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相楽山椒短編集

やさしさ

作者: 相楽山椒

 今夜も十一時をまわって、やっと帰途に着く事が出来た。真冬のこの時期の工場は相当冷え込む、早く家に帰って暖かい風呂に飛び込みたい一心で、片付けも程ほどにして通勤用のバイクにまたがった。 


 自動車整備工をしている俺は連日の仕事に追われていた。


 先日、唯一であった部下が辞めて出てゆき、俺は一人になった。


 呑みに行った先でひと悶着あったのだ。


「前から思っていたんですけどね、どうして僕には何も言わないんです? 指示もしなければ注意もしないじゃないですか」程よく酔っていたせいもあるだろう。二十五歳の彼は普段から饒舌ではあったし、主張も理路整然としっかりしていた。物事をはっきり言うところなどは俺から見てもプラス面に思えていた。ところがこれが自分に対して矛先が向けられると話が別だ。


「――何もって、伝えるべきことは伝えているが?」年長者なりに彼の勢いに巻かれまいと、努めて冷静を装ったが、言葉は重く、おそらくは表情にもその不機嫌さが出ただろう。


「全然伝わっていませんよ! それとも僕が知っていると仕事上まずいことでもあるんですか?」彼の勢いは止まらない。


 俺はため息をつく。今日が初めてじゃない、こんなやり取りは何度かあった。そのたびに話し合い、妥協点を見出してきたつもりだ。


「僕は同じ職場で働いている者なのだから、仕事に関係することは全て知る義務がある」という。だから、あなたは報告する義務がある、と。


「わりぃ、忘れてた」


「またそれですか!」


 正直なところ、意図して伝えていないことはあった。彼がこの世界に入ったのは一年前ほどのことだ。自動車整備の世界で働いてゆくにあたり、理想も希望もあっただろう。それと同じ量だけ不安も不満もあっただろう。


 だが、雇われている身としては、それらの半分以上をすでにある環境、つまり店や上司である俺に委ねるしかない。なぜなら彼は半人前だからだ。一人前の主義主張を口走るのは結構だが、綺麗ごとで社会は回らない。世界には世界の、業界には業界のリズムがある。いくら正しいことを言っていてもその通りにゆかないのが常である。


 もしもこの業界で自分の思い通りにしたいのなら、それには技術という力と、金という権力が必要になる。技術があれば段取り良く仕事をこなして金は手に入る。金があれば仕事を外注任せにして質の高い仕事もできよう。


 だが今の俺たちの体制ではそこまでのことはできない。

 今のような俺一人の状態は、いうなれば一気筒のエンジンを全開で回し続けて、なんとか人一人を乗せて走ることができる程度だ。半人前の人間を雇うということは、そこに一気筒にも満たない圧縮漏れを起こしているような、未完成の気筒をおまけにつけるのだ。彼と俺とが並列二気筒のエンジンを構成できるようになるまでには今しばらくかかる。


 点火タイミングは俺が握らねばならないし、アクセル開度もクラッチミートのタイミングも俺が制御しなければいけない。社長一名、社員一名などという個人商店の経営はそのようなものだ。古い言い方をすれば、師匠と弟子と言ってもよいだろう。


 基本的に部下がイニシアティブをとるようなことはありえないのだ。だから、今は知らなくてもいいことはこちらの判断で教えない。知るべき時が来れば教える。それまでは洗車でもしていろ、洗う車がなければ床でも掃いていろ、言われたことは確実にこなせ、人から気に入られるようにふるまえ。それが半人前のこなすべき最低限の仕事であり責任である。


「じゃあ、お前が俺の代わりをできるのか?」いつしか互いに声を荒げていた。


「そんなことは言っていません、ただ知らない事があると僕が恥をかくんです!」


 彼の巧みな言葉は、俺の不備をあげつらうことにのみ執心している。


 他人に攻撃的な言葉を浴びせるタイプの言動をする者は、特に頭の回る人間に多い。攻撃的な主張によりイニシアティブを簒奪さんだつし、自身への攻撃を事前に回避する、自己防衛本能が強い。喧嘩などでまず殴りかかってくるのと同じで、思考的マッチョであり、はなから話し合いをするつもりなどない。


