松屋町
そこは、またしても古びた木造一戸建てだった。
「こうゆうとこ、好きなんかな」
贅沢な、と呟いて玄関の引き戸を無造作に開ける。
靴を脱ごうかと思うが、廃屋は埃やゴミ、危険物が落ちていることが多い。怪我をする可能性があるため、そのまま上がりこむことにする。ペン型のライトを取り出して、足元を照らした。
廊下の先、扉の隙間から、ぼんやりと光が漏れている。
特に構えることもなく、扉を開けると。
修羅場が展開していた。
「あんた、何のつもりで……」
「ごたごた言わないで、タオル濡らしてきて! 西園寺くん、どっかで氷と経口補水液買ってきて!」
「いきなり何の騒ぎや」
「でもこの家、水道通ってへんし」
「は? ああもう、これだから動物霊は!」
「あんた今何言うた?」
「あ、そこはワシもちょっとツッこみたい」
「君たちなんでそう緊迫感がないの!」
「自分らが騒いでるだけやろ……」
呆れた西園寺の言葉に、漆田は一度深呼吸した。
「この子。熱中症になりかけてる」
「何やて?」
「当然だろう。この真夏の大阪に、冷房もない家にいたんじゃ、夜だろうが屋内だろうが熱中症にもなるよ。判ったら早く買ってきて」
西園寺が、苛立つ漆田に、手にしたビニール袋を差し出す。
「ゆきが先刻落としてった奴や。アイスとかあんで」
「ないよりましかな……。飲み物、お茶は駄目。せめて水……か、そのジュースでいいや」
ペットボトルの蓋を開けて、ぐったりしている少女の唇に寄せた。ぼんやりと目を開けて、しかし何口かを飲みこんでいく。
続いて漆田は、袋入りの棒アイスをそのまま少女の首の後ろにあてがい、そっと床に下ろした。
「ここにおれよ、ゆき」
一転して真面目な表情になった西園寺に念押しされて、毒気の抜けた顔でゆきが頷く。刑事はそのまま家を出ていった。残った男の命じた買い出しに行くようだ。
「ねっちゅー……って?」
漆田は、駄目だしをした緑茶のペットボトルを、少女の首筋に添える。ぎろり、と、険しい視線をゆきに向けた。
「夜の仕事をしてるのに、その程度、話題にもならないのかい?」
「客の話やなんて、すごーいとか言うとったら何とかなるもんやし」
「大物にはなれないね」
金を稼ぐためにのし上がる、と公言しているゆきは、またむっとする。
「簡単に言えば、暑くて脱水症状を起こしてるんだよ。水分が足りなくて、体温が上がって、血流が低下する。死ぬことだって、あるんだ」
「死ぬ!?」
しかし、漆田の説明に、血の気が引いた。
「……大丈夫だよ。少しジュースを飲んだし、冷やして塩分を補給してやれば」
漆田の口調が少し和らぐ。が、それに気づくことなく、ゆきは傍に座った。
「でも、今日とか、そないに暑ぅなかったのに……」
「君は、精神生命体だ。現世の熱に、そんなに敏感だとは思わないね。まして〈狐〉なら、熱には強いだろう。……この子は、一応実存生命体だから、体温は人並みなんだ。人の身に、真夏の都会は実際のところ辛いよ」
ホムンクルスは、人造人間だ。
人間ではない。だが、幽霊や妖怪などの、概念としての、精神的な存在とは違う。
ゆきが今ひとつ納得していないのを見て取って、漆田は片手でゆきの手を取った。
「私は、君に触っている。だけど、君は本当は触られているわけではない。君は人に化けているんだから、私は触っているように思わされている、化かされている状態なんだよ」
そんなことを言われても、掴まれている感覚は、ゆきにもある。
「よぅ判らへん……」
漆田は、困惑する青年に、軽く笑いかけた。
「君の感覚と、人間のものとはかなり違うんだ、ってことに気をつけていればいい。君がこの先、人の世界で生きていくつもりならね」
西園寺が買い出しから帰り、漆田の処置が済むと、少女の具合はかなりよくなったようだった。目を開いて、三人の男を見上げている。
「吐き気はしない? 目眩は?」
「はきけ……?」
きょとんとして繰り返すのに、苦笑する。
「嫌な感じはしないかい? 身体を起こせる?」
