■八日前 02
こめかみから流れてきた汗が、不快に喉を伝う。酸素を求めて、大きく喘いだ。
先ほど不審な男から逃げていた時よりも、今の方が苦しい。
周囲が一面の闇だということもあるだろう。街灯も、立ち並ぶ家々からの灯りも一切が視界に入らない。ただ薄ぼんやりとした濃淡でその姿を見分けることができるだけだ。
さほどの休息を取った訳でもなく、再び走り出していることも。
だが、一番の原因は、背後から追ってきているものだ。
あの男は、黒服の不吉な気配を持つ男は、それでもそれはただの気配でしかなかった。
何か、嫌なことが起きるのではないかという、漠然とした不安。
しかし今後ろにいる存在は。
ばたばたと響く自分の足音に決して紛れることなく、ひたひたという静かな足音が一定の間隔でついてきている。
あり得ない。
あれは、不安ではない。確かにそこに在り、確実に襲いかかってくる、悪意だ。
「きゃ……!」
アスファルトの窪みに爪先を引っかける。一瞬、果てのない穴に落ちていくような感覚を覚えて、背筋が冷えた。
しかしそんなことはなく、どう、と地面に倒れこむ。
肩越しに振り向いた先には、やはりあの白い人影が立っていた。
一気に吹き出た汗が、即座に冷えて肌が粟立つ。
がくがくと震える腕は、脚は、もう身体を支えることすらおぼつかない。
「や、あ……」
人影の輪郭が、滲む。
もう足音が響くことはなく、その奇妙に長い腕をゆっくりと振り上げてくる。
「存分に、喰らえ。次郎五郎」
低い声が響いて、美恵子の視界に銀色の光が踊った。
涙の滲んだ眼を懸命にしばたたかせて、何が起きたのかを確かめようとする。
ぼんやりとした人影の右腕に喰らいついているのは、銀色の毛並みをした一匹の犬だった。
人影は大きく腕を振って犬を振り払うが、犬の方は低い唸り声を漏らしながらそれに再度襲いかかる。その犬に牽制されて、人影は美恵子へ向かって来られない。
やがて、一瞬だけ人影はこちらへ視線を向けた。
表情など全く判らないのに、何故かはっきりとした憎悪を向けられて、地面に倒れこんだ美恵子の身体が竦む。
しかし次の瞬間、踵を返してその人影は闇へと走り出した。銀色の犬がそれを追って軽く跳ね、視界から消える。
……助かっ、た?
訳が判らないまま、肩を落とし、安堵で大きく息をする美恵子の背後から、不意にかつん、と靴音が響いた。
「きゃぁあああああ!」
瞬時に恐慌を起こして、ばっと振り返る。
そこには、苦笑を浮かべた一人の男が立っていた。手にした懐中電灯から放たれる光を、彼女の足元へ向けている。
「あー。八木美恵子さん、やね?」
片手で、黒い背広の内ポケットから、器用に掌大の手帳のようなものを取り出した。
それはぱたん、と縦向きに開いて、こちらへ向けられる。
現れたのは、テレビドラマなどでよく見る、金属製の紋章。
「警視庁捜査零課の、西園寺四郎や。送っていこか?」
「……へ」
美恵子は、ただまじまじとその姿を見上げていた。
「変態さんじゃなかったんですか?」
「誰が変態や!」
呆然としたまま口を衝いて出た問いに、西園寺と名乗った男は怒声を上げた。
反射的に身を竦める少女を気にもせず、ずい、と距離を縮める。眉を寄せた顔が暗がりの中に見えた。
「ええか嬢ちゃん。世の中には、他人様に向かって使うてええ呼称とあかん呼称があるんや。変態やなんて、まかり間違っても絶対に口にしたらあかん。百歩譲って変質者やったらまだしもや」
「まだしもなんですか? 変質者、が?」
「当たり前や! 見ず知らずの他人を変態扱いなんぞしたら、縛り上げられてだんじりの後ろに引き摺られていかれても文句は言えへんで!」
「だんじり……?」
何だか色々と腑に落ちなくて、小首を傾げる。
そこへにやりと笑みを浮かべられ、つられて美恵子は小さく笑った。
そう、心底本気で怒っていた訳ではないのだろう。実際、先ほどまで彼女が感じていた恐怖は、今はかなり薄くなってしまっている。
「怪我とかはしてへん? 立てるか?」
慌てて、身体を探る。転んだ時に膝を打っていたが、軽く擦りむいた程度で済んでいた。