 自分が悪いときであっても相手を攻撃することで、責任の低減を図るというずる賢さと図々しさを併せ持つ。


 俺は彼のこの癖を見抜いてから、面倒になった。


 だから極力必要なことしか言わなくなった。それでより負のスパイラルが膨れ上がったことは認めよう。正直なところ、失敗した、と感じていた。こちらがもっと最初から強く出ていればよかったのかもしれない。力で押さえつけるべきだったのかもしれない。


 周囲の者は俺のことを「優しすぎる」という。だがそれは断じて違う。「冷たすぎる」のだ。俺は彼に対して怒るという愛情をも見せなかったのだ。それは俺の怠慢である。


 酔っていたせいもある。限界だったかもしれない。


「じゃあ辞めますよ! 僕はいなくてもいいんでしょ!」


 彼のその言葉を聞いたとき、肩の荷が下りた。ラッキーだとも思った。


「ああ、辞めちまえ!」だ。


 次の日、彼から俺宛に退職届が提出された。




 

 職場から家まではそう遠くない距離にある。国道を一本道で走るだけだ。おまけに交通量も少ないので二十分もすれば帰る事ができる。あと五百メートルも走れば家に着く距離だった。


 そこに国道の反対車線で右折レーンに入りながら停車しているメルセデスベンツが一台いた。最初は単純な右折待ちの車かと思ったが、ハザードをたいていた。いわゆる非常点滅灯、緊急の非常事態に、車なら故障とか事故とかそう言ったシーンで使用すべき装備だ。周囲に車も人もいない、つまり故障ということになるだろうか。


 職業柄直感的に欧州車にありがちな電装系トラブルだと感じた。だが、俺は素通りした。仕方がない、後続車もあったし反対車線だし、心のうち三割くらいは、早く帰りたいし面倒なので見て見ぬフリをしようと思った。


 そのときどう考えただろうか。「俺は人でなしだ」と思っただろうか。「これも仕事」と思っただろうか。「自分が行かなくても他の誰かが助けるさ」と思っただろうか。

次の信号で俺は右折した。


 入り込んだ車道上でUターンしながら、少しでも迷った自分を恥じた。


 車はセダンの中でも車格のあるメルセデスベンツだ。重量も二トンを超えているはずだし、エンジンが停止してパワーステアリングが利かない状態では、素人の大人一人の力で押して車線の端には絶対寄せられない。


 俺が現場に戻ったところ、ちょうど自転車で通りがかった青年が歩道から車に向かって声をかけているところだった。彼も人並みの義侠心をもって、停車している車を助けようと駆けつけたのだ。


 俺は右折車線に止まっているベンツの後ろにバイクをつけて、信号が赤になるのを待って下車し、運転手に声をかける。


「エンジンが突然止まってしまって……」運転手はすっかり動転している。四十代中ぐらいの男性で、後部座席には小学校低学年くらいの男の子が二人座っていた。


「次、信号が赤になったら後ろから押しますから、あっちの道路わきのバス停に寄せてください。ハンドル重いからしっかり握って回してくださいね!」


 俺は大学生くらいの青年と互いに目配せをすると、後部のトランクに両手をかけ、膝の力を使って車体を押し出す。二人で押してこの重さだ。動力の切れた車というのはつくづく鉄の塊だと実感する。


 決して交通量の多い時間帯ではないが、出来るだけ信号が赤の間に押して道路わきに移動しなければ、押しているこっちの身も危ない。


 高速道路などで停車するのは非常に危険で、たとえハザードを焚いていたとしても、追突の事故はかなり多い。それは車が道の真ん中で止まっているなどということが、かなり非常識な状態であるためで、一般ドライバーからすれば想定外な状況だからだ。


