10番8章~最終章
8章
週末、約束通り河西は、新宿にある前回と同じ喫茶店へ時間より少し早くやってきた。
爽やかな秋風を、しとしとと降り注ぐ雨が濡らしていく中、河西も例外なく、その風景の一として、濡れていた。
雨を弾く、張り詰めた傘を河西が閉じると、じょろじょろとたまった雨露が傘の先を伝って店先へ流れ落ちる。
それが落ち着くのを待って、河西は喫茶店の中に入った。
店内を見回す。少し水気を含んだ空気に、苦い豆の香りが紛れ込んでいる。河西は蓮を探している。
すぐには見つけられなかった河西は、アイスコーヒーを購入する事にした。少し早く来すぎたかと思っていたが、コーヒーを受け取り、トレーを持って歩き始めるときに、その予想が間違いだったと気付く。
蓮はトイレから、犯罪者のように両手をハンカチに隠し、水の流れる音と共に出てきた。互いに、その偶然に少しだけ驚き、笑顔にして交換した。
「毎度休みの日にすみません。」
少し罰が悪いという様に顔をしかめて河西が言う。
蓮は笑顔を左右に振り、否定の意と、気にしていないという意思表示をしてみせた。
「寺島さんはいつもどちらからいらっしゃるんですか?」
河西の方から、そう尋ねてきた。
「私は下町の方です。下町と言っても上野や、浅草の様な賑やかな場所では無くて、本当に下町の住宅街。三河島という東京の中の田舎です。」
「素晴らしいですね。」と河西は言った。
「私は今、品川で暮らしておりますが、子供の頃は日暮里にいる祖父と一緒に住んでいたんですよ。」
そう言うと、河西はまたコーヒーを口に含んだ。良く見ると河西はミルクも砂糖も開けていない。ブラックが好きなのだろうかと思うと、小さな親近感が蓮に芽生えた。
「たまにあそこら辺の街を歩くと、懐かしい思い出が蘇ります。のどかな住宅街を、小さなゲーム機を持った子供が走り回っていたりすると昔を思い出すんです。今は品川に部屋を借りて住んでいますが、いつかあそこら辺に家を持ちたいと思っているんですよ。寺島さん、羨ましいなあ。」
蓮はとんでもないと言った。蓮からすれば、品川に住むという感覚が想像出来ない。家を買うなどと言うことを軽く言える河西と自分とは生きているステージが違うなと思った。
膝に乗せたいかにも高級そうな鞄から、河西が丁寧にクリアファイルを取り出す。中には先週、蓮が渡した書類に筆跡が加わって入っていた。
河西は、その書類を机のどこかに下書きでもしてあったかの様にぴっちり揃えて並べた。
「お約束通り、決めて参りました。このプランでお願いいたします。」
蓮がそれを右手の中指と薬指の軽いタッチで手前へ引き寄せる。それからゆっくりと目を通す。
書き込まれている字は、大きくて自信に満ちあふれた字だ。それでいて優しい。一つの申込書に、河西の店にかける想いが詰め込まれている様だった。
「思い切って、それにしてみました。本当は最安価のプランとずっと悩んでいたのですが。」
書に見とれて思わず言葉を失っていた蓮に、河西が照れくさそうに切り出した。
そうやって話す河西の決断したプランは最安価のプランの6倍価格のプラン。蓮が持ってきた中で最も高額なプランだった。大抵の場合、そのプランは大手チェーンや、海外の機関から三つ星マークを与えられた様な店が使うプランだ。
検索サイト内で、検索結果を絞らなくても、トップページからいきなり掲載される。他の検索結果のページにもリンク先として表示される為、ユーザーを自身のページへ誘導しやすい。
蓮は比較の対象として持って来たに過ぎなかったので、想定はしていても、本当にそれを河西が選択するとは思っていなかった。
「我々の様な小規模で新参者の店が、このプランに出るのは正直大きな勘違いかも知れません。」
「いえいえ、とんでもないです。」
「あはは。いえ、本当に迷ったんですよ。でもね、知名度やブランド力は我々にはないのですが、お客様を喜ばせたいという姿勢、意気込みは、他の店に勝っても劣らない。知って貰えていない、それだけなんです。そう考えると、我々こそこのプランを使うべきではないのか、と思ったんです。」
「おっしゃるとおりです。」と蓮は言った。
河西の目は、馬券を買うときのように希望に満ちあふれ、それが熱湯のようにぐらぐらと沸き立っている。
その熱意が蓮の胸中にある温かい部分をがっちりと握りしめるように覆っていく。蓮の胸は、幸福感に溢れていた。
蓮は謝意を示し、河西の用意した書類をゆっくりと丁寧にまとめ、自身の鞄へしまった。
河西は、まず本店でそのプランを採用し集客を狙うと言った。上手く集客に繋ぐことが出来たら、自身の持つ他の店も順次掲載していこうと考えている。
「それが妥当でしょう。」と蓮は言った。
それから、蓮は手帳を取り出して掲載スケジュールの調整を促した。河西は手慣れた様子で、鞄からまた、高級そうな手帳を取り出して、胸ポケットから小さな眼鏡をとりだしてつけた。
「出来れば、土日中心でお願いしたい。」
眼鏡のレンズ越しに河西は蓮にそう伝えた。心なしか先程よりもすこし力の入った眼差しにみえた。
「そうですかぁ。」
蓮はすこし悩んだ。撮影チームも基本土日休みだったのだ。蓮の独断でスケジュールを決めるのは困難だった。
「解りました。撮影チームに確認をとります。念の為、平日で大丈夫な日を教えていただきたいのですが。」
無理矢理なにか頭から引きずり出そうとしているように河西はボリボリと頭を掻く。それからコーヒーを口に含んだ。
「そうですね。こちらもそこは現場に確認してみますが、おそらく月曜の夕方になると思います。」
「お手数おかけします。」と蓮は言った。
河西はこちらこそと頭を少しさげて蓮に微笑んだ。
翌週土曜日、蓮は天皇賞・秋前日に東京競馬場に下見に来ていた。
天皇賞まで1週間を切った月曜日、蓮は河西との契約があったので、会社に報告し代休を取った。
その時は1週間では無く、もうかれこれ2,3年ぶっ続けで働いているような疲れを感じた。
久しぶりだからと、前日の夜に佐々木に連絡すると、丁度佐々木も休みのシフトを組んでいたので、会おうとなった。
佐々木は、蓮が週末を気にして読んでいた競馬新聞に気付くと、蓮に「競馬場へ連れて行って。」と提案した。
結果的に、蓮の先輩が言ったとおりに、天皇賞に佐々木をつれて、なおかつマネージャーと荒井の面倒を見るという散々な仕事を確定してしまったのだ。
蓮がその時言い忘れてしまった「会社の人もいる。」というワードには、後から伝えた際、佐々木はさして興味を持っていなかった。それが尚更蓮には怖かった。
兎に角、蓮は会社の人の相手と、デートが重なってしまった事にとてつもない嫌悪感と心配を抱いていて、その心を静めようと下見を決意したのだ。
蓮の競馬の感はでたらめだった。先週河西とやった毎日王冠までは、仕事のせいで拒否反応を示していた数字のせいで全くのブランク状態だったのだ。
改装してだいぶ変わった東京競馬場も、30分に一度地鳴りのように鳴り響く歓声だけは変わらない。
地鳴りの様な歓声がやみ、一斉にパドックに移動しはじめると、蓮は川の流れに逆らう山女魚の様に、人の群れの中を逆流してコースのあるスタンドへ出た。
前回来たときは観客で一杯だったコース前も、この瞬間だけは人がまばらだ。
明日になればここが、満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになり、そして人の臭いと熱気で蒸し暑くなる。
その欲と希望に埋め尽くされた空間を前に、蛍はその雄志を存分に発揮してくれるに違い無い。
今日はまだ、それが無い。蛍は、その日別会場で競馬をしており、騎乗4つ。午後1時現在で勝ちは無かった。
空気の匂いが爽やかだった。いくら上司との遊びの為の下見とはいえ、やはり広大な芝生の匂いは蓮にとって気持ちよかった。
とぼとぼと、歩みを進めコース前まで行って芝を眺める。
それぞれが日の光を反射して輝く緑の川がそこにはあった。
その芝の上は、当然蓮は歩いたことがない。それまで馬たちが走って壊していった箇所を、職員が資材を蒔いて修復している。蓮にとっては喉かで、彼らにとっては忙しい風景だった。
蓮の腕を置くその柵が、その空気の境になっているように思えた。
柵に寄りかかりながら、スタンド席の方へ振り返る。多くの人々がそこに腰掛け、好き好きに何かを話している。
かつて蓮はそこで貴と語り合った。そんな時、貴は競馬そっちのけで夢や、仕事の愚痴、理想の社会像を語った。
流れる時間がとてもゆったりしていた。
そよぐ風が、その日の様に爽やかだった。それが、日にちが替わり、蓮がスーツに袖を通すと、まったく変わってしまう。
それが蓮には全く理解出来ない難題だった。
蓮は、あるはずの無い貴の帽子を探した。きっとこれだけ人がいるのだから、一人くらい同じ帽子を被っていてもおかしくない。
そう思って探しても、その帽子を見つけることがいつも出来ないのだ。
「もう10年近く経つんだもんなぁ。」
そう蓮は呟いた。
貴は専門学校を卒業してから、暫く蓮と会えない日々が続いた。自身の希望であったウェブデザインとは少しちがう、テレビ局で撮影やコントに使う小道具を制作する会社の子会社に入った。
入ったときはいつも楽しそうにしていたのを蓮は覚えていた。
貴は、それでも変わらず蓮を突然呼び出し、飲もうと言った。
「場所は?」
聞くまでも無かった。蓮は電車に乗って上野駅につくとアメ横で貴の帽子を探す。5分も歩けば、大体その変な帽子が人混みでふわふわ浮いているのが見えて、大声を張り上げる。待ち合わせなんて不要だった。
貴は人混みの中から蓮の声を拾い上げて、やってくると嬉しそうに肩を組んだ。
「明日仕事なんだからな。」
「俺もだよ。」
そうやって2人はアメ横で行きつけの店をふやしていった。
「お前明日何時だよ。」
「9時始業だよ。だから6時には起きなきゃ。」
「俺は6時始業だぜ。」
「嘘つけ!」
本当だった。貴の仕事がどんな仕事で、なんでそんな時間に始まるのか蓮には解らなかったが、貴はそうだったらしい。
それに殆どの日は残業をしていて、日付が変わるのが当たり前だと言った。
「辛くないのか?」
蓮が聞いたら、貴はケラケラと笑った。
「辛いよ!辛いけど、好きで始めた事だ。」
そう笑っていられる貴が、信じられなかった。カウンター越しで、中国人ママも心配そうにするけれど、そんな貴を見ると、いつも1杯飲み物をおまけしてくれた。蓮はもしかしたらそれが狙いの演技かも知れないと思った。
東京競馬場内のビッグビジョンに、天皇賞の追い切り映像が放映されている。蓮はいつもその映像を見ても全く解らなかった。
ローカルエースが走っている映像も、ただ土を蹴り上げて走っているだけで、好調、不調が今一解らない。
その上に乗っている騎手が蛍かどうかすらも解らない。
貴がその会社に入社してから数ヶ月経った頃、蓮は貴と殆ど会わなくなっていた事に気付いた。
自分自身の仕事が忙しくなっていたのもあったし、蛍と別れ、気が落ち込んでいたのもあったかも知れないと思っていた。
久々に連絡をしても、貴は返事をゆっくりとしか返さなくなっていた。