頷いた鼻先に、男が片手を差しのべた。
「……うん。大丈夫。ほのちゃんのお見舞に行っていて、遅くなっちゃったの。これから帰るから大丈夫よ」
車の助手席に腰を下ろし、美恵子は電話をかけていた。
あのあと西園寺に連れられて路地を抜けた先は、すぐに大通りに続いていた。街灯が灯り、車が行き交う様子にほっとする。路肩に停めてあった車に美恵子を乗せ、西園寺は一旦そこを離れていた。
家の人に電話するとええ、と言い残して。
だが完全に姿を消した訳ではなく、数メートル離れた場所に立っている。美恵子に何かがあれば、すぐに対処できる距離だ。彼は手持ちぶさたに煙草の箱を弄んでいた。
通話を終え、小さく息をつく。待ち受け画面に視線を落とすと、アンテナは元気に全部立っていた。
「あの、終わりました」
扉を細く開けて、声をかける。
小さく頷いて戻ってくると、運転席に乗りこむ。すぐにカーナビを起動させた。
「住所、教えて貰てええ?」
まだ少し、彼に対する警戒感は残っている。だが、思い切って信用することにして、美恵子は住所を告げた。
機械音声が、ルートの指示を始める。滑らかに西園寺は車を発進させた。
「……西園寺、さんは、どうしてあそこにいたんですか?」
しばらくの間続いた沈黙が怖くて、口を開く。
その問いに、男は小さく苦笑した。
「宮田聡美さん、って知っとる?」
しかし答えではなく問いが返されて、美恵子は拳をぎゅっと膝の上で握った。
「……やっぱり、その件ですか」
我ながら固い声が漏れる。
西園寺は、無言でその様子を伺っていた。
宮田聡美と吉谷穂乃香とは、中学に入学し、陸上部に入部した時に知り合った。
クラスは違ったのだが、苗字が名簿上で近く、仮の班分けをされた時に一緒になったのがきっかけだ。
明るく社交的で物怖じしない聡美と、おとなしくて恥ずかしがりやな穂乃香。二人に比べると、美恵子は自分があまりに普通すぎるなぁと時折思ったりもしたが、三人は意外と気が合い、部活の他でも親しい仲になっていた。
そして半年以上の間、三人は時折小さな他愛のない喧嘩をしたりしながら、それでも仲良く過ごしていた。
あの日が、くるまでは。
その日は、前日の雨のせいか、一気に冷えこんだ。
部活を終え、汗も引いてしまうと、空気が肌を刺してくる。
すっかり暗くなった街路を、三人で歩く。
「寒いねぇ」
「コンビニで肉まんでも食べてく?」
「いやいや太るよ!」
「太ったらタイムに響くよぅ?」
「大丈夫! 脂肪は筋肉に変えれば!」
「でも筋肉って脂肪より重いよねぇ?」
きゃあきゃあと騒ぎながら、いつもの交差点で別れを告げる。実際歩き始めるのが五分以上経ってからなのも、いつものことだ。
だけど、この日を最後に、聡美の姿を見ることはなかった。
詳しい話を聞いたのは、数日後のことだった。
一人になった帰り道で、聡美は誰かに拉致されていたのだ。
通学路から遠く離れたある路地に、体中を傷つけられ、血まみれで放置されていたのを、深夜に発見された。
幸いまだ発見が早く、生命は救かった。これが朝まで見つからなければ、そのまま失血が続き、または寒さで凍死していたかもしれない。
しかし手足の腱が損傷を受けていて、日常生活に戻れるようになるには随分かかるだろうと言われていた。
そして、当然その傷は顔だけを例外としていた訳では、ない。
結局聡美は学校へ一度も来ることもなく、美恵子たちとの面会もできないまま、いつの間にか東京の病院へと転院していった。
リハビリのためや、傷痕を少しでも消すことができるような病院を探したのだと聞いた。
でもそれだけではないのだろう、という噂が、ひっそりと立ち、そして時間の経過と共に消えた。
引越先が判らないため、手紙は出せない。縋るような気持ちでメールを何度も出した。宛先不明で戻ってくることはなかったが、聡美からの返事は一度もこなかった。
ざっくりと抉られたような傷を心に抱え、穂乃香と美恵子は沈みがちに日々を過ごした。
三ヶ月が経って、新年度が始まっても犯人は捕まらなかった。
その後に犯行が続くこともなく、ぴりぴりとした警戒感も薄れてきた頃。
穂乃香が襲われた。