【四】
【四】
この世で生きていく中で、もっとも大切なことがある。それは大勢に追従することだ。
過去でも現代でも、きっと未来でも、小勢は大勢に勝つことは出来ない。たとえ大勢が理不尽なことを言おうとも、多数決が基本的な社会の決定システムになっている以上、大勢が正義であり小勢は悪なのだ。だから、余計なトラブルに巻き込まれたくなければ、大勢の言うとおりに細々と暮らすのが賢いやり方である。
その考え方は、世界という大きな社会のくくりだけではなく、学校という限定的な社会でも言える。
学校での大勢はよく言うリア充という存在。そして小勢はその他の雑多な人間。固有の人物名が必要なら打瀬綴喜という人物がそうだと思ってくれればいい。
リア充は、インターネット掲示板で生まれたリアルの生活が充実している人達を指す言葉だ。しかし、このリア充という言葉。最初はリアルが充実していないと感じている人達が、リアルが充実していると判断した相手にからかう形で使っていたのに、いつの間にかそれをリア充側が使うという意味の分からない状況になっている。
『この前、彼氏と映画を見に行ったんだけど、隣のリア充カップルがいちゃついててマジうざかった、いらっ』
非リア充だと自負する俺からすれば、恋人が居る時点で十分リア充だ。なにがリア充カップルマジうざかった、だ。文句や愚痴を装って彼氏とデートしたことを自慢してくるリア充マジうざい、いらっ。
だがしかし、こんなことを俺がおおっぴらに発言したとしよう。そうすればその瞬間、俺はこの学校という社会から抹殺される。存在を……。
リア充はリア充同士のネットワークがある。そして、そのネットワークは巨大で、通信速度は光回線よりも速いと俺は認識している。だから、一瞬にしてリア充ネットに俺の悪評が広まり、この学校の大勢はアンチ俺の体勢にシフトするのだ。考えただけでも恐ろしい。だから、多少イラッと思うことがあっても、平和に生きて行くには飲み込むという我慢も必要なのだ。
だから、朝来たら俺の席がリア充に占領されていたとしても、俺は穏やかな表情で教室の後ろに行って突っ立ち、席が空くのを待たなければならない。
「昨日のカラオケ、マジ楽しかった」
「だよねだよね、ミキ、メッチャ歌上手かったし。プロみたいだった!」
「だねー、ミキの後に歌うの超ハズかったし~」
楽しそうに話すこのクラス最大の女子勢力を遠巻きから眺め、早く退いてくれないかと心の中で念じてみる。しかし、メールを聞く能力はあっても、他人の意思をコントロールする能力は俺にはない。
だから、ただ待って、ただ我慢するしかない。
「あ、あの……」
「うん?」
「お、おはようございます」
「ああ、おはよう」
ボケっと待ち続ける俺に、教室に入ってきた日向がそう言ってそそくさと自分の席に走って行った。
図書室の整理を手伝ってから、なんだか日向は変わった気がする。変わったと言っても、めちゃくちゃ明るくなったわけじゃない。ただ、挨拶をするようになったのだ。
極度の人見知りで、俺に挨拶する時もさっきみたいに爆弾に触れるかのように慎重に怯えながらしている。だが、今まで日向は自分から誰かに挨拶することはなかった。その変化は一見大したことない変化だが、とても大きな変化だと思う。それに、変化は俺の方にも訪れた。
今までは特に意識していなかった日向に関して、少しばかり知っていることが増えたことだ。日向は他人と話すことを苦手としていると思っていたが、どうやら全ての人と会話出来ないという訳ではなく、数名の仲のよい生徒とは普通に話すことが出来るようだ。今までは日向と関わる機会が全くなかったから気が付かなかったが、最近になってそれが分かった。後は、日向は俺の名前を正しく覚えていた。