それでも蓮は、いつも明るくしていた貴の事だからと心配どころか「きっと仕事が上手くいって忙しすぎるのだ。」と良い方向に考えていた。蓮はそれを今でも後悔している。
「きみが夢の中にまで現れて僕に伝えたかったことはそれなんじゃ無いか。」
蓮はビッグビジョンを見ながら呟いた。
「好きだって気持ちは、そんなに万能じゃ無いって、教えてくれたんじゃないのか。」
ぱらぱらと人が集まり始めた。もうすぐその日のメインレースが始まろうとしていた。
ビッグビジョンでは、天皇賞に出る各騎手のインタビューが放映されている。蛍も当たり前の様に放映された。
「お、蛍ちゃんでたぞ。」
「騎手の割には可愛いよな。」
「競馬関係者の間でモテるんだろうな。」
「そりゃあそうだろう。騎乗依頼が経たないよ。」
ガハハハハハハという、汚物のような笑い声が蓮の横で弾き飛ぶ。応援とは無縁。そんな人々に蛍は支えられている。彼らの声援、落とす金に、蛍の夢は支えられていた。
蓮は蛍の「好きだから。」というその言葉を何度も、何度も頭の中で、読み返すように、思い出していた。
貴から連絡が殆ど来なくなってから、1ヶ月くらいした頃、ぽんと一つ蓮の携帯に連絡が入った。貴からだった。
蓮はその日、営業先からの直帰予定だったので、いつもとは反対の御徒町で降りて、貴を探した。
かなり久しぶりでも、貴を見つけるのは簡単だと思っていたが、その日貴を見つける事は出来ず、結局携帯電話で居場所を確認して、ようやく巡り会うことができた。
貴はいつもの変な帽子を被っていなかった。
「久しぶりだな。元気か?」
「おう、お前も元気そうだな!」
久々に会った蓮の目には、親友のその姿が、どうしても元気には見えなかった。
「痩せただろう。」という言葉がすんなりでた。
頬が薄らと削げて、皮膚の色がどす黒くなっている。日も落ちて、高架下に居たのを考慮しても、蓮には貴が以前と全く同じ人間とは思えなかったのだ。
「なんか今日も旨いもん喰いに行こう。」
そう言って蓮は無理矢理に貴をアメ横へ促した。
膝にペンキの付いたジーンズは、貴が歩く度にひらひらと揺れて、空気の通り道を作っている。
来ていたTシャツからも、汗なのか、何かの塗料なのか解らない臭いが漂ってきている。
「最近忙しそうだな。」と蓮は言った。
「忙しいなんてもんじゃねぇよ。」
貴らしくない、明らかな弱音だった。
蓮は人混みが、邪魔くさいと感じた。
2人は、特に何か話すわけでもなく、いつも通りの店に流れるように入っていった。
「イラシャマセー。オウ!タカチャンヤセタネ!イケメンニナッタンジャナイ?」
ママの優しい声が人のまばらな店内に響く。
「でしょ?さすがママだね。」
貴は笑って見せた。
「嬉しいから今日はいっぱい頼むよ!」
そういって貴は、唐揚げ、エビチリ、チャーハン、餃子、串焼き盛り合わせと頼んでいく。
「おいおい、大丈夫かよ。」と蓮は言ったけど、聞かなかった。
次々に運ばれてくる料理はやっぱり美味しかったけれど、どこか普段に比べてパンチが無い。
それでも貴は貪るように食い散らかしている。
「最後の晩餐みたいだな。」と言って貴は笑っていた。
「最後の晩餐が何か知っているのか。」
「知ってるよ!お前と飯が食えるのは久しぶりだ。楽しいよ。」
野郎からそんなことを言われても、蓮は嬉しく無いけれど、貴は別だった。やっぱり蓮も嬉しかった。
「ママ、ビール。」
あっという間に3杯目に貴は突入した。
「蓮も飲めよ。」
「おう。」
貴が毎日忙しいと弱音を吐いた理由を、蓮は知りたかったのに、貴のあまりの食欲に、その隙が見つけられない。
どす黒かった貴の皮膚は、珍しく赤く染まって行った。
「いつもみたいに明日早いんじゃ無いか?」
「あした?休みだよ。」
貴のあっけらかんとした答えが、不思議と蓮の肝を冷やした。どうしてだか解らないが、そう言って欲しいのに、そう言われると急にさみしくなる言葉の様に感じた。
「お前は仕事だろ?大変だなぁ-。」
黙り込んでいた蓮に、意地悪そうに貴はそう言った。
「本当きついよ、また6時起きだ。」
「あはは。だから俺はいつも始業の時間だっつうの!」
嘘なのか、本当なのか蓮には解らないその言葉が、いたずらに明るく店内を照らす。
そして、執拗に人なつっこい下町の住民が、わらわらと彼を中心に集まってきて、一緒に飲むことになる。
「お前、6時は嘘だろ-。」
髭を生やした老人が、その髭にビールを滴らせながら、貴に言う。汚いなと怯む蓮をよそに、そんな事関係ないと言わんばかりに貴は明るく笑う。
「本当ですよ。6時。」
「寿司やみたいなやつだなお前は。」
老人は髭についたビールをおしぼりで拭いて、グラスに口をつける。またビールで髭が濡れた。
「アラ、オカエリー。」と言ったママの言葉は、その後は全部マシンガンチャイニーズだ。帰って来たのはママの旦那さんだ。ママがこんなに一生懸命働いているのに、旦那さんはどこで何をしているのか、蓮には謎だ。戻ってくるなり適当にエプロンをして、そのままカウンターに立つ。割烹屋では絶対に見られない光景だ。
「オウ、タカチャンキテタカ。」
旦那さんも貴に集る。そうやって貴は人を集めていって、ありったけの笑顔を作って、酒を平らげていく。
「あぁ、仕事なんてくだらねぇ。」と貴は言った。
「くだらねぇ、くだらねぇ。」
老人が返した。
「お前の仕事がなんだか知らねぇが、仕事なんてくだらねぇ。」
「いつまでもこうやって飲んでいたいな。」
「タカチャン、ワタシタチモマザルヨ。」
「飲みましょう、飲みましょう。みんなで飲みましょう。今日は最後の晩餐だ。」
「飲もう、飲もう。飲みましょう。」
「乾杯!」
僕らは、交わしてはいけない最後の杯を交わした。
目の前を、どたどたという轟音に似合わず、褐色の馬体がまとまって駆け抜けていく。
ゴール版を過ぎる頃は、その筋肉の塊が矢のように引き延ばされて、上に乗った騎手もろとも細く長く変貌している。
蓮の頭に一枚の紙切れがひらひらと落ちてきた。
馬券だ。
マジックで何か書いてある。意味がわからない。
しっかりと印字された数字は掲示板に載っていないからこの馬券は既に紙切れに化けていた。このマジックはその腹いせか。
蓮は馬券を買っていた頃は、いつも馬券が外れてもこんな意味不明な事はしない。ただ単に破って、ちぎって、くしゃくしゃにしてゴミ箱にぽいだ。
だからいつまでも成長しないんだぞ、と当時の自分に八つ当たりをして、今手中にある馬券を大切に財布にしまった。その数字は掲示板に無い。
人々はすでに勝負の余韻に浸る間も無く移動し始めている。蓮はその人混みの動くスピードが嫌いだった。
無理矢理歩かされるような、それなのに、時々凄く歩くのが遅いおじいさんがいたりする。そのおじいさんは大抵自分の馬券に夢中で、人がぶつかっても、人にぶつかっても、何も気にしていない。馬券が外れたときは特に腹がたった。
こうして、蓮が穏やかな気持ちでいられるのは、多分、馬券を当たっても外れても良いと思っていたからである。
「いやったー!」
掲示板の確定の文字が表示されたとき、遠くで雄叫びが上がった。抱き合って数人の男達が喜んでいる。
その様子を、誰も見ようとはしない。ただそれぞれの時間を過ごす。それでもその男達は喜びの声を上げ続ける。
一つのレースが終わり、一層の静けさが訪れた今、彼らの声は一際大きく場内の空気を振れさせた。
蓮はそんな空気の作るシュールな時間があまり気持ちよく無かった。明日に備えようと、歩みを進めた。
そうやって蓮が人の少なくなったスタンドを後にしようとしたときだった。場内がぱらぱらとざわめき始めた。レースまでは時間があった。
蓮は不思議に思って振り返ると、ビッグビジョンに蛍の写真が映し出されていた。
“今日の出来事 金田蛍騎手 通算100勝”
ざわめきは、いつも蛍に向けられていたものより、幾分の清々しさを感じた。
それから間も無くして、授賞式の様子が動画で流れる。見る人と、通り過ぎる人がばらばら居る中で、蓮は足を止めた。
「通算100勝おめでとうございます。明日の天皇賞に勢いが付きましたね。」
「有り難うございます。天皇賞も特に大切ですが、この100勝も負けたレースも、全て私にとっては同じです。いつも任せて貰った責任と、感謝を持って乗らせて頂いています。明日は東京でG1ですが、一生懸命今までと同じく頑張って乗りますので、どうか応援よろしくお願いいたします。」
蛍の居る場所では、細波のように拍手がわき起こると、蛍は満面の笑みを振りまきながら、手を振り替えしていた。
蓮が想像することの出来ない、蛍の本当に欲しかった瞬間なのだと思った。
蓮は、しばらく画面に引きつけられながら、アメ横でジョッキを手にしながらデザインの話をする貴の顔と重ね合わせていた。
9章
天皇賞当日、蓮はマネージャー達と13時にパドックで待ち合わせする事になった。
蓮は京王線出口から入場するのが一番近かったが、マネージャーと荒井は武蔵野線のホームから来るのが一番近かったのだ。
蓮は佐々木に「13時現地集合みたいだから、新宿で飯食ってからいこう。」と言って、新宿のアルタ前で待ち合わせた。
その日現れた佐々木の姿に振り向かない男は多分、幼児くらいだ。
それだけ自身のありったけの魅力を、惜しみなく振りまくように、その白い肌を露出させ、その白が映えるように、原色と、白の服を巧みに着こなしている。
温度の無い微笑みを、蓮に被せるように見せた佐々木からは、やっぱり正気を失うような魅力的な香りが漂ってくる。
「わぁ。綺麗だね。」と蓮は言った。勿論そう思ったから言ったのだ。そう思ったのだけれど、蓮の脳内は、決してその色一色では無かった。
「ありがとう。」といって蓮の腕をとって、少し照れるように下を向いた佐々木の目線に蓮は付き合うと、その陶器のような白い足を2本絡ませている。陰と光のグラデーションが、眩しかった。
佐々木はそのまま2本の足を解いて、すぐに歩き始めようとしたので、蓮はパドックで引かれる馬の様に、歩様を進めた。
「私、行ってみたかったレストランがあるの。」と言って佐々木は蓮を促すので、蓮はそれに付き合って見ることにした。
佐々木の言う、それは東口を出た先にあるごちゃごちゃとした居酒屋外を抜けて、すこし開けた大通りに面したところにあったタイレストランだった。
2人がレストランの入っているビルのエレベーターで、レストランのある5Fまで上ると、ドアが開いた瞬間に受付になっていた。
ウエイターはしっかりとタキシードを着たタイ人らしき人だ。(実はラオスだとか、ミャンマーだとか言われても、蓮には解らない。)
「イラッシャイマセ。」
そのタイ人らしきウエイターの発する日本語は上品だが、やはり片言だった。
店中から漂う調味料の香りが、異国文化を思わせる。
「私、タイ料理大好きなんだ。」
そうだったんだ、と蓮は思った。つきあい始めて5年近くたつ。そんなに一緒に居るのに、佐々木がタイ料理好きなんて知らなかったし、蓮は一度も食べたことがないし、興味も無かった。
“タイ料理なんて、鯛料理しか食べたことないぞ。”
蓮は念仏を唱えるようにぼそっと言った。
