1「兄と妹」
まだ夢も見ていない寝不足の目を擦ってみれば、既に朝だった。
朝。俺は深い悲しみ……絶望の中にいた。
そもそも、そもそもだ。大前提として聞いて欲しい。日本語には元々、「恋愛」の概念はなく、英語で言うところの「ラヴ」を和訳する際に、「あーこれ、『愛』ではないよね」「うんうん、『恋』とも違うことない?」みたいな感じで、違いを表すためにとりあえず新しい熟語作っとくか、と「恋愛」という新語を創作したらしい。つまりだ、日本人的には「恋愛」というものは輸入されたもの、言わば異物であって、生粋の日本男児たる俺に「恋愛」が理解出来なくとも不思議はないのである。
男女の違いといえば、生物学的に見たときまず、染色体の組み合わせが違う。XXとXYの配列で知られるこの話は有名であるが、染色体の組み合わせが違えばそれはもう、別の生物だと言っても過言はないはずだ。聞くところによると、犬と鶏だって染色体の数だけで言ったら同じらしいし。よって、違う生物同士であれば、例えば犬の言葉を人間が解せないために『バウリンガル』なんて作られたように、男女のコミュニケーションにも同じく、本来なら通訳的な補助が必要に違いないのである。早急な開発が急がれる、はずだ!
……散々御託を並べたが、結局のところ俺には、女の子が分からない。
して、その結果とも言うべきか。
――こうして、俺の学園生活は幕を閉じた。……もしもやり直せたのなら、可愛い彼女の一人でも作りたかったなぁ――
手にした画面から最後のテキストが消え、無慈悲に『BADEND』の六文字が浮かぶ。徹夜の成果がコレだ。今月に入ってからもう幾度目かの失恋で、ああ、これが現実じゃないだけマシだなと、しみじみと感ぜられてくる今日この頃。ジリジリと、蝉時雨がイヤに耳につく。
次第に「何が恋愛だ、別にそんなもんなくたって現代社会、生きていける」と、今まで躍起になっていたことが馬鹿らしくなり、
「ははははははっ」
俺は笑うことにした。不眠でやり込んだコトが徒労になったのだ。笑わずにいられるか。
「あ~っ。アニキ、またバッドエンドぉ?」
寝間着のままの妹が俺の背中からひょこり、顔を出す。そして俺が手にした携帯ゲーム機の画面を覗き込み、予想が当たっていたことを確認すると、
「ぷふふふふーっ」嘲笑した。
なお、妹は中学三年生であり、現在は夏休み。チラリと時計を一瞥すれば、本来はもう夏期講習に行っているはずの時間帯であり……つまり、サボりだった。
ではうちの妹は勉強嫌いなのかと思えば、塾をサボってはいるものの、家ではちゃんと自習している様子。先ほども俺がゲームをしている後ろ、居間の机で、夏休みの宿題なのだろう、数学の問題集を解いていた。昔は自分がよくサボっていたこともあり、俺も「夏期講習くらい行けよ」なんて強くは言わない。むしろ言えない。
……それに、どうにも女の子は複雑怪奇で、実の妹も例外ではなく、俺の手には負えないのである。
「おい、これもやっぱり普通に難しいぞ。もう三回もぼっちのまま卒業してる……」
「えー? そんなの、単にアニキが人類史上最低最悪にド下手クソなだけでしょ~?」
兄妹揃って互いに口を尖らせ、睨み合う。
が、やがて妹は諦めたようすで深く息を吐き、
「……もぉ、なんなんだろ。普通の学園モノじゃなくて、もっとファンタジックなヤツの方が、この馬鹿アニキには向いてたりするのかねぇ……?」
ぶつくさ言いながら、いかにも女の子らしい、淡いピンクのポーチに手を突っ込み、その中に無造作に放り込まれているゲームカセットたちをあさり出す。そう。そもそもこのゲーム、俺のゲームではなく、妹のものだ。それも、根っからのオタク少女である妹が持っている男性向け恋愛シミュレーションゲーム……つまり、ギャルゲーである。
夏と言えば、ギャルゲー。……というわけじゃなくて多分、単純に。夏休みに特に予定もなく、俺も非常に暇で。今までやったことのないものにも、妹が見ている世界にも、手を伸ばしたくなって。だから借りた。
