【六】
【六】
後悔先に立たず。そう思うことは誰にでもあるだろう。
雨に降られてから、傘を持ってきておけば良かったと思い。夏休みの宿題を最終日まで引っ張ってから、毎日少しずつやっておけば良かったと思う。その手の後悔なんて人は何度でも経験するものだ。
特に人間関係ではそういうことが多い。
余計なことを言って相手を怒らせたり、余計なことをして妙な空気にしてしまったり、そんなことが人と関われば日常茶飯事で起きる。だから人はそれを気にしないし、数日経てば忘れることが常だ。
でも、それが忘れられない気の小さい人間も居る。
自分の席でボーッと正面の黒板を見詰める。今日は委員長が日直のせいか綺麗に黒板は消されている。その何も書かれていない深緑色をした黒板を見詰め、ただ無心になる。
「あいつ、玲奈に変なことしようとしたんでしょ。サイテー」
「だよね、あいつ女の敵だし」
メールで言われている方がまだマシだった。俺には聞こえて嫌な思いはするが、それはメールの中の話であって、公にはされない話だからだ。でも、悪口というのは俺に対してだけではなく、周りの人間に対しても発信されてしまうものだ。いや、そもそも悪口を言う人はそれが前提で言うのだ。俺という人間がどんなに最低な人間かを周りに知らしめようとするために。
一部の男子が画策していたゲリラシチュエーション作戦は終わりで落ち着いた、はずだ。はずだとしているのは、そっちよりも俺が青島を校舎の壁に追い詰めた、言い寄った、無理矢理キスをしようとした。そういった噂話の方が学校の中で盛り上がってしまったのだ。だから、今どうなっているかというメールが聞こえてこない。聞こえてくるのは、全て俺に対する悪口メールしかない。
結果的に青島の社会的な尊厳は守られたが、俺の尊厳は壊滅的な被害を受けている。そして間が悪いことに、前の青島ずぶ濡れ事件の余韻が残っているのに、更に火に油を注ぐような噂である。ただ、今回の噂は否定が出来ない。
真意はどうであれ、結論から言えば俺は青島を壁際に追い詰めた。端から見れば、言い寄っているように、まるで無理矢理キスを迫っているように誤解出来る形で。そこで俺がどんなに否定をしても意味がない。そして、説明をしようにも説明出来る証拠はない。
「あんた」
「ミ、ミキッ!」
女子リア充グループトップのミキ様が取り巻きを連れて、俺の席の前で仁王立ちしている。鋭く向けられた視線はいつにも増して恐ろしい。
「玲奈にちょっかい出さないでくれる? キモいんだけど」
「分かった」
ここで「あれは誤解だったんだ」とか「あれは事故だったんだ」と言っても「はぁ? 男のくせに言い訳すんな」と、取り付く島どころか流木さえない綺麗な海原のような対応をされるだけだ。だから、短く話を切っておくのが一番無難な対応だ。
「マジムカつくんだけど」
プイッと更に機嫌を悪くした様子のミキ様が立ち去っていく。素直に認めて全要求を受け入れたのに許されないとは、大変理不尽な降伏条件だ。
「ホントサイテー」
「マジウザ」
取り巻きも、なんかイチゴサンデーやシメサバみたいな新種の食べ物の名前を吐き捨てて帰っていく。まったく、最近の食べ物はカタカナが多くてなんの食べ物か良く分からんな。アハハ……。
「あ、えっと……」
「なんか、色々とすまなかった」
ミキ様と取り巻きが去って行った後に残った青島に、俺は謝った。結局、今回の件で一番の被害者は青島だ。そして、結果だけ見れば青島は、何も悪くないのに変な騒動に巻き込まれて渦中の中に居る。それは謝っておかなければならない。
「う、ううん、それはいいんだけど……。あれ、本当に蜂だったのよね?」
「二階の窓際から……いや、もうその件は全て俺が悪い。蜂が居ても、もっと他にやりようがあった。変に怖い思いをさせて申し訳ない」
思わず本当のことを言いそうになる。ここで俺にしか理解出来ない話を持ち出したら事態がもっと荒れる。そして俺の心も肌も荒れる。
「打瀬、アンタってなんでそうなの?」
「はい?」
何故かさっきまで困っていた表情だったのに、青島は急に明らかに怒った表情で俺を見返す。いや、俺、怒らせるようなこと言いましたっけ? 怒られるようなことはしてしまったが……。
