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【三】

【三】


 人は皆、悩みを持っているものである。世の中には「悩み? 悩みが無いのが悩み!」なんてアホくさいことをのたうち回る者も居るが、絶対にそんなことはない。

 勉強や部活の成績から始まる学校での評価。仲の良い友達同士での仲違い。教室内で形成された、別の仲良しグループとの派閥争い。片思いしている相手の恋愛動向。恋人の周りをうろつく異性の影。悪化する一方の社会情勢。進行する地球温暖化。世界平和を実現するためにはどうすればいいのか。そんな大小様々な悩みを誰かしら一つは持っているものだ。

 俺は、人並み以上に悩みを持っている人間だと思う。

 まずは、やはり少し人を冷めて目で見てしまうことは良くない。他には人の話をよく聞き流すというのも良くないと思う。挙げれば切りが無いが、やはり根本的に俺という人間は若干のネガティブ思考の傾向がある。そこが、全ての負の根源と言っても良い。いや、逆に考えればそのネガティブ思考さえ無くなれば俺は完璧超人になれるのでは……?

 そんな悩み多き人間である俺の今一番大きな悩みは、先日発覚したモテ期についてだ。俺のことを好きな人が居ると、メールを聞くことが出来るという能力で分かった。更に、その俺のことを好きな人は、俺の名前をダセではなく正しくウタセと覚えている人なのだ。

 そして、つい最近その俺の名前を正しく覚えている人が見付かった。

「日直の人は学級日誌の記入と休み時間の黒板清掃。それと、放課後の清掃をお願いします」

 目の前でクラスメイトにそう話す彼女。国富朱里、我がクラスの真面目な委員長様だ。

 日直がやり残した仕事を放課後手伝った時、委員長にお礼を言われた。その時に、彼女が俺の名前をきちんと覚えていることが分かったのだ。しかし、それだけでは彼女が俺のことを好きだと決まった訳じゃ無い。

「……なにか?」

「いや、なんでもないです」

 ふいに目が合ってしまい、俺は愛想笑いを浮かべる。なんだろう、急に意識してしまって上手く会話をすることが出来ない。だが、委員長が俺のことを好きなだと考えようとしても、その可能性は一向に高くならない。なんせ委員長と俺の間に、取り立てて委員長の好感度が上がるような出来事がないからだ。

 好感度なんて言葉を使うと、なんだか恋愛ゲームのステータスみたいに聞こえるが、現実世界でも好感度はある。この人は素敵な人だとか、この人は頼りになる人だとか、そういう好感度に関わる印象を持たれなければ、好かれる以前に興味さえ向けてもらえないものだ。だが、俺はその好感度に関わる出来事を委員長との間で経験した覚えがない。

 好感度を上げる方法と言えば、相手の好きな物を会う度に渡したり、目当ての女の子に会うために攻略サイトで会える場所や好きな場所、その日の行動パターンを調べ上げて先回りしたりという、地道なことで上げる方法が最もポピュラーだ。あとは、物語の節目にある大きな出来事、俗に言うイベントというやつだ。そのイベントで迫られる選択肢で何を選ぶかによって今後の展開、特に女の子の自分に対する評価認識が変わってくる。

 大分話がずれてしまったが、ゲームのイベントのように、人の気持ちに変化が現れるときには必ずきっかけがある。そのきっかけになるようなことがあった覚えが無いのだから、名前をきちんと覚えてくれていたというだけで、彼女が俺のことを好きなのだと考えるのは無理がある。それに、なんだかそう考えると、酷く俺が上から目線でいかにもモテる男みたいな嫌な奴になってしまったようで悲しい。俺はそんなリア充の鎧を着た悪意に成り下がるなんてまっぴら御免だ。

 しかし、今の所俺の名前をきちんと覚えてくれていると判明したのは委員長だけだ。他にも、俺の名前を覚えてくれている人が居る可能性はある。だが、委員長があのメールの送信者である可能性は高い。