俺の名前を正しく覚えている人というのは、俺のことを好きだとメールで言っていた人の特徴と一致している。俺の正しい名前普及率が絶望的なこの学校で、これで俺の名前を正しく覚えていたのはクラス委員長に続いて二人目。ただ、委員長の時と同じように、ただ彼女が俺の名前を正しく覚えているということが分かっただけだ。それだけじゃ彼女が俺のことを好きだとは限らない。
俺はみんながプルタブと言っている、飲料缶の缶蓋の形状が、正式にはステイオンタブと言うことを知っている。だが、俺はステイオンタブに恋愛感情は持っていない。それと同じなのである。世の中にはステイオンタブに愛情を持って名前を知っている人が居るのかもしれないが、正しい名前を知っているからと言って好きだとは限らない。
ということで、俺のことを好きな人探しは少しの進展を見せたようで、実のところあまり進展したとは言えない。
さて、そろそろリア充も俺の席を離れる頃合いだ。そう思って自分の席を見ると、相変わらずリア充女子が俺の席を占領している。俺は立ったまま天井を仰ぎ大きなため息を吐く。この野郎、いつまで俺の席を温める気だ。……待てよ? 女子のお尻で温められた椅子というのは……いや、その程度じゃ俺はときめかないし、席を占領していることは許さないぞ。
「そういえば、今度ホンジョウくんも誘って行かない?」
「いいね~いいね~」
彼女達の会話は盛り上がるばかりで終わりの兆しは全く見えてこない。このまま俺は何時までここで突っ立ってればいいのだろう。
「ねえ、そろそろ先生来そうじゃない?」
「どうしたのよ、レナ。まだ大丈夫っしょ」
「そ、そうだよね~」
俺の席に座るリア充と目が合った。そして、そのリア充はミキと呼ばれるグループのリーダーに発言するが、見事に蹴散らされている。
女子は男子よりもグループとか派閥とかそう言う集団意識の高い生き物だ。そして、その集団にはいつもその集団の意思であるリーダーが存在する。集団はリーダーの思うとおりに動くことを強要されている。リーダーがリンゴだと思えば梨だってリンゴになるし、リーダーが気にくわないと思えばどんなに良い奴でも排除される。つまり、グループのリーダーは独裁者で、その集団は小さな独裁国家ということだ。
男子である俺からしたら、そんなグループなんて居るだけ無駄で、決して良い気分で過ごせる状態ではない。だが、それは仕方ないのかも知れない。女子の世界は男子よりも複雑でデリケートなのだ。俺がリア充に対して反発したら学校社会的な死を意味するが、女子の場合はリーダー一人の機嫌を損ねれば、そこでジエンドだ。俺は傍目からだが、そういう、女子社会からはじき飛ばされた人を何人も見たことがある。
正直、そういうものを放置するのはよくないのかも知れない。だが、俺がその状態に危機感を覚えたってどうすることも出来ないのだ。却って俺が危機感を覚えて行動なんてしたら悪化させる未来しかない。俺には他人の考えを変えられる特殊能力はないし、あのグループのリーダーのように、人の意思を強制出来る権力も持っていない。そんな奴が行動に起こしたり状況の改善を提言したりすれば、俺がはじき飛ばされるだけではなく、はじき飛ばされた女子の立場はより悪くなる。こういう問題は難しいのだ。難しいから誰も手が出せない、有効な解決手段を思いつかない。
だが、手が出せないから、解決手段を思いつかないから、そう言って静観する俺のような人間は醜く最低な人間だ。
「皆さん、自分の席に戻って下さい」
教室の中に委員長の凜とした声が響く。その声が聞こえると、俺の席周辺を占領していたリア充達も散り散りになって自分の席に戻っていく。たとえ強大な権力を持っているグループのリーダーも、クラス全体のトップという確たるポジションに居る委員長に相対することは出来ない。そう考えると、委員長だったらこの世の中を変えられるんじゃないかと思う。
「うっ……なんだ、この臭いは……」
席に近付いた瞬間に漂ってきた臭いに俺は顔をしかめる。
