【二】
【二】
人が集中するには、無音より適度な環境音が必要らしい。それを考えれば、登下校のめんどくささを三倍以上にするこの雨にも、多少良いところはあるのかもしれない。
昨日、帰ってから必死に考え、ノートにメモを取りながら推理した。しかし、分かったことはあまりにも少ない。ただ、その少ない手掛かりは大きなものだった。
俺は、昨日の授業終わりに聞いたメールの送信者が誰なのか探すことにした。そのメールの送信者は打瀬綴喜のことが好きであり、打瀬綴喜とは俺のことだからである。人生初のモテ期なのだ、この機会を逃すわけにはいかない。
さて、メールの送信者を探す大きな手掛かりは、メールを聞いた時に俺の名前をきちんと知っていたことだ。まあ、そもそも好きな人の名前を良く知らないアホが居るのかという疑問はあるだろう。だが、俺の名前をきちんと知って居る人間は極端に少ないのだ。
流石に担任教師は知っているが、クラスメイトでも俺の苗字をダセだと認識している人達ばかりの中で、メール送信者の彼女は、俺の名前を間違えていなかった。
俺が聞こえるメールの音は、文字変換前に入力された言葉になる。だからたとえ、ダセと入力して打瀬と変換出来たとしても、俺が聞こえるのはダセなのだ。だから、彼女は変換前の時点でウタセと入力しているということになる。この聞こえる音に関しては、ある根拠がある。
この不可思議な能力を発揮して、これがメールを聞くことが出来る能力だと認識してすぐに聞いたメールでそれは分かった。そのメールは『この漢字の読み方って分かる、はてな。ごがつあめ、ゆきくず、つちふで、くもすずめ』というメールだった。これはその当時、国語の宿題として出ていたプリントにあった漢字の読みを答える問題だ。正解は五月雨、雪崩、土筆、雲雀となる。この漢字のどれも、一般的に簡単な漢字ばかり使用されている。ただ、熟語になった途端に読みが特殊になる漢字ばかりだ。恐らく正確な読みが分からず、とりあえず適当な読みで入力変換して送ったのだろう。だから、音で聞いた俺からしたら意味の分からん単語の羅列にしか認識出来なかった。よって、入力時の読みで音に変換されるという俺の推理は正しいはずだ。
しかし、俺が昨日聞いたメールから得られた情報は、俺の名前を間違えて覚えていない、それだけだ。だが、俺の名前を正しい名前で呼ぶ人が稀な以上、それは大きな手掛かりになるとも言える。
簡単なことだ。俺の名前をきちんと知っている人を探せばいい。だが、俺は女子から名前で呼ばれること自体が皆無だ。そうなると、女子一人一人に「俺の名前を知ってますか?」と、なんとも恥ずかしく頭がおかしいことをしなければならない。流石に俺はそんなにメンタルが強くないから、その方法は却下だ。
だったらどうするか? それが思い付かないから、昨日からずっと考えているのである。
「……くん……せくん……ちょっと! 聞いてるの!?」
「ひゃいっ!」
青天の霹靂、寝耳に水、薮から棒。思いつく限りの、予期せぬことが唐突に起こったという意味のことわざを即座に詠唱する。一瞬で三つも思い付くのだから、もしかしたら願いが叶う魔法とか使えるようになるかもしれない。
「ちゃんと聞いてた?」
「えっと、はい、委員長さん」
出来るだけ笑顔で返答してみる。しかし、目の前に立つ委員長は大きなため息を吐いて心底疲れた表情をする。
国富朱里。我がクラス不動の委員長である。不動と言ってもまだ前期の委員長を始めたばかりだが、うちのクラスに彼女以外に委員長をやりそうな人が居ないから、きっと後期もそのポジションは安泰だろう。
彼女は赤縁の眼鏡がトレードマークで、黒髪のポニーテールも印象的だ。身長は平均的で女性の象徴たる胸はそこそこ。大きくもなく小さくもない。しかし、見た目は美人であるからして、男子生徒からの人気もまあまあある。
さて、何故見た目がいいのに男子生徒からの人気がまあまあに留まっているのか? それは彼女の性格にある。
彼女の性格を一言で表現すれば、真面目だ。いや、真面目を大分通り過ぎてお堅い性格であり、不正は許さない断固とした姿勢を持っている。だから、自分が間違っていると思ったら徹底的に改善しようとするし、それを周りにさせようとする。そのせいか、融通が利かないところが多々あり玉に瑕。それが、彼女の人気がまあまあに留まる大きな要因だ。
それはさておき、どうやら委員長は何か俺に怒っているらしい。はてはて、俺は一体全体何をやらかしたのだろう?
