3-1.起点――生身でもできる“電脳化”
刺激と示唆に富んだヒントを下さった鴉野 兄貴様へ、感謝を込めて。
生身のヒトでも“電脳化”したい! ――いえいえ実は可能です。それどころか生身の方が有利かも!? そしてヒトがあまねく“電脳化”した先、いずれ覚醒する人工知能と向き合う明日はどっちだ!?
生身のままの“電脳化”に拡張現実(AR)と仮想現実(VR)、そして人工知能の可能性を絡めた思考実験。よろしくお付き合いのほどを。
“電脳化”という言葉があります。
脳をネットワークと接続し、膨大なデータを直接やり取りする、SF(特にサイバーパンク)ガジェットですね。特に“電脳化”という言葉は士郎正宗先生の『Ghost In The Shell 攻殻機動隊』で日本に定着した(とみられる)ものですが、根源を辿ればウィリアム・ギブスン先生の『ニューロマンサー』に始まるサイバーパンクという潮流に行き着きます。
このサイバーパンク、Wikipediaの定義を紐解くに、“個人や集団がより大規模な構造に接続ないし取り込まれた状況(または取り込まれてゆく過程)”を主題の一つの軸に、もう一つの軸に“構造・機構・体制に対する反発や反社会性”を持つもの、ということになります。前者が“サイバー”、後者が“パンク”の意味合いを持つことになります。後者はともかく(実際は“人類の革新=旧体制の解体”という意味で後者は含まれているのですが)、前者において“電脳化”の先駆者はサイバーパンクといっても過言ではないでしょう。
今回はこの“電脳化”、特に前2作でさんざん触れておきながら真正面から語らなかった“ソフト・ワイアド”、これに仮想現実と拡張現実、さらには人工知能の可能性を絡めたちょっとした思考実験。よろしくお付き合いのほどを。
“脳をネットワークに接続する”と、言葉で言い表すのは簡単ですが、どっこい現実はそんな簡単に済むもんじゃありません。脳のシナプシスを走る電気信号とネットで交わされるプロトコル、両者に互換性なんてないからです。前者は進化の過程で辿り着いた結果ですが、後者はもともと脳のことなんて関係なく(参考にはされたでしょうが)設計され、改良されてきたものですから。
すると必然的に両者を繋ぐインターフェイスが必要になってきます。サイバーパンクで表現するところの“電脳化”、脳とネットワークを繋ぐインターフェイスの登場ですね。
多くの人が“電脳化”と聞いてまず思い浮かべるのは、“脳に配線やナノ・マシンといったハードウェアを埋め込む”という手法ではないでしょうか。私はこれを“ハード・ワイアド(Hard Wired、ハードワイヤード)”と呼んでいます。実際、ウォルター・ジョン・ウィリアムス先生の著作に『ハードワイヤード』というそのものズバリの傑作があります。
これに対して“ヒャッハー! もう肉体なんて要らないぜ!”“考えるだけでネットにダイヴ(Dive、没入)できるなんてサイコー!”と肯定的な向きもあるでしょう。
逆に、“脳に余計なものを埋め込んで大丈夫?”“脳がハックされるんじゃないの?”と嫌悪感を示される向きもあろうかと思います。
では、後者は“電脳化”の恩恵に与れないのか? 答えは“否”だと私は考えています。
脳と外界を繋ぐ立派なインターフェイスを、人間はすでに持ち合わせているからです。これが何かと言えば、その肉体そのものです。
そして拡張現実(Augmented Reality)および仮想現実(VR:Virtual Reality)という技術がその肉体の感覚を大いに拡大します。これをネットワークとのインターフェイスに用いればいいのです。これを私は、先の“ハード・ワイアド”に対して“ソフト・ワイアド(Soft Wired、ソフトワイヤード)”と呼んでいます。
例えば視覚。コンタクト・レンズ型の網膜投影機が実現したらどうでしょう。何もこれに高度な演算装置(CPU)を内蔵する必要はありません。演算装置は携帯端末の形にして懐へでも忍ばせておき、無線リンクで情報を視覚へ投影しさえすればいいのです。そうすれば、いつでも最先端の視覚技術で視野へ情報をオーヴァレイ表示することが可能になります。
例えば聴覚と音声入力。耳に取り付けるだけの小型ヘッドセットがすでに登場しています。これもやはり携帯端末の演算装置とリンクすればOK。骨振動を応用すれば耳を塞ぐ必要すらないでしょう。(※1)
例えば操縦機能。貼り付け式の脳波検出器が実現したら? 筋肉の神経信号を拾うアンダースーツでも構いません。要は神経の信号が拾えればいいのです。