いろんな臭いが混ざり合った異臭。それはおそらく香水の臭いが混合されて出来た臭いなのだろう。
元々、俺は香水の臭いがあまり得意ではない。特に女性が付ける香水は総じて恐ろしく甘い香りがするから苦手だ。そして、最も苦手なのは香水の香りが混ざり合ったこの異臭だ。例えるなら、砂糖に蜂蜜、メープルシロップ、水飴等の考えられる限りの甘味料を混ぜて鍋で煮詰めた感じの、実に濃度の濃い臭い。そんな臭いが、俺の席の周りに漂っている。
「これは、酷い……」
さりげなく、自分に扇ぐ振りをして下敷きで風を作って自分の周りから臭いを追い出す。しかし、リア充が座っていた俺の椅子にはその香水の香りが残っていてなかなか臭いは晴れない。
結局、二時間目の授業終わりまでその異臭は残っていた。
昼休み前の最後の授業である四時間目が移動教室の授業だとめんどくさい。それが自分のクラスから遠い理科室ともなればそれはそれは大変だ。
俺は昼飯を食堂で食べる派だから、食堂に行かないといけない。しかし、荷物を持ったまま食堂に向かうと邪魔で仕方が無い。だから一旦教室に戻って教科書等の荷物を置いてから食堂に向かうという効率の悪い行動をしなければならない。そして、俺は今、せっかく教室に戻ってきたのに再び理科室に向かっている。結論から言えば、忘れ物をしたのだ。
さっき降りてきたばかりの階段を上って、数分前に他の生徒に紛れながら歩いた渡り廊下を渡って、第一理科室のある棟の二階に着いた。そこで俺はふと立ち止まって思う。
「食堂の帰りに取りに来ればよかった……」
ここまで来て思い出しても仕方が無い。それに昼休みに誰かがこの理科室を使っていて、それにばったり出くわして気まずい思いをする可能性を考えればこれでよかったのかも知れない。
自分の行動が無駄ではなかったと自分で自分を肯定し、若干虚しい気持ちになりながら俺は理科室のドアを開いた。
「す、好きです!」
昼休みに誰かがこの理科室を使っていて、それにばったり出くわして気まずい思いをする可能性を考えて俺は忘れ物を取りに来た。しかし、俺はそれを危惧したせいで、この世で考えられる中でも、タイミングの悪いシチュエーション、ベストファイブに入るであろうタイミングに出くわしてしまった。
少しだけ開いた窓から吹き込む風がカーテンを揺らす人気のない理科室の壁際、そこに女子生徒が立っていた。顔を真っ赤にして両目を瞑り正面に向かって「好きです」と言っている。これはいわゆる告白というやつで、本人にも目撃した俺からしても実に恥ずかしい場面だ。しかし、その告白は少しだけ普通じゃない、告白の相手が普通じゃないのだ。
女子生徒の前に立っているのは、いつ見ても服を着ておらず、肌どころか骨や筋繊維、心臓、胃、腎臓、肝臓、大腸、小腸等の内臓まで恥ずかしげもなく露出している存在。まあ……いわゆる人体模型というやつだ。
この世に人体模型を愛する人が絶対に居ないとは言い切れない。人の趣味思考は人それぞれ千差万別、十人十色だからである。しかし、決して絶対数の多い趣味だとは言えない。だが、その人体模型を愛する人を目撃してしまったのだから、恐ろしく気まずい。ただ幸いなのは、まだ彼女が俺の存在に気付いていないことだ。きっと一世一代の大告白! の緊張のせいで、俺がドアを開けた音にも気付いてないのだろう。このまま立ち去ればまだ間に合う。
ゆっくり後ろに俺は右足を下げた。だが、その右足のかかとが床から僅かにせり出したドアのレールに引っかかってしまった。
俺の体は後ろ向きに体重移動をして、体が後ろに傾く。視界に見える風景がスローモーションで動き、俺は気が付いたら右手をドアにしたたか打ち付ける。そして打ち付けた痛みと共に激しい激突音が理科室に響いた。
「えっ!?」
「イッテ! あっ……」
考えられる限り最悪の結末である。廊下に尻餅をついた俺は、理科室の中にたった一人残った彼女と目が合う。いや、彼女の趣味を尊重するなら、理科室に居る二人のうちの片方と言った方がよいかもしれない。