「何か言った?」と佐々木が言うから「いいや。」と言って笑いながら少し首を振って、その気を飛ばした。
“大丈夫だよな、競馬行くって解ってるよな。こんなしっかりしたレストラン無理矢理引っ張ってきて。”
蓮は腕時計を確認して、それから水を飲んだ。定食屋では入っていない、ほのかなレモンの味が、心配を煽る。
蓮は訳がわからないので、ココナッツカレーを頼んだ。
佐々木は、もっとよくわからない料理を頼んでいる。
蓮はその料理名が、料理の名前じゃ無くて、呪文かなんかだと思った。きっとキッチンの奥にいるのは魔術師で、タイ人なんかじゃ無い。佐々木は、きっとマネージャー達を呪い殺して、今日の競馬を無かったことにしようとしている、と妄想した。
当然そんな事は無かった。
蓮にはちゃんとクリーム色をしたココナッツカレーが運ばれてきたし、佐々木の唱えた呪文も、何てこと無い辛いサラダと、辛いスープと、辛い春巻きだった。
それを、フォークを使ってむしゃむしゃ食べる。あんなに綺麗だった佐々木も、食事をしているときは一人の人間だ。
長い髪を掻き分けながら野菜や、鶏肉をフォークでぶっさして、口に運ぶ。普通の光景だ。
お腹が空いていたのか、夢中になっている。本当にタイ料理が好きなのだと納得するに充分な映像を、蓮は目で捉えている。
「今日は、いつもと少し違うみたいだね。」
蓮の言葉に、佐々木の食べる手が鈍る。レモンの香りがする水で、口を休めると、おしぼりで叩くように拭いた。
「そうかしら。」
「うん。何て言うか、いつもと使う香水が変わったみたい。」
「そう。そうなの。きっと蓮君、気付いてくれないと思ってたんだけど解った?」
「うん。」
蓮は“これで解らなかったら嗅覚に障害があるぞ。”と思った。
「涼しくなってきたから優しい感じの香りに変えて見たの。」
「とても良いと思う。そのセクシーな服装にも良くあっている。」
自分でそんな格好をしておきながら、佐々木は両手と肩を少しすぼめて、笑って誤魔化した。
「まさか他の男に色目使っているのか?」
からかったつもりなのに、佐々木は急に表情を強ばらせたので、ごめんと言って、蓮はなだめた。
「貴方の為よ。貴方にみて欲しくて色んな服を買っているの。」
蓮は、男冥利につきるその言葉に感動した。感動して、一気に食事を済ませると、早く同僚達やマネージャーに“自分の”佐々木を見せて見たくなった。
佐々木もゆっくりと食べてはいたが、蓮がそんなに待つこと無く食べ終えた。
「今日さ、競馬って何時に終わるの?」
佐々木は、その妖艶な姿とは対照的に、甘えるような無邪気な声で蓮に聞いた。
「遅くても17時過ぎくらいじゃないか。」
「早いね。」と流れるように佐々木は言った。
蓮はいつもそんなこと思わなかったが、そうかも知れないなと思った。
「終わったら、行きたいところあるんだ。」
「いいね。行こうか。それなら、メインは16時頃に終わるから、皆とはそこで別れるか。」
蓮にとっては、佐々木を巻き込んで皆で飲みに行こうとなることを避ける絶好の口実だった。
京王線で佐々木は蓮に寄り添うように座ると、蓮の右手を自分の両手で握りしめた。それからその指や、掌をおもちゃのように触っていた。
寄り添う体と、体の発する熱で、互いの水分が表面を濡らしていく。その熱にのって漂う佐々木の香りが、いつもの知っている佐々木の香りで無いことの不自然さが、新鮮でもあり、蓮は信じたくは無かったが、他人と座っている錯覚に自分を迷わせていた。
そうやって過ごす、窮屈で、耐えられない時間が、京王線の扉が開くまで、蓮と佐々木を支配して、離さなかった。
「うわぁ、凄い。本当に馬がいる。」
到着した時間は丁度レースが行われている時間だった。初めて競馬場に訪れた佐々木は、カメラを持った写真目的の人だけが残ったパドックを見て嬉しそうにそう言った。
駅からスタンドへの渡り廊下は、普段に比べてやはり人が多く、立ち止まると顰蹙を買いそうな密度だ。
佐々木はその人の密度を当然の様に受け入れ、むしろそういう物だといった感じで何も気にしていない様子だ。
まだマネージャー達から連絡は無いので、蓮は取りあえず到着したことだけを、同僚に連絡する。
会場に流れる音楽や、人々の熱気が、佐々木の気持ちを勝手に盛り上げてくれているようで蓮は安心していた。
実際は、佐々木もそれ程楽しんでいたつもりは無かったが、周りの“楽しそう”な雰囲気が、非日常を創り出し、意味も無く楽しいような気になっていた。
佐々木は、もっと近くで馬が見たかった。蓮は当然そんな要求を断るわけもないし、そもそもパドックで待ち合わせる予定だった。蓮は佐々木の要求を快く受け入れた。それが佐々木には心地よかった。とんだ勘違いだ。
「マネージャー達にもここに来るように言ったから。」
そうやって言って、佐々木はようやく緩んでいた表情を休ませた。
「それさ、私不思議だったんだ。」
「え?」突然変貌した佐々木のテンションに蓮は戸惑いを隠しきれなかった。
「ふつう、デートに会社の人ってあまり誘って欲しくないと思うけど。」
「でも、、、」
「確かに、そうだけど。あのときは気にしてない風にしたけど。できれば察して欲しかったな。」
でた、と蓮は思った。佐々木は完璧な女だった。スタイルも良い、料理も出来るし、愛嬌も申し分ない。いつも優しくて、朝から晩まで一緒にいても嫌にならない。誰が見てもうらやむ最高の女だ。ただ、時々、そういう“要らない”女要素も繰り出してくる。そういった部分まで、完璧な女だった。
「察しろっていっても。」
「いいのよ、もう。」
そうやって言うと佐々木は遠くを見つめた。天皇賞・秋にふさわしい、紫色を帯びた、色っぽく妖艶な、さみしい目線だ。
“どうすりゃいいんだよ”と正直蓮は思ったが、取りあえず謝るべきだった。謝って、それから弁解でもしよう。そう思った矢先に上司から連絡が入った。
「あと10分で着くらしい。」
「そう。」
頭をかきむしりたかった。いきなりテンションが落ちすぎだ。
「兎に角今日はごめん。競馬が終わったら、きみの好きなとこ、どこでも連れてってやるからさ。」
佐々木は寂しさを放出していた目を数回瞬かせたあと、蓮の方へその綺麗なデコを向けた。
一瞬驚いた顔を、すぐにいつもの優しい笑顔に変えて蓮の肩を小突いた。
「嘘つき。」
蓮にはありがとうに聞こえた。だから蓮は「ちょっと待っていて、何か飲み物を買ってくる。」と伝えると、私もいくと言って付いてきた。蓮は佐々木の腕を引いて体を引き寄せた。
ひんやりと冷え始めていた佐々木の表皮は、密着した蓮との間で、ゆっくりと熱を取り戻し始めていた。
マネージャーと荒井、同僚は既にパドックに到着して、予想を始めていた。
天皇賞まではまだ2レースあったが、それまで他会場も含めて出来るだけ遊んでいこうといきっていたのである。
蓮は飲み物を持って、佐々木と一緒に合流した。3人の眼差しが蓮を完全に無視していたが、それが蓮には少し嬉しかった。
「すみません、飲み物買いに行っていたら、戻るのに手こずっちゃって。遅くなっちゃいました。」
「お前、今日なんか飲み物買うのも大変だろ。これだけ人がいるんだからなぁ。」
確かに同僚の言うとおりだった。あたり一面人だらけ。見上げる限りに人だらけ。見ているだけで目眩を起こしてしまいそうだ。
マネージャーと荒井はまだ殆ど皺も、折り目も付いていない競馬新聞に綺麗に数字を書き込んでいた。プラスやマイナスはおそらく馬体重の数値だ。前回のレースからどれだけ増えたか、減ったかを書き込んでいる。
「なんか見よう見まねでやってみてはいるけど、良く解らないな。」
会社でみる強気なマネージャーは、そこにいなかった。へらへらと笑って、競馬新聞を眺めている。
荒井はその様子にうんうんと頷いているが、蓮は荒井の手にある新聞に書き込んである内容を見て、多分荒井はそれなりに競馬を知っているんじゃ無いかと思った。
同僚も、それなりにやったことがあるので、次のレースは既に候補が数頭に絞られているらしく、熱心にマネージャーに指導している。荒井はそれを、もっともらしく険しい顔で聞いているが、あまり当てにはしていなそうだ。
「佐々木ちゃんも買ってみたらどうだ。」
同僚がなれなれしく佐々木にそう言った。佐々木は解らないからと言った。
「競馬場に来たんだから、1レースくらいやってかないと。なぁ、寺島。」
佐々木の弱々しい眼差しが痛かった。
「まぁ、100円くらいから買えるし。遊んでみたら。」
“遊んでみたら。”という軽々しい言葉が、無責任でしょうも無く、蓮には情けなかったが、佐々木にはそれがしっくりきているみたいだった。
「100円ならいいか。」
蓮はなんか詐欺師にでもなったみたいだ。それでも、上手くいけば増えるかもしれないし、減るかも知れない。どっちにしろ無くなっても100円なのだ。
「お、いいね。」
嬉しそうに鼻の下を伸ばした同僚は、眼鏡をくいっと上げてから、佐々木の元へやってきた。それから自分の新聞を手渡すと、丁寧に説明を始める。
蓮は、こいつからこんなに丁寧に仕事の引き継ぎを受けたことが無いので、あまり面白くない。
少しずつ、その眼鏡が佐々木の体に寄り添い始めているような気もするし、とても競馬どころではない。
荒井とマネージャーはいつもどおり楽しそうに仕事の話をしている。彼らにとっては、酒を飲んでいても、ゴルフをしていても、競馬にきても、結局は全てそれの潤滑油でしかない。
いつの間にか、蓮達は人混みの中にいた。さっきのレースが終わり、次のレースに賭けようと人々がパドックに戻ってきたのだ。
「私、この女の子に賭けようかな。」
佐々木の声がした。蓮はその言葉を聞いて、自分も一緒に新聞をのぞき込んだ。佐々木が言っているのは、きっと金田の事だ。
「あぁ、ダメダメ。騎手は重要だよ。女騎手なんかじゃよっぽど勝てないからね。このベテラン、沢屋敷を買ってごらん。今回のレースなら複勝で買えばまず外れないよ。」
眼鏡を何度も触って、同僚がいう。その表情から、きっと今頭の中でドーパミンがわんさか放出している事は明確だ。
それの代わりに油が顔からもれて、眼鏡がずり落ちているのだ。
佐々木は、そうやっていう同僚に、ちょっとふてくされた顔をして「わかりました。このおじさん、買ってみます。」と言った。
同僚は、そんなふてくされた顔すら可愛い、といった風な気持ち悪い男の顔をしている。きっと蓮もたまにそんな顔をしているに違い無い。
蓮は佐々木の買おうとした女騎手、金田蛍の馬に全く印が無いのを見て、悔しいが同僚に賛同するしか無かった。
蛍の悔しさが伝わってくるようだ。
結局レースで勝ったのは、同僚の言うとおり、沢屋敷だった。
沢屋敷が勝つことは、誰もが予想していた。単勝倍率1倍台は100円が、百いくらかにしかならない。7割以上の人が、沢屋敷を予想していた事になる。
そんなあからさまレースで、少しの可能性を賭けて、他の騎手達はレースに参加する。負けることを祈られて、或いは殆どの人に見向きもされずに、コースを駆け抜ける。
負けて歓声をうける為にレースに出る。
「な、言っただろう。このレースは沢屋敷で決まりだったんだ。」