 委員長は性格も少し堅いところは玉に瑕だが、常識のあるとても真面目な人だ。それに、見た目も美人だし、彼女が俺のことを好きだとしたらそれは嬉しいとは思う。……いや、何の確証も無いのにそういうことを考えるのはよくない。

「じゃあ打瀬、頼んだぞ」

「え?」

 担任教師に方をポンっと叩かれ、俺は何のことか分からず教室を出て行く担任教師の後ろ姿を見詰めるしかなかった。

「人の話をきちんと聞いていないからそういうことになるのよ?」

 ホームルームが終わって雑談を始めるクラスメイトが発する雑音の中、委員長が心底呆れた表情で俺の方に視線を向ける。上から、まるで見下すように俺を見下ろしている。

「えっと、俺は何を頼まれたんだ?」

「どこから話を聞いてなかったの?」

「え~っと、日直の人は学級日誌の記入と休み時間の黒板清掃。それと、放課後の清掃をお願いします。以降は全く」

「…………それって、先生が来る前に私が言ったことじゃない。ということは、先生の話は最初から全く聞いてなかったということね」

「まあ、そういうことにもなるかな?」

「そういうことにしかならないわ。昼休み、図書室に新規図書の追加があるらしいの。それが少し量が多いみたいで、図書委員会から手伝ってくれる人を探していたそうよ」

「それを俺に?」

「そう、私が行っても良かったのだけれど、昼休みに学年委員長会議があって、放課後には全校委員長会議があるの。だから、打瀬くんを推薦しておいたわ」

「そういうことか」

「あら? 怒らないのね」

「まあ、暇人だし、俺」

 昼休みの過ごし方を持て余している身である俺には、昼休みにやることが増えたところでさしたる問題ではない。それに、委員長が行かず俺も行かなかったら、きっとこのクラスで行くような人間はいないだろう。真面目でボランティア精神溢れる委員長と成り行きで働かされる俺という雲泥の差はあるが。

「それで、どうすればいいんだ?」

「それは、日向ひむかいさんに聞いてもらえるかしら。私は詳細に関して何も分からないし」

「ああ、日向か~」

 委員長が視線を向けた先には、静かに文庫本を手にして読書をしている小柄な女子生徒が居た。

 日向閑琉ひむかいしずる。文芸部に所属する読書家で図書委員。そして、我がクラスで俺以上に他人と関わりの薄い人物だ。俺の場合は滲み出るオーラのせいで周りが無意識に関わりを持たないだけだが、彼女の場合は少し違う。

 彼女は、自ら他人を避けている。他人との関わりを意図的に断つ部類の人間だ。悪く言えば排他的な人間と言える。

 教室で過ごす時は大抵本を読んでいて、昼休みはいつの間にか教室から姿を消している。それに、必要最低限のことしか話さない。いや、必要最低限のことを話さないこともあるし困ることもある。

 少し前、彼女にぶつかってしまった時に「ごめん」と謝ったことがあった。その時、彼女は何も言わず視線を床に向けたまま歩き去ってしまったのだ。いわゆるガン無視というやつである。

 俺は人を無視する行為が嫌いだ。人を無視するということは、その人の存在を認めていないということだ。あたかもその人がそこに存在していないように、まるで最初からこの世に生まれていない人間のように扱う無視という行為は、酷く相手を傷付ける行為だ。

 そんなこともあって、俺は彼女が苦手だ。

「とりあえず、聞いてくるか」

 社会で生きている以上、苦手なものを避けるなんてことは出来ない。上手く立ち回って自分に対するダメージを軽減することは可能だが、苦手なものにも対応しなくてはいけない。そこで試されるのが、どれだけ波風を立てずに無難に行動出来るかという能力だ。

