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10番  作者: アテ27
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10番5章~7章

5章

 雲一つ無い完璧な快晴が広がっている。いくら手を伸ばしても届かない空からは、優しさと温もりに満ちた光が絹のように垂れ下がり人々を照らし続けている。

その光を、さも当たり前の様に人々は全身に浴びて、羊のように群がっている。

 蓮は一緒にその光を浴びたいのに浴びる事の出来ないもどかしさを感じている。

 微かにそよぐ小さな風が、熱風となって蓮の顔に吹き付ける。その熱さすらも、蓮は逃したくなかった。両手を伸ばして包み込んで自分だけのものにしたかった。

 そうやって捕まえてしまいたかったのに、首の横や、腋の下をするりと吹き抜けて、また大気の一部に戻ってしまう。その度に蓮の骨の髄を悪寒が襲い、冷やしていく。

 蓮は遠くを見つめながらその永遠の暖かさを欲し、青空に祈った。

「どうか神様、僕に永遠の温もりを下さい。このままでは寒くて、寒くて死にそうです。」

 蓮の見ていた温もりに満ちた光は太陽に揺られ、蓮の目を欺いた。

光が揺れる度にその動きに触れようと、一生懸命に手を伸ばして、届かないのに、触れようと足掻いた。足掻いても、暴れても手に入らないとわかっている筈なのに、諦めたく無かった。

 そんな蓮をあざ笑うかのように、風は幸せの色を帯びて蓮を吹き付ける。とても良い香りだった。

 いつまでも嗅いでいたい不思議な香りで、蓮の心を躍らせた。それでも踊らせるだけ踊らせると、その幸せ色の風はばらばらに散って、また大気に帰って行く。

 そうやって蓮は枯渇していった。どうすれば自分を抑えられるのか解らない衝動の中で、その乾きを潤そうと歩いた。

 いくら蹴っても、蹴っても前に進めない地面を、乾きを潤すために蹴り続けた。

 蓮の蹴った地面は、蓮を全く無視するようにそこにあり続ける。幸せの風と光に染まった地面に蓮の陰は無い。

 蓮はその事に気付かず、ただ只管に、自身の乾きを潤す場所を目指して足を動かし続けていた。

 ずっと遠くの方に山が連なっている。緑の曲線がくねくねとうねりながら、青空と地面との境を彷徨っていた。

 山々は、人々と同じように光を浴びて輝いていたので、蓮にとって、人々と、遠くを蠢く山々の連なりは、同じくらい遠い存在に見えた。

 その山の連なりから、自分の足下へ広がる景色は異様だった。

 山があり、町があり、道路があり、そして蓮と道路の間は広大な芝生と砂が大きな楕円を描いて、横たわっていた。

 やっぱりその不自然な芝と砂のドーナツも光を浴びている。その光の上で、数人の老婆が歩き、時々しゃがんではまた歩いている。

 蓮は大きな声で老婆を呼んで見た。

 老婆は反応しない。蓮に気付いたかと思ったら、少し離れたところにいる別の老婆に話しかけているだけで、また視線を元にもどしたのだ。

 そのドーナツを眺めるように、やはり先程の光を浴びていた人々はゆったりと過ごしている。

 蓮はそれをどうやら見下ろしているのだと気付いた。

「おーい。」と呼びかけたいのに、いつもなら簡単に出る言葉が、一切出て来ない。声にするまでも無く、一切出て来ないのだ。

 もう手を伸ばそうと思っても、それすら叶わなくなってきた。

 自分があの芝生でとぼとぼと歩く老婆や、それを眺める人々とは全く別の生き物として存在している可能性を感じていた。

 人々は時々蓮を見上げては、何事も無かったかの様にその顔を伏せた。蓮が、自分に気付いて欲しいと思っていても、その心は、下にいる多くの人々には全く通じていないようだった。

 そんな時、広がるドーナツからいつの間にか老婆達は消え、何騎かの馬が、すらりと背筋を伸ばした人間を乗せて優雅に現れると、さっきまでのんびり光を浴びていた人々がドーナツのすぐ近くの策まで駆け寄っていった。駆け寄って、何か騒ぎながら手を振っている。良く見ると、1頭だけ白馬がいた。

 蓮はその白馬に心を奪われていった。今すぐにでも駆け寄りたかった。駆け寄りたくなって足下を見ると、自分は机に座っている。机に座って人々を見下ろしている。

 良く見ると、前には数列同じように机に座って、広大なドーナツを見下ろしている人々がいる。蓮の後ろにも階段状にそういう人々が積み重なっている。横にもずっと列になっていて、蓮の隣の席は空席になっていた。

 蓮はドーナツをもう一度見下ろしてやっと気付く。

「これ、競馬場の有料スタンド席じゃねぇか!」

 やっと声が出た。

 声が出たのもつかの間、目の前を優雅に歩いていた馬たちが、ゆっくりエンジンを掛けて、それから滑るように快速を飛ばした。

 一騎、また一騎と、どこかへドーナツに沿って走って行く。

 そして蓮は目をこらしてその白馬を見た。上には女が乗っていた。

“蛍!!”

