日本橋
水道も、ガスも電気も通っていない廃屋では、灯りと言えばゆきの灯している狐火のみである。
ぼんやりとうす青いその光は、緊張した一団の顔色を、殊更悪く見せている。
「辞令もなし、装備もなし、犬神の力も効かん相手に対応せぇて?」
西園寺が、低く囁く。
「零課の装備は、むしろ威力が低くないかい?」
「鉛の弾やと、撃ったら始末書要るやろ」
漆田の疑問に世知辛く返して、男は上着を脱ぎ捨てた。黒の細めのネクタイを、緩める。
ぎしり、ぎしり、と床板を鳴らした足音は、とうとう、薄く開いていた扉の前で止まった。
少女が、立ち上がろうとしてよろめく。
その細い肩をゆきが支えた。
きぃ、と軋みながら扉が開く。
そこに、立っていたのは。
ふわり、と揺れる、紺色のワンピース。すらりと伸びた足は、白のサンダルに包まれている。
「女の子……?」
ゆきが小さく呟く。
対峙する二人の少女は、顔立ちがよく似ていた。
はっきりと違うのは、戸口に立つ少女の、サイドテールに結われた、淡い水色の髪くらいだ。
「どんな色や。あの髪」
「ちょっと日本橋の方に行ったら、結構いてるよ」
「地毛でか?」
何ということはない、という顔のゆきに、胡散臭げな視線を向ける。
「ニンゲンを巻きこむのは最低限にするようにと言われた筈よ、87番」
水色の髪の少女が、口を開く。
黒髪の少女は、敵意も露わにそれを睨みつけていた。
「その子離すなや、ゆき」
低く、西園寺が囁く。慌てて、金髪の青年は少女の肩を抱きしめた。
そして、西園寺が前に出る。
彼は、一応警察官として一通りの武道を修めてはいる。
相手は少女だ。小柄で、細い。
一息に組み伏せるのがいいだろう。
決して油断はしていなかった。だが。
ふいに背筋が冷えると同時、仰け反る。
少女の手が、細い指が、鋭い爪が、その一瞬前まで男の頭があったところを空振りしていた。
「あら?」
軽く跳び上がっていた小さな身体が、とん、と床に降り立って、小首を傾げる。
「……巻きこまへんのとちゃうかったんか?」
鼻先を、掠めた感触が残る。
じわり、と背に汗が滲んだ。
「だって貴方たち、殆どヒトじゃないじゃない」
次の瞬間、無言で踏みこんだ。
真正面。誤魔化しなしで、ただ、勢いだけで。
顔面を鷲掴み、そのままの流れで床に叩きつける。
「西園寺はん!?」
ゆきが叫ぶ。その腕の中の少女は、呆気に取られ、もがくのをやめていた。
「ひどいわね」
「お互い様やろ」
西園寺の右肘の辺りから、シャツの布地が縦に何本にも裂かれている。即座に身を離したのだが、僅かに間に合わなかった。
それは、無論、服一枚で済んだ訳ではない。
ぼた、と、床に血の染みができる。
少女は上体を起こし、こちらを値踏みするように見上げていた。あんな目にあったのに、ダメージを受けているとは思えない。
緊張が、更に増した、その時。
「……ああもう、堪忍してぇや!」
ゆきの、嫌悪に満ちた声が響くと同時、視界が白濁した。
「きゃ……!」
「何や!」
驚愕と、苛立ちの声が上がる。
襲撃者の姿は、白い、煙に似た何かにすっかり隠れてしまっていた。
煙にしては、いがらっぽさがないが。
「ちょ、ほんま、ちょっと堪忍して……」
振り向くと、ゆきが少女に背後から縋るように肩を落としていた。
「ゆき?」
襲撃者に敵意を向けていた黒髪の少女は、その存在が知覚できなくなったからか、今はゆきの方を覗きこんでいた。
「どうかした?」
横から、漆田が尋ねた。
「どう、って、西園寺はんの血が……。あかん、ほんま、きもい」
真っ青な顔で、呼吸も荒げて、ゆきが呟いた。
「……西園寺くん、君、本当に人間?」
「しっつれいやな! 混ざりもんなしの人間や!」
興味深げに訊いてきた漆田を怒鳴りつける。
ただ、血筋が憑き物筋なだけで。
「すんません、うち、ちょっと外出てきますわ……」
ふらりと立ち上がりかけたに青年に、慌てて手を延ばした。
「待てって!」
「やめてぇや、ほんま!」
涙目になって身を引いたゆきに、一旦、血まみれの手を下ろす。
半ばは嫌がらせだった。
「これ、自分がやったんか」
「簡単に言うたら、化かしてるんですわ」
「化かす?」
「狐に化かされて、ずっと山ん中歩かされた、てな昔話ありまっしゃろ。あれです。あの子は、この部屋の中で、うちらの誰も見つけられへんでうろうろしてますわ」
落ち着かない様子で、ゆきはそう説明する。
「何でそんな便利なこと今までせぇへんかったん」
「……奥の手やから。ここ、うちの縄張りとは違うし」
後ろめたそうに、やや視線を逸らせて返す。
ゆきの出身は、京都だ。
人間には判らない、何かこだわりとか掟とかがあるのかもしれない。