 波風が立つという状況は、双方の意見や思惑がぶつかった時に起きる。ということは、どちらかが意見や思惑を持っていなければ波風は立たないということだ。

「日向、今日の昼休みにある図書委員会の手伝いってどうすればいいんだ?」

 本を読んでいる日向の隣に立って単刀直入に言う。こういう場合は、始めに「よう」とか「おはよう」とか挨拶的なものを付けて和やかな雰囲気にするものなのだが、日向のような相手にそういうことをやっても、全くの無意味である。

「お昼を食べたら……図書室に」

「そうか、ありがとな」

 そう言ってそそくさと日向の側から離れる。やっぱり視線も向けず、ずっと本を見詰めたままだった。しかし、必要な情報は手に入れられた。

 昼飯を食べてから図書室に行けばいい。それは特に時間指定がされていないということだ。時間をきっちり決めていないということは、委員長が言っていたかなりの量というのがそもそも誰かの勘違いだったか、量はあるが特に急ぐ仕事でも無いからのんびりやるつもりなのかのどちらかだろう。だが、後者の、のんびりやるつもりなら手伝いを頼むのは少しおかしい気がする。まあ、そのあたりの事情は深く考えてもただ疲れるだけだから考えないことにする。俺はただの作業者だ。与えられた仕事を無難にこなしていればそれでいい。


 昼食はカツカレーだった。特に何かに勝つ気はなかったし、そもそも勝負事に無縁な俺がそんな願掛けをする必要性もない。だから、単に今日はカツカレーの気分だっただけという面白味のない理由がメニューの決定理由。いや、俺はそもそも芸人でもないのだから面白さを求められている訳ではないか。

 腹一杯になって足を向けたのは神風の吹く階段……ではなく、職員室のある管理棟の奥にある一室。新聞や数種類の雑誌、図鑑類、あとは新書から文庫等の書籍を管理貸し出ししている場所。人はここを図書室と呼ぶ。

 その図書室で行われる新規図書の追加にかり出された俺は、真面目に昼飯を食べてすぐに図書室を訪れたのだ。

 図書室の中に入ると、既に何名かの生徒が段ボールに入った本にバーコードが印刷されたシールをペタペタと貼っている。あれは学校側で貸し出しの履歴等を管理するために必要なもので、それに合わせて棚の番号が書かれたシールも背表紙に貼っているようだ。

「あの……手伝いで来たんですけど、俺は何をすれば?」

「ああ、そこにシールが張り終わった本があるから、背表紙の番号シールを確認して同じ番号が書かれた箱に分けてくれる?」

「分かりました」

 手近に居た男子の先輩に仕事をもらって、指示された場所で俺は驚愕した。

「なっ、なんて量だ……」

「少し前に教育委員会の人達が視察に来た時に、うちの図書室の本が古いってことが少し話題になったみたい。なんか委員の人に読書を推奨してる人が居て、結構厳しく言われたから、かなりの量を補充することになったらしいよ」

「そうなんですか。それにしても、これはもはや補充じゃ無くて入れ替えとかのレベルじゃ……」

「まあ、確かに、一度に補充する数って言ったら一〇数冊がいいところだろうね」

 苦笑いしながら言う先輩に、俺は愛想笑いさえ返すことが出来なかった。目の前に見えている、壮絶な量の本に圧倒されていたからだ。多分、五〇〇冊は超えているんじゃないだろうか? いや、一〇〇〇冊も超えてしまっているの可能性もある?

「えっと、この分類を昼休みでやるんですか?」

「え? 放課後も手伝ってもらうって話だったけど、きみは聞いてなかったの?」

「そうですか」

 一瞬、話が違うぞ! と、委員長に言いたくなったが、委員長は詳しくは知らないと言っていた。それに、あの真面目な委員長が教師の話を聞き漏らしていたということも考え辛い。だったら、伝達ミスか単に教師が言い忘れたのか、まあどっちにしても昼休みに終わる量ではないのは確かだ。しかし、辺りを見渡してみたが、この物量に対して今居る人員は明らかに足りないように思える。パッと見ただけで一〇人にも満たない。