そして、これが俺には存外むずかしい。
ギャルゲーのヒロイン……即ち、ゲーム内でプレイヤーと恋愛関係を結べるキャラクターと言うのは一度のプレイにおいて、究極的にはたった一人だ。ただ一人から好かれるように進めていかなければならない。そして、誰か一人に好かれなければならないと言うことは、言い換えれば誰にでも良い顔をしてはいけないと言うこと。誰か一人しか助けられないと言うことであり、なんとも高度な心理戦を要求される。
ただでさえ、どんな選択が喜ばれるか――なんて、分からないのに。
「てゆーかさぁ、正解の選択肢教えたげるから、もうそれでいーじゃんかぁ?」
ごそごそと自分のコレクションから吟味をしながら、妹が提案する。
その口調には少しの呆れと苛立ちが感じられた。本体ごとゲーム機を俺に貸しているのだから、ここ暫く、全くゲームが出来ていないだろう。不満が溜まっているのかもしれない。
だが、俺も譲れない。どうして意地になってるのか、自分でもよくわからないけれど。
「馬鹿野郎、そんなことしたらただの音の出るラブコメ紙芝居じゃねーか」
「そうだけど、でも、それでいーじゃん~」
子供っぽく、妹はぷぅっと頬を膨らませる。
「俺は、恋愛のシミュレーションがしてみたいの!」
例えば、ギャルゲーの中には特定のヒロインの好感度が予め高く設定されていて、バッドエンドにならないように調整されているモノも多いらしい。最初、妹が「初心者ならこういうので良いんじゃない?」と勧めてきたが、俺は「それじゃあ恋愛の練習にならんだろう」と言って断った。恋人になりたい女の子と一緒になれなかったから、元から自分のコトを好きな女の子ととりあえず付き合う。……みたいな流れは、何だか違う気がした。そう、恋愛的に。
んで、先の発言から鑑みるに恐らくうちの妹は、恋愛の仮想経験の場としてはギャルゲーを見ていない。昔から恋愛小説とか少女漫画とか好きなヤツだったし……妹にとっちゃギャルゲーもそう言ったものと同列、あくまで『読み物』なのだろう。全く、どこで拗らせてしまったのだろうか。
「だいたいさぁ~、ギャルゲーやったって別にモテるようになるわけじゃないし、むしろやってる人の大半は……えっと、オブラートに包んで言えば、モテそうにないじゃん~?」
突如語り出す妹。何も包めていなかった。
「まあ、でも一応、参考にはなるかも知れないだろ」
「いや、ならないと思うけど」
反論になっていないタラレバの反論も、即座に妹に一蹴される兄こと俺。
「てか……少なくとも、選択肢が目に見えるカタチで置かれてるのに正解が選べないんじゃ、アニキには無理じゃないかなぁ」
ぐうの音も出なかった。
人生、どうするコトが最善の選択か――なんて、分からないコトが多い。けれど、ギャルゲーならば、いくつか、選択肢が絞られた状態で提示される。それはつまり、全く何をすべきか検討もつかない、なんて事態には陥らないと言うことだ。
もし……もしもだ。俺も大切な場面で、選択すべきことが分かるようになったら。もしかして、そんな人生だったら、俺にも『恋愛』が、享受出来たんじゃないんだろうか。
あー、思考回路が明後日の方向にイっちまってんな。
全部全部、寝不足の所為だ。
やるせない気分に包まれ、
「寝よ……」
ゲーム機片手に、ふらふらと自室に戻る。
「あっ、ちょっと、ねぇ! 馬鹿アニキ、戦意喪失したならもうさ、アタシのゲーム、返してくんない!?」
……誰が、戦意喪失したかよ。
今の思いは声になっただろうか。
いいや。もう、声になっていなくてもいいや。
ただ俺は……アレだ。疲れた。
「あぁ、ギャルゲーの主人公になりてぇ……」
そう呟いた直後、
――起きたら妹と、もうちょっとマシなやり取り出来たら良いな、なんて思いながら――
俺は、深い眠りに落ちていった。