頷いて上体を起こすのを見守った。
「思ってたんとちょっと違うな」
西園寺が呟く。
「きっと、この子も生まれたてみたいなものなんだろうしね。話を聞くのは、大変そうだ。彼がいてくれてよかった」
「彼?」
問い返したのは、ゆきだ。西園寺は苦い顔になっている。
「昨日の明け方。自分のねぐらで何が起きたんか、きっちり話して貰うで」
「え、や、うちらは何も」
「別にそれで何か処分する訳やない。あの仏さんも、その子も、お前も、全員ワシが護ったる相手やないからな」
「冷血や……」
不満げな表情になったものの、ゆきは納得したらしい。眉を寄せたまま、口を開く。
彼女に会ったのは、昨日の早朝だった。
ゆきは仕事を終え、松屋町の辺りをふらふらと歩いていた。
この近辺は、卸問屋の町だ。それも、人形や玩具、菓子などの。人々が起き始めるのは遅い。
この時間に殆ど人影はなく、あまり人目を引きたくないゆきには都合のいい町だった。
そんな町の、路地裏に彼女はいたのだ。
「だいじょうぶぅ?」
間延びした声に、がさ、とゴミ袋が動く。
紙類が詰まって軽いそれは、簡単に地面に落ちた。
びくり、と身を竦めたのは、一人の少女。
艶のある黒髪は、背中の中ほどまでの長さ。切り揃えられた前髪の下の瞳はつぶらで。黒いひらひらのワンピースが、肌の白さときめ細かさを強調している。
ひと目で、心が惹きつけられた。
「……おねえさん……?」
訝しげに声をかけられて、我に返る。
ていうか声も可愛い。
「どしたん? 怪我しとるん?」
あえて明るく訊いてみる。
おずおずと、縮めていた左足が伸ばされた。
ふくらはぎに、すっぱりと切れた痕がある。流れ出した血液が固まりかけて、ぷくりと膨らんでいた。
「あー。これは痛かったなぁ」
ハンドバッグの中から、小さなプラスチックの容器を取り出す。旅行にコスメを容れていくようなそれには、実は秘伝の薬が詰められていた。
薬指でそっと肌に延ばしていく。傷に触れられて痛むのか、僅かに眉を寄せていた少女が、すぐに顔をほころばせた。
「もう、痛ないやろ」
「うん!」
満面の笑みを浮かべ、立ち上がる。
「どないしたん、あの傷。誰かに切られたん?」
「負けてないよ! まだ!」
ものすごくずれた答えが返ってきた。
「おうちには? 帰れるん?」
「……帰れない」
落とされた細い肩に手を乗せた。
「せやったら、うちに来ぃさ」
彼女が追われてるなら、この辺りは見つかるかもしれない。谷町四丁目なら、府警も近いし、抑止力にはなるだろう。
そう考えて、ゆきは隠れ家の一つに少女を連れこんだ。
人の住んでいない一軒家が、ゆきのねぐらだ。
数日前にふらりと寄ったから、さほど埃は気にならない。
畳の部屋が珍しいのか、畳の上に座った少女はきょろきょろと周囲を見回している。
「うちは、ゆき」
「ゆき」
名前を教えると、嬉しげに笑った。
「あんたは……」
少女の名前を訊こうとして、言葉を止めた。
ねぐらに辿り着いて、五分も経っていない。
そんな状態で、部屋の入り口は見知らぬ男に塞がれていた。
「……なんや、あんた」
少女を庇う形で、膝を立てる。
ゆきに比べて、少しばかりがっしりした体格の男だ。グレイのスーツを着て、奇妙に無表情な顔を向けてくる。素足が、ぺたり、と音を立てた。
「どけ」
短く告げて、ゆきの肩に手をかけた。
押しのけられるだけの力を、堪えられると思っていた。
だが、男の力はその予測を遥かに超えた。
一瞬で壁まで放り投げられる。
「っ!」
息を飲んで、衝撃に耐えた。
立ち上がりかけた姿勢の少女に、男が一歩近寄る。
そのまま、少女は男の脛に飛びついた。
引き倒そうとしたようだが、腕力と体重差で、それは叶わない。
男が自由な方の脚で少女の腹を蹴りつけた。激痛に、思わず手を離してしまう。
激しく咳きこむ少女を、男は冷たく見下ろす。踏みつけようとしてか、片足を上げた。
「やめろ……!」
そこに、ゆきが後ろから飛びかかった。背丈はさほど変わらない。難なく腕を首に回し、後ろに引き倒そうとする。