「他のクラスの人はまだ?」

「あ~、多分もう来ないんじゃないかな。協力してくれる人、ボランティアでやってくれる人って話だから」

「なるほど……じゃあ、やりますか」

 絶望的なことを聞いた気がするが、うだうだ言っても目の前にある本の山は減らない。無駄口を叩いている時間が無駄だ。

「ありがとう、よろしくお願いするよ」

「ちなみに、先輩はボランティアですか?」

 ふと俺が訪ねた言葉に、先輩はなんだか決まりが悪いような困ったような、そんな表情をして、ニッコリ笑って言った。

「いや、僕は生徒会だから」


 俺は本はどちらかと言えば好きな方だ。全く読まないという訳では無いが、大の読書家という訳でも無い。おそらく最近の高校生の平均読書数は超えているだろうが。それでも、日向みたいに暇さえあれば本を読んでいるという訳でも無い。好きなジャンルはないが、ホラーと純文学に属する本以外なら大抵は読めるはずだ。ホラーは、なぜ娯楽のために怖い思いをしなければならないのかが俺には理解出来ない。純文学に関しては、そもそも内容が難解過ぎて自分が理解出来ているのかを理解出来ない、という自分で言っていても意味の分からない事態に陥ってしまうから無理だ。

 俺はサイエンスフィクション、ファンタジー、恋愛等のジャンルの小説は読むが、図鑑や辞典を読むのも結構楽しい。何かに没頭したい時は物語として書かれた小説はいいが、俺の場合は大抵暇つぶしに本を読むことが多い。そんな時に考えることが必要な小説は疲れてしまう。でも、図鑑や辞典は何も考えずに読める。こんな変な動物が居るのか~とか、こんな言葉あるのね~っと、適当な感じで読めるのが意外と時間を潰せるのだ。

「これは五〇〇番台だからこっちの箱で、こっちは二〇〇番台……」

 置かれた本の背表紙を確認して、箱に分けて入れていく単純な作業。案外、単純作業というものは俺に合っているのかもしれない。番号を確認して入れるだけだから何も考えずに出来る。あの、高めのお菓子とか精密機器、あとは壊れやすい食器等を買ったときに付いてくる気泡緩衝材、通称プチプチを潰す行為に通ずるものがある気がする。時々なかなか潰れない気泡に当たったりしない分、こっちの方がストレスは少ない。

 どうやら本当に手伝いに来たのは俺だけのようで、もうすぐ昼休みも終わりの時間だが、未だ誰一人としてこの図書室を訪れた者は居ない。

 この学校の図書室、意外と利用者は多い。まあ図書室は静かだし、本を読むと言うより勉強スペースとして使う人が多いのだが、図書室を利用しているということには変わりない。そして、いつも使っている図書室に関する仕事があって、その手伝いを募っているのなら、普通なら手伝いにくるものではないか? そう俺は思う。

 この世で何かを得るためには対価が必要である。物を買うためにお金が必要であるころが正にそれだ。今回の件も、毎日毎日場所だけ借りて、いざその図書室から助けを求められたら知らん振りをするなんて、まったく冷たい人間達だ。

 来ない人間に何を言ったって、何を思ったって無駄だ。それは分かるが、この減らない本の数を見ていると、そう思ってしまっても仕方がない。

「とりあえず昼休みはここまでにしようか。また、放課後に頑張ろう」

 生徒会役員達と図書委員達は、バーコードの発行やらデータ入力やらという小難しい作業をやっていた。ああいうのはやり慣れている人や本の知識を持っている人にしか出来ない。だから残された俺が、本の仕分けを担当するのは必然だった。まあ、空いてる図書委員の人は仕分けを手伝ってくれるし、完全に俺一人という訳でも無いけれども。

「もう少し来てくれるとは思ったんだけどね」

「今後は少しやり方を考えないといけませんね」

 先輩の何人かがそんな話し合いをしていた。多分、小難しい作業は全て生徒会と図書委員で受け持ち、仕分けみたいな簡単な仕事を手伝いとして来てくれた生徒に任せようというつもりだったのだろう。だが、その算段は大きく狂った。しかし、それは仕方がないことなのだ。