「やっぱり話を聞いてなかったのね」
しまった、つい首を傾げてしまって、委員長がなぜ怒っているのか分からないことを知られてしまった。どうしよう。
「えっと、俺は何かやらかしたのだろうか?」
「クラス運営について改善点がないかのアンケートを書いて出してほしいって言ったのに、出してないのあなただけなのだけれど?」
「えーっと、なんでアンケートなのに俺だけ出してないって分か――」
「あなたの名前だけ無かったからだけど?」
「記名式のアンケートとは斬新ですな……」
「アンケートが無記名でないといけない決まりはないのよ。それに、無記名だったら誰が出してないか分からないじゃない」
うん、確かに無記名だと分からないよね? しかしなんでだろう、なんとなくだけど目の前から威圧とか恐怖とかを感じる気がする。
「とにかく今すぐ書いてくれる?」
「りょ、了解」
机の上に置かれていたアンケート用紙に名前を書き、その下にクラス運営についての改善点を記入して委員長に手渡す。
「次回からアンケートは無記名式にしてほしい。……検討はさせてもらいます」
確実に改善する気はなさそうだが、アンケート用紙を受け取った委員長はそそくさとその場から、去って行かない。アンケート用紙を見つめたままその場で立ったままでいる。
「何か不備でも?」
「いえ、そういうわけではないのだけれど」
何かはっきりせず、ジーっとアンケート用紙をただただ見詰める委員長を俺はボケーっと見てふと思う。
「委員長ってなんで一生懸命なの?」
「えっ?」
「いや、自分で言うのもなんだけど、俺みたいなやる気のない奴のアンケート前にして、真剣に見てるからさ」
「実は……今回のアンケート、無難な答えが多かったの」
「無難な答え?」
「そう、棚が汚いとか、遅刻が多いとか、授業中に居眠りをしてる人が数名居るとか」
居眠りに関しては数名ではなく一〇数名だが、要するに具体的な案が出なかったということだろうか。
ただ棚が汚いと言っても、誰の棚が汚いとかこの授業がある日は汚いとかあるだろうし、遅刻が多い人や日にも法則はあるはずだ。居眠りに関しては午後の授業、特に国語と社会の授業が睡魔が襲う時が多い。
委員長はそんな感じの、具体的な答えがほしかったのかもしれない。しかし、それは無理な話だ。何故なら、今回のアンケートが記名式だったからだ。
話を具体的に説明するには、比較する対象や例を挙げなくては説明しにくい。実際にあった状況を書いたり、固有名詞を提示したりするのがそうだ。そして、それはこのアンケートに書かれている”改善点”という言葉がまた、具体例を挙げにくくしている。
改善とは誤りや欠陥を修正する、という意味で使われる。要するに、名前が分かるのに誰かを批判するようなことは書きづらいということなのだ。
「あなたの言う通り無記名式の方が良かったのかもしれないわね」
「いやーでも、無記名だと更に適当に書かれる上に、委員長が言った通り集まりが悪い可能性もあるからな。どっちがいいとは言い切れない」
「そうね、でも貴重な意見としてありがたく受け取っておくわ」
委員長はそう言って自分の席に戻っていく。俺は内心ホッとして椅子の背もたれに寄りかかった。
どうだ、この完璧な女子との会話は! 俺だってやれば出来るのである。あのお堅い委員長と対等に会話が出来たのだから。
「そうだ、あのメールの送信者を探さないといけないんだった」
あっさりすっきり目的を失っていた自分を心の中で戒める。このまま時間を浪費するのはまずい。
女心と秋の空、と先人は言った。これは恋愛感情に限らず、女性の感情というものは秋の空模様のようにコロコロと変わってしまうという意味のことわざだ。そしてそれは言い得て妙であると言える。
