■五日前 03
視線が、その瞳から外れない。
はしゃいだ時には楽しげな笑みを湛えていた瞳が。
喧嘩をした時には哀しげに見つめてきた瞳が。
スタートラインに立って、真剣にゴールを見据えていた瞳が。
やり場のない怒りに満ちて、長い髪を振り乱して、美恵子を睨みつけている。
周囲が、ふぅ、と存在感を消した。
視界に、意識に、記憶に、知識に、想い出に、感情に、感覚に、肌に。
穂乃香の瞳が、その意思が浸食してくる。
「九十郎!」
遠くで、微かに叫び声が響いて。
間髪を容れずに世界が揺れ、視界は白熱した光に満ちた。
ぼんやりと、滲む。
眩しさに涙が出てきたのだ。
どうして。
真っ白だった視界が、一部、闇に欠けた。
どうして。
闇が、奇妙な形にひしゃげる。
どうし、て。
「……ぎさ……、八木さん! しっかりせぇ! 美恵子!」
叫び声が続いていたのに気がついて、僅かに腕を動かした。
「ああ、くそ! 名前は! 自分の名前は判るか?」
その言葉が何かおかしくて、小さく笑う。
「そんなの……。判ってる、じゃないですか……? 呼んでたのに」
自分の声が、奇妙に間延びして聞こえてくる。
「ええから名前! フルネームで!」
苛立ったような声に、不審を覚えながらも口を開いた。
「八木……美恵子」
「年齢!」
「十四歳……です。……今年で」
「学校と学年とクラスと出席番号!」
「東中学校……二年、四組の、三十番」
「ああ、ええと……、家族構成!」
「お父さんとお母さんと私。あと、ここあ」
「ココア?」
「猫です。茶トラの」
「猫派か」
「犬も好きですよ。……あの、西園寺さん、何でこんなに色々訊くんですか?」
少し安堵したような気配が、遠くから感じられる。
「あんたが剥がし切られへんうちに、しっかり引き戻しておかんとあかんかったんや。もう判るか? 手足の感覚は?」
「大丈夫、です」
判るかどうかと言えば、西園寺の説明は、全く訳が判らない。何故かちょっとがっかりしたが、目を瞬いて、滲んでいた涙を散らす。
ぼんやりしていた視界がはっきりしてきて、自分が地面に倒れていること、頭上からの電灯の光を遮っていたのは黒い毛並みの犬だったということが見て取れた。
視線が会って、きょとんとした顔で小首を傾げてくる。
先刻の動きもこれだったのかな、と思い、小さく笑いながら手を延ばし、その首を撫でた。
毛並みのふわりとした感触はするが、体温が全く感じられない。
ああ、この子も、生きている存在ではないのだ。
長く、息を吐く。覚悟を決めるために。
「西園寺さん。ほのちゃんは、死んだんですか」
「いいや」
あっさりと答えられて、力が抜けた。
「え?」
「自分、昼間会うたやろ。吉谷さんはちゃんと生きとる。そもそも、三日前にこいつに遭遇してたんやから、吉谷さんが死んどったとしたらその時以前でないとおかしいやんか」
「でも、先刻見たのは、間違いなくほのちゃんの顔でした! 死んでないなら、どうしてほのちゃんがそんな姿でここに」
アスファルトの上に横たわったまま、混乱して声を上げる。
「死んでへんでも、こういう状態にはなる。珍しいけどな。これは」
淡々と、西園寺は続けた。
「吉谷さんたちの、生霊や」
「生霊……?」
ぞくり、と背筋が冷える。
「吉谷さんが襲われた時、すぐに救けが入ったさかいに、彼女を死なせ切られへんかったんやろう。中途半端に、霊体が一部分融合してしもた。今、怪我もしてへんのに吉谷さんが歩かれへんのは多分このせいや。このまま時間が経ったら、じわじわと身体に残った方の霊体も衰弱して、死ぬんは避けられへんようになる」
