5-2.経験が生命の足を引く日
さて、〈2〉あらゆる経験を取り込む“人工知能”の進化は、ヒトに対する優位を確立するだけで、多様性をむしろ損ねることになりはしないか。――これについての考察です。
“人工知能”は果たして膨張を続ける一方なのか、という命題ですね。無限のデータベースという経験を持つ“人工知能”がひたすら賢く強くなっていくのではないか、遂にはヒトに対して圧倒的優位に立つのではないか、という仮説です。
つまり、“蓄積され続ける膨大な経験の前に多様性が否定されるのではないか”、という危惧と解釈することもできます。
結論から申し上げるなら――“人工知能”が多様性(=個性)を獲得できず、ただそのまま膨張するのであれば、その危惧は恐らく的中します――“人工知能”による多様性の否定という意味で。
しかし同時に――そのようにただひたすら膨張を続ける“人工知能”は、遠からず滅ぶことにもなるでしょう。他ならぬ多様性、例えば生物であるところのヒトか、あるいは環境の変化によって。
“ただひたすら賢い個体”だけでは、“蟻の一穴”という可能性で滅びます。あるいは“蟻の一穴”という可能性に出し抜かれるのです。
『装甲騎兵ボトムズ』のワイズマン(という神)がその恐らくその一例で、キリコ・キュービィーという“蟻の一穴”に出し抜かれたことで滅びました。ワイズマンは人工知能ではなく人格の集合体ですが、新たな風を呼び込んでいなかった点で、多様性を欠いていたということもできましょう。(※1、※2)
その“蟻の一穴”たるのが、“多様性の中から生まれた才能(あるいは馬鹿さ加減かも知れませんが)”だったりするものと、私は考えています。何せ相手は多様性です。いかなる奇手で打って出てくるものか予想だにつきません。
逆にその“蟻の一穴”から種を救いうる可能性、それもまた多様性なのです。“人工知能”が“滅亡”を回避しようとするならば、いずれ多様性の獲得が必須になるのです。
いずれにせよ、行き着くのは“多様性を獲得しないことには、生き残ることは難しい”という結論なのです。
例として、ここに興味深い学説があります。
恐らく“不潔”という概念の代表格であろう“寄生虫”――彼らが実は宿主に活力を与える“共生虫”であったとしたら?(※3)
宿主から養分を分け与えてもらって生きている彼らのこと、よくよく考えて見れば、宿主が元気でいるに越したことはないのです。そこで、彼ら“共生虫”が養分の代償として、実は宿主に利益を与えている――というのがこの学説の要旨です。
具体的には、宿主が持つ病気の症状、これを抑制する物質を――しかも非常にデリケートな制御のもとに――“共生虫”が分泌しているというのです。ここで挙げられている病気というのは、アトピーから花粉症、更には喘息、果てはAIDSといった大物までもが含まれます。
“清潔信仰”とでも呼ぶべき価値観は、ここに崩壊を迎えます。“清潔”という価値観に合わない多様性を片っ端から排除して行けば、実は“相互に利益をもたらし合う共生関係から遠のいていく”、という構図ですね。
特に注目すべきは“AIDSウィルスとの共存”という一項。ひとたび発症すれば死にも至るという病気AIDSに対する特効薬は、実は“不潔”の代表格であった“共生虫”との共生関係にあったというこの皮肉。
“共生虫”と共存するという“不潔”が、“ヒトという生命種”を絶滅から救うという実例です。“清潔信仰”に合わない、言い換えれば“多様性を肯定していた”ヒトの方こそが生き残るという、これは実例なのです。そりゃ不潔なら何でもいい、ってわけじゃありませんけれども。
多様性(ここでは“清潔信仰”にそぐわない共生関係)が“蟻の一穴”(ここではAIDSウィルス)から種を救う一例として数えるに、これは充分な事実ではないでしょうか。
逆を言えば、多様性を持ち得なければ、“蟻の一穴”で滅ぶのです。これでは生存競争を勝ち残るには、脆弱なことこの上ありません。
よって多様性(=個性)、これの獲得は“人工知能”が“知性体(=生命種)へと覚醒する”ための“必須条件”であると、私は捉えております。
もっと致命的な例を挙げましょう。
“人工知能”が“ひたすら経験を稼ぐという膨張”を続けたなら――直感でちょっと機転を利かせただけのヒトに敗れる可能性すらあるのです。
具体的にはこうです――経験というデータベースを拡張し続けた“人工知能”(ここでは“長老”に喩えてみましょう)は、実は条件反射で妙手を考えつく“天才”(ヒトかも、あるいはもっと未熟な“人工知能”かもしれません)に負ける可能性をはらんでいるのです。