「アタシに言っても意味ないって顔してた。アタシに何言ったって分かるわけがないって思ってた!」
「そんなことが青島に分かるんだよ」
「毎日見てたら分かるに決まってるじゃん!」
ミキ様よりも更に憤られたご様子で去って行かれる玲奈様。毎日見てたら分かるって、俺どんだけリア充グループに警戒されてるんだよ……。一応、無害な男子Aで通していたはずなのに。
「はぁ~……」
青島が去って行って俺は大きなため息を吐く。
俺は青島達、女子リア充グループと特別仲が良いわけじゃない。だから、今更嫌われても大した影響はない。だが、ああやって面と向かって「本当に腹が立つ」「本当に最低」とか「本当に邪魔」なんてことを言われると、流石の俺でも凹む。
「あ、あの……」
「ん? おわっ!」
もう一度ため息を吐こうとした時、後ろからツンツンと突かれた。振り向くと、俺のすぐ側に日向が立っていた。あまりの近さと、近付くまでの気配の無さに驚いて仰け反ってしまう。
「これ……元気が出るから」
そう言って一冊の本を差し出して自分の席に帰って行ってしまった。受け取った本を見ると、どうやら児童文学に分類されるファンタジー物の小説のようだ。あの絵本の一件で、俺の好みは児童文学だと判断されたのかもしれない。いや、嫌いじゃないよ? やっぱり児童文学って読んでてドキドキワクワクするし。でも、結構分厚いから元気が出るまで時間が掛かりそうだな……。
「日向、サンキュ」
もう自分の席で本を読み始めている日向に聞こえない声で言って、俺は本を開いた。
しかし、なんだ……本を渡されるよりも、元気づけようとしてくれたことの方が、よっぽど元気が出る。いや、元気を出さなくてはいけないと思わせてくれるものだ。
授業が終わり、俺は体を机の天板に預ける。ああ、このまま魂だけスルリと抜けてしまいそうな疲労感だ。
まだあと一時間も授業が残っていることを考えると、圧倒的な絶望感がある。……帰りたい、帰らせてくれないかな~、帰らせて下さいお願いします。
グルリと顔を動かすと、俺と同じように疲労感を抱いている生徒は沢山居るのが見える。その大半が疲労回復のために睡眠を取っていた。おい、あんたらは俺みたいに、精神的な疲労は感じてないだろ、なんで俺じゃなくてあんたらが寝てんだよ。
『青島さんのゲリラシチュエーション作戦は失敗した。しかし、我々はその失敗で学ぶことがあった』
疲労に苦しむ俺に、あのメールが聞こえてくる。聞きたくはなかった、聞かなければよかった。でも、俺の意志ではどうにも出来ないのだから仕方がない。
『ああ、今度はただ追い回すんじゃない、シチュエーションを作り出すんだ、びっくり。名付けて、メイクシチュエーション作戦だ、びっくり、びっくり、びっくり』
今更、ただ追い回すことの無意味さと非効率さを学習した男子達は、今度は新しい作戦に出るらしい。シチュエーションを作り出すからメイクシチュエーション作戦。しかし、なんでメイクなんだろうか? 「シチュエーション! クリィエイトォオオ!!」とか「インッベントォオー!! シチュ、エェーションッ!!」とかの方がなんか必殺技っぽくて格好いい気もする。圧倒的な中二感が漂って。
それはさておき、俺を社会的破滅に追い込んだ元凶である男子達が、また何やら企んでいるらしい。そして、やっぱり聞いてしまった以上、そうか頑張れよと放置するわけにもいかない。
『次のターゲットは隠れ美少女、日向閑琉だ、きりっ』
放課後、俺は「あの絵本を読みに行くから、一緒に図書室へ行ってもいいか?」という、俺なら「なにコイツ、キモっ」と思うようなことを言って、日向と一緒に図書室へ向かって歩いている。まあ、あの絵本を読めばほっこりした気持ちになれて心の傷も幾分癒えるだろう。という淡い期待は全くのゼロじゃない。だが、主な目的は男子によるメイクシチュエーション作戦への対抗だ。
メイクシチュエーションということは、男子側から日向に何かしてくるはずだ。それを俺が防げば良いだけの話である。言ってて、もの凄く簡単な作業のように思えてきた。どうせ、高校生のバカな男子に思い付く程度の作戦なら大したことはないだろうし。
「あ、あの……打瀬くんは、その……」
