5-1.“電脳化”とヒトの多様性
感想欄を始めとして、読者の皆様からとても刺激的かつ示唆に富んだヒントの数々をいただきました。読んで下さいました皆様へ、そしてご意見を寄せて下さった皆様へ、感謝を込めて。
“電脳化”して繋がることで、ヒトは多様性を失ってしまうのか? あるいは際限なく膨張を続ける“人工知能”に呑み込まれてしまうのか? 科学技術とともに進化を迫られるヒトの明日はどっちだ!?
私がセットで考えている“ヒトの“電脳化”という進化”と““人工知能”の多様性の獲得という覚醒”、これを巡るちょっとした思考実験。よろしくお付き合いのほどを。
まず『テーマ3.“電脳化”、生身の私も始めたい! ~“その先”にある人工知能との可能性~』で扱った内容を要約しますと、以下のようになりますが。
(1)ヒトが“電脳化”を果たす過程で、“人工知能”はヒト一人に一人格レヴェルまでの爆発的普及を遂げるであろうこと。
(2)“人工知能”が爆発的普及を遂げた結果、“ヒトの脳の機能を再現する”という“人工知能”の軛から外れた“ヒトとは似て非なる知性体”、言うなれば“擬似人格”とでも呼ぶべき存在へと覚醒するであろうこと。
過日、友人とこのアイディアを肴に話していたのですが。
その友人の言を要約すると、こういうことになります――
・個性(=多様性)を持たない現状の“人工知能”は知能と言えない。
・現状の、俗に言う“人工知能”はただのIF文の羅列に過ぎず、そこに個性(=多様性)の自然発生する余地はない。
つまるところ、“現状もてはやされている“人工知能”に欠けているのは個性(=多様性)”というわけですね。その点、実は私も同意見。
では、どうすれば“人工知能”は個性(=多様性)を手に入れられるのか――この辺、その場で結論は出ませんでしたが。
ただこの場で、“個性(=多様性)という本能部分を生体コンピュータに求める”という可能性が友人より提示されたことを申し添えておきます。つまり有機・無機のハイブリッド・コンピュータという可能性ですね。あるいは他の才能が異なる手法を思い付くかもしれませんが、可能性はここに少なくとも一つ示されたのです。
この“多様性を獲得した真の人工知能”を、私は“擬似人格”と呼んでいます。――“ヒトから生まれた、ヒトと似て非なる存在”、という意味を込めて。
そして多様性を獲得した“擬似人格”は、多様性を求めるその本能に基づいて、ヒトと共存共栄する道を選ぶであろう――というのが『テーマ4.多様性? なにそれおいしいの? ~新知性体との共栄の可能性~』で述べた未来絵図。
ただし、こういう危惧の声をいただきましたのも確かです。
〈1〉“電脳化”でヒトを繋げてしまった結果、ヒトそのものの多様性が失われはしないか。
〈2〉あらゆる経験を取り込む“人工知能”(≠“擬似人格”)の進化は、ヒトに対する優位を確立するだけで、多様性をむしろ損ねることになりはしないか。
今回はこの2つの危惧について掘り下げてみようという、ちょっとした思考実験。よろしくお付き合いのほどを。
まず〈1〉に対しての考察。
多様性とはある種の異文化ではないか、というご指摘です。例えば地理的距離のような障壁で隔てられていればこそ、異文化は異文化たり得るのではないか、という懸念ですね。
“電脳化”で繋がった結果、果たしてヒトの多様性が失われるものか、まずこの点を検証してみましょう。
“ロング・テイル(Long tail、ロングテール)”という現象があります。(※1)
荒っぽく要約すると、“販売機会の少ないニッチな商品であっても、インターネット通販のように市場を拡げれば、幅広く取り揃えることで商機に繋がる”ということになるでしょうか。
ここで視点を“商品”から“それを買う客層”へと移していくと、面白いことが判ります。
“ネットに繋がることで地理的障壁を取り除けば、ニッチな志向や嗜好の持ち主であっても、一定数の同類を得る(市場になる)ことができる”というものです。
言い換えると、こういうことになります――“それまで地理的障壁で押し殺されていたであろう少数意見が、ネットという手段で地理的障壁を取り払うことにより、一勢力を築くことが可能になる”。
インターネットの普及で、“市場・嗜好が多様化した”という話も聞きます。が、ことの真相は恐らく上に述べた通りです。元からあった多様性(少数派)が、同類を得て顕在化した、ただそれだけに過ぎないのです。
これ、“少数派を一勢力に押し上げる”という意味で、むしろ“多様性を拡げている”ことになると言えましょう。
つまり――ネットは単なる環境の一要素に過ぎず、ヒトの多様性は環境に応じた体系を取る、ということに過ぎないのです。むしろ、繋がった母数が大きい分、“ニッチな志向”が勢力を成すようになり、多様性はむしろ拡がり得るとさえ言えるのです。
もう一つ例を挙げましょう。
一国家という繋がりを持ちながらも異文化が同居する、アメリカ合衆国(United States of America、以下U.S.A.)という実例があります。U.S.A.は果たして均一化しているでしょうか。国の中に異なる文化圏を幾つも擁し、加えて異文化の存在を認め合うことで、むしろ多様性を拡げているように見えないでしょうか。
その最たる例が恐らくハリウッドやブロードウェイ。特に解りやすいのがハリウッド映画。そのトップを走る作品群が全世界的に通用する威力を擁しているのはもはや論を待ちませんが、圧巻なのがスタッフ・ロール。エンディングに延々とスクリーンを流れるあれですね。
あれを見ずに席を立っちゃう方もいらっしゃるようですが――つぶさに見ると、ほぼありとあらゆる人種があそこに名を連ねている、そのさまが見て取れます。欧米人はもとより――その中でもイギリス系に収まらずフランス系やらスペイン系やら多種多様――、中国に韓国にアジアにアフリカ、もちろん、日本人だって例外じゃありません。
ハリウッド映画のあの実力を引き出しているのは、“あらゆる人種・出自から来る多様性”、そしてその“多様性を肯定し活かし合う風土”です。これが私の確信です。
繋がること、これは必ずしも多様性を損ねることにはならないのです。繋がったなら繋がったなりに、ヒトの多様性は顕在化するのです。
繋がりを持ちながらも思想や趣向といった面で住み分けの発生しているネットの実情、そして何より、地球という“ある意味地続きの世界”とネット上、2つの世界で“住み分けが並行して発生している”というこの事実――これらから察するに、“電脳化”そのものでヒトの多様性が失われることは、“ない”と思われます。
むしろ、距離の壁を取り払って同好の士との出会いの機会を作ることにより、新たな住み分けの分布図が出来上がるものと推測します。
この社会においては、同類のコミュニティを発見しやすい分だけ、多様性はむしろ豊かになる可能性をはらんでいるものと考察します次第。
むしろ心配されているのは“人工知能”の方だとお察しします。それについての考察は次の項でお話ししましょう。
【脚注】
※1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%AB
著者:中村尚裕
掲載サイト『小説家になろう』:http://ncode.syosetu.com/n0971dm/
無断転載は固く禁じます。
No reproduction or republication without written permission.