3 到着
宇宙に昼も夜もないが、レヴド連邦基準時刻に合わせて宇宙船にも朝が来る。自家発電をしているとはいえ、限られた空間の中では電力消費を極力減らしたい。宇宙船内での夜はほとんどの部屋で照明が薄暗くなるように設定されている。小さな照明はつけられるし、何か理由があって申請すれば夜も明るく過ごせるが。
結局まんじりとしかけた頃にセオは朝を迎えた。
「お前、こんなところで寝てたのか? よくわかんねー事すんだな」
照明がつく時間になって、ソファに転がるセオを除きこむロジー。寝不足の頭でセオは、とりあえずロジーがもう下着姿でない事を確認した。
そして時間差でロジーに言われた事について考える。
「……お前一回殴らせろ」
毛布から抜け出すとセオはソファから足をおろす。ロジーは昨日あった事なんて覚えていないかのように、セオに何か飲むか訊ねた。セオは蒸留水をもらう。
「あのムダにでかいベッドで寝たらいいのに。ほんとにお前は童貞か」
「紳士と言え!」
頭が痛いのは寝不足のせいだろうか。セオはソファから腰をあげる。
眠たい脳みそは、すべての思考を濁らせる。上手い罵り言葉すら思いつかない。いっそこのまま、昨日の夜の映像も頭からなくなってしまえばいい。
「信用してるんだよ、お前の事」
欠伸をしながらロジーは言った。
その言葉の意味を咀嚼しながら、セオは一通りではない思いが生まれる自分に気づいた。
相手を信用していれば、誰の前でも下着姿になるのか、とか。
信用されている事がこそばゆいような気もする、とか。
何故か――その信用を裏切りたい気も少しする、とか。
その大半が苛立ちにつながりそうなものだったので、セオは無理矢理にその考えを頭から切りはなした。
どうも二人だけでいるのは、セオにとって都合が悪そうだ。彼はよき隣人の事を思い出した。
エンザとゴードの夫妻を早速朝食に誘うと、主にエンザがしゃべる係になった。
「あたくしたちはジャンガガに行くつもりなの。ケーセスからはちょっと遠いけど、行ってみたかったから。子供たちがみんな親元を離れたから、いい機会だと思って」
いろいろな理由でセオは気の利いた事を言えそうになかったし、エンザの夫はセオ以上に黙したまま。ロジーも時折エンザに相槌を打ったり質問をするものの、大半がエンザの独壇場だ。
「それじゃあ、ロジーさんはずっと研究一筋なのね。なんだかすごいわ」
「つい自分の学問に夢中になってしまって、夫の事も後回しにしてしまったんです。でも今回の研究旅行で心配してついて来るって言うから、これを機に二人の時間を取り戻そうと思って」
この会食でセオが意外だったのは、セオが思っていた以上にロジーが妻役を上手くこなしていた事だ。特に研究に没頭するあまり家庭を顧みない妻、という設定にしたのはうまいやり方だ。セオとの夫婦仲が悪く見えた時があっても、そのせいに出来る。
正直なところセオはロジーの変わりっぷりに驚いていたから会話に入れなかったところもある。下手に偽夫が間に入ればロジーの偽妻は脆く崩れ落ちるかもしれないと思って。だがその心配も、会食が終わる頃には杞憂だと思えるようになった。
「本当にありがとうね。あたくしたちに付き合ってくれて。でも、よかったらまた誘ってもいいかしら? とっても楽しかったわ、ロジーさん、セオさん」
エンザはほとんどの間、にこにこしていたが、別れ際にも笑顔を忘れなかった。
「こちらこそ楽しかったです」
ロジーは控えめだが、それと分かるような笑みを浮かべた。エンザはより笑顔を深くして、ロジーの肩に手をのせた。
まるで――まるで普通の近所付き合いをする二組の夫婦にしか見えない。セオはここがイディルのどこかの住宅街で、自分たちが引っ越して来たばかりの新婚夫婦だと錯覚しそうになった。
これまでセオはロジーのよそ行きの姿を見た事がなかった。というより、隣人の夫妻に社交的な態度を見せるような性格だとは思っていなかったのだ。
もしかしなくともロジーはまともな妻を演じられるという事だろう。