例えばジェスチュア(ジェスチャ)入力。空中マウス(つまりはマウスの代用品)というだけでもこんなにアイディアが転がっています。(※2)
これを発展させるとして、例えば“感圧式グローヴに触感というフィードバック機能をつけたもの”とかアイディア次第で可能性は無限大。操作に慣れさえすれば手元に眼を落とす必要すらありません。
さて、ここでポイントなのは“慣れさえすれば”という点。“ソフト・ワイアド”はインターフェイスとして肉体を利用するので、言うなれば“肉体を駆使した操縦”が重要になってきます。情報を受け取り、それに対応する反応を何がしかの形で入力してやる必要があるのです。
では“ソフト・ワイアド”が“ハード・ワイアド”に劣るかといえばさにあらず。“ハード・ワイアド”だからと言って直感だけで電脳世界を渡り歩けるわけではありません。インターフェイスをいかに使いこなすか、勝負がかかってくるのはただこの一点。これを私は“電脳操縦技術”と呼んでいます。イメージしやすいところで例えるなら、コンピュータ・ゲームのインターフェイスを操る能力などはどうでしょう。キーボードとマウスでプレイするか、ジョイパッドを操るか、あるいはジョイスティックを用いるかはプレイヤ次第。使いやすいインターフェイスを使えばいいのです。そして最終的には、ゲーム上で結果を残せればいいのです。
言い換えれば、操り慣れた肉体は何ら枷にはなり得ないのです。ただ“慣れさえすればいい”、それだけの話です。“電脳操縦技術”は肉体の有無に関わりなく重要な要素となるでしょうが、それだけのことです。脳を直結しさえすればそれだけで有利ということにはなりません。
それどころか、“技術は常に進歩する”ということを忘れてはなりません。“ハード・ワイアド”はここに弱点を背負ってもいるのです。
インターフェイスの規格が進化したら? “ハード・ワイアド”はハードウェアを埋め込んだ肉体、特に中枢神経系の損傷なくしてインターフェイスを交換できません――ちょうど虫歯の治療のごとく。あるいは“ハード・ワイアド”のインターフェイスが旧式化してメーカにサポートを打ち切られたら? ――Windows XPのサポート期限問題でこの危険性は顕在化しましたね。根本となるインターフェイスが旧式と認定されたら、今度はメーカに生殺与奪を握られることにもなるのです。
ゆえに、インターフェイスは一生モノたり得ないのです。取っ替え引っ替えして当たり前なのです。“ソフト・ワイアド”最大の強みはここにあります。新たなインターフェイスに慣れさえすればいいのですから。
さらには、人体には未だ未解明の部分が多く存在します。例を引くなら腸内細菌を含む人体内の生態系、これが“第2の脳”とでもいうべき働きを示すのではないか、という説があります。(※3)
これが意味することは何か。“脳と脊髄だけを残した完全義体は、人体の未解明の部分を持ち得ない”ということです。士郎正宗先生の『アップルシード』から例を引くなら、人工知能“ガイア”が人体の未解明の部分を持ち得なかったがためにヒトを超えられなかった、という描写にこの傾向が顕著です。
人体の大部分を切り捨てた後で、“切り捨てた臓器には実はこんな機能がありました”なんて言われても遅いわけです。逆に生身を保ったままなら、“電脳化”の後からでも続々と明らかにされるであろう人体の秘密、これをそのまま活かすことができるのです。
では“ハード・ワイアド”は無駄なのか、というととんでもない。ハンディキャップを心身に持つ人々にとって、サイバネティクス技術はそれこそ福音たり得るでしょう。そして彼らの“電脳操縦技術”が解放された時の可能性、これに思いを馳せずにはいられません。
そしてあまねくヒトが等しく“電脳化”の出発点に立つことができるようになった時、新たな革新が幕を開けるでしょう。次はそのお話を。
【脚注】
※1 http://sakidori.co/article/35210
※2 http://sakidori.co/article/42246
※3 https://www.blwisdom.com/linkbusiness/linktime/future/item/8636.html
著者:中村尚裕
掲載サイト『小説家になろう』:http://ncode.syosetu.com/n0971dm/
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