前日に楽しそうに話していた女の子のグループが、次の日になったら一人省かれていたり、数分前に肯定していたことを気にくわない奴が肯定したら「なんかやっぱあり得なくね?」と意見を変えたりする。まったく、本当に女心と秋の空だ。
とにかく、女子の感情はいつ移り変わるか分からない。だから移り変わる前に探し出さなくてはいけない。しかし、そのためには自分の名前をきちんと覚えている人を探さなくてはならない。でも、自分の名前を覚えているかを自然に確認する方法が思いつかない。
とにかく手がかりが俺の名前しかないのだから、名前を呼ばれる時にはいつもより注意するくらいしかない。
放課後、それは学校が終わった後、なのに、なぜか、どうしてか、俺は未だ学校に残っていた。
「打瀬、ありがとう」
「いえ……暇人ですから」
隣を歩く化学教師にお礼を言われ、偉そうな大学教授っぽく「感謝したまえ」と言いたくなった願望を抑えて無難に答える。
ショートホームルーム終わりに、俺は何故か化学教師から呼び出された。宿題も遅れることなく出しているし、授業態度も真面目な俺が呼び出される理由は全く思い当たらなかった。しかし、指名を受けている以上、何か俺がやらかしたのだろうと渋々呼び出されて職員室に来たら、これだ。
「ダセくん、もう少し丁寧に扱ってもらえるかい? 我が物理化学生物地学研究部の大事な備品なんだから」
「了解しました」
銀縁眼鏡で学生服の上から白衣を羽織った、偉そうな三年生が俺に指示を出す。俺が手に持っているのは顕微鏡とかビーカー、フラスコといった高価であったり壊れやすかったりするものではなく、純水だ。
純水はその名の通り不純物の入っていない水、ではなくて、普通の水より不純物が少ない水のことだ。俺が持っている箱には高純度精製水と書かれている。そして、その隣には二〇リットルと控えめに書かれていた。
目の前でニヤニヤしながら真新しい顕微鏡を二人がかりで運ぶのは、名前の無駄に長い理科部の三年生とこれまた真面目そうな一年生。あとは、更に先にその他の購入品を運ぶ二人が見える。しかし、いくら高価であるからと言っても一キロあるかどうか位のものを二人でというのはどうなのだろう? 俺が持っている純水はリットルという単位マジックで重さに直結出来ないのかもしれないが、重さで換算すれば二〇キロあることになる。ということは、顕微鏡を運ぶ二人の常識から判断すると、この純水を運ぶためにはあと一九人必要ということだ。しかも、俺は手伝いとして来ているのにこの扱いである。まあ、純水二〇キロが千円弱に対して、顕微鏡が三万円弱なのだから大事を取るのは分からないでもないが。
俺は化学教師に、購入した理科備品の運搬手伝いを頼まれた。正直、帰りたかった。帰ってインスタントコーヒーを飲みながらパソコンをしたかった。だが、適当な理由を付けて断るという度胸は、さすがの俺にも無かった。
二〇リットルの純水が入った箱を持って三階まで上がるのは、かなり辛いものがある。しかし、ただこれを持ち上がるだけなのだから一〇分も掛からない。多少思うところはあっても、たかが一〇分俺の貴重な人生の一部が使われたと言って、目くじらを立てるほど、俺は大人げなくはない。
階段を上り終えて理科室へ入る理科部の面々に続いて、俺も中へ入る。
理科室はなんだか特殊な空間だ。普通の教室にある机とは違う、黒い天板の実験台。それに、四角く側面に板が張り付けられた椅子。カーテンは普通のカーテンとは別に暗幕が標準装備されている。その要素だけでも十分だが、壁際ある棚に並べられている試験管やフラスコ、ビーカーがより特殊な場であると表している。
「打瀬、それは準備室に運んでおいてくれ」
「分かりました」
既に他の理科部員は自分達が運んできた備品を棚に並べ始めている。ビーカーやフラスコ、顕微鏡は使う頻度が多いから表に出しておいてもいいだろう。しかし、このクソ重い箱の中身はそこまで使わない物なのかもしれない。