「流石です。良かった、買っておいて。」
勝つことが解っている馬券を買って、男達は大きく胸を張る。負けた者はこっそりその想いを馬券と共に握りしめて、内に秘めるしか無い。目の前の現実を無視して、勝負に挑んだのは自分だからだ。
蓮もその一人だった。
同僚の発言に、小さな反抗心を抱いて2番人気を買っていた。金額は500円。小さな額だ。
「どうした寺島。馬券外れたのか?」
蓮は掌をゆっくり開いて、汗でぐちゃぐちゃになった馬券を見せた。皆とは違う番号の馬券がそこにはあった。
「なんだよ、お前。ずいぶん思い切った勝負だな。でも今回、その馬には勝機は無かった。もっと考えなきゃ。」
考えなきゃ。それを言われると、反論のしようがなかった。別に考えた訳では無かった。ただ、現実から逃げてしまいたい想いを、2番人気の馬に託しただけだった。
現実は変わらない。
蓮の買った馬は、先頭から遙か離れた6番目での入線だ。
勝機なんて無かった。そんな馬鹿げた理論が間違っていると、どうやって証明すれば良いのだろうか。
勝負はやるまで、全ての馬にチャンスがある。平等とは言わないまでも、それぞれに小さな可能性があるのだ。走る前からどうして勝機が無いと言えるのだろうか。それではギャンブルなんて成立しない。きっとそんな事を言っているのでは無いと蓮は解っていたが、悔しさと腹立たしさがこみ上げてきた。
「次のレースも当てちゃうぞ。」
「是非お願いします先生!」
荒井に先生と言われて同僚は喜んでいる。次のレースは蛍の騎乗馬が無い。蓮も穏やかに楽しむことが出来そうだった。
「こういうレースはな。」といって、再びうんちくを繰り広げる。そのうんちくが、どうも間違いとも、正解とも言えない内容で、蓮もただ大人しく聞いているだけで過ぎていく、つまらない時間だった。
佐々木は特につまらなそうだが、それは同僚やマネージャーには伝わっていない。伝わっていない以上、荒井にとってもどうでも良さそうだった。
「佐々木ちゃん、今度はこの5番の馬がオススメだよ。」
「え~そうなんですね。」
酔拳の達人が、無心で攻撃を避けて、ジャブを返すように、佐々木はそう言った。完璧な型だ。
「あのお腹を見てごらん。ダートのレースにぴったりだ。」
「ダート?」
「あれ、あれ?ダート知らない?初めてだもんねぇ。」
同僚は凄く嬉しそうだった。素直に、その気持ちが眼鏡越しに伝わってくる。
佐々木は、興味深そうな表情でそれを聞く。
「じゃあ、力強い体をした馬がいいんですね。」
「そうだ。でもな、いくらお腹が大きいといっても、僕らみたいなメタボな馬じゃ駄目なんだぞ。」
荒井が爆笑していた。佐々木も笑っている。なんだか蓮は自分も笑わなければ変な気がした。
「今度は天皇賞の練習だとおもって、佐々木ちゃん自分で買ってごらんよ。」
「え~。蓮君何買うの?」
佐々木が蓮に歩み寄る。蓮はどうしようか悩んでいた。1000万以下条件のレースだった。どれも似たような馬だ。昨日に続いて、感が戻っていない。出来れば佐々木の前で、2連敗は避けたかった。
「ダメダメ。自分でやってごらんよ。」
同僚も荒井も、弱々しく言う佐々木を茶化す。蓮は少し強気で主張してみようと思った。
「じゃあ、いっしょに8番買ってみようか?」
おお、と言うように荒井やマネージャーが見る。同僚はやれやれと言った感じで蓮と佐々木を見た。
「寺島、いつになく強気だな。」とマネージャーは蓮に言った。
「そんなに自身があるんですか?」
荒井が言う。蓮は少し考えるようにして、うんと頷いた。
「ギャンブルだから、絶対とは言わないけど、多分今回この馬は良い勝負すると思う。前走こそ2着に敗れているけど、同じ距離では掲示板を外したのがまだ1回しかないし、前回も強い相手に頭差で負けたに過ぎない。他の馬に比べて力があるのにこの倍率は大きいと思うよ。」
荒井がふーんといって新聞に目を落としている。
「ちょっとその予想は信用ならないんじゃないかな。」
同僚はずり落ちる眼鏡をそのままに何故か佐々木に向かってそう言っている。蓮はどうしてか尋ねた。
「4番人気で12倍の馬をそこまで信用するなら、もっと根拠が欲しい。僕はここはすんなり一人気の馬を買うよ。まだ8戦しかして無くてその内新馬は芝で負けたから対象外。残りの7つの内2勝2着3回3着1回着外1回だ。この馬で決まりだよ。」
「でもどれもハナやアタマの接戦だ。それに着外の1戦はこの1000万条件に上がって最初のレースで、直近の1戦だ。このクラスでは通用しないかも知れないよ。」
「なんだか良く解らない。」
佐々木の言葉が場を冷ました。確かにこれはゲームだ、そんなに熱くなるなんてどうかしていたと、蓮は反省した。
「まぁ、それぞれ好きなもん買ったらいんじゃないかね。」とマネージャーが苦笑いを浮かべながら言うまで、同僚は顔をピンクに染めながら蓮に向かってひゅーひゅーと息を吐き続けていた。
「8番を買う。」蓮は、同僚に向かってそう言った。
「単勝だ。」
「私もそうしよう。」と佐々木が言った。
「あ、複勝にしとけば?もし負けても3着までならあたりになるよ。」
「じゃあ、そうする。」
佐々木は複勝で買うことにして、馬券購入用のカードに、印を付けていく。これを機械に入れることで、その印を読み込んで馬券が購入出来る。
「お前ら、馬鹿か。おれは5番にするね。」
「まぁ、まぁ。僕もじゃあ5番にしようか。」
「え、マネージャー5番すか。じゃあ俺は、両方!」
それぞれがマークシートに自分の思いを記入していく。想いなんてそんな重い物ではないかも知れないが、確実にそれぞれの意思が吹き込まれていた。黒の黒鉛が塗りつぶす小さな楕円がまるで、人々の希望を詰め込んだ気持ちの印の様にカードに並んでいく。それを券売機は飲み込むと、お金とミックスさせてグッドラックと言うように、馬券を吐き出す。
蓮達は、その勝負に参加するための唯一のチケットを手にして、広大なスタンドへ仲良く歩くのだ。
馬券を買ってしまえば、あとは結果を待つのみ。
喧嘩は一端お預けと言ったように仲良く談笑して、ファンファーレの瞬間を待った。
ファンファーレは、戦いを待つ戦士達の気持ちを盛り上げるアイーダのように、軽快に場内を振るわせる。
人々はそのトランペットの音色に導かれるように芝とダートのコースを前に、馬券を握りしめる。遠く離れたゲートの中でその時を待ち続ける戦士達の凱旋を待つ市民のように、穏やかに、そして本当は震える闘争心を隠し平常を装っている。
それは蓮も同じだった。蓮はゲームとはいえ、数字のかかった勝負で負けることが嫌だった。陸上部だった頃から、人よりタイムが遅かったり、体重の管理を指摘されたり、テストの点数を言われると、自分の存在を否定されているみたいで嫌だった。
そんな性格は、営業の世界では本当に役にたった。
毎月迫る締め切りに、臆することが無いように逆算を立てて、締め切り間際に慌てることが無いように、1週前には殆ど目標が達成できているように予定を組んだ。
調子が悪ければ、締め切りぎりぎりに目標を達成する事もあったが、それも自分の課した厳しいノルマを考えれば決して辛くなかったし、その結果社内でも、大抵数字において上位に位置することが出来ていた。
しかし、数字という物は無くならない。
蓮がいくら契約を取ってきても、会社は来月も同じ成績を持ち出してくるだけで何か自分が大きく変わるわけでは無かった。
毎月かなりのペースで契約をとる蓮に、会社側はマネージャーの位置を用意していると言ったが、蓮にとってそれは全く魅力的な仕事では無かった。
やることは自分と同じ仕事をしている社員達の尻を叩いて、全体の成績を上げるように促す事だ。自分の持っているノウハウを使って社員全体の成績を上げて欲しいと頼まれた。
その時蓮の頭には一瞬の間にいくつかの魅力と、そして難点が浮かんできた。
そもそも蓮は、人々を幸せにしようとしてこの業界に入ってきた。自分の扱う商品で、飲食店経営のオーナーを幸せにしたかった。その成果を数字として明確化する事で自分の仕事に有意義だと理由づける事が出来ていると思っていたし、モチベーションになっていた。
それがマネージャーになることで、果して自分の目指していた事が実現できるだろうか、と不安になったのだ。
自分の指導した営業社員達が取ってくる契約が、すべて蓮の納得のいく契約な筈はなく、中には営業成績を達成させる為に取ってきた詐欺まがいの契約も入っているに違い無い。
そんな数字を蓮は信用出来るだろうか。
数字は、大人になると学校のテストの様に綺麗な物ばかりでは無くなっていった。
いつしか数字には嘘が紛れている事に気付いた。それを黙認して、会社の為だと無理矢理理由づけなくてはならない立場に立つことを蓮は拒んだ。
拒んだあたりから、数字を追い求めることの意義を、実感し辛くなっていったのだ。
“数字は、いつも正しくない。正しさは、人の心にあるはずだ。”
貴は、毎日文字通り寝る間も惜しんで仕事に励んでいた。
デザインの学校を出ただけの貴は、そうすぐに自身の力量が認められる訳でもなく、大好きな仕事に入ったことを理由に、ぼろ雑巾の様に扱われていたと、蓮は聞いた。
最後の晩餐とか訳のわからない事を言っていた貴は確かに、ボロ雑巾そのものだった。
安い酒に群がる、自由を愛する人々と杯を交わしている内に、貴のその表情だけは、酒に洗われるように、綺麗になっていったのが、蓮には印象的だった。
彼の仕事は、決して数字に残ることは無かった。いくら働いても、寝ないで出勤していても、彼は人と同じだけ働き、休んでいる事になっていて、その成果を知るすべは誰にも無かった。
テレビのコマーシャルやコントで流れる映像の背景に、貴の汗は、残っていた。それを、貴の汗と知るものはこの先もいないのだ。
そんな人々がこの世にどれだけ居るのだろう、と蓮は思っている。
このレースで勝った馬の後ろに何千何万の魂が眠っているのと同じく、蓮の見ている物の裏には、数字には決して表れぬ、気持ちの塊がいくつも眠っている。
なのに、人が信用しているのは数字だけなのだ。
だから蓮は数字が嫌いで、数字を追い求めている。
第三コーナーを先頭で回ってきた8番の馬は、そのままゴールまで突っ切ってしまいそうなほど、豪快な二の足を見せていた。
同僚が発狂しそうな中で、佐々木は脳天気な声を出していた。
「すごい、すごーい!頑張れー!」
蓮は静かにその様子を見ている。じりじりと距離を縮める5番の馬の脚色があまりに良かった。むしろ8番がここまでちゃんとレースをしてくれるとはそこまで思っていなかったので、複勝も買っていた。5番は流石一番人気という落ち着きようだ。
「差せ!差せ、差せ!」
同僚の狂気に満ちた叫び声が周りの歓声にリンクしていく。
「蓮君、差されちゃうよ!」
「ん?差すって意味知ってるの?」
「え?なんか変な意味?」
5番はゴール版手前で、見事に8番を差しきり、勝利をもぎ取った。同僚は安堵の表情を浮かべ、荒井はそれに同調するように喜ぶ。
蓮は念の為買っておいた複勝馬券で、マイナスは免れただろう。このレースは、皆がそれぞれの馬券で配当を貰うことが出来た。