 見たところ、図書委員は大人しい性格の人が多いように見える。だから、きっと今回の図書整理の手伝いを募ったのは図書委員ではなく、図書委員から依頼された生徒会がやったのだろう。そして、生徒会には集まらないという想定すらなかったのだ。

 生徒会という組織自体がボランティアに近い組織だ。確かに、生徒会を務めたという経験は進学就職に有利だろうし、なにより個人としての経験でも大きい。だが、そうは言っても学校生活の大部分を学校のため、他の生徒のために割くというのは、そういう打算だけでこなせるものじゃない。生徒会に所属する人はうちのクラス委員長に極めて近い、真面目な人間であることが多い。

 どうすれば学校が良くなるか、どうすればいじめが無くなるか、どうすれば楽しい文化祭が出来るか。そんなことを真剣に真面目に真っ直ぐに考えられる、そんないい人の才能を持った人達の集団だ。だから、彼ら彼女らにはない。人の心を疑うという概念が。

 世の中に面倒事を真正面か受け持ちこなす人は極めて少ない。生徒会はそんな極めて少ない人が集約された集団、ボランティアの精鋭だ。だが、大抵の人間は面倒事は出来るなら避けたいし触れたくないと思う人ばかりだ。

 生徒会は、面倒事でもみんなのために受け持つという精神を養ってきた賢者達だから分からなかった。人が他人のボランティア精神に寄り掛かって平気な平民であると。

 だがしかし、険しい顔で話していたところを見ると、今回のことで気が付いたのだろう。

 地域の清掃なんかのボランティア活動とかなら内申点狙いの生徒も集まるだろうが、今回の件は本当の意味でのボランティアだった。だから誰も来なかったのだ。

 とりあえず、放課後も手伝いは見込めない。これから午後の授業も始まるし、放課後は残された作業をやらなければいけない。そんな状況で改善案を話し合う時間的余裕はない。だから、放課後も俺はたった一人の真のボランティアとして、黙々と本を仕分けなければならないのは必至だ。

 とりあえず、仕分け作業自体は苦では無いが、そろそろ五〇〇番台と二〇〇番台以外の数字を見たくなってきた。


 帰りのショートホームルームが終わり、俺は教室を出てフッと息を吐く。周りでは楽しそうに足を進める生徒諸君。実に活発でよろしい限りだ。

 本当はすぐに帰りたいところだが、図書室ではあの大量の本達が俺を今か今かと待ってくれている。……なんだか、番号を見て仕分けているうちに愛着が湧いてきて変なことを考えてしまった。

「あ、あの……」

「んあ?」

 背伸びをして午後の授業で溜まった気だるさを振り払っていると、後ろから背中をちょんちょんと突かれて声を掛けられる。振り向くと、相変わらず何が楽しいのか床を眺めている日向が立っていた。

 背中には鞄を背負い、肩からスポーツバックを掛け、体の前に両手で文庫本を持っている。移動の時まで本を手にしているなんて、これは単なる読書家ではなく読書狂とでも呼ぶべきだろうか?

「む、無理に来なくてもいいです」

「は?」

「無理矢理来てもらわなくてもいいです。私達でやりますから」

「いや、無理矢理では無いんだけどな。確かに自分の意思でやったわけじゃないが、どうせ暇人だから」

「でも……昼休み、凄く大変そうでしたし……誰も来ないこと、気にしてたので」

 どうやら日向は昼休みに先輩とかわした会話を聞いていたらしい。しかし、自分達でやると言っても、俺が仕分けをやらなかったら誰が仕分けをやるのだろうか? データ入力やその他の作業は知識や経験を持っている人物にしか出来ない作業だ。それを図書委員と生徒会でやっていたが、その辺の作業者の人員に余裕があるように思えない。もちろん、余裕がないから手伝いを募ったわけで、たとえ誰にでも出来る簡単な作業だとしても作業者が誰も居なければ作業は進まない。