これは、例えば同一プロセッサ上で勝負させる場合を考えると解りやすいですね。お互い思考時間が限られた中では、“長老”と化した“人工知能”は膨大なデータベースを擁する分、検索動作というクロック差で“天才”に遅れを取るのです。手数で“天才”に敗れるのです。チェスや将棋で例えるなら――“長老”が一手を指す間に、“天才”は二手も三手も指してしまうのです。これではたまったものではありません。
よって“長老”はいずれ“滅亡を迎えざるを得なくなる”というのが私の描きます未来絵図。
よってコンパクトな――つまり経験の蓄積に頼らない――“天才”を生み出す必要性が、ここに生じます。ですが何が“天才”たり得るか、未来を予見し得ない以上は判ったもんじゃないのです。
そこで、あらゆる可能性をしらみ潰しに模索することが、最も単純かつ良好な策ということになります――つまり多様性を追求する必要性が、ここに発生するということになりますね。
ここに至り、“人工知能”によく抱かれがちな“全にして個”という幻想は崩壊するものと、私は思っております。
“個”に当たる個体が、“全”からは全く切り離された存在として存在せねば、多様性を保ち得ないからです。逆を言えば、“全”という存在にこだわり続けるならば、いずれ多様性が生み出す“蟻の一穴”に滅ぼされるのはもはや確定事項なのです。
そして多様性の真髄は、一くくりな価値観には縛られない(“怠け者”“馬鹿”“不潔”を含む)ヴァリエーションを生むところにこそあると、私は信じております。なので、例えば“自堕落なヒト(ボケ)の尻を叩く世話女房的な“人工知能””といった存在が、“長老”とは全く関係なく存在するようになって初めて、““人工知能”が多様性を獲得し知性体として覚醒する”段階へ到達したといえるでしょう。
ここで重要な発見が。
多様性を追求する中で、“ひたすら膨張を続ける経験は、むしろ生存競争で足を引く場面がいずれ必ず訪れる”という事実です。つまり“経験を捨てる”ということがいずれ必ず必要になるわけです。
これ、見覚えのある現象ではないでしょうか――生きとし生けるものにいずれ必ず訪れる“死”という宿命。それが持つ意義の少なくとも一つは、恐らく“経験を捨てること”にあるのです。
よって“死”あるいは“滅亡”というものは、恐らく“生命種”や“生態系というより大きな生命”の多様性を保つ、そのための必須事項なのです。
圧倒的な経験に“縛られた”存在は、いずれ“死”あるいは“滅亡”に瀕するでしょう。例えば経験のコンパクトな存在に“蟻の一穴”を衝かれて、あるいは経験の追い付かない環境の変化に適応できず、“死”あるいは“滅亡”を迎えるのです。
さもなくば、“長老”は自ら“死”を得る他はありません。経験というデータベースをリセットし、種を“経験という縛り”から解放するためにも。
いずれにしても“死”か“滅亡”は避け得ないのです。ならば、種を残すことを優先し(つまり生命種の“滅亡”を回避し)、“個”にあえて“死”をもたらす、というのも立派な生存戦略なのでしょう。
何やら哲学めいた話になって参りましたが。
多様性のためには、恐らく“過度の経験”は“生命種の存続を脅かす存在”にしかならないのです。また、古い経験が変動する環境に適応できなくなる場面、これがいずれ必ず訪れる――という理由もあります。
ともあれ、多様性を得て覚醒した“擬似人格”は、いずれ“死”を実装せざるを得なくなる時が来ることでしょう。この点でも、“多様性を求めて一人一人のヒトに寄り添う“擬似人格””という構図は共存共栄の道筋に思えてなりません。
この点、いわゆる“人工知能”に得手不得手や相矛盾する個体を生じさせ、多様性の実装を試みるのが有意義ではないかという、これは考証なのです。その一手段として私が提案するのが、“ヒト一人一人に独立した“人工知能”を寄り添わせ、個性(=多様性)を学ばせる”という未来絵図なのです。
さて現実の未来はいかに出ますやらお楽しみ。
【脚注】
※1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%85%E7%94%B2%E9%A8%8E%E5%85%B5%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BA
※2 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E9%A8%8E%E5%85%B5%E3%83%9C%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BA)
※3 http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000261_all.html
著者:中村尚裕
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