「あれ?」
俺は目と目が合った相手を見て、思わずそう間抜けた声を上げた。彼女は、朝、俺の席を占領していたリア充だったのだ。
髪型は金髪の若干のウエーブが掛かったセミロング。身長は女子にしては高めであるが胸は残念である。手首には派手な柄のシュシュを付けていて、制服も最近のリア充よろしく着崩してスカートを短くするという簡単な改造も施されている。
そんな彼女は、俺の姿を見て一世一代の大告白の時よりも真っ赤に染まった顔をこちらに向け、フルフルと小刻みに振るえる右手の人差し指を伸ばし、俺を指差している。
「なななな、なんでアンタがここに居るのよっ!」
「い、いや、忘れ物を取りに来ただけで」
そうだ、俺は悪くない。俺はただ自分が置き忘れたものを取りに戻ってきただけで違法性はない。しかし、人体模型に告白することも違法ではないから、この場合どっちに非があるのだろうか?
「み、見た?」
「えっと、何を?」
とりあえず、とぼけてみる。
「告白よ!」
あ~あ、そこは「そう、なら別にいいけど」って言えばどっちもダメージを負わずに回避出来たのに、自分で地雷を踏みに行くとは。しかし、ここまで言われてとぼけることも出来ない。
「い、いいんじゃないか? 人にはそれぞれ趣味があるし、俺には人体模型が好きって気持ちは分からないが、分からないからと言ってバカにしたりみだりに言いふらしたりはしない。約束する」
「ちょっ、趣味? 人体模型!?」
俺の言葉を聞いた彼女は露骨に驚いた表情をする。そして、頭から湯気でも上がりそうな沸騰したやかんみたいにカタカタ体を震わせて叫んだ。
「アタシ、人体模型が好きな訳じゃないしッ! これは告白の練習で! ハッ!?」
何とも恥ずかしいことを自分で言っておいて、恥ずかしさに耐えきれず彼女は俯く。しかし、とりあえず彼女は強度の人体模型愛好家ではないらしい。それどころか、告白の練習なんかしちゃう、とっても乙女な心の持ち主のようだ。うん、そっちの方も他人に知られて恥ずかしいことは変わりない。
「分かった分かった。その告白の練習の方も誰にも言わないから安心してくれ」
人体模型に告白していようが、告白の練習をしていようが、俺にとってはどっちでもいい話だ。ただ、見た感じ、彼女は背が高いが愛嬌のある顔をしている。だから男には不自由してなさそうに見えるから、告白の練習をする必要なんてない気もする。
「バッ、バラしたら絶対に許さないから!」
「だから言わないって」
ムキーッと警戒心剥き出しで俺を睨んでいるリア充に構わず、俺は忘れていた筆箱を手に取って理科室の出入り口まで歩いていく。
後ろでまだ睨み付けているであろうリア充は何も言わない。まあ、これ以上何かを言えば、自分で自分の恥ずかしさを直視することになってしまう。
それにしても彼女は、見た目は遊んでいそうな感じなのに、実際は純情なのかもしれない。人は見かけによらないと言うが、何となくリア充に対する認識が改まった気がする。
ただ、臭いのキツい香水は、どう転んだって好きになれない。
奉仕。それは金銭や物等の報酬をもらうことをせず、他に何か見返りを要求することもせず働くことを言う。しかし、奉仕であるかないかは、働く本人の心持ちによって決まる。そして奉仕は自主的でなければ奉仕ではない。
うちの学校には定期的に奉仕活動というものがある。奉仕活動は時々校外の地域清掃活動も行うが、基本的に学校内の大規模な清掃ばかりだ。
日頃の清掃では行き届かないグラウンドや校舎周りの草抜き。他にはこの夏前の時期になればプールの清掃をすることもある。しかし、それらの奉仕活動は生徒が自主的に行っているわけではなく、大昔の生徒会が定期的な活動にしようと生徒総会提案し、採決、可決を経て、職員会議で決定されたものである。生徒会、いわゆる生徒会執行部も生徒であるから、生徒が自主的に発信した活動なのは間違いない。ただ、この前の図書室整理と違い、こっちは強制参加である。
