■五日前 04
視線を、正面に向ける。
二人--いや、三人か--の体勢は、先ほどと全く変わっていなかった。音もなく、二体の生霊はもがき続けており、西園寺が両手と足とでそれを抑えつけている。
「始めるで」
平坦な声で告げて、西園寺は腕に力を籠めた。
再び、生木を裂くような音が響いて、穂乃香の悲鳴が闇を切り裂いた。
組み合わせた指に力が入り、爪が痛いほど手の甲に食いこむ。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
二人が生霊ならば、そして生霊が死霊と状態がさほど変わらないのならば、声に出さなくても伝わるはずだ。
美恵子は、それをよく知っていた。
大丈夫。大丈夫。大丈夫、だから。
苦しさは、痛みは、すぐに終わるから。妬ましさは、辛さは、じきに消えるから。
三人でいた頃の楽しさを信じているから。
今も変わらず大好きだから。
ずっと、ここで待っているから。
例え、それが、失わずにいた者の驕りだと思われていても。
引き裂く音が、徐々に小さくなってきている。
そしてずるり、と引き抜かれるように、穂乃香の身体が聡美から離れた。
「……お疲れさん」
小さく、西園寺が呟く。
穂乃香の、白く光る身体が、ざらりと崩れ始めた。
細かい白い粒子になって、空へ登っていく。
それは月の光に煌きながら、やがてある方向へと流れていった。
「これで、吉谷さんは大丈夫やろ。……さて」
変わらず踏みつけたままの、もう一体の生霊へ視線を落とす。
穂乃香が完全に分離した時点で、それはもがくのを止めていた。
ぴくりとも動かずに、地面に倒れている。
「西園寺さん。……聡美ちゃんも、大丈夫ですよね」
一人ずつに別れても、こちらは形を保っている。
先ほど説明された、『時間が経ちすぎている』という言葉が、胸に重い。
それには返事をせず、西園寺は身を屈めた。
「聞こえるか?」
低い声で囁きかける。
「自分の恨みが、妬みが、呪いが筋違いやってこと、もう充分判っとるんやろう? あの子たちを引き摺り堕としても、何一つも楽になんかならへん。なぁ?」
だん、と鈍い音を立てて、生霊の腕がアスファルトを叩いた。再び、渾身の力で身体を自由にしようとしている。
「聡美、ちゃん……」
ほの白い顔を上げる。その意思は、未だ美恵子に向けられていた。
「無駄な足掻きはええ加減止めぇ。判っとるはずや。自分が呪いを向ける相手が違うっちゅうことも、その当人が、今どこにおるんかっちゅうことも」
その言葉に、びく、と白い身体を震わせる。聡美の顔が、ゆっくりと左右に振れた。
「生身やったら見当もつかへんかったやろ。せやから、居場所の知れとるあの子たちのとこに来たんやな? けど、今、この身体やったら、落ち着いて探したら、判るはずや。自分を堕とした奴が、のうのうと生きとる場所が」
諭すように、煽るように、唆すように、西園寺は囁き続ける。
ざわ、と美恵子の身体の内側が波立った。
ああ、やはり、この男に感じ続けている不吉さは、間違っていない。
「聡美ちゃん!」
ぐぅ、と聡美が身体を仰け反らせる。その意識は、今、美恵子とも穂乃香の病院の方向とも違う場所へ向いていた。
「一人で行けるな?」
優しささえ感じられる言葉を落として、西園寺が脇へ退いた。一瞬で跳ね起き、白い身体は闇の奥へと走り出した。見覚えのあるそのフォームが、暗がりに消える。
「追え。次郎五郎」
男の命に、傍らにいた銀色の犬が駆け出す。その姿を数秒間見つめて、西園寺は肩を大きく回した。
「さて、と。送っていこか?」
にやりと笑みを向けた男を、信じられない気持ちで見上げる。
「どないした? どっか、怪我でもしてたか?」