「ん?」
「青島さんとキスしたんですか?」
「………………してないぞ!」
あまりに唐突かつ予想だにしない質問でかなり間が空いてしまったが、ハッと我に返ってからすぐに否定した。それはすぐに否定しないと、俺の壊滅した社会的尊厳もだが、青島の社会的尊厳にも関わってくる重要案件だからだ。俺とキスしたなんて噂が立ったら、青島が学校に来なくなってしまう。いや……ミキ様の制裁が下って、俺が学校に来られなくなる方か。
「そうですよね。打瀬くんがそんなことを女の子にするなんて信じられなくて」
この場合は「打瀬くんが節度ある健全な男性だと思っていました、にっこり」と取るべきか「そんな度胸もないヘタレだと思った、けっ」と取るべきか。いや、流石に日向が俺にそんな腹黒いことを言うようには見えない。
「やっぱり、大変ですか?」
「まあ、な」
日向の落ち着いた声でそう聞かれて、ついポロリと弱音が出てしまう。心の中で弱音を呟くことには慣れているが、口に出すのは慣れていない。だから、なんだか恥ずかしい。
「あ、ひひひ、日向さん! ちょちょちょ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど!?」
「きゃっ!」
図書室へ向かう途中、明らかに可笑しなテンションで日向に男子が話し掛けてきた。日頃あまり男子と話すことがない上に、相手がこのテンションだから完全に日向は怯えて悲鳴を上げてしまっている。
「あ、あの……なん、でしょうか?」
「い、いや、たたた、大したことじゃないんだけど」
日向を尋ねてきた男子は挙動不審にチラチラと視線を動かしている。しかし、その視線は日向を見ているというよりも、日向の後ろに視線が向いているように見える。日向とは違い話し掛けられていない俺は、男子の話を聞かず後ろを振り向く。
「…………あっ」
前傾姿勢を取り、右手を伸ばした状態で固まる男子生徒と目が合う。その手の先には日向の穿いているスカートの裾があり、あと僅かに手を上げればスカートの裾に手が触れそうな距離だ。
チラリと日向に話し掛けてきた男子を見ると、汗をダラダラと掻いて顔色は真っ青になっている。どうやら、こいつらはメイクシチュエーション作戦とやらの実行犯らしい。と言うことは、こいつらが、そもそも存在したのかも定かではない俺の学校社会的信用を、地に落とした奴らだ。そして、ここでこいつらを捕まえれば、もう変なメールを聞くことも無くなるだろう。しかし、悔しいかな証拠がない。
後ろに居る男子は、実際に日向のスカートを捲ったわけではない。それに、話し掛けてきた男子がその協力者である証拠もない。ここで青島を追い詰めた、と言われている俺が「こいつらは日向のスカートの中を盗撮しようとしている」と言ったって「青島にいかがわしいことをしようとした奴が何を言う」と言われて取り合ってはもらえないだろう。
なら、ここは日向への被害を最小限に抑えるのが一番だ。
「何か探し物でもしてるのか?」
「えっ? あ、ああ、ちょっと…………ハ、ハンカチを落としちゃってっ!」
大抵の男子高校生はハンカチを持ち歩かない。もちろん、持ち歩く人も居るがそれは極めて少数だ。こんな「あっ! ハンカチって言えば自然だ!」みたいな顔をしている奴が持ってくるわけもない。まあ、落とし物という逃げ道を作ってやればこのまま引き下がるだろう。これ以上追求する必要はない。
「でも、この辺には落ちてないみたいだな」
周囲を見渡す素振りを見せながら、俺はなに食わぬ顔で言う。まあ、落ちてるわけないだろうが。
「そ、そうだな、廊下に反射した光を、み、見間違えたみたいだ」
光とハンカチを見間違えるなんて、どんだけ目が悪いんだ。もしくは、どんだけお前のハンカチは神々しいんだよ。
「ほ、他の所を探そうかな~」
ハンカチを探しているらしい男子は、その場で回れ右をしてそう言いながら立ち去っていく。男子が離れて行ったのを見届けて、日向に話し掛けてきた男子の方を見る。するとその男子は、さっきの男子が立ち去った方向を見てから俺と目が合い、小さく「ヒィッ!」と悲鳴を上げた。
「ご、ごめん、おおお、俺の勘違いだったかも! じゃあ!」