「ところで、この純水なにに使うんですか?」
「ダセくん、それは純水ではなくて精製水だよ。精製水は蒸留や濾過やイオン交換などの手法で濃度を上げた、比較的純粋な水。無色透明、無味無臭で、場合によっては紫外線などで滅菌または殺菌されている水のことを言うんだよ。対して、純水とは不純物やイオン性物質を除去した――」
部長がなにやら水について説明を始めたので聞き流す。俺は水について知識を深める気もないし、さっさと用事を済ませて帰ることにしよう。
そういえば、うちの学校には理科室が二箇所ある。第一理科室と第二理科室という分かり易い名前で分けられているが、俺が今居る第二理科室はあまり使用頻度が多いとは言えない。何故二箇所もあるのかよく分からないが、この第二理科室はどうやら主に理科部の活動の場になっているようだ。
「いや~ありがとう打瀬。助かった」
「いえ」
「今、理科部で一つのテーマについて研究しているのだが、それに使う備品を少ない人数で運ぶのが大変でな」
「他には何かありますか?」
「いや、これで全部だ」
「では、俺はこれで失礼します」
「ああ、本当にありがとう」
なんかよく分からない謎水を運び終えて、俺は自分の教室に戻る。本当は校舎の玄関が教室よりも近いのだが、荷物は全て教室に置きっ放しになっている。荷物を持って帰らない訳にもいかないから、多少めんどくさいが戻らなくてはならない。
既に校舎の中は人の気配が皆無になっている。もちろん帰宅部の人は帰ってしまっているし、他の部活をやっている生徒はそれぞれ活動の場へ散っている。教室内に人の気配がないのも当たり前だろう。
人が減ったせいか日が傾いているせいか、少し肌寒さを感じ、室温が二、三度ばかり低くなった気がする。
放課後の学校に残っているなんて何時ぶりだろう? 最後の記憶は、去年の文化祭でやった展示作品制作のために残った時だ。
文化祭は無意味にテンションが上がるものらしく、無駄に残りたがる文化祭エンジョイ勢が居残り製作を提案し、周りもその意味の分からんテンションに飲まれて賛同していた。その状況で俺が「帰ります」なんて言えば完全に空気読めてない奴でしかない。そんな強心臓の持ち主しか出来ない荒業なんて、俺には出来なかったのである。だから、俺は長いものに巻かれて端っこで黙々と製作に打ち込んでいた。そういえば、去年は何を作ったんだっけ?
放課後の教室、ドアが開きっぱなしでそのまま中に入ると、ふっと甘い香りがほのかに風に乗って流れてきた。
「あら、珍しいわね」
黒板消しで黒板に書かれた文字を消す体勢で固まった委員長が、俺の方に顔だけ向けてそう言った。少しだけ背伸びをして高いところの文字を消そうとしているが、僅かに身長が足りてない。
「委員長こそこんな時間まで何してるんだ? って、日直の仕事か。…………あれ? 今日、委員長は日直じゃなかった気が」
「日直の人が黒板と教室の掃除を忘れて帰ってしまったから、代わりに私がやっているの」
日直の仕事は、休み時間に黒板を綺麗にし、学級日誌をつけ、放課後に簡単な教室の掃除を行う、というものだ。内容は簡単だし、二人一組でやるから一人分の仕事量も少ない。だが、それを一人でやるというのは地味に大変なのだ。特に、放課後にやる仕事は二人でやらないと面倒で仕方ない。
「そうか、じゃあ俺もやるよ」
「あなたは備品の運搬手伝いをやっていたのではないの? 化学の先生があなたに頼むという話をしていたけど」
「よく知ってるな。ちなみにもう備品を運ぶのは終わった。後は帰るだけだ」
「じゃあ、もう残る理由はないじゃない。別に遊んでいた訳でははないし、これ以上残らなくてもいいのよ。そもそもあなたの仕事ではないのだし」