貴重な授業時間の一時間を割いているから仕方がないが、乗り気ではない生徒も少なからず存在する。ただ、俺は普通に眠い授業を受けるよりマシだから強制参加奉仕活動には肯定的だ。
そしてそれは、ここに居るリア充共も同じなようだ。しかし、同じなのは授業を受けるよりマシだからという点だけで、その他は全く違う。
「うっわー埃っぽい。汚くて入りたくないんですけど」
「マジ有り得ないよね」
「体育倉庫楽だって言ったの誰だし」
「まあ、この後は選択授業だから楽じゃん」
「だねー、ホント選択授業の家庭科楽だわー」
グラウンド脇に建てられた体育用具用倉庫、通称体育倉庫の清掃を受け持っているはずの女子リア充グループは、体育倉庫の外で座ってさっきからそうぶつくさと文句を言っている。
ちなみに俺は、別の割り当てられた掃除場で真面目に奉仕活動に励んでいた。しかし、クラスに割り当てられた活動場所を見回ってきた委員長が俺に言ったのだ。「体育倉庫の清掃の進みが悪いから手伝って来てくれないかしら?」と。
クラスのトップである委員長様の指示は絶対であるし、俺達のところはもう掃除が終わって雑談が始まっていたから仕方ない。ちなみに、俺は雑談には相槌を打つ役という重要な役回りで参加していた。
その重要な役回りを放置して来てみれば、この有様である。埃っぽいどころか、埃を立てるために中に入った様子もない。時間にはまだ余裕があるとはいえ、全く手を付けられていない所からやるのは辛いものがある。
「さて、やるか」
「お、俺達もやろうか」
リア充グループと一緒に話していた男子リア充グループがノロノロと寄ってくる。男子のリア充グループは、サッカー部とテニス部の男子が混ざった構成だ。
とりあえず、俺は中に入ってるものは全部出す。体育倉庫の中には色んな用具が詰め込まれて掃除が出来る状態ではない。床には用具に付着していたであろう砂が溜まって、靴で床を踏む度にジャリジャリと音が鳴る。これは箒で掃くだけではダメそうだ。
「ちょっと水切りモップを借りてくる。中のもの全部出して水で流した方が楽そうだ」
「ああ、ありがとう、ダセ」
男子リア充グループのリーダーであるサッカー部員がニッコリと笑って言う。いや、本来なら君達が借りて来ないといけないんだからね?
「ア、アタシが――」
「レナが行くことないし。そんなのそいつにやらせとけばいいじゃん」
女子リア充グループのリーダーを見ていると、間違っていてもまだ人を名前で呼ぼうとする人の方が幾分マシに見えてくる。根本的に、彼女は俺のことを見下しているのだろう。格下の存在は格上の存在のためにせっせと働くことが当然だと思っているのだ。
「水切りモップを取って来るだけだから別に大丈夫だ。ありがとな」
「そ、そう……」
レナと呼ばれた人体模型に告白した彼女は青島玲奈。人体模型に告白の練習をしていたリア充だ。俺は彼女の申し出をやんわりと断り、水切りモップを取りに行く。
何を心配しているか知らないが、俺はあの件に関して個人的に思い出してニヤニヤするくらいで、誰かに言いふらしたり脅しの種にしたりはしない。それにやっぱり、臭いのキツい場所に留まるのは体調に悪いのだ。彼女が付いてくると鼻のリフレッシュが出来なくて困る。
水切りモップを借りてきて戻ってくると、男子達が中の用具を出して、粗方の砂埃は箒で掃いておいてくれていた。最初からそうやってやってくれていれば俺が出る幕はなかったのだが、まあ掃除をしたのだから文句を言う訳にも行かない。
「じゃあ内側から水を撒いて――」
「あー、それ私やるー」
女王様の気まぐれか、女子リア充グループリーダーミキ様がそうおっしゃった。今すぐ地球外に避難しないと地球が滅亡してしまうんじゃなかろうか?