「ほら言ったじゃ無いか。8番なんて、勝てない馬買うと危ない事になるんだ。堅いところを狙うのが競馬の必勝法だ。」
「おっしゃるとおりだ。」と蓮は言った。
場内は、もはや穏やかに芝生を眺めてピクニック気分を味わえる普段の競馬場とはかけ離れていた。
各世代、各距離の代表格の馬が、そのプライドを賭けて乗り込んでくる、事実上の現役最強が決まると言っても過言では無いレースは、日本全国から観客が押し寄せる。
その規模は一歩間違えると競馬場にいるのに、スタンドに出ることが出来ず、建物内のビジョンで観戦するしかならなくなってしまうほどであった。
地面が見えない程とは、まさにこのことを言う。
G1の日は、間違いなく日本で一番人口密度が大きい。
掲示板にはオッズが馬の枠順に並んでいる。オッズの低さは期待と信頼の証だ。今回は18頭フルゲートで出走する。東京芝2000Mのコース。有利不利が少ない。
数々のG1を制してきたウイナーズウィングが最も低い3.2倍の指示を得ているが、1番人気にしては高いオッズ。実力が均衡しているというファンの心の迷いの証だ。
2番人気は、ダービーを制したクッキープリンス。4.1倍。ローカルエースは7番人気。倍率は2桁台だ。
「何を買いましょうかねぇ。」
蓮の同僚は首を傾げながら新聞をのぞき込む。昨日の晩から考えていたのか、すでに馬柱は赤ペンで一杯だった。
“暇だな。”と蓮は思った。そんな蓮も下見をしていた訳だが。
この日、1番人気のウイナーズウィングは、5枠9番を引き当てていて、2番人気、世代最強、競馬界のホープと謳われるクッキープリンスは2枠3番に入った。クッキープリンスを導くのは天才外国人騎手のモーリス。ウイナーズウィングは、彼をお手馬としているベテラン沢屋敷。それぞれ陣営の本気度が伝わってくる。
蛍は、ローカルエースに跨がり、この2頭をはじめとしたそれぞれのジャンルで最強を名乗る名馬達に先行しなければならない。
馬柱を見れば見るほどに、蓮は蛍の緊張が伝わってくるようだった。どこか彼女が遠い人間になってしまったようだ。
○年11月1日
第○回天皇賞・秋
1枠1番 カチキナジェイケイ4歳牝 濱本
1枠2番 クーリングスター 5歳牡 杉田
2枠3番 クッキープリンス 3歳牡 モーリス
2枠4番 トウエイレッド 6歳牡 飯田
3枠5番外リトルマーメイド 7歳牝 エリック
3枠6番 ハイネケン 6歳牡 東山
4枠7番 ケイエイゴードン 5歳牡 中田
4枠8番 カワシモプリンス 5歳牡 桑山
5枠9番 ウイナーズウィング4歳牡 沢屋敷
5枠10番 ローカルエース 4歳牡 金田
6枠11番 スイレンノハナ 4歳牡 近野
6枠12番 ロックインパクト 4歳牡 川村
7枠13番 ロッコウオロシ 4歳牡 佐藤
7枠14番 アイランドマン 8歳牡 館山
7枠15番 アラウンドザシー 5歳牝 古田
8枠16番 ブラックアイサイン6歳牡 日下部
8枠17番 フラワーデザイン 5歳牝 水無
8枠18番 ストーンマウント 5歳牡 鳴海
「僕のデータによると、そうだなぁ。」
蓮の同僚は得意に話し始めた。僕のデータと言う、彼のデータはどっかの予想屋さんが、どっかの記者から仕入れた数字をいろいろ組み替えて、こじつけて、面白く理由づけた予想を言っているに違い無い内容だ。
もしくは、競馬界の公式ホームページを開いて、公式記録を拾ってきたに違い無い。僕のデータと胸を張れるような、特殊な数字や、論理ではない。
「ウイナーズウィングと、ロックインパクトを軸にするべきだ。クッキープリンスは古馬戦に慣れていないから確実に来るとは言いがたいし、その他に軸にするほど有力な馬が見当たらない。」
ペンで新聞を叩きながら離すと、ねっとりとした声が各自の耳にまとわりつくようにその情報を押しつけてきた。
「ちなみに注意しておくのは、矛盾するが外国人騎手の馬2頭だ。やはり騎乗技術は頭一つ抜けているし、ペースを見て自在に馬を操ってくる。この2頭はその戦術変更に従順に対応出来るだろう。」
「なるほどなぁ。」
マネージャーは感心するように、同僚の声に耳を傾けている。
佐々木は相変わらずお手上げ状態といった雰囲気だ。
「結局、何が一番強いのかしら。」
「それを言っちゃあ、競馬の醍醐味がなくなっちまうよ!」
蓮はその日初めて同僚の意見に賛同した。佐々木には申し訳無いと思いつつも、その発言には元もこうも無いという意見だった。
「蓮君、蓮君。何が勝つかな。」
「うーん。」
蓮は同僚の目線がきついと思った。どうして競馬を楽しみに来ているのに、そんな妬みの様な、ライバル視されているように冷たい目で見られなければならないのか解らなかった。
「て、て寺島は、予想してるのか。」
明らかに引きつった、みっともない声を出しながら蓮に問う同僚を、荒井が面白そうにみている。冗談じゃ無い、と蓮は思った。
「ううん。俺はロックインパクト、いやウイナーズウィングの単勝を買おうかな。まだ決定ではないけれど。」
「えー、やっぱりそうなの?」
佐々木がつまらなそうに言う。そのつまらなそうな声に、同僚の顔がピンクに染まっていく。自分の予想を否定されたも同然の佐々木の態度が気に入らないのだろうか。
「よし、いいだろう。今回はそれぞれ1頭だけ馬券を買おうじゃ無いか。その1頭で勝負だ。競馬の原点に戻って。」
「そんな熱くならんでもいんでねぇか?」とマネージャーが言う。
「賛成。楽しみですね。」荒井が煽る。
蓮も佐々木も断らなかった。
「決まりです。それじゃあ、マネージャーも、荒井も皆、何を買うか言わずに購入して、レースの直前で見せ合いましょう。その1頭が勝負の1頭だ。恨みっこなし。」
「楽しそう、それ。なんか競馬面白くなってきたかも。」
「だろう、最後に少し僕の予想を聞いておくかい?」
さっきまでの無関心を、気まぐれにひっくり返し、佐々木が乗ってきたので、同僚の顔の色はまた薄気味悪い白に戻っていった。
同僚の暴走はあったものの、マネージャーも、荒井も蓮も、そのわかりやすい単勝勝負という構図に、結果的には意欲が湧いていた。正直、仲間内で来ていて、お金を儲けて帰ろうなんて小さな価値観で競馬をしようと思っていなかった。
だから、向きになった同僚が招いた種は、それぞれの競馬への意欲を思いの外すんなり引き出して、楽しませてくれた。
新聞と、ビジョンと、実際の馬と。それぞれが持論を繰り広げて、意見を交換していく。蓮達は同じ答えが導かれない不自然さに、道理を感じていた。
レース開始まで、刻一刻と時は過ぎていく。
「全然、見えないね。」
佐々木のいう言葉が、全ての感情と、現状を濃縮して還元していた。そのジュースの味は、安っぽいけれど、妙にリアルだ。
「こんだけのビッグレースだ。仕方ないよ。ちなみにリトルマーメイドは3歳の時に凱旋門賞っていう世界最高のレースで勝っているから、それを見に来たファンの分例年より少し多いのかも。」
「えー。」
蓮は佐々木が喜ぶかと思ったが、佐々木にとって凱旋門賞の勝ちは、しらすぼし位しか無さそうだった。
「2階とか行ってみてみるかい?」
蓮は提案した。でも佐々木は別にいいと言って、蓮に寄り添ってきた。甘い香水が絶妙に香る。
「早く馬券買って、はやくレースが始まってほしいな。」
「佐々木ちゃん、いくらそう言ったって発走時刻までははじまらないよ。」と同僚は機嫌悪そうに言った。そらそうだ、とまた蓮は同調したが、声に出すのは嫌だった。
「そういや今日寺島さん、勝ってなくないすか?」
荒井が不意にそう言い放った。
「そうだな。せっかくマネージャーと荒井に競馬の手本として呼んだのに。全然勝ってないな。」
同僚が、白い顔を油でテカらせながら気味の悪い表情を浮かべる。荒井は、友達を茶化すように蓮にそう言った。
「当たらない時は、当たらないよ。でも天皇賞は頑張りますよ。」
「お前の予想は滅茶苦茶なんだよ。」
滅茶苦茶だと思うならどうして呼んだのか。蓮は静かに佐々木と2人でデートしていたかっただけだったのに。
佐々木の顔を見られない。
「僕はもう決めましたよ!」
荒井が言った。早いと同僚は怒ったが、すぐに予想を固めたようだった。蓮も、マネージャーも佐々木もそれぞれ決めた。
その時、パドックで声援が起きた。熱狂的な蛍のファンが、姿を現した蛍を前に歓喜しているのだ。
佐々木は背伸びをしたり人混みの陰から何があったのかを見ようと必死になっている。
「すごい。すごく綺麗な馬がいる。」
「あぁ、あれは東北の田舎で生まれた馬なんだ。デビューしたときは金色に見える馬体からアイドルホースとして人気があったけど、今はもう駄目だね。」
満足げな顔をして語る同僚を蓮はにらみ付けた。それでもお構いなしといった感じで同僚は話し続ける。
「それに、声援は馬のじゃないよ。」
「そうなの?」佐々木はおどけた声で聞き返す。
「ああ。あれは上に跨がってる騎手にだ。若い女の騎手。きみが最初に買おうとした騎手さ。落ちぶれたアイドルホースに、ファンの下心目的に女騎手を乗せてさ。テレビの特集を組むために裏でやらされたんだろう。きっと。」
なんてデタラメなことを偉そうに語るのだろう、と蓮は怒りがこみ上げてきた。そんな話を佐々木が聞いたところで、なんとも思わないだろうが、自分がその下らない情報を目の前で聞いて放っておくのは果して正常な人間の判断だろうかと蓮は脳裏を曇らせた。
「そんなに人気があるのか?」マネージャーが同僚に聞いた。同僚は勿論と頷いた。
「最近はあの子の名前をもじったセクシー女優のDVDも出ていますよ。それにね、そういう企画も。騎乗というワードはそういうのに結びつけやすいでしょう。」
「お前は本当にどうしようもないな。」とマネージャーが嬉しそうに笑う。それに荒井が同調して「僕にもその動画教えて下さいよ。」と言った。
佐々木がしょうも無いと苦笑いを蓮に向けたが、蓮は佐々木以上に不快感を示していた。
「寺島もよ、、、」
と同僚が心を開いて蓮に同意を求めたその後の一言が蓮を悩ませた。そのほんの一瞬だったかも知れないが、蓮には長い時間だった。
今日は喧嘩をしに来たんじゃ無いのに。自分に嫌悪感を抱いていた。結局蓮はその同意を求める一言に「そうですね。」と応えて、自分への嫌悪を抱えることで、その場を納めることにした。
同僚には物足りなかったかもしれない。そう思わせるに充分な3人の表情が、その場の全てだった。
佐々木も気持ち悪かっただろうか。自分が蛍をそういう目で見ていると思っただろうか。蓮には解らなかった。
「馬券を買いに行こう。」
マネージャーがそう言って券売機に向かって歩き出す一同の流れに、あらがうこと無く付いていく蓮の姿があった。
券売機近くのモニターには、他会場の結果や、レース情報にかじりつく群衆が立ち尽くして、口をあけている。
そのモニターの一つに、開始時刻までのカウントダウンが分刻みで表示されている。決して購入を焦らせている訳ではないが、そのモニターの威圧感は、それ以外のモニターを上回る。
最も、佐々木はその事実を知らないせいか、呑気に列に並び、鼻歌を歌っているが。
「凄い列だね。」
