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■五日前 01

 それから二日ほどは、何事もなく過ぎた。

 穂乃香が心配そうな視線を向けてくる。

「みえちゃん、顔色悪いよ? 大丈夫?」

「あ、うん。ちょっと寝不足なだけ。大丈夫大丈夫」

 慌てて笑顔を作ったが、友人の表情からは曇りがとれない。

 お見舞に来ているのに、反対に心配をかけているようでは駄目だ。

 そう思ってはいるのだが、美恵子の座る椅子の左側の窓にかかる、白いカーテンがどうしても怖い。

 早く帰って休んだ方がいい、という穂乃香の気遣いに甘え、美恵子はその日は早めに病室を出た。


 しかしすぐに帰宅する気にもなれず、人気の少ないロビーの椅子に腰を下ろす。

 夕方ということもあり、周囲の椅子に座っている人は殆どいない。遠慮なく、深く、長く溜め息をついた。

 あの夜以来、視界に何か白い物が映ったり、急に何かが動いたりすると、反射的な恐怖を覚えるようになってきていた。

 四六時中びくびくし、眠りも浅くなり、奇妙な夢を見て夜中に目が覚めることもある。

 ……このままでは、気持ちが保たない。

「疲れてるみたいやな」

 俯いた視界に、黒いスラックスと黒い靴が入ってくる。その僅かな不吉さにすら安堵して、ゆっくりと顔を上げた。

「西園寺、さん」

「目の下。隈、できてるで。若い女の子やのに」

「セクハラですね」

 ぴしゃりと言って、背中を椅子にもたせかけた。やや上方を見上げられるだけでも、まだましか。

 肩を竦め、男は美恵子の隣に腰掛けた。セクハラと言われたのを気にしたのか、間に一人分ぐらいの空間を空けている。

「西園寺さん。犯人は捕まえられるんですか?」

「全力は尽くしとる」

 絞り出した声にさらりと告げられて、唇を噛んだ。

「いつになりますか」

「最善も尽くしとる」

「約束は」

「できん」

 あっさりと認められて、膝の上で拳を握る。

「……私、今夜、またこの辺を歩いてみます。犯人が出てくるかもしれないし、そうしたら」

「あかん」

 きっぱりと断じられて、鋭く顔を上げた。

「どうしてですか!」

 首を曲げてこちらを見ていた西園寺と視線が合う。

「日本の警察は、(おとり)捜査を認めてへん。ましてや未成年の女の子を囮に使うなんてもってのほかや。そんなもん、検討することすらできん。……大丈夫や。ワシがちゃんと犯人を処分する」