だが今はまだ作り上げられた偽の身分で自己紹介をし、ロジーはエンザとおしゃべりしながらたんぱく質バーを食べただけだ。人は親しくなると相手の事を聞きたがる。具体的な夫婦生活の悩みまで聞き出されたらどうするのか。次にあの夫婦と会った時の事を考えると、やっぱりセオは不安になってくる。
何しろこのノーム・マーム号で過ごす時間はまだまだたくさんある。ロジーの付け焼き刃にいつほころびが生じるか、分かったものではない。セオはエンザたちを見送りながらも眉を寄せた。
「……意外と、妻らしかったじゃないか」
「ほとんど何もしゃべれなかった、とってもシャイなダンナさまとは違いますので」
自己紹介と挨拶くらいしか出来なかったセオは、嫌味っぽいロジーに言い返せない。元々セオは初対面の相手には気をつかいすぎてあまり話せないタイプだ。夫らしく、と気負う気持ちもあった。
やっぱりこの女はむかつく、とセオは苛立ちながらも、拳を握る。次はもっと夫らしく振る舞えるようにする。とりあえずはあのエンザの無口な旦那の口を開かせるところから始めよう。セオは決意した。
「で、どうする。どーせ部屋戻ってもやる事ねえだろ。店でも見てくか?」
あてもなく船の廊下を進んでいれば、ロジーが言い出した。
「買いたいものでもあるのか」
「特にねえけど、暇だろって話」
そう言われればそうだ。セオとしては、毎日トレーニングをして体を鍛えるつもりだったが、あまりに熱心に肉体を痛めつけていれば一般人らしくない。
普通の夫婦なら、何をして長い時間を消費するのだろうか。手始めに買い物というのも、悪くない気がする。買い物中くらいは偽の職業について忘れてはいいだろうか。
「地質学者なら買い物してて何をほしがるかな」
先に歩き出したロジーが似たような事を口にしたので、セオは笑った。
「俺なんか体育教師だぞ。スポーツ用品でも欲しがれってか」
体育教師の欲しがりそうなものをセオは知らない。「いや、体育教師なら既に持ってるな」とロジーがそれっぽい事を言った。彼は偽の妻のあとを追って、一般人らしい買い物をする、という任務に就いた。
いくつかの店を覗いたあと、一軒の雑貨屋の前でロジーが足を止めた。ひとむかし前に流行ったような、小さな間接照明を指さす。
「これ部屋にほしい」
本格的に気になるのかロジーは、その照明を手にとって検分する。
セオは、酔っ払ったロジーを第五基地の寮にある彼女の部屋まで送った事がある。何度も。そのたびにセオはロジーの怠惰っぷりを見せつけられた。とにかくロジーの部屋は物で散らかりっぱなしなのだ。
「お前はまず自分の部屋を片付けろ」
泥棒にでも入られたようなあの部屋に、今彼女が気に入った間接照明を置ける余地はない。そんなところに連れていかれては、間接照明もかわいそうだ。
「そもそも行きに荷物増やすっつーのもメンドウだよな。ま、今度にしよう」
セオの提案した部屋を片付けるという話はさりげなく無視され、二人はその雑貨屋をあとにした。
思えば、セオはロジーとこんな風に買い物をした事がなかった。同僚たちと飲みに行った帰りにちょっと店を覗く事もあったが、それは何かのついでだし短い間だ。
セオはなんだか新鮮な気分になった。奇妙な気分ともいえる。
「あれ見に行こう」
ロジーが先に駆け出す。
セオは、偽の夫婦という事も、任務中だという事も、忘れそうになった。
結果として、セオとロジーの組み合わせは友人同士としては良好な関係にあったため、友人として過ごすのであれば何の問題もなかった。
長いと思われたラフタハまでの道のりを、セオとロジーは難なく切り抜けた。時には二人で買い物や映画に出かけ、スポーツに本気になって挑み、時にはエンザとゴードと食事をし、時には別行動をとったりした。
どの夜もセオはロジーと同じ寝台に入る事はなかったが、お互いにその件についてはもう何も言わなくなった。部屋の外での暮らしが夫婦らしく見えるのなら、実態などどうだっていいのだ。そもそもが二人は“仲が上手くいってない夫婦”の設定なのだ。
ある時、ノーム・マーム号がジャンガガに着いて、エンザたちと別れる時が来た。