「そう?ディズニーランドの開場のほうが並ぶよ。」
力強く剛速球を擦ったバットの放つ特大ファールのような回答だ。蓮にはとてもおかしくて、心地よかった。
一人買い終えたのか、列が少し動く。それに会わせて二人も前へ出た。マネージャーや荒井、同僚もどこかの列にいるみたいだったが、姿が見えない。
「早くしろよ-。」という声が上がる。締め切りまで10分以上あるが、馬券購入の締め切りは無情だ。ロスタイムもない。観客の焦る気持ちは蓮にもわかる。ただ、怒鳴る気はしないだけだ。
「怖い。」と佐々木が言った。
列はまた幾分か進む。それに会わせて佐々木のハイヒールが2つ3つリズムを刻む。
蓮は、いつのまにかその場にいるたくさんの人々が、それぞれの世界を生きていることに気付く。それぞれの世界に居ながら同じ目標に向かってつま先を揃えている。
その中に蓮と、佐々木もいる。それでも佐々木には今のところ蓮の事しか目に入っていない。さっきまで蓮もそうだった。追いかける時間も、目的も同じはずなのに、蓮は佐々木しか見えなかった。
罵倒を上げて他の存在を煽る人も、その対象と同じ空間に居て、目的を一とする。
それが列となり、券売機に向かって平行に並んでいるみたいだ。蓮は思った。佐々木はその順番に自分の身を置いている。
もしここで何か方法を見つけて順番を追い越す事が出来るだろうかとも考えたが、それには何一つ意味がなかった。
結局それは秩序の乱れを作り、争いを生む以外に、蓮には何も見いだせない。この待つ時間が、平和の証で、安定だ。
佐々木は、その絶対的な安定に信頼を寄せている。
ないはずのルール。常識という名の慣習に身を任せている。それは馬券に興味がないからだろうか。それともその絶対的な信頼には確固たる根拠があるのだろうか。
あるわけがなかった。だから怒鳴る人がいる。チャイムと共に駆け込むものがいる。場所取りをするものもいるし、そもそも混むからと言ってネットで購入するものもいる。
蓮は、自分の立っている列の不安定さをひしひしと感じる。
果して、蓮が馬券を買いそびれたとき、その列の誰が保証してくれるだろうか。競馬会は絶対に保証してくれない。
当たり前だ。
それなのに、誰も暴れ出さない。締め切りまで5分を切り、モニターの表示は赤くなった。
「あと2人だ。」と佐々木が言った。すこし体を揺さぶっている。小便を漏らしそうな少女の様にあどけない。
蓮もそうだ。決して小便を漏らしそうな訳ではない。ただ、この列で待つ以外に馬券を買う手立ては残されていない。レースは始まっていないのに、すでに運試しは始まっているかのようだ。
「あと1人!」佐々木は明るい。もしも買えなかったら、そのまま帰ってパフェでも食べようと思っているに違い無い。そんな甘い表情と、体臭を振りまいている。
蓮はいらつきのゲージがあるならぐんぐん上昇しているだろうなと自分を分析した。最後の1人があろう事か、その前のレースで買った馬券を一枚ずつ換金し始めた。
しかし全て外れている。当たったか外れたかも解らないまま、機械に読み取らせている。
「馬鹿な!」蓮は叫んだ。3分を切った。
「お金用意しとこう。きみのも一緒に買うよ。時間がない。」
「え、買った内容わかっちゃうじゃん。」
「買えなかったら元もこうもない。」
「そっか。」あっさりルールを無視して佐々木は財布を広げた。100円を蓮に渡す。100円なら立て替えても良かったと蓮は思った。
ようやく最後の1人が馬券を買い終える。もしも記入ミスがあって、職員のおばちゃんと揉め始めたら完璧に馬券を買えなかった。
「運を使っちゃったかな。」と蓮は漏らした。
金を入れ、マークシートを機械に飲み込ませる。蓮は“3枚”の馬券を手に取り、佐々木の分を手渡した。
「楽しみだね。」
「急ごう。」蓮は佐々木の手を取った。締め切り1分前のブザーが鳴る。観衆がざわめく。蓮は同僚を見つけて合流する。
「さぁ、天皇賞だ。」
同僚の声は、蓮の気持ちを代弁して吐き出したみたいだった。
見渡す限りに人で埋め尽くされたその光景に、蓮は、幼き日眺めた夕暮れの太平洋の景色を重ね合わせていた。
太平洋はいつもギラギラと輝いているわけではない。雲が空を覆い、或いは雨でも降らせれば、ゆらゆらとその海面を波立たせるだけで、ただ漠然とグレーのモザイクをどこまでも広げる。
まさに東京競馬場はそうだった。その海面の様な人々の上を、鳩が何も知らないように飛び去っていく。
鳩には、海のカモメのように、人々の中から何か獲物を得ることは出来ないだろう。
蓮はその混雑の中を、佐々木の体をたぐり寄せながら進んだ。マネージャー達の作る道は、ボートが進んだ後みたいに、すぐに泡だって消えていく。
蓮はその微かな隙間を追いかける。
「どこにこんなにたくさんの人がいたのって感じだね。」
佐々木の言うとおりだった。
パドックにも人、モニター前にも、券売機にも、喫煙所にも、レストランにも人。こんなにも人が居るのに、蓮はその誰も知らない。
ピューと口笛がなった。それに続いてぱらぱらと拍手が鳴る。
ふとそばにいる男性の新聞が目に入る。どこかのスポーツ誌だ。大きくカラーでど派手に書かれた番号は10。ローカルエースだ。スポーツ誌が見出しで推すと、急に現実味が薄れるような気が蓮はする。水曜日に、「期待外れの10番」として海外から叩かれていた日本人サッカー選手が、ドイツの地で久々の2得点1アシストを上げた事を理由に、今回も10番がやると言っているのだ。蓮は、本当に蛍は期待されていないのだと実感した。
その時「あっ。」と佐々木が声を上げる。
いつしか拍手は幾分の歓声をおり混ぜて大きくなっていく。
画面には、天皇陛下ご夫妻が映っている。現代の現人神は、その大海原の様な人々に、どこまでも上品で、非の打ち所のない、完璧な笑顔を左右にふる掌にのせて、振りまいているように見える。その笑顔は、ほんの少しの間人々を幸せにし、これから始まる真剣勝負に花を添える。
皇后陛下の頭に乗ったつばの大きな白色の帽子には、ラベンダー色の造花が飾られている。
「もうここいらでいいか。」
先頭を突き進んだマネージャーが声を張り上げる。蓮達は丁度コースとスタンドとの中間までやってきた。
文字通り周囲を人で囲まれた。佐々木が蓮の腰に手を回す。蓮はそれに答えるように佐々木の肩をもって自分の方へ寄せたが、そうしなくとも、自然と佐々木とも、知らないハンチングを被った中年男性とも同じように体を寄せ合う事になった。
「開始までもう数十秒もないはず。」
同僚は腕時計を見てそう言うが、まさにそのとおりだった。すぐさまビッグビジョンに天皇賞のプロモーションビデオが流れる。
紫を基調としたデザインの映像が画面一杯に流れると、歴代優勝馬が次々に紹介される。
競馬ファン達はその軌跡を思い出し、懐かしみ、感嘆と興奮の息を荒げる。そして、その時代を知らないものは、その名馬の活躍を知り、そして時代の最先端をはしる馬たちの勝負に血流を早めた。
プロモーションの動画が終わり、ほんの一瞬の沈黙後すぐに画面はスターターに変わる。その赤い旗は、風を受けゆらゆらと存在感を放ちながら、スターターに振られることを心待ちにして居るみたいだ。
それは観衆も同じだ。
どこから共なく新聞紙が叩かれる音がする。4拍子を刻む指揮者のように、1,2,3,4,1,2,3,4と拍手が大きくなる。それに合わせて人々の大海原は波打っていく。
画面のスターターはその赤旗を大きく、力強く振ると、運命が動き始めた。
幾人もの人々が、この瞬間のため、そしてその先に待つ大きな目標のため、その旗が振られるのを待っていた。
サラブレッドの脂肪とともに、それぞれの欲や邪念、煩悩をそぎ落とし、この瞬間の為だけにやってきた。
ファンにもそれが、その熱と興奮が伝わっているようだ。
嵐は既に始まっている。大海原は、湿気をたっぷり含んだ風にゆらゆら、ざわざわと波立っている。
その中に、蓮もいた。佐々木もいた。マネージャーも同僚も、そして荒井も。
ゲートインしてゆくサラブレッドの行方を睨みながらその時を待つ瞬間は、蓮には久しぶりに味わう緊張だった。
恐怖かとも思ったが、それとも違う。楽しみなのかと問われれば、そうとも断言出来なかった。
「蛍。」と蓮は思わず呟いた。
「え。」と佐々木も声を漏らした。
2人の感情は、交わり合う事なく、生演奏されるファンファーレと、それを煽る波の手拍子に飲み込まれて、消えた。
空間の創造する大きなバイオリズムに抗うことは出来ずに、その一部として、そこにあるだけだった。
画面に沢屋敷とウイナーズウィングの枠杁の様子が映される。観衆は応援なのか、奇声なのか解らない声を上げている。
蛍は沢屋敷がゲートインした後に、すんなりと枠に誘導された。とても落ち着いていた。
それとは反対に、会場は全くの落ち着きがない。これから餌を運んできて貰うのをただ待っている雛は、声こそ出さないものの、兎に角落ち着きがない。母親の持ってくる餌を心待ちにしながらただ体を震わせている。
その興奮は、分ければ喜びと、恐怖に分けられるだろう。これから始まる歴史の最先端との遭遇、その結果自分の財布事情に訪れる小さな(本人にとっては大きな)イベント。
どんなに足掻いても、目の前を駆け抜けた事実が全てを決める。コネも、おべっかも努力も才能も全て関係ない。
自分の選択した馬券と、訪れる事実のみが全てを決するスリル。
それが佐々木には解らなかった。つまらないと思っていた。アルコールの臭いを漂わせ、ハンチングで薄毛を隠し、手を新聞のインクで汚している中年男性の姿を見て、幻滅している。
仕事はどうしたのだ。こんな事で金が稼げる訳がない。そんな汚いハンチングで薄毛を隠すなら、働いて稼いだ金で頭皮を洗うのだ。女から見ればそっちの方がよほど清潔感もあり、好感が持てる。
一時の欲に駆られギャンブルに大金をはたき、それを失っては大声を張り上げている。男の中でももっともみっともない姿だ。
自分の男がそうでないか、今日は見に来たつもりだった。
今のところ、大金という程狂った金の使い方をしているようには見えなかった。
上司、同僚、新人をつれて、しっかりと接待をしている。おまけに彼女である自分を引き連れても全くの穏やかな姿勢で過ごしている。佐々木としては合格と言っていいだろう。
ただ不振だったのは「蛍。」と呟いたことだった。
蛍とはすなわち、このレースに出馬する女ジョッキーの金田蛍の事だろうと佐々木にも察しがついた。
そもそもジョッキーを下の名前で呼ぶなんてどうかしている。
アルコールに塗れて、毎週のように通い詰めている競馬ファンが「ユタカー!」と叫んでいるのを新宿の場外馬券場を通りかかったときに見かけたことがあった。
でも女ジョッキーを蛍なんて呼ぶだろうか、と佐々木は不振に思っていた。
こっそりのぞき込んだ馬券もウイナーズウィングの単勝。蓮の漏らすように出した「蛍。」の声が未だに理解できない佐々木は、きっと聞き間違いだと思うことで、レースを楽しむことに専念することにしていた。
「蛍ちゃーん!」と大声を張り上げるファンがいる。全身を金田蛍がローカルエースに跨がるときの姿にコスプレして会場入りしている。首からはゴーグルと、一眼レフカメラが垂れ下がり、個の世界を満喫している。