女の力など、と侮っていたのだろうか。
しかし、ゆきの、彼の力は、その予想を超えた。
「う……!?」
男が僅かによろめく。
「そのまま!」
片足を上げた姿勢の、軸足に少女がしがみついた。
とうとう男の身体が、大きな音を立てて畳の上に落ちる。
「ぐぇ!」
ゆきの肉体を挟んで。
「はなさないで!」
思わず緩みかけた腕で、慌てて首を固定する。
次の一瞬。少女は、その細い指を、男の足の裏に突き刺した。
視界の利かないゆきの鼻腔に、つん、と血の臭いが感じられた。
そして、男の身体が、びくりと緊張するのが。
振り払われまい、と、両足を男の胴体にぐるりと回す。
間髪を容れず、指を抜いた少女が、その傷口に噛みつくように唇を寄せた。
「う……!」
男が、足をばたつかせて暴れる。数度、それが少女の身体にぶつかるが、彼女は身を離さなかった。
ほんの数秒。
男の身体から力が抜けていく。
だらり、と首が垂れ下がってきて、ゆきは怖々と腕をほどいた。
「ちょお、あんた……?」
見開かれた瞳は、もう何も映してはいない。
「え……?」
男の身体の下から抜け出して、指先を首筋に這わせた。
脈拍は、全く感じられない。
呆然としていたところで、視界の隅でごそりと何かが動いて、総毛立つ。
が、身構えた先にいたのは、身を起こした少女だった。
「あ……」
「おにいさん……?」
きょとん、として、少女は尋ねた。
そう言えば男を止めようとして、女に化けている姿から、男に変化したのだった。
「いや、それはどうでもええわ。とにかく、ここから逃げるえ!」
この隠れ家は、大阪府警本部に近すぎる。
不安ばかりが大きくなって、ゆきは少女と共に再び街路を行くことになった。
「殺人幇助と死体遺棄か……」
西園寺が眉間に皺を刻んで呟く。
「なるほどねぇ。明け方に血液を摂取していたから、熱中症はさほど酷くなかったのか」
漆田が、一人納得したように頷く。
「あれ、でも、あの死体は靴を履いてたよね?」
続いて、ふと思いついたように問いかけた。
検死が始まる前に、死体から衣類は全て脱がされている。資料で読んだのだろう。
「ああ、それは、うちが履かせた。なんとなく、傷が見えへん方がええかな、て」
「……現場の保存もできてへんのか……」
「い、いややわぁ、西園寺はん、そんな怖いお顔しはって」
ゆきが愛想笑いをするが、西園寺はじろりと睨み返す。
「今回は、まあ犯罪にはならへんけど。でも、それは結果論や。次に何かに巻きこまれたら、手を出さんと警察に連絡せぇ」
「……気ぃつけます……」
反論もしたかっただろうが、おとなしくゆきはそう返した。
「さて、それでどうするんや、漆田」
その返事に満足したか、西園寺は水を向ける。
「とりあえずその子の保護はできたから、後は創造者を突き止めないと」
「ちょ、ちょお待って。保護?」
慌てて口を挟むゆきを、男たちは揃って不思議そうに見返した。
「うん」
「おう」
「返事短すぎへん!?」
黒いスーツの男は肩を竦める。
「その子は、人間やない。自分のことや、薄々判っとったんやろ」
「それは……まあ」
正直、それが何の問題になっているのかなど判らないが。
「せやけど、その子は、自分らみたいに、年月を重ねて、知識を増やしていったもんやない。……ゆきは、ちょっとばっか阿呆やけど」
「何をいきなりいけず言うてくれはりますの?」
流石にちょっと頭に来て、突っかかる。
だって、この子の前で。
ちらりと視線を流した先の少女は、きょとんとした顔だったが。
「ともかく、そんな、力と頭脳の釣り合いが取れてない奴を野放しにはできへん。せやけど、まだ学習してへんだけやから、処理してお終い、ともいかへん。せやから、本部で保護することになって……」
西園寺が、不自然に言葉を宙に浮かせる。
そして、その場にいた四人のうち三人が、一瞬で一方へ向けて身構えた。
「え?」
取り残されて、漆田が呟く。
ぎし、ぎし、と、規則正しく、部屋の外の廊下が軋んでいた。