「女子が一人で働いてるのを見て見ぬ振りして帰れるほど、俺は精神が図太く出来てないんだよ。それに、自分の仕事じゃないのは委員長も同じだろ」
「それはそうだけど」
「それに……上、届いてないし」
俺が委員長が消し損ねている黒板の上部を指差すと、委員長は少し顔を赤らめてそっぽを向く。顔の動きに連動して、ふわりと黒髪のポニーテールが揺れた。
俺は余っていた黒板消しを手にとって、上の方に残されたチョークの文字を消す。
「にしても、なんで社会の授業ってこうも黒板いっぱいに文字を書きたがるんだろうな。端の方とか消しにくくて仕方ない」
「社会は説明のために文字を書くことが多いからかしら?」
「消すのも面倒だけど、いつもノートを取るのめんどくさくて俺は嫌だな」
「確かに、社会の授業はノートを写すの大変かもしれないわね」
委員長は俺に黒板の上部を任せ、濡れた雑巾で黒板の周りや、下部に付いた溝に溜まったチョークの粉を拭き取っている。
「委員長も真面目だよな。俺だったら自分の仕事忘れて帰ったんだから、次の日の朝にやらせるけど。それで委員長に感謝する奴ならいいけど、委員長に甘える奴も居るし」
ふとした何気ない会話だったのに、委員長はクスリと笑って雑巾を裏返して床を拭きながら顔を上げる。
「あなたってはっきりした人よね」
「はっきりした人?」
「みんな、そうやって人前で誰かを批判するようなことは言わないから。アンケートみたいに、抽象的でどこか遠慮して言葉を濁してる」
「俺だって空気はちゃんと読むぞ。面と向かってお前は仕事しない怠け者だとか、お前は他人に甘えてる、なんて言ったらトラブルの元だしな」
「でも、それを他人に言うことに躊躇いはないの? もしかしたら私がそういうことを他人に言う人かもしれないわよ?」
「他人が残した仕事を何も言わず一人でやるような性格の人間が、そんなことするわけないだろ」
「え?」
「それに、俺って取り繕うほど周りからの評価は高くないし」
成績が飛び抜けて高いわけじゃない、運動能力も平均的な男子高校生より低い。音楽や芸術の才能があるわけでもない。そして、委員長みたいに誰かの前に立ってリーダーシップを発揮できるわけでもない。そんな奴が、今更他人の顔色を窺ってお世辞を言いまくっても、二階から目薬で焼け石に水で、月夜に背中焙るようなものだ。
それに、正直、誰かの顔色を窺うというのは疲れるものだ。
女心と秋の空というように男心と秋の空ともいう。男心の方は愛情に限定されたことわざらしいが、俺は男も女も大差はないと思っている。男だろうが女だろうが、局面によっては簡単に自分を曲げる人は多い。自分に都合が悪くなったとか、多勢に無勢になって勝ち目がなくなったとか、理由は沢山あるだろうが。
そういう人達ばかり見ているから、俺は最後まで意見を一貫させられる人は凄いと思う。そういう俺も、実は自分の意見を貫けない人間ではある。
ずっと同じ意見を持ち続けることが必ずしも正しいとは言えない。実際、明らかに間違っていることを突き通すことは愚行でしかない。それに、意見を曲げたから事態が好転することは多々ある。でも、曲げても良いのは“考え方”だ。大抵の人は信念まで曲げてしまう。
その点、委員長は意見を一貫させられる人間の代表みたいな人だ。
真面目であることは悪では無い。真面目はどこまで突き通しても正義だ。たとえ、言葉や考えが堅いとか融通が利かないと言われても、それに周りが適応出来なかったとしても、それは悪には絶対にならない。
例えば、作業手順の一部を省略しても問題ないとする。だけど、それを真面目に一つ一つこなしてもなんら問題はないのだ。作業に掛かる時間が増えて効率が悪いとも取られるかもしれない。でも、手順を省くことによって起こるミスの可能性を潰すという点を見れば、最も確実な方法だ。