その様子と、蓮とは同じに見えてどこか違っていた。
佐々木は自分の喉の奥の方に違和感を覚えていて、それを蓮の腕に巻き付けるように腕で締め上げる。蓮にはその佐々木からのメッセージを受け取る用意が全く出来ていない。
蓮の目に映っているのは、天皇賞の行方だけなのだ。
それが佐々木には異常に思えた。ギャンブルだ。当たったところで一生食べていける大金を手にするわけでもない。下手すれば何もなく、ただ金が消えて行く。そんな物に金をかけて、希望を抱いている男達の考えは異様に思える。
だったら、自分と一緒に、その金額で食べられる高級レストランにいって過ごす時間の方が何倍も有意義ではないか。
どうして確実に手に入る幸せを捨てて、確率に賭けるのか。どうしてその確率に目を輝かせる事が出来るのか。
理解が出来ない。画面から目を外さない蓮の二の腕を、わざと自分の胸元へ当ててみた。
蓮は、腕を外し、佐々木の肩を抱いて寄せた。目線は、画面へ一直線に向けられたままだった。
佐々木は諦めて、画面に視線を戻すことにした。
画面では1頭を残して各馬がゲートの中でその時を待っている。
蓮はかつて貴と競馬を嗜んでいた頃、いつもその姿を不思議に思っていた。馬たちは、あの狭い鉄のゲートに押し込められてその時を大人しく待っている。しかし、彼らにとって、そのレースを走るという事がどれだけの意味を持っているのだろうか。
騎手にとっても、調教師にとっても、馬主にとってもそれは人生における名誉である。
だがしかし、蓮はいつも思う。馬にとってそれはどんな意味があるのだろうか。
けっしてその運命を心から望んでこの世に生を受けた訳ではないはずだ。蓮が人間として、日本に生まれたいと選択して生まれてきた訳ではないのと同じに、馬も、サラブレッドとして、競走馬として生を受けることを望んだのかどうかは不明だった。
あのゲートの中に、1頭でも「走りたくない。」と思う馬は居ないのだろうか。
散々、神の領域を犯し続けたサラブレッドの品種改良がその馬本来が持つ個の意思をも奪い去ったのか。
彼らは騎手の放つ鞭に従順に受けるだけの肉塊になりさがってしまったのか。それをいつも思っていた。
「決めた!俺は今回この馬にする。」
貴はいつも新聞やオッズを見なかった。理由なんて聞いても蓮に教えてくれなかったが、選んだ馬の動機はいつも同じだった。
「この馬は、勝つような気がする。」
勝つような気がするで勝ったら、苦労はしない。それでも貴はそんなデタラメな買い方をしているのに、10回に1回程度はしっかりと単勝を取っていた。勿論マイナスではあったが、勝ったときは「ほらみろ!来ると思ったんだ。」と怒鳴り散らしていた。きっと佐々木が見たら、毛嫌いするに違い無い。
「なんでわかったんだ?」と蓮が聞く。
すると貴は「あいつは今日勝とうという気力に満ちあふれていた。」と言った。そんなアホな話があるかと蓮は思っていたけれど、そんなにアホな話でもないかも知れないとおもった。
勝ち負け云々はあったとしても、もしかしたら“走りたくない馬もいる”かも知れない。馬だって生物なのだから。
最後の一頭は、少しゲート入りをいやがるそぶりを見せたもののそんなに時間をかけることなく、鉄の枠に収まった。騎手の表情こそゴーグル越しで上手く見えないものの、他の係員の表情やしぐさから、サラブレッドの振り回す蹄の恐怖は見て取れる。
コースからも、スタート位置からもかけ離れた場所で見る蓮達には、それは想像の域でしかなく、そして酒のつまみ程度にしかならないわけだが。
最後のゲートが締められると、サラブレッド達はゲートが開くその瞬間を待つばかりだ。
係員がそそくさとゲートから離れて体勢が整い、ほんの一瞬会場が静まりかえる。空も、風も、芝もその一瞬だけ自然に帰る。その自然の空気を壊すようにゲートが開く金属音が鳴る。
人間の声が幾万の和音になって響き渡る。
凄まじい煽りの中で、サラブレッド達はぐんと体を伸ばして飛び出る。まさに芸術の域に達したその光景に、誰もが見とれていた。
そのスタートが勝負に与える影響は大きい。飛び出たタイミング、その後の加速によるポジション争い、それによる体力の消耗。一瞬に度重なって行われる勝負の連続が人々の目を魅了する筈だった。
「おおっと!これは!!!」
蓮の背筋にひんやりとした電気のような衝撃が走る。最早、慢性化した不安が、忘れようとして、頭の中から消したはずの光景を呼び覚ました。
ゲートの中で、ローカルエースが座っている。最早、理解不能。すぐに画面は馬群に戻ったが、それから数秒後、ローカルエースが走り始めた知らせを聞く頃には、会場は失笑に包まれていた。
急いで加速したローカルエースが馬群を捉えるカメラに映った時には5馬身の差があった。
最早人々の勝負像から、彼とそれに跨がる蛍の名前は消え去って、熱狂的なファンだけがその姿を追っている状態だった。
ペースを作ったのは好スタートを切ったウイナーズウィングだった。沢屋敷はちらちらと背後を見ながら絶妙なポジションをキープしている。ペースはそこまで早くない。二の足を使えるポジションをキープしている沢屋敷に危機を抱いたモーリスはじりじりとクッキープリンスのポジションを上げていく。
リトルマーメイドに跨がったエリックは中断で力を溜めるように息を殺して、スパートの瞬間を待っている。沢屋敷はそれに備えて、2番手を走る名手東山の乗るケイエイゴードンのクビ差を守る。
またローカルエースはコーナーを回る寸前まで最後方を走る事になってしまった。
蛍は今、どんな気持ちだろうと蓮は想像すると、掌がじんわり汗で滲んできた。蛍の目指すゴールは観衆の前だ。きっと戻ってくる頃、彼女を待ち受ける現実は、彼女の望んでいた、そして目指していた景色ではない。
また、いつもの様に罵声や嘲笑を浴びることになるのだろう。
ローカルエースはじりじりと位置を上げていく。他の馬がしっかりと勝負の時に備え準備をしている中で、彼は脚を早めていく。その奇怪な走りに野次が飛ぶ。
金色の馬体は、陰り始めた秋の夕日にキラキラと輝き始めた。
画面を見ていた蓮は蛍の笑顔が見えたような気がした。ゴーグルの下。見えるはずのない小さな表情。
蓮はまた「蛍。」と漏らした。
「蛍、行け!」
「え!?ちょっと。」と佐々木が蓮の肩を小突くのにも、全く気付いていない。
「おいおい!ローカルエースがまた頑張ってるよ!」
「どうせ負けるんだから頑張るなよ!」
「マジで3連の頭に入れてないんだから勘弁してくれ!」
「落ちろ!!」アハハハハハハ!
心ない言葉が飛んで行く。その言葉が蛍に届くことはきっとない。それとは関係なく蛍も、ローカルエースの顔にも、吹っ切れた清々しさがあった。
その人馬の肩に、乗る物は希望と、夢しか蓮には見て取れなかった。今にも、本当に金色の風になって、どこかへ吹き去ってしまいそうな清々しい表情で、馬群の大外を駆け上がっていく。
第4コーナーを曲がると、野次や、応援は一気に渦巻きのように混ざり合って、大きく成長し、ハリケーンの如くその場を吹き荒らした。
金田蛍と、ローカルエースのカップルは、堂々と観衆の一番近いところを駆け上がっていった。前方で粘るウイナーズウィング目がけて、飛んで行った。
内からクッキープリンスがじわりじわりウイナーズウィングに迫る。リトルマーメイドは、やはり海外の馬なのか脚色が鈍い。日本の芝に合っていないみたいだ。凱旋門賞で見せた鋭い脚が活きない。
「沢屋敷いけー!女に負けんなー!」
「モーリス差せ!差せ!」
「沢屋敷、そのまま!そのまま!」
「エリック頼む!勝ってくれー!」
会場は、それぞれの欲に支配された祈りに埋め尽くされていく。
人気馬、騎手の声援に包まれていく。まるでその数頭の為のレースのように。そんな中で、ローカルエースは、何も知らぬ無垢な少年のように、蛍を乗せてぐんぐん突き抜けていく。
「やめてくれー!」
誰かが叫んだ。ローカルエースの剛脚に、悲鳴が上がる。この勝負に賭けて、血と汗を流してきたのは同じ筈だった。
「沢屋敷ー!そんな負け犬なんかに抜かれるんじゃねーぞ!!!」
毎日、凌ぎを削っているのは沢屋敷や、天才外国人ジョッキーだけじゃない。
「女に負けるなー!」
「俺たちの馬券を無駄にしないでくれー!」
女である分、勝つための工夫は人一倍必要だった。蓮は蛍に声援を飛ばしたかった。
かつてエリートとして、競馬界を騒がせて、盛り上げるだけ盛り上げたあと、新しい新人に全てかっさらわれたローカルエースを信じて天皇賞に出てきた蛍を。そして負け犬と馬鹿にされながらも健気に走り続けるローカルエースを。
でも、たった一言「頑張れ。」の声が出なかった。
轟音で、鳴り響くウイナーズウィングへの声援と、蛍への罵倒に、その一言を発する事が間違いの様な気がして、声を発する勇気を出せない。
もうすぐそこまで馬群は来ている。先頭は依然としてウイナーズウィング。その2番手にクッキープリンスがいる。内でロックインパクトも粘っている。
ローカルエースは、大外を飛ばしてその金色の馬体を先頭集団に寄せる。そのペースでいけば、今にも奇跡が起こりそうだった。蓮は手の中にあるウイナーズウィングの馬券と、そしてこっそり買ったローカルエースの単勝をぐっと握りしめる。その時だった。
「蛍ちゃーん!負けるなー!ローカルエース、頑張れー!」
たった一つの声援だった。しっかりと、蛍とローカルエースに向けられたたった一つの流星の様な一言が、ぴかりと輝くように競馬場を走り抜けた。
蓮は自分の顔が赤くなっていくのを感じた。見とれて声が引っ込んでしまった。
全身を恥ずかしげもなく蛍と同じコスチュームに包んだ少年の、恥ずかしげもない応援。会場のムードを全く無視して、何も顧みず、ただ一心に蛍とローカルエースに放たれた声援は、会場を埋め尽くす、どの声援よりも澄んでいて、鋭く輝いていた。
蓮はその声に慌てて我を取り戻した。恥ずかしいのは周りに流されて自分の意思をすべて封印していた、その自分自身の情けなさだ。今、蛍を応援しなかったら、自分の意思なんてきっとなくなってしまう。一生、誰かに作られた人生を歩んで、誰かの作ったルールを歩んでしまう、その恥ずかしさを蓮は実感した。
「ほたるー!差せ!思う存分走れ!ローカルエースを勝たせてくれ!」
周りが一瞬自分を見たような気がした。その中に佐々木や同僚もいた気がする。
でも、間違えたことをしたと蓮は思わなかった。
ローカルエースがじわじわ先頭との距離を縮めていく。少年に蓮が感化されたように、チラホラと「金田!」という声援がわき上がる。段々と、その声が大きくなっていくに連れてそれを栄養に成長していくようにローカルエースはウイナーズウィングとの差を縮めていく。会場は最早言語とは言えぬ声に包まれて、馬たちもスピードのあまりその姿を風景に溶かしていき、ローカルエース、ウイナーズウィング、クッキープリンス、ロックインパクトが一段となってゴール版を目指す。
その時だった。そのままのペースで行けばローカルエースは完璧に差しきった筈だった。