「いつになるんですか。何年先ですか。私……、わたし」

 怖いのだと。怖くて苦しくて辛くてふいに泣き出しそうになるのだと、そう訴えかけそうになって、息を吸いこんで言葉を塞いだ。

「……来週、大会があるんです。なのに、こんな状態じゃまともに部活もできません。今が大事なんです。ほのちゃんや聡美ちゃんの分も私が頑張らなくちゃいけないのに」

 西園寺が小さく鼻を鳴らした。

「自分にできること以上を頑張ったって、何の意味もない。やらんでええことに首を突っこむんやない」

 とりつく島のない返事に、反射的に立ち上がった。

「じゃあ、このままいつ解決するか判らないのを、ずっと待っていろって言うんですか?」

 ざわり、と遠いところで空気がざわめいた。

 西園寺は、真面目な顔で美恵子を見上げている。

「そうや」

 簡潔に一言だけ告げられて、息を飲んだ。

「もう、いいです!」

 叫ぶように言い放つと、踵を返した。小走りに出口へと向かう。人とぶつかりそうになったが、何とかすり抜ける。

 西園寺の声が追ってきた気がしたが、それは静かに閉まっていく自動ドアに遮断された。




 病院を飛び出した美恵子は、先日と同じように闇雲に走っているように見えたかもしれない。しかし、彼女は今日、学校でこの病院近辺の地図を調べてきていた。

 冷静に、人気(ひとけ)のないであろう住宅街へと進む。しかし、数ブロック走ればすぐに大通りに出られるような、そんな場所へ。

 病院のロビーで時間を潰したおかげで、もう陽は暮れかかっている。暗くなるまで、そんなにはかからない。


 場所は住宅街の道路。空は藍色に染まり、周囲は薄闇に満ちている。

 ゆっくりと歩きながら、時々携帯の画面に視線を落とす。

 やがて、ばちん、と大きな音を立てて、数メートル前方で街灯が消えた。

 はっとして、周囲を見渡す。

 立て続けに音を立て、次々に街灯の灯りが消えていった。

 携帯は、圏外。

 用心深く、周囲の気配を探る。

 一度経験したことだ。心の準備はできている。

 震える指先を握りこみ、美恵子は重苦しい沈黙に耐えていた。


 その頭上、街灯が取りつけられていた電柱の上から、自分めがけて人影が飛びかかってくることには気づかないままに。


「きゃぁあ!」

 衝撃に、悲鳴を上げる。

 全く予測できていなかった身体は、無抵抗にアスファルトに叩きつけられる。

 うつ伏せに倒れた身体で、何とか起きあがろうとしたところを、腰の上に鈍い重みが加わった。上体を捻ってそれに向き直ろうとするが、両手が美恵子の肩を地面に押しつける。

 何とか視界の端に、ぼんやりとした白い姿が映るだけだ。

 相手の呼吸すら、聞こえない。

「……貴方が、聡美ちゃんとほのちゃんを、襲ったの?」

 背筋に汗が滲むのを無視して、できる限りはっきりとした声で尋ねる。

 人影の動きは全くない。

 前回と比べ、距離が近い。視界にあまり入ってこないとはいえ、その造作がはっきりしないのは、きっと何か、顔を覆うマスクのようなものをかぶっているのだろう。

 右肩を押しつける重みが、ふいに消えた。

 前に見た時に右手に持っていたものは。

 何とか身体を振り払おうと、逃れようともがくけれど、相手は馬乗りになっていて、びくともしない。

「い、やぁ……」

 掠れた声が漏れて、そして。


「頭下げぇ!」


 怒声に、反射的に顔を伏せる。数秒も間を置かず、銃声が響いた。

 殆どアスファルトしか見えない視界に、ばらばらと白い粉の様なものが降り注ぐ。それは地面に落ちるかどうかという辺りで、溶けるように消えていった。

「次郎五郎!」

 どん、と美恵子の上に乗っていた相手の身体が、何かがぶつかったかのように鈍く揺れる。のしかかっていた重みが薄れ、その隙に、急いで身体の下から抜け出した。這うように二メートルほど離れて、背後を向く。

「ひゃ……!」

 声にならない悲鳴が、喉を灼いた。

 美恵子を襲っていた人影は、やはり白い。ぼんやりと形作られた身体が、路上に蹲っている。

 その頭部は、拳二つ分ぐらいの大きさでごっそりと削られていた。

 その断面すら、薄く光を放つ白い物体でできている。

 ゆらり、と人影が上体を起こしかけた。

 近くにいた銀色の犬が、低く唸り声を上げる。

「動くんやないで」

 張りつめた声が、更に向こう側から聞こえてくる。

 黒い背広が闇に半ば溶けた姿で、西園寺四郎がこちらへ銃口を向けていた。


「西園寺、さん……」

「行け、次郎!」

 美恵子の呟きにも反応せず、西園寺は銀色の犬へ命令を放つ。

 軽く跳ねるように、次郎五郎は近くの電柱へと向かった。口に咥えていた一枚の細長い紙を、器用に鼻面を使って電柱に貼りつける。

 瞬間、ちかちかと瞬いて電灯が灯った。

「え?」

「八木さん。その光の中に入ってぇ。絶対に、爪先だけでも外に出ぇへんように気をつけて」

「西園寺さん、何で」

(はよ)ぅ!」

 怒鳴るように促されて、慌てて立ち上がった。小走りに丸い光の輪の中へ入る。

 次郎五郎が、その前を護るように立つ。

 残された、白い、人のかたちをしたものは、美恵子を追うように動きかけた。

 が。

「一歩でも動いたら、今度は足を撃ち抜くで」

 西園寺の脅しに、ぴたりと動きを止める。

 つい数十秒前、頭を撃ち抜いたにしては奇妙な牽制だ。

 そして、それが功を奏していることも。

「……あの、その……人、何なんですか?」

 恐怖と戸惑いで、つい率直に問いかける。

「見えとるんやろう、八木さん。これだけやない、次郎五郎も、あと、普通は見えへんもんも、普段から」

 びく、と美恵子の身体が震える。

 それは、襲われたこと、殺されかけたこと、相手の奇妙な風体、それらとは全く関係のないところで。

「……やっぱり、その人、生きてないんですか」

 諦めて、美恵子は小さく呟いた。



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