日向に話し掛けていた男子も、日向にそれだけ言って走り去っていく。その男子の後ろ姿を見て、日向は小首を傾げていた。
「な、なんだったんでしょう?」
「さあ?」
「じゃあ、い、行きましょうか?」
全く油断も隙もない。白昼堂々、スカート捲りをしようなんて考えるとは思わなかった。だが、こうやって露骨な手段に出ていると言うことは、今後も同じように日向を狙ってくるはずだ。
しかし、どうして男子達はこんなリスクの高い方法を採るのだろうか? 女子の恥ずかしい写真や動画を撮りたい! という願望には、俺もある一定の理解は示せる。だがそれを実現するために行動するというのは、デメリットが大き過ぎる。上手くいけば女子の下着を撮影することが出来るだろうが、成功する可能性も低い。それに加えて、その策略が露見すればまず間違いなく学校社会的に終わるだろう。一時の喜びのために今後の学校生活を捨てるなんてバカとしか思えない。
結論が出た。男子達はバカだからバカな行動を取るようだ。
「あの……青島さんとは仲が良いんですか?」
「え? いや、俺と青島は普通のクラスメイトだな。青島側がそれ以下に思っていることはあっても、それ以上の関係ではまずない」
そう言えば、クラスメイト以下の関係とはどんなものだろう? クラスに居る男子……いや、それはクラスメイトだな。では、知り合い? 顔見知り? なんか時々見かける人?
「そうなんですか。でも、今朝はとても仲良さそうに話してたから」
「いや、あれは青島の友達が怒ってたからな。その流れで俺に話し掛けただけだ」
「でも、打瀬くんがあんなに話す女の子って他に委員長くらいだから……。あっ! で、でも! 打瀬くんのことを私がよく見てるってことではなくて! そもそも私! 打瀬くんに興味なんてないですっ!」
「お、おう……」
何故、唐突に俺は日向から「あんたなんて眼中にないから」と言われたのだろう。いや、そもそも思っていたとしても今あえて言うことだろうか?
無駄に傷付いた気がしながら俺は日向と一緒に図書室へ向かって歩き出す。
図書室にたどり着いてすぐに、俺は例の絵本を読み始めた。しかし、視線は時折日向に向けて男子の下衆な思惑に巻き込まれていないか注意する。
ふと思う、俺の行動を客観的に見たらどうなるだろうか、と。
放課後、思春期真っ盛りの男子高校生が低年齢向け絵本を広げ、大人しい文芸部員を穴が開くかのように視線を向けている。……どうしようどこからどう見ても、日向に下衆な視線を向ける不審者だ。
だが、日向が狙われていることを知っているのは、メイクシチュエーション作戦に絡んでいる男子達を除けば俺以外に居ない。だから、俺が止めてやらねば誰も日向の尊厳を守れる人間は居ないという訳だ。
「あの、この本って何処にありますか?」
生真面目そうな男子生徒が、日向に何らやら紙を見せて尋ねている。どうやら、本を探しているらしい。
「この本なら一七番の本棚の一段目に入っています」
俺は、考えることなく即答した日向の言葉に驚いた。今、棚の場所と段数を答えなかったか?
図書室に蔵書されている本の数はおそらく五〇〇〇冊くらいだろう。公立の図書館のように、途方も無い数の本を扱っている訳ではないにしても、図書室の蔵書数も十分多いと言える。だから、この前俺が苦労してやったように蔵書の整理をして管理しなければ、普通はどこに何の本があるかなんて分かる訳がない。そして、管理する側も管理しやすい様に、本のタイトルや著者名から検索出来るデータベースを持っている。なのに、日向はそのデータベースで検索する素振りも見せずに答えたのだ。
「日向って、凄いやつだったんだな」
単純に記憶力がいいのか、それとも本に関することだからなのかは分からない。でも、少なくとも俺には同じ真似は出来ない。五〇〇〇冊以上の本の場所を頭に入れるなんてどんな記憶容量なんだ。
「一七番の棚って何処にあるんでしょう? 棚の場所が分からないので案内してもらってもいいですか?」
「はい、こちらです」
それにしても、クラスではあまり男子と話さない日向も、文芸部員として仕事をしている時には普通に話せるようだ。人見知りの人が、仕事だと割り切れば接客出来る。みたいな話だろうか?