「……聡美ちゃん、に、何をしたんですか! あの子に、何をさせるんですか!」
叫んだ言葉に、呆気にとられたように瞬いた。
「何って……。そもそも、あの呪いは、宮田さんを襲った奴らに向けられるべきやった。気持ちが晴れたら、宮田さんも落ち着くやろ」
「晴れたら、って」
それは、美恵子に向けられていた殺意の向きが変わっただけの話だ。
「聡美ちゃんに、人を殺させるんですか」
信じているのに。大好きなのに。待っているのに。
それを粉々に粉砕させようとする男に、投げつける言葉が出てこない。
ああ、と、西園寺は気の抜けた声を漏らした。
「まさか。いっくら生霊になっとるからって、いたいけな中学生に、そこまでさせる訳がないやろ。今、次郎五郎が後を追っかけてる。そもそもの犯人を見つけたら、そのまま宮田さんを足止めする予定や。後からワシがそこを突き止めて、まあ、色々する訳やな」
「色々って……。聡美ちゃんの事件は、関係ないんじゃないんですか?」
「犯人が判ったとしたら、放っておく訳にいかんやろ」
「そうじゃなくて。こんなことで犯人が判っても、どうしようもないじゃないですか」
生霊が追って来たからといって、それが証拠になる訳ではない。それぐらいは、美恵子にも判っていた。
「まあ、そこはそれ、オトナの事情って奴やな。心配せんでええ。ワシが、全部ちゃんと片づけたる。せやから安心して、おうちに帰り」
手を差しのべる男に未だ不信感を抱きながらも、しぶしぶ美恵子はそれに応えた。
胸が、重苦しい。
自分を襲ってきた犯人が判明して、おそらくは解決したのだろうに、前回この車に乗っていた時と気持ちはさほど変わらない。
「西園寺さん。……もう、本当に、大丈夫なんですよね」
掠れた声で尋ねる。
「心配いらんて。念のため、あと何日かは美恵子ちゃんに九十郎をつけといたるし」
「九十郎?」
突然の名前に、小首を傾げる。
「先刻おったやろ。黒い方の犬。あれを、三日前から美恵子ちゃんの護衛につけとった。まだ何かあったら、奴が何とかしてくれる」
「気がつきませんでした」
先ほど、生霊と対峙していた時は、あの黒い毛並みをはっきり見ていたのに。
西園寺が小さく喉の奥で笑った。
「そりゃ意図的に穏形しとるのに、そう簡単に見破られたらこっちもプロとして困るわ」
プロ。仕事。
「西園寺さんは、この後どうするんですか?」
「ん? ワシはこの後宮田さんの後追っかけて、犯人を適当に揉んで、それから明日には吉谷さんの様子を見に行く予定や。吉谷さんが落ち着いたら、宮田さんの方も落ち着かせに行かなあかんやろうな。それで多分、この件は終わりになる。まあ、全部上手くいったらやけど」
穂乃香のところにいる時に行き会えればともかく、おそらく、もう顔を合わすことはないのだろう。
「……あの、来週なんですけど、中体連があるんです。私も出場するんですが、よかったら見に来てくれませんか?」
西園寺は、訝しげな視線を向けるだけだ。
「その、九十郎くんだって引き取りに来ないといけないだろうし、私も二人がどうなったのか知りたいし、私が……、私が、自分のために頑張ってるところを、見て欲しいんです」
膝の上で組み合わせた指だけを見つめて、話す。
困ったような沈黙が十数秒流れた。
「約束は、できんわ。ごめんな。何より仕事が優先や。吉谷さんと宮田さんを何とかしたらなあかん。九十郎は、わざわざ引き取りに来ぅへんでもこっちから呼び寄せられるしな」
ほんの一瞬、ぎゅぅ、と胸が締めしけられるように、痛んだ。
「できれば、でいいんです。待っていますから」
「ま、当てにせんといてや」
美恵子の言葉に、酷く軽く、西園寺は返した。