウナちゃん」
「なんだかそう言われると悪い気がしちゃうなー。正妻から旦那を奪ったみたいで」
「正妻なんて……」
「だってそうでしょ? 最初からいるあいつのお気に入りの子だもん。正妻じゃなくてなんなのさ」
心底不思議といったように首を傾げながら、ミウナちゃんは言う。それに私は、何も返せずにただ曖昧に微笑んだ。
いつの間にか通話は終わっていたようで、彼は胸ポケットに携帯電話を入れると革鞄を持った。そして、扉の方へと向かっていく。
「じゃあ、いってくるね。優里さん」
彼の後をついていきながらミウナちゃんは、私に向かってひらひらと手を振る。それに私も小さく手を振り返した。
大きな音をたてて閉まる扉。2人の姿が見えなくなったのを確認した私は、ふっと鼻から息をはいた。
今日、彼はずっと昔からの夢を叶えに行く。今まで行ったことのないようなホテルの豪華な会場で、たくさんの人から拍手を受けるのだ。
壇上ではにかむ彼の顔が、今にも目に浮かぶよう。その照れくさそうな笑い顔を一番傍で見るのが私の夢だった。
窓の傍の机に近寄る。今でも変わらずその上に置かれているノートの背に触れる。
古びて角は丸くなり、表紙はすすけている。だけど、どれだけ汚れようがみすぼらしくなろうが、これは私の宝物だ。
魔術師見習いの怖がりでおどおどした女の子が、仲間を見つけて徐々に成長していって、最後は誰からも尊敬される大魔術師になって、愛する人と結婚するという物語。彼が、一番はじめに書いた物語。
物語の中での私の夢は叶ったけれど、本当の私の夢は、叶ったようで叶わなかった。
けれど、これでいいんだ。これで充分。
私は、単なる踊り子。物語の中で、彼の描き出すストーリーに乗ってくるくる回るだけ。そこに、私の感情も何もあってはいけない。ほんの少しの胸の痛みには気がつかないふりをするのが一番だ。
「優里……」
もう滅多に呼ばれることも、書かれることもなくなった名前を口に出してみる。それは、ハッカ飴のように舌の上で転がった。
きっとこれからも私は、彼を見つづけていくのだろう。花を咲かせ始めている彼を。
そして、心の隅にありつづける想いを大事に大事に温めつづけていくんだ。花開いてしまったら最後、もう種にはもどせないから。