「死、ぬ……?」
闇雲に起き上がろうとするが、西園寺は鋭くそれを止めた。
「動いたらあかん。大丈夫や。今、こいつから吉谷さんの霊体を引き剥がしとる。吉谷さんの分は一人だけで存在できるほど強くないさかい、剥がした後は自然に元の身体に引き寄せられていくやろ。そしたら、あとは快復するだけや。時間はちょっとかかるかもしれんけど」
「大丈夫なんですね? ほのちゃんは」
「ああ。ちょっと見た目と音はキツいやろうけど、引き剥がすことで何かダメージがある訳でもないから、安心しぃ」
その、引き剥がすという行為を今は中断しているのだろう。多分、美恵子が倒れたところからずっと。先ほどまで響いていた悲鳴とめりめりという音は聞こえてこない。
あの酷く暴れ、もがいていた姿を思えば、この十数分間それを抑えているのはかなりの努力だ。
それは判っているが、しかし美恵子は更に言葉を継いだ。
「先刻、ほのちゃんたち、と言いましたよね。その生霊の中には、少なくとももう一人いるんでしょう? 誰ですか、その人は」
「……聡いなぁ、ほんま」
苦笑が混じった声で、そう呟かれる。
「美恵子ちゃんも見たやろうけど、顔形も、もう判らん状態になっとる。生霊になってから、時間が経ちすぎとるからや。当人に会うてたらその人の霊体やって判ることもあるけど、会うてへんからどっちにしろ断定はできん。……けど、ワシは、もう一人は宮田さんやないかと思ってる」
ああ。
やはり、そうか。
鼻の奥がつん、として、また涙が滲んできた。
「聡美ちゃん、は、あたしたちのこと、嫌いになったんでしょうか」
穂乃香も、自分を疎ましく思っていたのだろうか。
三人で過ごした日々が、嘘だったのだろうか。
男は、淡々と言葉を返してくる。
「そればっかりは、安請け合いはできへん。すまんな。けど、宮田さんはそりゃあ辛い目に遭うたんやろう。身体も心も環境もずたずたになっとることぐらい、美恵子ちゃんにも想像はできるな? 彼女がどんな性格やったとしても、まだ十四歳の女の子や。一度も世界を呪わずにいられるほど、強い訳はない」
「私たちを、呪った……?」
呪って、妬んで、生霊に成り果てた。
私たちが、健康に、変わらずに生活しているから。
「……違う」
小さく、呟く。
聡美が最も苦しんだことは、きっと、走れなくなったことだ。
彼女が、三人の中で最も速さに対して貪欲だった。
入部以来、美恵子がほんの僅かだがいいタイムを出し続けていて、それに対して負けないから、とふざけ半分に言っていた。
その程度、努力によってすぐに抜かされるものだろうし、美恵子にしてみれば聡美の明るさや社交性、穂乃香の優しさや穏やかさの方が羨ましかったのに。
それでも、聡美にはそれが何よりも欲しかったのだろう。
彼女に引き摺られたということは、おそらく、歩けなくなってしまった穂乃香もだ。
……二人の分も頑張る、などと、どれだけおこがましい考えだったのか。
涙に揺れる吐息を、全て吐き出す。
「西園寺さん。起きて、いいですか」
「あかん」
あっさりと断られるのは、相変わらずだ。
「もう大丈夫です。引き摺られたりしません。見ていたいんです。二人が、どうなるのか。友達だから」
これ見よがしに長い溜め息が漏れた。
「ヤバいと判断したら、また九十朗にひっくり返させるで。抵抗せんときや。自分でも、何かおかしいってちょっとでも思たら、目ぇ閉じぃ。判ったな?」
「はい」
「よし。起きぃ。ゆっくりな」
腕に力を入れて、上体を起こす。どことなく気遣わしげに、黒い毛並みの犬が顔を見上げてきた。




