恵比寿町
寝苦しくて、目が覚めた。
「水……。切れとったっけ……」
べとついた肌に辟易しながら上体を起こす。
目に入った光景に、一瞬身を固めた。
「あー、ちゃう。ねぐら変えたんやったわ」
見慣れない部屋の中、小さく呟いて、溜め息を落とした。
一人暮らしをするようになってから、独り言が多くなったようだ。
視線を隣に向ける。
あどけない顔で眠る姿に、自然に笑みがこぼれた。
「水……と、何か食べるもん、買うてこよ……」
コンビニがどこにでもある世界は素晴らしい。
とりあえずTシャツとジーンズを身に着けて、そっと立ち上がった。
「知り合いだったのか」
「知り合い、っちゅうか、顔見知りやな。こんなとこ、ねぐらにしとったとは知らんかったけど」
西園寺の近くにいる、ということは、つまり犬神も近くにいる。
あれだけ怯えていたゆきが、常にあの家にいたとも限らない。
「隠れ家かもな」
どのみち、戻ってくるとも思えない以上、考えても意味はないが。
「で、行先に心当たりはないの?」
暗くなってきた大阪の街を、物珍しそうに見上げながら漆田は問う。
「そこまで親しい訳やない。職場は知っとるけど、店が開くんはもうちょい後になるやろ。直接行くと警戒させるしな……」
西園寺の仕事には風営法は関係ないが、だからと言って気にしない、ともいかないのが人の心だ。
「狐、というなら、最低でも地狐だろうしねぇ」
こちらも悩むように漆田が独りごちる。
「何か手でもあるんか?」
「実存生命体なら、私の作った道具が使えそうなんだけどね。あの毛はDNA鑑定もできなかったからなあ」
ううむ、と、考えこむ。
西園寺はちらりと腕時計を見やった。
まだ宵の口ではあるが、まさか徹夜で仕事にはかかるまい。
適当なところで漆田をホテルに放りこまなければ。
「……漆田。お前、ホテル取ってるんか?」
ふと、恐ろしいことに気づいて尋ねる。
この街は年々観光客が増えている。安いホテルなどは予約が多くて、飛びこみで泊まれることは珍しい。
しかし、当人はきょとんとして見返してくる。
「まさか、そんな暇なかったよ。君の家に泊めて貰おうかと思ってた」
「1K六畳間に泊められるか!」
嫌な予感が的中して、怒鳴りつける。
「えー。君が東京に来るときはうちに泊まり放題なのに」
「本部の宿泊室やろ! 自分ちみたいに言うなや!」
確かにこの錬金術師は、本部に住んでいるようなものだが。
「君の要請でわざわざ大阪まで来たんだよ。友達甲斐がないね」
「誰が友達やねん誰が」
公務員なのだから、その辺をなあなあにはしないで欲しい。
仕事の絡まない知り合いが来たら、泊めてやらないでも、ないが。
「……どうかした?」
少し不審そうに問いかけられて、肩を竦める。
とりあえずどこかに捩じこむか、と、携帯電話を取り出した。
が、あっさりと漆田はそれを止める。
「あ、ホテルはいいよ、西園寺くん。ちょっと思いついたことがあるから、病院に戻る」
「病院?」
繰り返した時には、もうタクシーを拾おうと路肩に寄っている。
「いつ結果が出るか判らないから、君は帰ってくれていいよ。お疲れ様」
「え、いや、ちょっと待てや!」
すぐに停車した車に乗りこみかけるのを、慌てて西園寺は追った。
あの子は、午後遅くなるまで眠り続けていた。
ようやく目を開けたと思えば、ぼぅっとした顔でこちらを見上げてくる。
「そんなに寝とったら、お目々が溶けてしまうえ」
「お目々……?」
ぽやんとしたまま、ぺた、と片手で顔を触る。
可愛い。
何かこみ上げてくる温かいものを堪えながら、彼はさらさらな髪の毛を撫でた。
「お腹空いてへん? 食べるもん、買うてくるよ」
「たべもの……のみもの?」
首を小さく傾げて尋ねる。
可愛い。
「飲み物でええの? 何がええかな」
「あまいの」
こう、撫でさすったり抱きしめたりしながらもう数時間過ごしたかったが、ぐっと我慢する。
「ん。ちょっと行ってくるさかい、ここにおってな」
こくり、と頷く相手を目を細めて見詰め、彼は腰を上げた。
それからは、だらだらと一日過ごした。
「どこから来たん?」
「おっきい部屋。ここよりずっとおっきいところ。真っ暗だったり、ぼんやり明るかったりするの」
