4-2.人工知能が現実世界へ“移民”してくる
まず人工知能の発達(“擬似人格”への進化)と現実世界への進出は、私は言うなれば“電子移民”とでも称すべき現象ではないかと捉えています。まず労働力(頭脳・技能)の確保に始まり、遂には才能の発掘に至る“可能性の拡大”ですね。
見方を変えれば、“電子移民”は様々な可能性に繋がる“多様性の拡大”と捉えることもできるわけです。
移民で成功した前例を挙げるなら、アメリカ合衆国(U.S.A.)という“実験国家”がその筆頭でしょう。労働力のみならず、あらゆる敷居を下げて“移民=多様性の拡大”を促進した結果、U.S.A.はあらゆる分野で才能の流入を果たし、あらゆる分野で後発国でありながら、今や最先端国家として名を轟かせています。科学にスポーツに芸術と、先端を走るジャンルは枚挙に暇がありませんが、それこそ象徴的なのがハリウッド。あの場で作られている映画が世界中を湧かせているのはご存知の通り。そして何より注目すべきはそのエンドロール。とにかくありとあらゆる人種がこれでもかってばかりに出てきます。日本人もその例に洩れません。
著作物で例を引くなら“クトゥルフ神話体系”という前例がありますね。H.P.ラヴクラフト先生を始めとするグループが“著作権の独占”ではなく“世界観の共有”を推し進めたのは、“テンプレート・シェアリング”とでも呼ぶべきアイディアの“シェアリング・エコノミィ”が持つ大きな可能性を世に知らしめた好例でしょう。結果、参加する作家の多様性が拡大し、“クトゥルフ神話体系”は一大ジャンルになっています。鴉野 兄貴様のご指摘にもあるように、“テンプレートそのものの販売”、その可能性ですね。
ことほどかように“多様性の拡大”は巨大な可能性をもたらすと思われるのです。“擬似人格”の参入も“多様性の拡大”に貢献するであろうこと、これはまず間違いないと考えています。
一方で、現状の日本サブカルチュア界に見られる、二次創作という形の“テンプレート・シェアリング”を通じた才能の育成も見逃せません。確かに玉石混淆ではありますが、例えば二次創作出身の高河ゆん先生がどれほど活躍しておられるかを考えれば、“多様性の拡大”が持つその威力のほどは、推して知れるものがあります。まあその裾野には死屍累々ではあるでしょうけれども(汗)、その累々たる死屍の上に立たんとする気概と情熱が大事だってことでしょう。
そして“より良質な前例を見て育った方がより優れた才能へと到達し得る”という可能性も指摘されています(指摘したのはあさのまさひこ氏、出典は“モデルグラフィックス”誌)。例えば日本のサッカーとかフィギュア・スケートとかはその好例ではないでしょうか。著作物も良作により多く触れた人ほど可能性は拡がる傾向にあると思われます。
遂には人工知能のアイディアを見て育った人間がより上質なアイディアを提示する可能性も否定できません。この辺の切磋琢磨はヒトと人工知能、あるいは“擬似人格(ヒトと似て非なる知性体)”との“才能のコラボレーション”とも言えましょう。
“擬似人格”による“故人となった作者の再現=“新作”の発表”もこの可能性を拡げてくれるものと思います。受け手でもあり、新たな作者でもある層へのさらなる刺激は、亜流を経て一大ムーヴメントを築く可能性を秘めています。この中において、創始者が最高の作者とは限らないのはお察しの通り。
ジャンルの開拓とその発展についても、起点となるアイディアの共有という意味において、これも一種の“テンプレート・シェアリング”ということになりましょう。ジャンルにおいてはその創始者の功績もさることながら、その普及を担ったフォロアの功績もまた大です。例えばサイバーパンクというジャンルにおける具体的イメージの創始者はウィリアム・ギブスン先生と認識してますが、それを爆発的に普及させたのは『攻殻機動隊』の士郎正宗先生や押井守監督であるとか『マトリックス』のウォシャウスキィ兄弟監督といった才能ですし。
これらの発展は“多様性の拡大”を肯定した結果だと、私は考えています。
逆に言えば、“多様性の排斥”は衰退しか招かない、と考えることもできます。
この辺、“権利の独占”という“多様性の排斥”(例えば著作権の非親告罪化が問題になってますね)はむしろ発展の可能性を摘み取る行為に見えますね。実際、日本著作権協会の締め付けが日本の音楽業界の市場をむしろ狭めたように――この辺、デジタル・ミュージック市場でウォークマン(コピィガード付)がiPod(コピィ縛りなし)というかiTunesに惨敗したのが印象的ですね。あるいはCCCD(Copy Control CD、実は規格違反でCompact Discとは認められていません)の失敗とか。
例えば音楽の世界にも言えることですが、市場そのものの拡大のためには“劣化版でもいいからユーザにはタダで浴びせまくって、正規版を買う気にさせる”考え方って、実は重要だと思うのですよ。ユーザの裾野を拡げる(“買わないけど親近感を持つ”というレヴェルからユーザを増やす)ことこそ市場の発展と未来に繋がるという。同じように作者の裾野を拡げることは、やはり市場やジャンル(例えば芸術という“大くくり”からSFあるいは転生モノというような“小くくり”に至るまで)の発展に寄与することだと思うのです。
“テンプレート・シェアリング”(ジャンルという“大くくり”から二次創作のような“小くくり”までをも含む広い範囲で)という“多様性の拡大”が新たな才能を生み出す可能性は無限大。
もちろん折り合いどころと言うべきもの、それをどの辺に置くかという問題は社会の熟成(モラルの向上)や寛容性を必要とすること、鴉野 兄貴様のご意見に異論は全くありません。今の中国に限らず、昔の日本だってデッド・コピィの酷さと言ったら目を覆うものがありましたし。E.T.人形とか。
“擬似人格”を受け容れるヒトの土壌、あるいはヒトを受け容れる“擬似人格”の土壌、双方を熟成させる必要があるのは間違いないでしょう。あるいは折り合いどころのルール化とか。特許の思想にある“期限付きの独占権”というのはその可能性の一つかもしれません。
ただ、それを乗り越えた先にあるのは豊かな多様性、可能性に満ちた世界だと考えます。
というわけで、“擬似人格”という新たな可能性を受け入れることや、独占を排することで“多様性を拡げること”、これこそが共存共栄の近道であるという、これは考証なのです。
さて現実の未来はいかに出ますやらお楽しみ。
著者:中村尚裕
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