近くにあった水道の蛇口にホースの端をサッカー部員が突っ込み、もう片方をミキ様の手渡す。
「あんた、水出して」
なぜ俺が、と思うが蛇口を捻るだけで学校生活が守られるのだから安いものだ。俺は水道に近付いてゆっくりと蛇口を捻る。するとミキ様の持ったホースの端から勢い良く水が飛び出した。
ミキ様は適当に体育倉庫の床に水を撒く。しかし入り口から一歩も動かないから砂埃を流し出すのではなく、体育倉庫の中に押し戻してしまっている。それじゃ全く意味がない。
「あー、内側からやらないと砂埃出ないんだけど」
「なんで私がこんな埃まみれの中に入らないといけないわけ?」
いやいや、ミキ様が御自分で水を撒きたいとおっしゃったのではないですか。
「マージやってらんない。なんで、こんな奴に文句言われなきゃなんないわけ?」
「あ、バカっ!」
何だかご気分を害されたミキ様がやる気を無くされて、持っていたホースを放り投げた。しかし、ホースからは勢い良く水が出たままである。
水を吹き出したホースは水の勢いに任せたまま暴れ周り、俺に向かってその矛先を向けてきた。
「うおっぷっ!」
顔面に水流の直撃を食らい、一瞬息が出来なくなる。そして、顔面から攻撃を俺の胴体に向けたホースは見事に俺を水浸しにしてしまう。
「あのなっ――」
「キャッ!」
あまりの所業にいくら何でも我慢の限界だった俺だったが、その俺の言葉を一つの悲鳴がかき消した。
「玲奈ッ! ゴメン!」
全員の視線の先には、俺から矛先を移したホースの水流を全身に浴びた青島玲奈の姿があった。状況は俺より酷く、頭の先から足の先まで例外無くずぶ濡れだ。
「バカ! 前隠せ前!」
「えっ? キャアッ!」
顔を明後日の方向に向けて、俺は青島にそう叫ぶ。
今は合い服、いわゆる冬服と夏服の間の時期で、女子の合い服は長袖の白いブラウスにリボン、そしてプリーツスカートというシンプルなものだ。そのシンプルさゆえに、全身を濡らしている状態ではブラウスの下に着ている下着が透けてしまっていた。
白を基調とした控えめな赤色の水玉模様をしていて、派手な外見にしては大人しめな柄だった。胸のあたりは残念だが、それなりに女性らしくはある。
「マジごめん、玲奈」
ミキ様は顔を真っ青にして青島に謝る。しかし、謝ったからと言ってどうしようもない。
「ちょっと先生呼んでくる」
「ちょっと待ってくれ、俺も一緒に行く。えっと、青島、とりあえず体育倉庫の中に隠れてろ」
俺はそれだけ言って、先生を呼びに行くテニス部の奴と一緒に走る。それにしても、濡れたズボンが足に張り付いて動きにくい。
「あまり人に知られるようなことはするなよ。担任だけをやんわりと連れて来てやれ」
「ダセって優しい所もあるんだな」
俺の言葉を聞いたテニス部員が心底驚いた表情をする。なんだその失礼な目は。
「優しくなんかない。男ならバカにして笑って終わりだが女子はそうもいかんだろうが。俺よりリア充のお前らの方が、そういうのよく分かるだろ、普通」
「そうだな、分かった」
「俺は教室に戻って取りに行く物がある。だから担任の方は任せた」
「オッケー、了解した」
いつも運動をしているテニス部員は瞬く間に俺を置いて走り去っていき、体力の尽きた俺は走るのを止めて一息つく。
「階段、走って登るのか……」
運動不足な俺にはキツすぎる運動を覚悟して、俺は止めていた足を再び動かして校舎の中に入った。
俺が体育倉庫に戻ってきた時には、何とも気まずい雰囲気が漂っていた。漂う臭いだけでもキツいのに、雰囲気くらい明るくしてほしかった。