エンザとゴードから学べた事は、セオにとっては少ない。時々エンザは「女同士の話」などといってロジーだけを連れ出し、セオを無口なゴードのとなりに置き去りにした。その間、セオは最初こそ世間話をしてみるのだが、あまりに反応が薄くてすぐにだんまり比べを開始した。大抵の場合セオは端末をいじってくだらないテレビ番組を見るか、任地ラフタハの事を調べたりした。
つまり、寡黙な夫からの収穫はなし、だ。唯一の収穫といえば、公の場ではゴードほどしゃべらなくても誰かの夫になれる、という事だけだ。あれでいて家の中ではかなりおしゃべりだったらそれはそれですごい。
そんな訳でセオとしては、エンザたちとの別れを悲しんでいいのかよく分からなかった。
エンザは、家庭に入った主婦、といった印象の強い女性だった。ロジーは研究職で忙しくしている設定なので、エンザの妻としての姿が参考になったかはセオには分からない。ただ、彼女はエンザとの別れを残念がってみせた。
「よかったら、ケーセスに戻った時には連絡を頂戴ね。ラフタハは、あまりよくない噂を聞くから、心配で」
あくまでロジーが研究のためにラフタハに向かうと思っているエンザは、ロジーの両手を握り、母親のような事を言った。
「……すぐには戻れませんが、ケーセスに着いたらそうします。そちらも、お気をつけて」
相手の気づかいをロジーはきちんと受け取っていた。エンザたちと関わったのは十日ほどでしかなかったので、セオには少し意外だった。
とはいえ毎日顔を合わせた相手だ。エンザのおしゃべりが聞けなくなると、セオも寂しくなるだろう。彼らを見送って、セオまで手を振った。
ノーム・マーム号がジャンガガの宇宙港をはなれたあとに、ロジーが銀河の見えるデッキのバーに行こうと言い出した。
きらめく星々の向こうに、惑星ジャンガガが小さくなって消えて行く。
「……よく考えたらあたし、夫婦生活どころか普通の家族がどんなものか、知らねえんだよな」
彼女が自分の事を語るのは珍しかったので、セオはまばたきを繰り返した。
ロジーが孤児だというのはセオも聞いている。つらい訓練や苛酷な任務を共にする仲間には自然と身の上話をしてしまうものらしい。セオも、自分が孤児である事を彼女に知られている。
「お前は正しかったよ、セオ。本物の家族を持つ人間と話すのは、なんとなく参考になった」
ふと、セオは自分が偽の夫婦役に抱いていた不安のひとつはこれだったのだと気づいた。セオも、ロジーも、本物の家族を知らない。
「でもやっぱ、よく分かんねえな。エンザさんはあんなにいい人なのに、夫婦仲がよさそうじゃなかった」
素直なロジーの言葉に、セオは本当に彼女がエンザに親しみを抱いていたのだと知った。
「家族とか夫婦って、なんだろうな……」
セオはロジーと違って、孤児ではあったが里親に恵まれた。とはいえ養い親たちがほしかったのは、養子をとる事で得られるいくつかの権利や養子養育手当てで、セオ自身が望まれたのではなかった。ひどい扱いは受けなかった代わりに、セオはあの家ではいつまでも客人のように扱われた。食事も服も与えられたが、セオに対しては距離のある他人行儀な家族だった。
セオもまた、本物の家族を知らない。
「……俺に聞くなよ……」
そのうちにロジーはスポーツセンターでも行こうと言いバーを出た。体育会系は行き詰まったり何か落ち着かない事があるとすぐに運動したがるものらしく、セオも賛成だった。
体を動かしていれば、考えていた事などどうでもよくなる。二人はパックストというスポーツで、船内に伝説を作るほどに盛り上がった試合を繰り広げた。
そしてついに、セオたちの下船の時が来た。
レヴド連邦第三植民惑星ラフタハ、ラーマーティ宇宙港。
宇宙船から降りた瞬間から、乾燥した空気がセオの肌を打った。ケーセスの建物内や宇宙船内と違い湿度管理のされていない、生のままの空気だった。
建物の様式もケーセスとはまるで違い、建築素材もセオの目からは奇異に見えた。
宇宙港を歩くものには現地人のアドス人とブセレン人が多く見られる。ハーマン人がラフタハに降りたと気づくなり、現地人たちはじろじろとセオたちを眺めまわした。