 やれる保証のない仕事をやるというのは責任感ではない。ただの強がり、やせ我慢、過信だ。

「日向」

「は、はい……」

 人が行き交う廊下の先から化学教師が日向の名前を呼んで小走りに走ってくる。俺は日向に背を向けて図書室に歩き出した。化学教師の用事がある相手は日向であって俺じゃない。だったらここでボケッと突っ立っている意味は無いし、さっさと行って本の仕分けを始めないと帰るのが遅くなってしまう。

 生徒会という組織は責任感が強い組織だ。だから与えられた仕事は一生懸命する。一生懸命するから、下校時間ギリギリまで作業をやるだろう。しかし、俺はそこまでボランティア精神に満ちあふれている出来た人間じゃない。だが、長いものに巻かれろ精神は満ち溢れてほとばしっている。だから、周りが残っているのに帰るという選択肢はない。だったら、早く帰るために一秒でも早く仕事に取りかからなくてはいけないのだ。

『図書室使えないから、駅前のドーナッツ屋さん行こう、にこっ。新メニュー出たんだって、びっくり』

『今日の部活、先生来ないんだって、びっくり。ラッキー、にこにこ』

『帰ったらすぐインしろよ。今日こそあのボス倒すんだからな』

『今日は図書館かカフェ行こうよ、図書室使えないし』

『静かに勉強出来る場所なのに、図書室使えないなんて迷惑だ~。ちゃんと昼休み中に終わらせておけよ。使えない奴ら、いらいら』

 飛び交うメール、聞こえる音。その全てに放課後に図書室で行われる作業を手伝おうという話題は上がらない。それどころか、図書室が使えないことに不満を漏らすメールが聞こえた。

 メールは連絡事項を伝える手段ではない。メールはコミュニケーションのツールだ。だから、私的なメールで学校の仕事が話題に上がることはあまりない。そもそも、彼ら彼女らは仕事があることを忘れている、もしくは仕事があること自体を知らない。いや、知っていて敢えて振れない奴も居るのかもしれない。

 彼ら彼女らからすれば、図書室が使いたいときに使えないのはおかしいことであり、図書室の管理維持責任は図書委員と生徒会、いや、学校にあると思い込んでいる。だから、図書室が使えないのは学校の責任であって彼ら彼女らは悪くない、そういう思考なのだ。

 図書室の管理維持責任のうち、管理に関しては図書委員と生徒会を含めた学校に責任がある。しかし、維持の責任に関しては生徒全体が追うべきだ。

 図書室は利用者から料金を徴収して利益を得ているわけじゃない。それに、図書室はそもそも教室に本を置いていて、それを正式な手続きをすれば、規則の範囲内で自由に貸し出しできるというだけの場所に過ぎない。図書室はレンタルコミック店や行政が管理して資金を投入している図書館ではないのだ。

 こんな現状に陥っている原因は、日本の文化であると俺は思う。

 日本には、おもてないの心とかサービス精神とか、お客様は神様だとか、そういう相手を敬う精神がある。それは悪くない、とても良いことだ。だが、それにおごって勘違いした人が増えたのは、その弊害だと思う。

 飲食店で他の客の迷惑など気にせず散々騒ぎ立てるおばさん連中。受けたサービスが気にくわなかったからと言って、金を払わないとふざけたことをのたうち回るおっさん。そして、図書室の責任を誰かに押し付けて的外れな不平不満を漏らすアホ共。

 お客様は神様ではなくお客様だ。どこまで行ってもお客様でしかなく、神様のような超次元的な能力や権力はない。だから、自分を何か特別な存在と勘違いして横柄な態度を取るのは愚かな行動であり、世間から冷ややかな目で見られる行為だ。