ほんの少し柔らかい床の上で、ころんと寝転がって。
「ゆきは?」
「うちは、お山におったんよ。京の都の外側の、小さなお山」
「お山……」
「知らへん?」
こくりと頷くその髪を撫でる。
「明日、行こか。一緒に」
疲れているのか、あの子はうとうとしていることが多い。
眠っている間も、顔を見ていれば退屈することもなかった。
うっかり仕事を無断欠勤してしまったが、まあそういうこともあるだろう。あっていいはずだ。幸せ休暇とか。
明け方近くになって、家を出る。
新月の夜でも暗くない世界は素晴らしい。
それでも、夜には遠くで獣が生きる音が聞こえてくる。
肉食獣の遠吠え。
草食獣の不安げないななき。
小動物のかさこそと動き回る音。
それが、普段よりも騒がしいことに、気をつけるべきだったのだ。
背筋がざわりと震えた瞬間、背後から勢いよく押し倒される。
「ひっ……!」
悲鳴を上げかけるが、背中にのしかかる恐れの、穢れの塊に声が詰まった。
「よーしよしよしよし。逃がすんやないで、九十郎」
油断していた。
一体、何のためにここに逃げてきていたのか。
「やってくれよったやないか、ゆき」
目の前に屈みこむ男を見上げ、笑みを浮かべる。
「や……ややわぁ、西園寺はん。どないされましたん?」
「どないしたんかは、自分が一番よぅ知っとるやろ。こないなとこに隠れよって」
「こないな、って」
がし、と、男の手が頭を鷲掴みにする。
「わざとやろ?」
「……すんません」
一語づつ、強調するように問われて視線を逸らせた。
ここは、天王寺動物園に近い。
獣に対する死の穢れを引き連れる西園寺は、その存在だけで動物たちに畏れられる。
それを一種の警報装置として利用しようとしていたのだが、うっかり忘れていた。
幸福感は麻薬だ。
「せやけど、うち、なんもしとりまへんし……」
「男の格好でうちとか言うな」
すっとぼけるが、眉を寄せて西園寺は咎めてくる。
今、ゆきが化けているのは男の身体だ。
「まだ夜みたいなもんやし、ここ、女が歩くんは不用心やから」
「自分はそうゆうとこ、ホンマ迂闊やねん。バレるで、そのうち」
そうやって、たまに気遣うようなことを言うから。
この男を毛嫌いできないのだ。
「まあええわ。ちょっと訊きたいんやけど、自分、誰か匿ってへんか?」
しかし、その男には単刀直入に疑われていた。
「匿ってって、何を」
「谷町四丁目の空き家で死体が見つかってな。自分、そこにおったやろ」
「そんなとこ、うち、」
「長い黒髪の女と一緒やったやろ?」
「何のことなんか、さっぱり」
「ネタは上がっとるんじゃ。とっとと吐けや」
西園寺の目が据わり、背中に乗る犬神の圧迫感に耐えきれなくなりそうだ。
だが、ゆきは口をつぐんだ。
その行為が、時間稼ぎにしか、ならないにしても。
結局、沈黙はさほど続かず、微かな振動音の後に、西園寺がワイシャツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「おう」
『あ、西園寺くん? 場所見つけたよ。もう大丈夫』
「ちょ……!」
ゆきの敏感な耳は、たやすく相手の声を拾う。
一気に身を起こし、背に乗っていた黒い犬神を振り落とす。そのまま、街路を一心に駆け出した。
「漆田ー。狐がそっち行きよったさかい。気ぃつけぇや」
『もーちょっと粘ってよ。あ、鍵かかってないや。不用心だな。お邪魔しまーす』
全く危機感のない返事に苦笑して、視線を下ろす。
九十郎は、やや不満げな顔で道路に座っていた。
ねぐらまでは、幸いそれほど遠くはない。ゆきは、必死にスニーカーでアスファルトを蹴った。
玄関の扉が、少し隙間を残している。
勢いよく引き開けて、土足のまま室内に入りこむ。
がん、と部屋の扉を開けると、あの子は男の腕に抱かれていた。
茶色がかった、短い髪。薄く色のついた眼鏡の奥の瞳は、鋭い。床に膝をついた身体を、白衣が覆っている。
さら、と、あの子の長い黒髪が男の腕を滑り落ちた。
長い睫毛の瞳は閉じられている。
「何してくれてんの!」
怒声をあげて、詰め寄りかける。
「君こそ、一体何をしていたんだ!」
しかし、厳しい声が飛んで、それ以上の行動を一瞬ためらわせた。