アドス人は昆虫系の亜人で、ブセレン人は爬虫類系の亜人だ。彼らの黒目だけの瞳や、ぬくもりを感じさせない肌が、セオたち余所者を歓迎していないように思えた。
実際、入惑星審査など諸々の手続きの間、セオたち二人は常に不躾な視線をもらった。もっとも、アドス人の顔のつくりはハーマン人とは違うので、感情の変化がなかなかに読みにくいが。
セオたちの入惑星には、ひどく時間がかかった。順番で審査に入るのかと思いきや、アドス人やブセレン人ばかりが先に呼ばれ、ハーマン人は後回しだった。
「研究のためにわざわざ遠くまで?」
更に、やっとの事でたどり着いた窓口で、疑うような声で問われた時は、セオも不満が顔に出た。
「ま、研究者の性ですね」
優秀な地質学者という事になっているロジーは、しょうがないとでも言いたげに振る舞った。それでも審査官の視線は突き刺さるようだったが、セオたちはなんとか宇宙港の建物を出る事が出来た。
宇宙港に降り立ってからが長かった。やっと解放されたとセオは息をつく。
ラフタハの外光はケーセスより眩しい。それだけが理由ではないがセオとロジーはサングラスをかけた。
そのサングラス、実は眼鏡型多目的端末だ。指紋と音声認証で持ち主に従い、ありとあらゆる事を調べられ、登録されたすべての言語を翻訳してくれる。特にレヴド連邦公用語のトペレンサ語が通じない場面では重宝するだろう。
「……とりあえず、ホテルに向かうか」
ラフタハでは移動手段が異なるというのは、事前に調べていて分かっていた。レヴドやケーセスにおける短距離輸送車のような乗り物があったはずだと、セオはあたりを見回す。
舗装された道路があるものの、あたりは砂ぼこり舞う荒野が広がっている。そして、セオですら目を見張るような光景を目撃した。
「ちょっと待て、ウソだろ……あれ、本物の旧式車か? 連邦じゃ何百年も昔に滅びたっていう……超骨董品じゃねーか!」
ロジーが興奮した声を上げた。旧式車を見つめる目は輝いている。
軍用車両以外で、地面に直接タイヤを触れさせて動く車を、セオは初めて目にした。多くのものが先の大戦をきっかけに滅びたが、その大戦よりも昔に旧式車は使われなくなり、生産されなくなった。今では宙に浮く車が主要で、国民がそれを運転する事はない。
今、セオとロジーは失われたはずの文明を目にしている。落ち着いていられるはずがなかった。
アドス人が運転席で、大きな輪を握って旧式車を走らせている。化石のような車が尻から煙を吐いて、走り去る。
宇宙港に家族を向かえに来たのか、また一台旧式車がやって来る。そのうちに、更にロジーのテンションを上げるものが現れた。一人か二人しか乗車出来なさそうなサイズの乗り物だ。
「あ、あれってまさか、伝説の、バイク?! やばいやばいやばい乗りたい!」
博物館や過去の文献などでは見た事はあれど、実際に旧式車やバイクにお目にかかれたケーセス住人などいないだろう。
元々軍用車両を運転するのが好きなロジーは、眼鏡型端末すら外して今にも駆け出さんばかりだ。乗りたい気持ちはセオも分かるが、ロジーを野放しには出来ない。彼女の肩を掴む。
「おい、一般人は乗り物の運転なんか出来ないはずだろ」
ラフタハではどうやら一般人の車両運転は珍しくないらしいが、レヴド支配の強い場所では一般人の車両運転は禁じられている。例外は軍人と国家が認めた一部の者だけ。
セオたちが旧式車のハンドルを握ってもラフタハでは不審がられないかもしれないが、今セオたちは軍人という身分を隠してラフタハにいるのだ。極力怪しまれるような事は避けたい。
「でもあれ博物館とかに置かれてるような代物だぞ? 超さわりたい乗りたいかっ飛ばしたい!」
セオもロジーも旧式車の運転方法など知らないが、軍用車両で車両の操作には慣れている。ロジーが本気になれば、旧式車など簡単に乗りこなせるだろう。セオがしっかりと彼女を監視しておかなければ、ロジーはバイクにも乗ってしまうに違いない。ただでさえこの星ではハーマン人は悪目立ちするというのに。
セオが何度目かに本気で、この任務が無事に終わるのか不安になった瞬間であった。