 だが、彼ら彼女らは知らない、認識していない。自分が間違っていることを。それは、誰も彼ら彼女らの間違いを指摘しないから。

 金さえ払えば何でも済まされる。求められた対価さえ払っていれば何をやってもいい。そう思う人間が世の中には多い。世の中のそういう奴らは分かっていない。自分が契約違反を犯していることを。

 彼ら彼女らは無意識下で、支払った対価で提供されるサービス以上のサービスを得ようとしているのだ。契約違反を犯して自分に有益を得ようとする行為は詐欺。つまり、日頃、この学校で図書室を使ってばかりで図書の整理を手伝わないやつらは、全て詐欺師だ。


 図書室に着くと、既に何名かの生徒が作業を始めていた。俺は昼休みにやりかけていた仕分けの作業に戻る。

 まだ終わりの見えない本の山。何度見ても気を失いたくなる光景である。

 イギリスの登山家、ジョージ・ハーバート・リー・マロリー。彼は世界最高峰の山、エベレストに挑んだ偉大な登山家だ。彼が「何故、あなたはエベレストに登るのか?」と問われ「そこにエベレストがあるから」と答えた話は、日本でも「そこの山があるから」と誤訳はされているが有名な逸話である。

 しかし、そんな偉大な登山家ではない俺は、今にも心が折れて引き返して仕舞いそうだ。これからまた五〇〇番台と二〇〇番台の数字を見る過酷な時間が始まる。作業自体は良いが、やはり簡単な作業でも個人の作業能力を超えた量の作業は長くなればなるほど辛くはなってくる。

「失礼する」

 図書室は静かにする場所だ。それは私語や大きな音が他人の読書の邪魔になるからという配慮から来ている。その図書室の中に響くその声は、入り口の方から聞こえた。

「……あの人達って」

 学生服の上に白衣を羽織った、銀縁眼鏡の偉そうな先輩。例の理科部の先輩だ。

「すみません、今日は図書室の利用は出来ないんです」

 図書委員の先輩が困った様子でそう理科部の先輩に言うが、理科部の先輩は右手を挙げて制するような行動を取った。

「いやいや、我々は図書室の利用に来たわけではない。いつも図書室では研究のための資料探しに使わせてもらっている恩がある。今日はそれに報いようと、部活動として蔵書の整理作業に加わらせて頂けないかと思ってね」

 なんだろう、凄く良いことをしているはずなのに、ものすごく偉そうでムカつく。だが、悪い人ではないのはよく分かる。

「それに、そこのダセくんには先日世話になったからな。彼が加わっているのなら、尚更参加しないわけにはいかない」

「ありがとうございます。あの、パソコンとか使えますか?」

「我が部は研究結果を纏める際にパソコンを常用している。一般生徒よりはパソコンの扱いは上手いだろう」

「助かります! 作業の説明をするのでどうぞ」

 図書委員の先輩は理科部に説明を始め、それを見ている他の作業者の表情が明るくなった。参加した理科部のメンバーは六名。きっと部員全員で来てくれたのだろう。一気に六人も人員が増えるのは大きい。

「あ、あの……」

「ん?」

 俺は止まっていた作業を再開して、五三四番の本を五〇〇の箱に入れた時、隣から声が掛かった。向けた視線の先には日向が立っていて、両手をギュッと握って体の前に組んでプルプルと震えている。体も小柄だし犬のチワワみたいだが、どう見たって俺に怯えているようにしか見えない。俺は大型犬か何かだとでも思われているのだろうか、わんわん。

「て、手伝います」

「あっちの作業はいいのか? こっちは誰にでも出来る作業だろ? わざわざ仕事を知ってる日向がやるような仕事じゃ――」

「私、文字は打てるけど、データ入力は苦手で……」

「そうか、じゃあ頼む。俺も流石に一人で作業するのは疲れた」

「ダセくん、僕らも手伝うよ」

 反対側から理科部の面々が歩いて来て、周囲を見渡して図書委員である日向に作業の内容を尋ねている。そして、日向はたどたどしくも、理科部の面々に作業を丁寧に説明していた。

