10-2.“電脳化”時代のエンタテインメント
さて、前項では既存表現方法の可能性を散々あおった私ですが。
来たるべき“電脳化”社会において新しく登場するであろう表現手法――これは何か、というところを想定しなければ立ち向かえる道理がないのもまた事実。では、VRとARを駆使した“電脳化”時代のエンタテインメントとはいかなる姿をしているのか――本項ではこの点に考察を巡らせてみましょう。
まず、VRエンタテインメントの必需品と見られているフシがある360°カメラ――ですがこれは、詰まるところ視点の移動が自由にできません。なので“電脳化”時代におけるコンテンツとしてはまだなお不充分ではないか――そう考えるところから出発してみます。
拡張現実(AR)と仮想現実(VR)を駆使し、操縦感覚でネットを渡る“電脳化”時代にあってのエンタテインメント――これを考えてみるに、まずエンタテインメントとは何か、という定義から見直してみましょう。
かのスティーヴ・ジョブス氏の名言にこうあります。「ユーザは体験から始めて、そしてテクノロジィにさかのぼるんだ」(※1)
本当に重んずるべきはユーザ(=未来のヒト)の“体験”こそであって、テクノロジィ(やモノ)はその“体験”を実現するための道具に過ぎない、というわけですね。
スティーヴ・ジョブス氏がiMac以降のアップル製品に持ち込んだのは、実は“体験というエンタテインメント”だったのではないか――という、これは仮説です。
iPod(というよりiTunes)にしてもiPhoneにしても、テクノロジィとしては必ずしも尖ったものではありません。先んじて登場した製品としてウォークマンがあり、iMode(という名のインターネット接続)搭載のガラケーがあったにも関わらず、アップルが(というよりスティーヴ・ジョブス氏という才能が)圧勝したのは、“体験というエンタテインメント”の具体形をユーザに提示したからではないのか、というのが私の思いますところ。
――つまり、エンタテインメントとは“非日常(や妄想)の疑似体験”や“非日常の体験そのもの”ではないか、というのが今のところの私の結論です。それを“魅せる”既存の手法が映画や漫画、小説などということになりますね。この場合、各種表現手法は“体験”そのものを提供できるわけではありませんので、それなりの脳内補完が必要となります。逆に映画のカット割りや視点やBGMであるとか、漫画のコマ割り、小説の文章表現などは、“体験”そのものでは得られない付加価値ということになりますね。
この“エンタテインメント=非日常の疑似体験”という仮定から考えるに、“体験”により近い方が(つまり脳内補完の量が少ない方が)より“リッチ”なエンタテインメントということが言えそうです。現状では、“リッチ”な順に並べると“3D映画>2D映画>漫画>小説”ということになりそうです。ただし“疑似体験”は脳内補完の充実度によるところも大きい以上、観客の満足度が必ずしもこの順になるとは限りません。
そこを踏まえた上で“電脳化”を果たした未来、そこで得られるであろう“日常体験”にまず想いを巡らせるならば。
私の想定するところ、街中の監視カメラ群と連動して物体を広く立体視し、また同様に音響についても立体聴し、あまつさえネットの関連情報をそれらに重ね合わせながら風景を見回す――というのが普通に得られる“日常体験”となります。現状の“日常体験”よりも遥かに“リッチ”な“体験”と言えましょう。
ならば、そこを舞台とした“エンタテインメント=非日常の疑似体験”を可能な限り“リッチ”に味わうにはどうするか。
まず、カメラやマイクは舞台を三次元的に取り囲むよう配置します。“電脳化”社会で最大限活用されるであろう監視カメラ群やマイク群、この配置を想定するのです――この辺の詳細は『テーマ2.“ニュータイプ”か!? ――いえ、ただの凡人です。 ~拡張現実にみるヒトの可能性~』で述べた“ニュータイプ”の空間把握能力、これをご参照いただくとして。
カメラやマイクは小さいに越したことはありません。実際こんな製品も発売されているくらいです。(※2)
が、映像の“リッチ”さは何も画素数だけで決まっているわけではありません。レンズも――というよりレンズこそ――重要な要素となるものと私は考えております。ぼやけた画像は、どんなに画素を費やそうがぼやけた画像にしかならないのです。
よって、ここは“目立たなくすること”よりも“開き直って映像加工で消してしまうこと”を考えましょう。実際、撮影者(=カメラ)の存在はCG加工で消すことができます。古くは映画『ターミネーター2』で操演用ワイアをCGで消したように(この時は『PhotoShop』が使われたと聞きますが)、カメラや撮影者の存在しない情景を他のカメラの撮像に重ねればいいのです。そのためには舞台の各一箇所のみにカメラを据えた状態での情景を、カメラごとにそれぞれ撮像しておけばいいでしょう。
この時、カメラは2Dカメラで構いませんが、できれば3D(3本のカメラを束ねれば立体視可能なデータは揃います)であるに越したことはありません。また、撮像角度を広く取るために魚眼映像を撮る、という工夫もあればなお良いでしょう。
そんなのでエンタテインメントが成立するの? という疑問はごもっとも。私が提示したいエンタテインメントの正体はつまり、こういうことです――観客の視点、これに合わせて役者の演技を始めとした“非日常の風景”をリアルタイムで3D合成するのです。現在でも『アラウンドビュー』などの合成技術が存在します(※3)。これを発展させれば、複数のカメラ視点から3D画像を合成することも不可能ではありません。
ここで活躍するのは観客一人一人が持つ携帯端末、これに宿る人工知能です。彼らがリアルタイム3D合成の役を担います。“電脳化”世界において“日常風景”を普通に合成している彼らのこと、“非日常の風景”をこれら複数の撮像データから合成し直すのは造作もないことに違いありません。
観客の視点、これは全く自由です。ただし作者推奨の視点がデフォルトです。観客の視点誘導、既存の表現手法はここにいかんなく発揮されることとなります。つまり、じっと見ていれば既存の映画を進化させたかのごとく“リッチ”な非日常を体験できるという仕組みですね。逆にこの視点誘導がないと、面白さが分からない恐れだってあるのです。
逆に裏側や背後が気になるなら、動き回るなり振り返るなりすればいいわけです。――意外なところに隠しコメントとかの“お遊び”が仕込まれていても面白いでしょう。
さて、ここで“疑似体験”として主人公(観客とは別の人格)が必要かどうか、これも考えておく必要があると、私は考えております。
物語を重視するならば、主人公は必要です。主人公の人格が物語を牽引するからです。こればかりは観客任せにできるとは限りません。
逆に、一人称としての体験を重視するなら、物語ではなくゲームとして提示するのがよりリアルで“リッチ”な体験を提供できるものと考えます。この場合、触覚はVRグローヴで――いやいっそVRスーツで再現するのが望ましいかと思われます。
以上が私の考えました“電脳化”時代の最先端エンタテインメントです。“電脳化”社会のネット・インフラを考慮するに、これならネット配信も充分に可能です。この場合は3D合成を送信者側で行い、観客の視点に応じたデータだけを送れば済むことですから。
さて現実の未来はいかに出ますやらお楽しみ。
【脚注】
※1 http://systemincome.com/tag/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA
※2 http://av.watch.impress.co.jp/docs/news/1021976.html
※3 http://www.nissan-global.com/JP/TECHNOLOGY/OVERVIEW/avm.html
著者:中村尚裕
掲載サイト『小説家になろう』:http://ncode.syosetu.com/n0971dm/
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