 なので、もしも道路上で止まっても、押して脇に移動しようなどと考えてはいけないし、車内に残って救援を待つのも本来はNGだ。無責任と思われるかもしれないが、ドライバーは車から速やかに降りて、車道から離れ、安全な場所でレッカーサービスなどに連絡を取り、救援を待つというのが正しい行動とされている。


 今回の俺たちの行動は褒められた方法ではないが、幸い信号付近であったことと、すぐ横がバス停の退避スペースであったことが、押して移動する、という判断をさせた。


 俺とその青年は、中年の運転手に操作を任せて、何とか信号が変わるまでに左端のバス停まで押して車を移動させた。


 運転手の男性は華奢で、気のよさそうな控えめな男性だ。身なりの上品さなどからしてもしかして医師か何かと思った。


 しきりに“すみません、すみません”と謝意を述べられた。


 俺はこれを言われるのはどうも苦手なのだ。当然のことをしたまでなのだから、それにあなたが悪いわけじゃないんだから謝らなくてもいいんですよ、と理屈をこねたくなる。


 俺の油で汚れた作業着のなりを見て、一目で機械整備に携わる者だとは理解してもらえたようで、一緒に車を押してくれた大学生風の青年も心配そうに見ている。


 無駄とは思いつつ、ボンネットを開けて簡単にチェックしてみる。


 バッテリーは古い、リブベルトが緩い。つまり、あまり普段から点検もしていないだろう事が推測される。運転手の男性から聞いた次第から、発電機の故障からバッテリーあがりというのが一番自然な推理だった。


 その場にテスターも、当然予備のバッテリーも無かったので断定はできなかったが、十数年おちのE300、あり得る話だろう。定石通りレッカーを呼ぶのが一番良いだろうということになった。


 こんな時間なので、そのまま俺の修理工場に搬送することも提案したが、男性の意向では、後日地元のディーラーに修理に入れたいとのことだ。別にそれに対して悪い気がしたわけではない。男性の住まいはここからは遠方で、しかも深夜で子供も乗せている。そのような状況を踏まえると当然ともいえた。


 レッカーが到着するにはまだ三十分はかかるということだった。


 予想外の事態に男性は動転しており、レッカーの手配まで終始俺が段取りをしなければならなかったが、それより道具を持たない技術屋の無力さにため息が出る思いだった。


 だから俺なりに少しでもこの場を和ませようと思って、何も出来ずに申し訳ない気持半分、車屋としての立場半分で、車にまつわるトラブルの、笑える小話をいくつかした。この場この状況で手ぶらの俺ができることといえばその程度のことだった。


 後ろのほうでキャッキャと笑う声が聞こえたので振り返ると、青年が身をかがめて小さな男の子二人を相手に、歩道の端の安全な所でなにやら楽しげな手遊びをしていた。


 俺の目には、この車のオーナーである父親しか映っていなかった。


 その青年は車のことはわからなかったが、子供が退屈しているだろうと考えたのだろう。優しい青年だと思った。深夜のこの緊急事態の中、笑顔で無邪気に子供たちが遊ぶその姿に、何より安堵を感じた。


 回転灯をともしたレッカーが到着して、搬送準備が終わるまで見届けた。


 別れ際、子供たちが俺と青年に手を振って「ばいばい」と満面の笑みを浮かべていた。父親の男性も深々と頭を下げてレッカーの車に乗り込んでいった。真冬の澄み切った空の下、俺は腰に手を当てまるで何かを成し遂げたかのようなさわやかな気分で、彼らを見送った。おそらくは青年も俺と同じ気持ちだっただろうとは思う。


 メルセデスがレッカー車に引かれて、先の信号を超えてゆくのを見届けて、青年と顔を見合わせた。


「じゃあ、いきましょうか」どちらからもなく微笑んで、名も知らない青年とその場で別れた。


 時計の針は十二時をゆうにまわっていた。今日はすこし帰りが遅くなった。


 俺はけして優しすぎる訳じゃない。


 家までの五百メートルを走る間に、自然と口笛を吹いていた。


 それがすべて、向かう風に吹き消されたとしても、構わなかった。

 



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