目を絵本へ戻そうとした時、俺は違和感を抱いて男子の方を見た。その男子の右手にスマートフォンが握られている。
日向と男子生徒が本棚の陰に隠れて見えなくなってから、俺は席を立って二人の消えた棚の方に歩いていく。
「ここの一番上の段の……」
本棚の影から顔を出すと、日向がちょっと背伸びをして本に手を伸ばしているのが見えた。そして、その後ろでスマートフォンを手にして、その手を、背伸びをしている日向のスカートの下に伸ばしている男子が見えた。
「何してんだッ!」
やんわり止める余裕がなく、俺は男子の後ろからスマートフォンを握っている彼の手首を掴む。
「えっ? キャ!」
静かな図書室に突然響いた俺の怒鳴り声。その声に驚いた日向が振り返ろうとする。しかし、背を伸ばした体勢のまま振り返ろうとしたせいか、バランスを崩してこちらに倒れて来た。
「危ない!」
とっさに男子の手首から手を放し、倒れてくる日向に手を伸ばす。
「どわっ!」「キャァ!」
漫画やドラマのようにスマートに受け止めることが出来ず、俺は日向と一緒に床へ倒れ込む。
「日向、怪我してないか?」
背中を床に強か打ち付けてしまい、背中を摩りながら上体を起こすと、視線の先には俺の上に倒れ込む日向が見えた。
「う、うん、私は怪我してないけど」
「ッ!? お、おう! それは良かった」
俺は素早く視線を真横に向ける。倒れた拍子に日向のスカートが捲れ上がり、太ももの上、控えめにあしらわれた花柄のパンツまでバッチリ見えてしまっていた。
「見てました?」
「すまん……見えてしまった」
「いえ、さっき本を探しに来た男子にです」
「え?」
「その……打瀬くんの声を聞いて振り向いたら、スマートフォンを握った男子を掴んでる打瀬くんが見えて。それで、スマートフォンで盗撮しようとしたのを止めてくれたのかなって」
「あっ! しまった!」
ふと我に返って男子の居た方を見るが、時すでに遅し、男子は逃げた後だった。
「すまん、撮られる前だったか後だったかまでは分からん。図書室でスマートフォン握ったままだったから不審に思ってすぐに追いかけたんだが……」
「そう、ですか」
すぐに追いかけたから、撮影された可能性は低いとは思う。しかし、スマートフォンのデータを全て確認したわけではないから断定は出来ない。
「すまん、捕まえられなかった上に、その……見てしまって」
「えっ!? 打瀬くんが悪いわけではないですし、それにわざと見たわけではないでしょうし。それに、打瀬くんになら――」
「まだ遠くには行ってないはずだ。探してスマートフォンのデータ、全消去してやる」
もしこのまま取り逃がしてしまったら、俺は何のために不審者に疑われるようなギリギリの行動をして監視していたのか分からなくなる。それに、本人にバレていない、神風によって見てしまった場合は「ラッキー、今日は付いてるな」なんて感じで処理出来る。しかし、今回みたいに、日向の下着を見てしまったことが日向本人に知られているというこの状況で、この場に長居できるほどメンタルは強くない。
「じゃあ、俺はさっきの奴を探してくる」
図書室を飛び出してさっきの男を探す。階段を駆け下りる音が聞こえ、俺も階段を三段飛ばしで下りて、下駄箱の陰に走り込む人影が見える。人影を追って下駄箱の陰に入ると、呑気に息を吐いて靴を取り出す男子が見えた。
「おい、さっきのスマートフォンを出せ」
「な、なんのことだ?」
「この状況でしらばっくれる気か。ちゃんとさっき顔も見てるんだ」
「……わ、悪気は無かったんだ!」
「悪気が無いわけないだろうが!」
わざわざ本棚の死角に日向を誘導し、高い場所にある本を取らせていた。こいつの方が身長が高くて高いところに手が届くのだから、本の場所だけ教えてもらってこいつが取ればいい。それに、スマートフォンを日向のスカートの下に構えていた。そこまでしておいて悪気は無かったなんて言い訳は通用しない。
「とりあえず貸せ!」
スマートフォンを引ったくり、とりあえず保存されている画像ファイルを片っ端から削除する。大事な画像があったとしても、日向にあれだけのことをしたのだ。反省に必要なものだと思ってもらうしかない。