それなのに、ウイナーズウィングに並んだと思いきやゆっくりと内側に体を寄せゴール寸前まで併走をした。
端から見れば、世紀の大デッドヒートとなったレース。掲示板では4着までが審議になる大接戦だ。
ファン達は「一回ローカルエースが差したのにウイナーズウィングが差し替えした。」とか「ローカルエースが最後スタミナ切れをおこした。」とか、各々の見解を交換する事で興奮を静めようとしていた。蓮はさっきの少年を探したがどこにいるのか解らなかった。
審議は10分かかった。
ウイナーズウィングを買ったらしいマネージャーも、同僚もその審議中、弱々しい声で「まさかな。負けないよな。」と言うのが精一杯だった。
荒井は迷った末に「クッキープリンスを買いました。」と言って1着の審議の対象からは既に外れていたので涼しい顔で掲示板をみていた。同じく結果がどうでも良い佐々木はそんな荒井と世間話をしていた。10分後、会場が響めきと歓声に包まれた。
「ねぇ、ちょっと。蛍って呼ぶの止めてよ。」
佐々木は蓮の肩を小突くというより、ど突きながらレースの時の沈黙とはうって変わって怒声を上げている。
ローカルエースの剛脚は多くのファンの3連馬券を紙くずに変え、衝撃と共にターフを駆け抜けていった。
「なんだ、姉ちゃん。彼氏に予想頼んで外したのか?」
ワンカップに顔を赤らめた老人が佐々木にそう言い寄った。佐々木は汚物を見るような目で老人を蔑む。
「あのレースで金田を無視するのは凡人だな。彼氏くんもまだまだ研究が甘いぞ。」
老人は、中国の奥地に居る仙人の様な長い髭を親指と人差し指で摘まみながら撫でている。その如何にもだらしなさそうな目でちょっと見せてみなさいと蓮の馬券を見る。
「ほっほう。これは失礼。10番、すなわち金田の単勝を買っているとはな。いい目を持った男じゃ。いい馬券師になれるぞ。」
そういって老人は蓮の肩をなれなれしく叩いてどこかへ歩いていった。
「なんだ、あのじじい。」
同僚はその老人を知ったかしやがってと言って目で追いやるようににらみ付けると、蓮の馬券を見た。
「それにしてもこんな大穴単勝を良く買う気になったな。」と同僚は言った。蓮はそれについて、競馬的な根拠はなかったので説明をしようにも、言葉がでて来ない。そんな蓮を見かねて佐々木が先に言葉を発した。
「どうせ蓮君も、あの変態コスプレオタクみたいに隠れ金田ファンなんじゃないの。」
“隠れ金田ファン”という言葉に、蓮は妙に納得していた。でも、そうだと言うと、まるで変態にされたみたいだ。さっきまでの意気は、どこかにいってしまっていた。
「まぁ、まぁ佐々木ちゃん。そんな怒らないでもいいじゃないか。所詮競馬のジョッキーさ。こいつと何か接点があるわけでもない。こいつには佐々木ちゃんしかいないよ。」
はぁと息を吐いた佐々木の表情が憤りを残して、ゆっくり小さく動いている。
「もう少ししたら電車も空いてくる。そうしたら皆で帰りましょう。」
同僚がマネージャーにそう言って、一同は解散までの時間を急に殺風景になったターフを眺めて過ごした。
さっきまでも馬が走っている以外は大して変わらない風景だったのに、まるで遠く北の国の野山に来たように何もなくただ風だけが吹き抜けるだけになってしまったように思えた。
マネージャー達は武蔵野線にのり、どこかの居酒屋で一杯やっていくと言って去って行った。
「お前らもくるか。」と蓮達を一応誘って見たものの、2人は遠慮しておきますと丁寧に断り、きっとそうだろうなと思っていた3人は笑顔で手を振って帰ったのだった。
蓮は両手をポケットに突っ込んで京王線のホームに立ちすくんでいた。その横で佐々木も鞄に両手を結んでいる。丁度レースとレースの間にある時間は、人が少なかったので、座ることこそ出来ないものの、2人が電車の車両を選んで乗り込むことが出来た。
蓮は、目の前を駆け抜ける蛍の姿が、何度も何度もDVD映像を巻き戻して再生するように自分の頭の中で繰り返し思い出していた。
初めて見るような生き生きとした表情。いつか一緒に居酒屋に行ったときの様な表情からは想像の出来ない顔だった。暴れん坊のローカルエースを見事に馬群の先端まで走らせた。出遅れなど気にしないと言った豪快な末脚を見せた。
ファンの中には、それは最早ローカルエースの馬鹿力によるもので、上に乗っているのが蛍だろうが、沢屋敷だろうが武豊だろうが関係ないのだという者もいた。
確かにそうなのかも知れない、と蓮は思った。あんな馬鹿げた走りを見せられたら、予想屋もたまっものではない。それは蓮も良く解る。でもだからこそ、そこにロマンがあるのではないかと思った。
ローカルエースは、蓮から見ても勝敗に執着がないようだった。
前を走るウイナーズウィングに走り寄っていって、一緒に走る事を楽しんでいた。自分の生まれた星を全く無視して、蛍と一緒に走る事を楽しんでいた。
本当は2馬身も3馬身もぶっちぎって勝つことがローカルエースの役割だった筈だ。きっとあのレースはまた八百長疑惑が浮上する。
蛍にまた強くて冷たい風が吹き当たるに違い無い。
それでも蓮は、あの楽しそうに風と一体になった蛍の顔が忘れられない。それが蓮の勘違いかも知れないが、きっとそうだったと蓮は思っている。
京王線が新宿に着くと、佐々木はさみしそうに、それでも何か悟ったように、蓮とは反対の出口に帰って行った。
蓮は、それを止めずにただ「ごめん。」とだけ言ってその背中が人混みに消えて解らなくなるまで見送ることにした。
最終章
天皇賞が明けてから数週間が経った頃、ローカルエースの引退が発表された。
元ダービー馬の異例とも言える早すぎる引退は、週刊誌やスポーツ誌を大いに盛り上げる言い材料にはなった。
蓮が、蛍に天皇賞のパフォーマンスを称えようと連絡をとると、思っていたよりも飄々とその時を語る者だから、蓮は不覚にも気落ちしたのだった。
“見に来てくれていたんだね、有り難う。あのレースはエースが走りたがっていたから、なるべく抑えないようにって思ったんだ。”
“スタートで座っちゃったとき、焦らなかった?”
“勿論、ちょっと焦ったよ。だけどね、あの馬はやんちゃで、底知れないパワーがあるし、何よりも私と一緒で走るのが好きなの。だから、立ち上がったらもう、レースに集中出来たよ。”
“集中出来たってのはきみが?”
“両方。でもね、あの子、少し変わってるの。”
“ごめん、僕は詳しくないから解らないや。どう変わっているの?”
“昔沢屋敷さんも言ってたんだけど、あの子は、レースがしたいって訳ではないみたい。”
“そんな事があるのか?”
“馬の事だから、はっきりは解らないけど。でもね、私、沢屋敷さんの言っていること解るわ。”
“どういうこと?”
“最後さ、沢屋敷さんの馬に並んだら減速したでしょう。”
“うん。”
“いつもそうなんだよね。”
いつもそうなんだよね、という蛍のメッセージからは感情が一切伝わって来ない。それでも、この話題に対する蛍のレスポンスが、ローカルエースへの愛情を、天皇賞での興奮を、蓮は感じていた。
“でもあんな出遅れて、最後飛ばしたら、やっぱりスタミナが切れたって言う意見も信頼出来ると思うけど。”
“私もそれは否定しないけど、でもね、牧場長も、調教師の下田さんも、オーナーも。皆エースのあの性格を解っていて、ああいうきわどいレースをしても、帰ってくると良く帰って来たなって笑顔なんだ。”
“へぇ。”
“世間では皆八百長だとか、絶対に勝つなって言うんだけど、関係者の間ではまだアイドルなんだよ。”
“そうなんだね。きみは?”
そう蓮が尋ねてから蛍の連絡は途絶えた。蓮はそれから30分置きに何度かスマートフォンを開いて見たが、結局その日は連絡が取れないままであった。
ローカルエースは、引退後、地元の牧場に引き取られ、種牡馬として活躍することになった。
元々ダービーを制した早熟な馬であるから、4歳での早い引退は結果的に良かったのではないかという意見も少し上がっていたが、何よりも、地元では相変わらず人気があった。
広大な芝生に放牧されたローカルエースの馬体は、太陽の子供の様だと観光客に喜ばれたし、全国的に知られた元アイドルホースは地元の町おこしのキャラクターとして重宝された。
ダービー馬の街として、無人駅にちゃちな銅像が設置され、ポスターが貼られた。
そのブームが去る2年後の夏、蓮は蛍と新婚旅行でローカルエースの待つ牧場へ足を運んだ。
2人を繋いだその金色の馬体は、その時みると、どう見ても茶色にしか見えなかった。
蓮は蛍に聞いた。
「あの時は金色だったよな。」
蛍はふふと笑いながら、ローカルエースの体を撫でた。太陽の日を受けて、きらりと輝く。
「そうだったんじゃないかしら。」
「なんだよ。きみは跨がって一番近くで見ていたじゃないか。」
蓮はコーヒー味のソフトクリームをぺろりと舐めて、その後ローカルエースの馬体と照らし合わせる。
「どうも輝きが薄れている。」
「薄れたのは貴方の頭でしょ。」
「おい!」
あははと蛍が笑った。驚くようにローカルエースは2人の方にその円らな瞳を向ける。
蛍は人差し指を立てて蓮に静かにするよう注意した。
蓮は渋々黙り込んで、ふて腐れるようにソフトクリームを舐める。
2人は牧場を巡り、何頭かローカルエースの仔馬を見せて貰った。芦毛に、黒毛。ローカルエースの仔には見えないと蓮が言った。
「そんな事いったらかわいそうでしょ。」
「そうか。そうだよな。そんなの差別だよな。」
蓮は言った。
「ねぇ、ここから少し離れた駅の近くに美味しいお寿司屋さんがあるの。行ったこと無いんだけど。」と蛍が言った。
「行った事無いのに美味しいってよく解るな。」
「食べログで3.7点なのよ。」
「それ、美味しいのかよ。」蓮は笑った。
蛍は少し意地悪そうな顔をして蓮を小突いた。
「行こうよ。」
「そうだね、行こう。」
2人は、ローカルエースの仔馬達に挨拶をして牧場の駐車場に止めたMINIの車の元へ歩く。
大きな放牧地の横を蓮は蛍の手をとって歩いた。爽やかな風が、もうそろそろ訪れる秋の香りを帯びている。
蓮は、その香りに天皇賞で走り抜ける蛍の顔を思い出していた。ふと横を見る。蛍の顔は穏やかに、木漏れ日を映して微笑んでいる。
「あ、エース!」
ローカルエースが、放牧地に出ていた。まるで2人を見送る様に芝の上を駆けている。
「なんかのっそりしたな。」
「もう2年経つからね。」
豊かな農場の道を帰路につく2人をローカルエースは遠くで見つめていた。蛍は蓮と繋いだ左手を離して手を振った。蓮も一緒に右手を振った。
ローカルエースはそれを見ると、また駆けだした。その駆けだした馬体は、一瞬、太陽の光を受けてきらりと輝いた。
2人はきっとそれはローカルエースからの有り難うのメッセージだねと言って、牧場を後にした。
読んでいただいて有り難うございました。
長く、読みにくいところもあったと思います。
少しでも皆さんの心になにか幸せな気持ちを残せたら幸いです。
また、悪い点がございましたら、次回作に活かしていこうと思いますので
是非、教えていただければと思います。
誠に有り難うございました。