だから、真面目すぎるのは周りからしたら大変ではあるが悪ではない。俺は、そんなどこまでも正しい委員長を本当に凄いと思う。
「私の顔のなにか付いてるかしら?」
「いや、真面目はいいなと思ってさ」
「意味が分からないわ」
首を傾げて不思議な顔をする委員長から目を離し、俺は黒板に残された最後の一文字を消した。
委員長とは日直を一緒にやったことがなかったから知らなかったが、その性格通り、丁寧な仕事ぶりだった。
黒板消しで黒板の文字を消した後は教室内を箒で掃き、棚を雑巾で拭く。ゴミ箱のゴミを確認し、溜まっていればゴミ捨て場に捨てにいく。ここまでは誰でもやる作業だ。でも委員長は窓ガラスはもちろん、サッシの溝まで丁寧に雑巾で溜まった汚れを拭き取り、直ぐに帰るのではなく掃除後の換気のために窓を少し開放しておくという念の入れようだった。そして、今はその換気する時間に、委員長が学級日誌の記入をしている。
「学級日誌までやり残して帰ったのか」
「各授業後に書くところはきちんと書かれているし、漏れがあるのは放課後に記入する今日あった出来事の記入くらいだから大したことでは無いわ」
「いや、その今日あった出来事が一番めんどくさいだろ」
今日の出来事。という項目の記入をしている委員長を隣の席に座ってボーッと見詰める。
平穏な日常にトラブルは起きない。それに平穏な日常に取り立てて話題に出来るようなことは起きないものだ。だから、普通に生活している分には今日の出来事に書くようなことは一日で経験しない。
俺が日直の時はなんと書いていただろう? 前にやったときから日が経っているから良く覚えていない。
「そう? 書くことは沢山あるわよ。今日はアンケートを回収したし、朝のホームルームで生徒の挨拶が気持ちいいと地域の方に褒めて頂いた、というお話もあったわ」
「そんなこと言ってたっけ?」
「さては、聞いてなかったわね」
「す、すみません」
キリッとした鋭い目で睨まれて思わず頭を下げて謝ると、委員長はクスクスと笑っていた。その表情を見てからかわれたのだと分かり、若干居心地が悪くなる。
「それに、今日は他にも個人的に良いことがあったわ」
「良いこと? 何があったんだ?」
俺はそれを聞いた瞬間、まずいと思った。委員長は“個人的に”と言った。個人的にということはプライベートなことということで、プライベートなことというものは総じて、あまり他人に話したい話題ではない。それを聞くのは少しばかりデリカシーがなさ過ぎた。しかも相手は女子である。
しかし、委員長は特に気分を悪くした様子は見せず、ニッコリ笑って書いたばかりの日誌を俺に渡してきた。
俺は手渡された日誌を上から見て、今日の出来事を記入する欄で目を留めた。そこには『放課後の日直の仕事を、打瀬くんが手伝ってくれました』そう書かれていた。
「じゃあ、私は日誌を先生に提出して帰るから」
「ああ、俺もさっさと帰ることにする」
お互い荷物を取って教室の戸締まりをし、分かれ道まで一緒に歩く。職員室へ向かう渡り廊下と玄関まで向かう階段の前まで来て、立ち止まった委員長がこちらをくるりと振り返ってニッコリ笑った。
「打瀬くん、今日はありがとう。また明日」
「おう、また明日」
委員長は真面目に走ること無く渡り廊下の方向に向かって歩いて行く。俺もその背中を見送って振り返り、階段を下り始めた。
階段を下って踊り場で折り返した時、ふと俺は足を止める。
委員長は言った「打瀬くん、今日はありがとう。また明日」と、そして俺は聞いた。
「ウタセくん、今日はありがとう。また明日」と。
彼女は俺の名前を知っていた。いや正しく知っていた。そして、それは俺のことを好きだと言っていたあのメールの送信者と同じだ。
「もしかして、委員長が?」
さっきよりも日が落ちて二、三度から更に二度くらい室温が落ちた校舎の中で、俺の体温は五度以上確かに上昇した。