「せやから、今やったらあの子に気づかれんと出れるさかい、ちょっとうち外の空気吸ぅてくるんで……」
「ちょっと待って」
ふらりと歩き出そうとしたゆきの手を、今度は漆田が掴んだ。
「何ですの! もう!」
「まあまあ。あの子の居場所、正確に判る?」
「そりゃ判りますけど……」
訝しげに頷くゆきに、漆田は薄く笑んだ。
「西園寺くん、もういいから傷の手当てしてて。君、あの子の居場所教えて。どこ?」
突然仕切りだした漆田に、一つ肩を竦めて、後ろに回る。スラックスのポケットから、ハンカチを取り出した。
「ええと……こっち。二メートルぐらい」
「動きそう?」
「動きよっても位置を変えへんようにもできるけど」
「お願いするよ」
人を化かす技術を最大限に発揮するように告げて、漆田はここまで持ってきていたトランクを引き寄せた。
「ええよ」
ゆきの合図に、それを横長になるように倒す。
そして、じゃっ、という音を立てて、側面の何かを押し下げた。
直後、空気が破裂したように響くと、トランクから何かが発射される。
「何や!?」
流石に驚愕して、西園寺が叫ぶ。
がしゃん、と金属音がして、少女の悲鳴が短く聞こえた。
「はい、ゆきくん、これ持ってちょっと触ってきて。端っこでいいから」
「何ですのこれ……って、スタンガン!?」
「漆田……」
この場を任せたことを少しばかり後悔しながら、西園寺は力なく制止した。
時刻は、そろそろ早朝とは言えなくなってきている。
数年前から人の住まなくなった家から、突然大きな音が響いて、周辺の住人は遠巻きに眺めていた。
やがて、疲れ切った顔の男が中から姿を見せる。
男は、街路に十人ほどが集まっているのに、動きを止めた。
「何やってんの、あんた」
「悪さしとるんとちゃうやろな」
「警察呼ぶで!」
「ああ、ええと……」
男は、困ったように、黒い上着の内ポケットから、茶色い手帳のようなものを取り出し、見せつけるように掲げた。
「……何や、あんたが警察か」
「お騒がせして、すんません。ここ、若いのんの溜まり場になっとって、補導に来たんですわ。ちょっと救急車来ますんで、道開けてもろてええですか」
「どうかしたん?」
「ちょっと具合悪いだけなんで。お母さんも、熱中症とか気ぃつけてぇな」
そつなく、人だかりをさばく。
救急車が来た頃には、野次馬は三人ばかりに減っていた。
ストレッチャーに乗せられたのは、水色の髪の少女だ。
漆田がトランクから発射した金属製の網に絡み取られた後、結局スタンガンの攻撃を受けて気絶してしまっている。
このまま、本部に護送される予定だ。
救急車を見送り、野次馬が完全にいなくなってから、残りの三人が家から出てきた。
「さて、と。とりあえず、何か食うか」
一行が落ち着いたのは、隠れ家からしばらく歩いた、黒門市場の中の喫茶店だ。
開店が早い店を見つけられて、助かった。
「……ほんまに食べへんねんな」
少女が、西園寺の勧めたミックスジュースを美味しそうに飲んでいるのを、感心して眺める。
「消化できないものを摂取するのは、この子の目的からは命取りになる。多分、忌避するレベルで設定されてるんだろうね」
興味深げに、漆田が説明を加えた。
二人は、卵サンドのモーニングだ。分厚い卵焼きが挟んであるサンドウィッチに、酸味の効いたドレッシングがかけられたサラダ。コーヒーも、揃ってブラックだった。
「そろそろ、全部話して貰えますやろ?」
じとり、と男たちを睨め上げるゆきは、再び女性に化けている。
ローティーンに見える少女を連れて成人男性が三人、というのは、面倒を呼びこみかねない、と西園寺が主張したのだ。
刑事という職業を、すれ違う人全てに説明する訳にもいかないのだし。
ここに成人女性が入れば、母親か姉かと推測されるだろう。
張り切ったゆきが着物姿の妖艶な女性に化けて、「そっちのママやない」、とツッこまれたりもしたが。
結局、無難にいつもの姿になったゆきの前にあるのは、二段重ねのパンケーキだ。バターが溶けて柔らかな滲みを見せ、とろりと広がったはちみつが黄金色の光を発している。
少女は、はちみつには興味を示して、ゆきのミルクティーについてきたティースプーンに、時折少し垂らしては舐めていた。
「知らないままさよならした方が、君の為だと思うけど」
「嫌や」
即座に否定されて、錬金術師はちらりと隣を見た。
「ワシに権限はないやろ。自分が決めぃ」
「こんな時ばっかり」
ぶつぶつと文句を言う漆田を知らぬ顔でサンドウィッチを掴む。
その右手の怪我は、ゆきの持っていた薬のおかげで、もう痕すら残っていない。
恩があるのだ。ちょっとだけ。