「で? 誰に指示された」
あの聞こえてきたメールで、日向がよからぬ男子の集まりに狙われていることは分かっている。ここまで露骨にやってきたなら、そろそろ自分達のやっていることが悪戯では済まされないことを分からせるしかない。それに、首謀者達が捕まれば俺が青島にしでかしたことの誤解も解けるかもしれない。いや、そんな誤解を解いたって解かなくたって、そもそも俺の評価はそこまで高くないのだが。
「指示?」
「誰かと共謀してやってるんだろ。女子を手当たり次第に」
「誰かと共謀? 何の話だ。それに俺は日向さん以外の女の子には興味ない!」
日向にしか興味がないと断言する男子に、俺は眉をひそめる。なんで俺に一途さをアピールするのかとか、いくら一途だろうが盗撮はアウトだとか、そんなことが原因では無い。こいつが日向にしか興味が無いということは、間接的に青島への盗撮行為への関与を否定したということだ。素直にこいつの言葉を信じるのは良くないが、でも何となくモヤッとした物が胸の中に湧く。
『偵察完了。図書室に居るのは日向閑琉のみ。作戦を実行する』
「しまった!」
耳に聞こえたその音に、俺は踵を返して走り出す。まさか、同じ時期に別のやつが盗撮を決行するなんて思っていなかった。
一度下りてきた階段を今度は駆け上がる。メールを聞いてからまだ数秒しか経ってない。まだ間に合うはずだ。
階段を駆け上がった所で、図書室のドアの前で何やらコソコソとしている男子二人を見付ける。俺はその男子の間を無理矢理通って図書室の中に入り、カウンター越しに男子生徒と話す日向の側に走る。
「日向!」
「は、はいっ!?」
「俺と一緒に帰ってくれ!」
このまま日向を一人にしておくわけにはいかない。まだ日向は盗撮の被害には遭っていないようだ。でも、帰り道に日向が狙われる可能性もある。このまま一人で帰したら、家に帰ってから落ち着いて眠れやしない。
「で、でも、私まだ仕事があって」
「待ってるから、ここで!」
チラッと男子生徒の方に視線を向けると、顔を引き攣らせて右手に持ったスマートフォンを握り締め、ポケットの中にそっと仕舞うのが見えた。どうやら諦めたらしい。
「あの? 何か本をお探しになっていたのでは?」
「い、いや、今日はいいや。また来るよ」
日向が男子生徒に尋ねる。それに苦笑いを浮かべて答えた男子生徒は、そそくさと去って行った。男子生徒が図書室を出るのを見送って、俺は近くにあった椅子にドスッと腰を下ろした。日頃運動なんてしないから、階段を下りた後に駆け上がるなんてハードな運動をしたからかなり疲れた。酸素が足りなくて倒れそうだ。
「日向、さっきの男子は捕まえた。画像ファイルも全削除したから大丈夫だ」
「あ、ありがとうございます。その……大丈夫ですか?」
「え?」
「凄く、疲れてるみたいだから」
カウンターの向こう側から俺の目の前まで歩いてきた日向は、心配そうに俺の顔を覗き込む。あまりにも真っ直ぐ見詰められるから気恥ずかしくなり視線を落とす。そして視線を落とした先には、ブラウスの隙間からチラリと見える胸元が見えた。ブラジャーまでは見えないが、制服の上からでも分かるその大きな膨らみの一角を垣間見てしまい、とんでもない罪悪感に襲われる。
今度は視界の隅にあった本棚の方に視線を逸らし、少し落ち着いてから答える。
「大丈夫だ。それに、それは俺が日向に言いたい言葉だ。嫌な思いをしたのは日向だからな」
世の中にはもしかしたら、撮られることに幸福や快感を覚える趣味を持った人が居るかも知れない。しかし、それは万人に言えるようなことでは無い。そして、大人しい日向はそうでないのだ。それに、通常の女子よりも人に対してちょっと距離を取っている、そんな日向が、未遂と言えども男子から盗撮されそうになったのだ。ショックを受けて傷付いたはずだ。
「私は大丈夫です。打瀬くんが私を守ってくれたから」
「いや、俺は守ってなんか――」
「格好良かったです。ありがとうございました」
ニッコリ笑う日向の頬は、窓から差し込む夕日の光で少し赤く染まっていた。