■山村 01
愛してあげる。
愛してあげる。
腕に抱いて、いつくしんであげる。
胸に抱いて、いとおしんであげる。
わたしの中で安らいで、和らいで、解放されて。
他のなにものにも囚われないで。
愛してあげるから。
わたしの。
じりじりと照りつける日差しに、目を眇めた。
黒の背広は、既に脱いで腕にかけている。それでも、白いワイシャツの背中はもう汗びっしょりだ。
アスファルトからの熱気と照り返しで、地味に脚が暑い。
横合いから視線を感じて、顔を向ける。昔懐かしい煙草屋の窓から、老婆と猫がこちらを凝視していた。目線が合って、猫が飛び上がるようにして店の奥へ逃げこむ。
「……どぅも」
「タマが怯えるなんて、あんた何だね?」
じろじろと老婆は近づいてくる男を見つめてくる。
「動物には嫌われる質なんや。あ、マルボロある?」
「生き物に嫌われるとか、ろくなことしてないんじゃないかね。余所もんはこれだから」
更に不審そうに、そう言い募られた。男が、苦笑いして背広を広げる。内ポケットから取り出した物体を、ひょい、と相手の目の前に突き出す。
「……」
呆れたような、驚いたような顔で、老婆の視線はそれと男の顔を往復した。
「警視庁の、西園寺や。……マルボロ、ないん?」
無言で差し出された煙草の箱の横に、西園寺は小銭を積み重ねて置いた。
「はぁ、駐在さんか?」
「ここしばらく連絡がつかん、て言われとるんやけど。何か知らん?」
煙草屋の店内、土間に置かれた丸いパイプ椅子に西園寺は座っていた。弱い冷房がかかっていて、外よりは格段に涼しい。彼は老婆に差し出された団扇で、未だぱたぱたと首筋を扇いではいたが。
「さあねぇ。確かに、しばらく顔を出さなかったようだけど。お盆だし、お里帰りでもしとるんじゃないかね」
「おばちゃん、警察は年中無休なんやで」
特に、このような地方の集落にいる駐在は、一人、若しくは一家族が住みこみで働いているものだ。一応、制度としては日勤となるが、夜中でも何かあれば出動しなくてはならない。
「……それに、なんや、ここ三ヶ月ぐらいで、ちょくちょく人がおらんようになっとるそうやんか。知っとるんやろ?」
老婆はその言葉に鼻を鳴らす。
「若いもんが、何人か家出したことはあるがね。元々都会で働きたい、って言っておった奴らだから、大方何も言わずに出ていったんじゃないかねぇ。親は酷く落胆しとったが、このご時勢だ、仕方ないさ」
「キャンプ場に来とった行楽客も姿を消しとる。それについては?」
「沢向こうの話じゃろ。そこは私らの村の外じゃ」
素っ気なく老婆が返した。
確かに、境界線としては、沢で区切られている。だが、その向こう側は既に人が住んでおらず、最も近い人里がここなのだ。と言っても、車で三十分も走らないのだが。
煙草屋の好奇心よりも不審感が募ってきたようだ。西園寺は、礼を言いつつ腰を上げた。
この村は、小さい。
人口は二百人程度。学校は一つ山を越えた先の村にある。県庁所在地までは、車で一、ニ時間。まあ、さほど遠すぎることもない。
だが、ここまでの道のりは、夏場ということもあって木々が濃い緑を見せており、かなり山深いという印象だ。
特に西園寺は都会育ちである。
時折アスファルト舗装すらされていない道に行き当たり、無駄に疲労を感じつつ、彼は村の中を歩き回った。
「啓祐のことですか」
この村では、昼間は働き手は田畑や山へ出ている。自然、西園寺は数少ない自営業からまず話を聞くことになった。
ここは、日用品を売っている店だ。棚に貼られた手書きの値段表のマジックは薄れ、埃にざらつき、セロテープは黄色く変色している。
店主は四十そこそこの男だ。突然西園寺が尋ねてきても、驚いた様子もない。
予測していたのではない。それだけの覇気がないのだ。
「こんな村は嫌だ嫌だ、と、いつも言っとりましてな。楽しいこともない、貧乏だ、せめて山を下りて暮らそう、と。ですが、この店は私の父から継いできたものです。店を畳んでは、この辺りの者は買い物に遠くまで行かなくちゃならん。そもそも、今更私が都会で仕事に就けるわけもないので、まあ、子供の我侭ですな」
