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【SFエッセイ】連載版 完全義体とパワード・スーツ、どっちが強い? ~科学とヒトの可能性~  作者: 中村尚裕
テーマ20.“顔”が意味を失う世界 ~容姿の自由化、その向こうにある可能性~
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20-1.アヴァター――“顔”の意味を覆すもの

 拡張現実(AR)と仮想現実(VR)の浸透した世界、ヒトがあまねくアヴァターをまとえるようになったなら――容姿の悩みは吹っ飛びます。そしてその先に拓ける可能性とは――? 容姿の束縛から解き放たれた世界の明日はどっちだ!?

 『テーマ11.今日まとうのはどのアヴァター? ~“電脳化”がもたらす容姿の可能性~』では“電脳化”がもたらす、アヴァターを用いた“容姿の自由化”についてお話ししました。

 これは同時に、これまで個人認証手段の主役であった“顔”が、主役の座から転がり落ちることを意味します。


 というわけで今回は“顔”が通用しなくなった世界に考察を巡らせる、ちょっとした思考実験。よろしくお付き合いのほどを。 


 現状、まずもってヒトは持って生まれた“顔”を選ぶことはできません。これは外観の自由を束縛する代わり、社会的な個人認証手段としての意味を“顔”に与えることにもなっていました。

 そこを逆手に取った作品が存在します。ジョン・ウー監督の『フェイス/オフ』(※1)は、顔を整形手術で入れ替えた捜査官とテロリストの行動を描くアクション作品です。捜査官がテロリスト、テロリストが捜査官の“顔”を手に入れてしまう混乱を描いた作品、と言ってもいいかもしれません(惜しいことに私は未見ですが)。2人の“顔”が入れ替わるだけでこの騒ぎです。

 この“顔”が――あるいは容姿そのものが――アヴァターによって自由化されたらどうなるか。


 まずもって既存の価値観が崩壊すること、これは間違いないでしょう――容姿がこれまで占めてきた地位、これが転覆するのです。


 容姿は選び放題、どんな美男美女でも望みのまま、ということは――逆を言えば、希少ゆえに広く定着してきた“優れた容姿”の価値が全くなくなる、そういうことでもあるのです。


 ですが、影響はそこに留まりません。


 容姿が価値を失うということは――“顔”も同じく存在価値を失うことになります。

 “顔”はもはや選び放題――言い換えると、アヴァター次第でどうとでも変えられます。それまで個人認証の主役であった“顔”――これが、主役どころか毛ほどの役にも立たなくなっているのです。


 では、個人をどうやって見分けるのか? ――そういう疑問はごもっとも。

 親しい間柄であれば、あるいは仕草やアヴァターのセンスで見分けを付けられるかもしれません。「あれ、またアヴァター変えた?」くらいに。

 それでは、赤の他人なら? ――指紋、掌紋、そういったもので見分ける手があり得ますね。ですが詰まるところ、直接接触しない限りは相手が誰か――これは判りっこないというわけです。

 それじゃ困らないの? ――という疑問はごもっとも。すぐ横を通りすがるヒトがどこの誰とも判らない、という不安ですね。

 ――ですが、冷静に考えてみると。

 街の雑踏を思い浮かべてみましょう。そこを行き交うヒト達の“顔”、その大部分は見知らぬものではありませんか? 声をかけ合うことでもなければ、他人はあくまで他人に過ぎない――そのことに全く変わりはありません。

 よって容姿の自由化は、個人間では大した混乱を招くことはないものと思われます。


 そう、“顔”がなくても本当に不自由するわけではないのです。

 例えばSNS(Social Networking Service)、Twitterに素顔を晒しているヒトは果たして何割いるでしょう? あるいはFacebookには?


 “顔”がなくなるメリット、これは““顔”による偏見がほぼなくなること”、まずもってこれに尽きるでしょう。顔で損得がどれほどあるかと言って、化粧(※2)というものの普及率を考えれば自ずと答えは出るというものです。「鼻の形が……」「眼がもっとぱっちりしていたら……」という悩みがほぼ解消されると言ったら伝わりやすいでしょうか。

 その代わり、アヴァターのセンスは問われます。化粧にセンスが問われるのと似たようなものですね。ただし、そのセンスの良し悪しも時代とともに移ろいます――例えばバブル経済の時代に眉の形が大して問われなかったのに対し、現代では細い柳眉が重んじられるようになったがごとく。

 要するに化粧を含めた“顔”は、普遍的な価値たり得ないというわけです。


 大切なのは“顔”ではないのです。本当に大切なのは人となりであったり、振る舞い方であったリといった、言うなれば“人格”なのです――そのはずなのです。

 それが、これまでは“顔”に、あるいは容姿に惑わされているだけだったとしたら?


 ここに興味深い実験結果があります。VRを使って人種差別的偏見を摘み取るという試みです(※3)。例えば“白人に黒人のアヴァターをまとわせる”という体験は、肌の色に対する偏見を和らげたという話があります。

 そう、混乱ばかりとは限らないのです。“顔”が意味を失うアヴァターの世界、その可能性にも目を向けるべきでしょう。


 まずこれは『テーマ11.』でも語らせていただきました――ヒトの内面がより重視される世界の到来。容姿のせいで埋もれていた個性が花開く、その可能性です。

 容姿と違って、個性は後天的に磨き得ます。“美しいヒト”たらんとして努力しているヒトが、より正しく報われる可能性がそこにはあるのです。

 “外観美”の可能性、これが生まれ持った容姿から解放されるのです。

 アヴァターのセンスでもよし、あるいは一挙手一投足の仕草でもよし、もちろん才能に秀でていれば言うことはありません。磨いたなら磨いただけそのヒトは輝くことになるわけです。


 それだけではありません。

 “顔より中身が大事”――そういう向きには、絶好の世の中が到来することになります。

 会話のセンス、趣味、知識や教養、思考パターン、あるいは才能――そういったもので相手を評価すればいいわけです。いやいや、アヴァターのセンスが壊滅的に合わなくて……という場合はお気の毒というしかありませんが。それにしたって後天的努力が報われる余地は大いにあるわけです。


 そして申し上げておくべきは――アヴァターをまとうのは、必ずしもヒトであるとは限らないということです。

 アヴァターによる“容姿の自由化”、これの恩恵に与る権利は何もヒトだけのものではありません。これの詳細については、次項でお話ししましょう。


【脚注】

※1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B9/%E3%82%AA%E3%83%95

※2 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%96%E7%B2%A7

※3 http://wired.jp/2016/11/10/alexandra-ivanovitch/





著者:中村尚裕

掲載サイト『小説家になろう』:http://ncode.syosetu.com/n0971dm/

無断転載は固く禁じます。

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