 俺はそれを見て、日向閑琉という人間について思い違いをしていたらしいことに気付いた。彼女は自ら他人を避けている。他人との関わりを意図的に断つ部類の人間だ。だがそれは彼女が他人を嫌い、他人を見下しているからではなかったようだ。

 彼女は、他人と接するのが苦手。いわゆる、人見知りの激しい性格の持ち主だったようだ。顔見知りじゃない理科部員相手に顔を赤くして、必死に自分の言葉を伝えようとする姿はなんだか可愛らしく見えた。

 人を他人が理解するのは不可能なことだ。どんなに頑張ったって人の思いを他人が理解することは出来ず、出来るとすれば想像することくらいだ。でも、その想像も他人との関わりによって材料が増えれば、きっと正解に近くなるのかもしれない。

 だからきっと、俺の日向に対する印象も、きっと少しは正解に近付いたはずだ。


 本を仕分けた後は、番号順に棚に入れる作業がある。しかし、その作業を始める頃にはデータ入力をしていた人員も自分達の作業を終えて加勢に来てくれた。

 少数でやれば長い時間が掛かる作業も、人数をかければあっと言う間に終わる。そして、その作業も残り僅かになった。

 俺は箱の中から見慣れた五〇〇番台の本を棚に並べ、隣では日向が同じように五〇〇番台の本を並べている。そして、長かった作業も最後の一冊になって箱の中をのぞいたとき、俺はそこに寝かされていた本の表紙を見て思わず声を漏らした。

「あ、この絵本、懐かしいな~」

「この絵本、知ってるんですか?」

 箱の中から最後の一冊を手に取った日向が首を傾げ、俺を見ている。

「ああ、その本、小学生の頃毎日読んでたことがあってさ」

 俺は小学校低学年の頃、かなりの読書家だった。とは言っても、読んでいたのは日向が持っている絵本だけだ。

 小さな森に住むミーアキャットの兄弟が、巨大なバームクーヘンを作って森の友達に振る舞うという話の児童向け絵本。内容は単純だが、当時の俺は夢中になって読んでいた。絵本に出てくるバームクーヘンがものすごく美味しそうで、その当時は両親に「大きなバームクーヘンが食べたい!」とせがんだ思い出もある。だけど、そんな思い出もこの絵本を見るまで忘れていた。そして、この絵本を見なかったら、この絵本のことなんて思い出すことはなかっただろう。

「この絵本、私が推薦したんです」

「え?」

「図書委員は、購入する本を決められるから。全部じゃないですけど」

 日向はその本の表紙を見つめてニッコリ笑う。それは俺に向けられた笑顔ではなく絵本に向けられた笑顔だった。でも、俺は見慣れないその可愛らしい笑顔になんだか気恥ずかしくなる。

「みんなからは反対されたんです。高校生はこんな児童向け絵本には興味ないんじゃないかって。でも、私、この絵本が大好きだから。読むと凄く温かい気持ちになるんです。内容は子供向けだから簡単だけど、でも、凄く楽しくてワクワクするんです。だから、どうしても、この本を沢山の人に知ってほしくて。きっと、この本を読んだらみんな本が大好きになると思うんです。私がそうだったから」

 本はこうも人を変えることが出来るのか。そんなスカしたナルシストみたいな言葉が浮かんだ。でも、今の日向は確かに本によって別人のように、楽しそうに饒舌に話している。いつもこんな風に自然に笑っていれば、もっと取っつきやすい人間なのだが、それがいつもではないからこそ、彼女の笑顔には他にはない可愛らしさや魅力がある。

「その……打瀬くんが、この本を知ってて、嬉しいです。だから、図書室にこの本を読みに来て下さい。私、待ってます」

 スッと絵本を棚に入れた日向は小走りでその場を去って行く。俺は少し棚からはみ出したその絵本の背表紙を右手の人差し指で押しながら、左手で後頭部を掻いてつぶやく。

「俺の名前を知ってる人、増えたな」

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