小さく、自嘲するように笑う。
「勿論、息子の将来をそれで縛るつもりもありません。ただ、高校を出るぐらいまでは、ここにいて欲しかった。一人暮らしをして、県外の高校に行きたい、というのに反対してきたのですが」
息子の啓祐は、中学三年生。進路を決める時期である。
七月半ば、学校が休みに入って早々、夜中に姿を消したという。
「せめて、元気にしていると連絡だけでもしてくればいいものを……」
背を丸め、父親は小さく愚痴を零した。
畑には、二人の人影があった。
家と畑の境界との間は、ざっと二十メートル。隣家とは更に遠い。
「すんません!」
背を屈め、草を取っていた人影が、呼びかけに顔を上げる。
「どうしたかね?」
がらがらと嗄れた声が戻ってきた。
「警視庁の者ですけど」
「けいしちょう?」
警察、と言い換えて、ようやく納得した二人は西園寺を縁側に誘う。
老人二人は、日よけのためのつばの広い、首の後ろ側までカバーした帽子を脱ぎ、どっこいしょ、と呟きながら腰を下ろした。
「新しい駐在さんかね」
「いや、そういうんとはちゃうんですけど」
ふぅん、と不審そうに呟いて、顔を屋内へ向ける。
「頼子! 茶!」
全く気が利かない、とぶつぶつと呟く。
陽に焼けたその顔は、皺が深い。
「実は、茂樹さんのことで」
口火を切った途端に、部屋の奥からがたん、と音がする。
襖の竪框に片手をかけて、一人の女性が立っている。手にした盆には、小さなガラスの器が三つ乗っていた。
女性の顔色は、影の深い屋内であるせいか、酷く悪い。
「……お待たせしました」
細い声で告げると、そっと麦茶を差し出してくる。ありがたく、西園寺は半ばほどまでを一息に飲んだ。
「茂樹が見つかったかね」
母親の方が、急いたように尋ねる。
「いえ、まだ。それで、お話を伺いに」
また、父親がこれみよがしに鼻を鳴らす。
「茂樹さんがいなくなったのは、六月の十八日ということでしたが」
「おぉ。夜になってから、ちょっと車で走ってくるてな」
「そういったことは、よく?」
「ここは楽しみがないからな。わしも晩酌程度だ」
そして、がぶり、と父親は麦茶を飲む。
「朝になっても帰ってこないので、失踪届けを出された、と」
「駐在さんや他の若い衆にも、あちこち捜して貰ったんだがな。事故を起こした跡もなかった。逃げ出したんじゃろう」
「逃げる?」
問いかけると、むっつりとした顔のまま、吐き捨てるように続ける。
「寺の後家さんと仲良くやっとったからな」
「莫迦言うんじゃないよ。お寺さんにどれだけお世話になってると思うの。それに、娘さんは一緒に逃げてないじゃないか」
たしなめるように、母親は夫の膝を軽く叩いた。
部屋の隅に正座した若い女性は、やや俯いたまま動かない。息を詰めるように、こちらの会話に聞き入っていた。
西園寺は、唖然としたような、絶望したような表情で前方を見つめていた。
村の中を貫く通りの突き当たり。やや傾斜があるものの平地と言ってもいい程度だった地面が終わり、山頂へ向け、長い石段が続いていた。
「これを上がるんか……」
小さな呟きは、耳を覆う蝉の声に紛れて、消えた。
体力には、自信はある。
暑さにも割と強い方だ。
山の中だから、アスファルトとコンクリートに覆われた都会よりも、まだ涼しいのだろうとは思う。
しかし、雲一つない晴天より容赦なく降り注ぐ灼熱の陽光から逃れるには、山道の木陰は少々頼りない。
西園寺は、石段の踊場近くまで上がったところで、力なく座りこんでいた。
「死ぬわ……」
額の汗は、拭ってもすぐに浮かんでくる。
地元では数百メートル歩かない内に存在するコンビニエンスストアを、まるでオアシスのように夢想しながら、大きく息をついた。
やがて、背後でがさ、と木の葉が擦れる音がする。
「……どなた?」
緑深いつつじの奥に、戸惑ったような顔の女性が一人、立っていた。