体育倉庫の中に入ると、壁際にしゃがみ込む青島の姿が映る。
「ほら、タオルと体操服だ。安心しろ、洗濯してるしどっちも今日は使ってない」
「いや、でも……」
「男の体操服を着たくないのは分かるが、風邪を引くよりはマシだろ」
「別に嫌じゃないけど、アンタどうするのよ」
「選択授業は見学する。もともと人が足りなくて割り当てられた授業だ。それに俺は運動好きじゃないから合法的にサボれるからメリットしかない。それとも、そのずぶ濡れのまま家庭科やる気か?」
体操服とタオルが入ったスポーツバッグを見詰め、それから俺に見上げるように視線を向けた青島の瞳は、少しだけ潤んでいた。
濡れた髪は頬に張り付き、毛先からは水滴が滴り落ちる。小刻みに震える指先は寒さに耐えているのだろうか?
「心配するな、こっちの件も言いふらしたりはしない」
そう言うと、青島はゆっくりと手を伸ばして俺からスポーツバッグを受け取ると、ギュッと体の前に抱き締めた。
「ありがと……」
「んじゃ、俺は外に出てるからさっさと着替えろよ。濡れた制服はとりあえずスポーツバッグの中に入れていいぞ。そのまま持ってくわけにはいかないからな」
「うん……」
体育倉庫を出ると、担任が既に来ていてしこたまミキ様に説教をしていた。まあ、これで大人しくなる訳もないから、大人しくなったとしてもその時だけのものだろう。
残りの時間、ずぶ濡れの俺は日当たりの良い場所に座って、自分自身を天日干しすることを担任から許された。風も吹いていないし、天から降り注ぐ太陽光のおかげで寒い思いはしないで済んでいる。
「ちょっと」
「ん?」
あまりにも暖かくて、そのまま寝そうになっているところに声を掛けられた。
「これ、ありがと」
「制服、乾いたんだな」
「先生がコインランドリーで乾かして来てくれたから」
「なるほど」
「タオルでちゃんと水気とったから体操服は濡れてないと思う。だから選択授業でも使えるから」
何ということだ、これでは合法的に選択授業を見学することが出来ない。
「タオルは洗って返すから」
「別にタオルそのままでもいいんだが」
「えっ! ちょっとそれは恥ずかしいし」
「あっ……まあそうだよな、そりゃあ」
多分水気を取るために体を直接拭いたのだろう。女子に対して、自分の肌に触れた後のタオルを男子に渡せと言うのは、俺に変態のレッテルが貼られる可能性が高い。
「別にアンタのことが嫌ってわけじゃなくて、その、やっぱり恥ずかしいし」
「分かった分かった、タオルに関しては好きにしてくれ」
青島からスポーツバッグを受け取った俺は、とりあえずバッグを開ける。俺の体操服に取られるという需要はないが、なにかしていないと何となく気まずい。
「うおっ……」
「えっ!?」
「い、いや、何でもない」
失念していた。青島が香水を付けていることを。
スポーツバッグの中から漂う甘い香り。混合されていないから、むせ返るようや臭いにはなっていないが、それでも香水が苦手な俺にはキツい。
「何かあったんでしょ? やっぱり体操服も洗濯して」
「いや、ちょっと香水の匂いが苦手なだけだ。多分運動してたら気にならなくなる」
どうやら香水というやつは水でも消えない手強いやつのようだ。これは今日の選択授業はいつも以上にやる気を出さなければいけないようだ。
「香水……苦手なんだ……」
何故か視線を地面に落として元気のない声で呟く青島。やはり言葉を濁しておいた方がよかったようだ。
