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難波

 闇の中に、色とりどりの灯りが激しい自己主張をしている。

 毒々しいまでのそれは、周囲に満ちる喧騒と相まって、この地をまるで異界のようにも見せていた。

「やぁあああん! もう!」

 その真っ只中、人混みを押し退けるように、一人の女性が走り抜けていった。

 周囲から罵声が飛ぶが、視線を向けもしない。

 何人かは、足元を何かがすり抜けた感覚を覚えたかもしれない。

 だが、夜の街はすぐにそれを忘れ、強引に拓かれた道は人波に消えていく。

 その微かな軌跡を、一人の男がゆっくりと辿って行った。



「あかんあかん、あかんて! 堪忍してぇな、ほんま!」

 細い路地の奥に追い詰められて、彼女は悲鳴を上げていた。

 絹糸のような金髪は背の中ほどまで。一見傷んだ風でもなく、艷やかだ。体格は、二十歳ほどの年齢からすると背が高い方だろう。華奢な手足を、ノースリーブの赤いワンピースから惜しげもなく晒している。スタイルは、胸元を大きく開いたデザインに、全く負けていない。揃いの赤のハイヒールは、全力疾走に向いているとは思えないものだった。

 そんな彼女が、何故涙目で薄汚れた壁に貼りついているのか。

 その前、一メートルも離れていない場所に、二匹の犬がいる。

 長毛の大型犬の体格で、毛色は黒と銀。吠えるでもなく、しかしじっと女性を見据えて、いつでも飛びかかれる体勢である。

 一触即発、という緊張感を、のんびりした声が破る。


「お山の長が見はったら、こんなん情けのぅて泣きはんで? なぁ、ゆき」


 表通りのネオンも届かない薄暗がりの中、近づいてくる男。

 黒い髪。黒いスーツ。黒いネクタイ。黒い靴。ワイシャツだけが白い。

 そして、男は火の点いた煙草を手に、意味ありげに笑んだ。


「西園寺はん! ほんま、堪忍してぇや! うち、なんもしてへんって!」

 涙声で嘆願する女性を、片眉を上げて睨む。

(なん)もしてへんのに、いきなり逃げ出すんかいな」

「いけず言わんといてぇな。うちが犬あかんの、知ってんにゃろ」

 ゆっくりと、煙草を吸う。やがて、長く紫煙を吹き上げてから、西園寺と呼ばれた男は口を開いた。

「敬語」

「知って! はりますやろ!」

 自棄(やけ)になったように怒鳴る。

 それで気がすんだのか、西園寺は口を開いた。

「次郎五郎。九十郎。おすわり」

 命じられた途端に、二匹の犬はその場にぴしりと座る。

 いつでも飛びかかれる、という体勢ではなくなったからか、ゆきが少し緊張を解いた。

「で? うちに何の用やの?」

「ああ、この()のことなんやけど。最近、この辺で見ぃひんかったか?」

 胸の内ポケットから、スナップ写真を取り出す。

 ぺらり、と向けられたそれは、二メートルほど距離があり、かつこの暗さでは、ろくに見えもしなかっただろう。

 しかし、ゆきは一瞥して眉を寄せた。

「八日前にちらっと見ましたわ。確か、スターロードとかいうホストクラブに入っていきはった」

「八日前な」

「どないしましたん?」

 少しばかり気遣わしげに訊く相手に、西園寺は肩を竦めた。

「家出や。夏休みで少年課は人手不足やからな。ワシは今大きな事件(ヤマ)もないし、下っ端やから貸し出しされてんねん」

「ああ、よぅおした。そんなおぼこい()、なんか酷い目に()うてたらえらい損失やもんねぇ」

 ほっとした風のゆきに、胡乱な視線を向ける。

「そこまで女好きなんやったら、そないな格好やめたらええやないか。雄狐」

 西園寺の言葉に、あからさまにむっとする。

「うちは、がばーっと儲ける為に女子(おなご)に化けとるだけや! 別に趣味嗜好まで変えたつもりはおへん!」

「どんだけ金の亡者やねん……。けど、せやったら、京都でもよかったやんか。わざわざ大阪に()ぇへんでも。祇園さんとかあるんやし」

「そりゃあんさん、どうせやったらでっかいとこで一旗上げるんがオトコの夢やさかいな! 京の都よりは商いの街、大阪やわ!」

「まだ都なんか……」

 とりあえずズレたところにツッこむと、西園寺は踵を返した。

「おおきに。邪魔したな。ま、精々、ワシらのお世話にならんように儲けぇ」

 言い終えると、片手で腿の横をぽん、と叩く。

 じっと座っていた二匹の犬は、その合図に応じて軽く身を翻し、跳ねるように主人の後を追い、そして。

 闇に溶けるように、その姿を消した。

 黒衣の男も角を曲がるまで待って、ゆきはようやく壁から身を起こした。

「あーもー……。寿命がえらい縮んだわ……」

 ぱたぱたと、服をはたく。

「ほんま、人の弱みにつけこんで、あの腐れ犬神憑きが。いつか絶対祟ったる」

 いやでも、あれ、専門家やしなぁ、と、一人ぶつぶつと呟きながら、ゆきもまた明るいネオンの海にその身を沈めていった。





 大阪の夏の夜は、熱気に満ちている。

 夜半よりも明け方の方が近いこの時間帯でも、ゆきはじっとりと肌に汗を滲ませていた。

 少しばかり酔っているせいもある。

 この後は家に帰って寝るだけだ。彼女はけだるげに、誰もいない道を歩いていた。

 ゆきの敏感な鼻は、ごみや吐瀉物などが微かに混じり合った空気から、血の臭いを嗅ぎ分ける。

 きょろ、と、周囲を見回した。十数メートル先にある、ビルの隙間の、細い通路に踏みこむ。

「だいじょうぶぅ?」

 わざと、間延びした声で問いかける。

 相手の警戒心を解くのだ。

 そう、その血は、まだ若い女の血の臭いだった。

 がさ、と、積み上げられたごみ袋の山が音を立て、その向こう側から、そっと小さな顔が出てきた。


 一瞬、息をするのも忘れ、ゆきは相手の顔に見入っていた。





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