「アタシ、臭い?」
「いやいや、そういう訳じゃなくてだなっ! 俺は元々香水が苦手なだけだから青島が臭い訳じゃなくて、香水が臭いんだ。つまり青島が悪いわけではなくて、その香水を作った香水メーカーに落ち度がある!」
何のフォローなのかなそもそもフォローになっているのかもよく分からない。しかし、俯いて何故か今にも泣き出しそうな青島を見ていたら、何故かどうにか機嫌を取り戻そうと、よく分からないことを言ってしまった。
「そっか」
「おう、もうすぐ授業終わるし、俺は体操服に着替えるから行くな」
俺はそれだけ言って駆け出した。全く情けないにもほどがある敵前逃亡だった。しかし、それは仕方のないことなのだ。
経験値のあるリア充だろうが、経験値の皆無な俺だろうが、例外無く弱いのだ。女の涙というやつに。泣かれては最後、どうすればいいのか分からなくなる。だから、俺には……。
泣かれる前に、逃げるしか方法はない。
選択授業は何とも落ち着かない授業だった。
自分の体から女子の匂いが漂っているし、どんなに必死に走り回ってどんなに汗をかいてもその匂いは消えなかった。だから、不安定な精神状態でいつも以上に体を動かすという事態に陥ってしまった。そのせいでいつも以上に精神的、身体的疲労は大きかった。
『なんか、ダセが来たら青島さんずぶ濡れになったらしいよ』
おいおい、なんかそれ、俺が悪いみたいじゃないか。
『てか、誰に聞いても青島さんのブラジャーの柄教えてくんないの、ちぇっ』
俺が居合わせた男子に口止めしておいたし、ミキ様からも強い威圧があったから、一〇割ミキ様のお陰で青島の水玉が知られることはないだろう。
メールが聞こえなくなってホッと落ち着いていると、目の前にウサギが現れた。いや、ウサギ柄の小さな包みだ。
「青島、何だこれ?」
「家庭科で作ったクッキーの余り」
視界の中央でユラユラ揺れるウサギ柄の包みの向こう側から、青島がブスッとした表情を向けてくる。なんで機嫌が悪いのか分からん。
「そうか、中身は分かったが、何で俺の目の前で吊されてるんだ?」
「お礼よ」
選択授業の前は泣きそうだったのに、今度は若干怒っているように見える。しょげたり泣いたり怒ったり、女心と秋の空をここまで体現した人は居ただろうか?
「その……ありがと、打瀬」
青島はそう言って自分の席に戻り、いつも通りリア充友達と楽しく会話に花を咲かせている。俺は、受け取った包みの口を開き恐る恐る中身を一つ摘む。
リア充は総じて料理が出来ない、と言うのはもはやテンプレートである。ファミレスのドリンクバーは無意味に混ぜたがるし、調理実習では必要の無い隠し味を入れたがる。だから、典型的リア充の集まりが作ったクッキーもその例に漏れることはないのだ。
「あれ? 意外と普通だな」
摘んだクッキーは家庭科の授業で作った割には普通な見た目をしていた。何か異物が混入していたり、全体的に灰化していたりなんてこともない。しかし、見た目は美味しそうだけど味が……なんてパターンも十分に考えられる。
意を決して、口にクッキーを放り込み噛み砕く。
「ん? 美味いぞ?」
大方の予想を裏切り、クッキーは美味しかった。焼き立ての甘いバタークッキーで、甘過ぎず何個でも食べられるクッキーだった。
モグモグとクッキーを口の中で噛み砕きながら、俺はクッキーの味と青島の言葉を反すうして飲み込んだ後、ボーッと正面に向けて呟く。
「青島も、俺の名前知ってたのか」