 今度は声が出なかった。スタンド席から見えないはずの騎手の顔が、はっきりと認識できた。間違いなく、金田蛍だった。

“蛍、行っては駄目だ。引き返せ!!”

 蓮は念じた。声にならないから精一杯念じた。金田はそんな蓮を一瞬見つめて何かを言った。

 何を言っているかは全く解らなかった。

“駄目なんだ蛍。頼むから戻ってくれ。今、行っては絶対駄目だ!!”

 策を挟んで酔っぱらい達が、金田に野次を飛ばす。

 手に握りしめられた馬券と、ワンカップのアルコールが酔っぱらい達の理性と常識を奪い去っている様だ。

“挑発に乗るな、蛍。頼むから、俺の声を聞いてくれ!”

 そのアルコールに塗れた野次を浴びて、金田は乗っている馬の手綱を叩いた。

 白馬は意思のないレーシングカーの様にその手綱に従順に歩様を早めた。そしてみるみるスピードを上げて、やはり芝生のドーナツにそって、向こう正面の方へ消えて行った。

 その時、ヘルメットとゴーグルから出た金田の口元が、ぐっと何かを噛み締めているのが蓮には良く解って、言葉を念じることも出来なくなってしまった。

 金田の抱える、大きな悩みや、ストレスは、蓮には到底想像の出来ないものであることには間違いが無く、どうして蓮は今までそれに気づけなかったのかと震えた。

 先程までの悪寒の正体に、限りなく近いものだった。

 会場は、競馬場とは思えないほどに静まり帰っていた。蓮はそれを見下ろして、その違和感の理由を探ろうとした。

 探らないと、恐ろしくていられなかった。誰も話さないし、動かない。同じスタンド席にいる人々もつまらなそうに肘をついたり、腕を組んだりしているだけで、これから始まる筈のレースへの高まりが一切感じられない。

 競馬場では無く、それは葬式の様に重く辛い空気だった。蓮は、今まで見たことの無い競馬場のムードに困惑し、恐怖を感じ続けた。その恐怖を煽るように、快晴も、聳える多摩丘陵も完璧なまでの景観を見事に造り出している。

 暫くすると、階段を降りて、男が蓮の横に一人やってきた。手にはピザと、ポテトの入った平たい箱が二セットと、ドリンクが2つ同じ箱に刺さっていた。

 それを蓮と、その男の座った席のテーブルに置いて、その男も椅子に座っている。

 頭には胡散臭いハットを被っている。尻に刺さっていた色の派手な新聞を取り出すと、胸ポケットから赤ペンを取り出した。

“貴!!” 

 蓮は大声で叫んだつもりだった。

“貴、会いたかった。どうして・・・”

 やはり蓮の想いは伝わらないのか、貴は得意になって馬柱を眺めている。それからテンポ良く赤ペンで印をつけていく。

 蓮は自分の尻の下にも同じ新聞が置いてあるのに気付いてすぐに取り出した。

 それをとりあえず広げて、貴と同じページを探してみる。見つけた。馬柱には、確かに芦毛の馬が登録されていて、六枠に黒い馬と並んでいた。蓮が白馬だと思い込んでいた馬は、幼少の頃黒やグレーの身体で生を受け、成長と供に白くなっていく芦毛という種類の馬だった。

 蓮は自分で付けたことも忘れたのか、しっかりと赤ペンで金田の馬に二重丸をつけていた。

 蓮は、貴の新聞ものぞき込む。やっぱり六枠だ。六枠の黒い馬に“注意!!”とだけ記して、二重丸は別の馬に付けていた。

“何が注意なんだ、貴。教えてくれ。”

 貴の勘は昔から兎に角良く当たった。そこに理屈は無く、いつも決まって「何となくだよ。」と言って、大きな馬券を当てていた。

 その貴が六枠の黒い馬に注意と書いている。いや、良く見れば、六枠が注意と書いてあるようにも見える。

 蓮は、さっきまで自分が叫んでいた事を思い出した。

“そうだ、貴。今日は俺も六枠は危ないと思う。レースを開始してはいけないと思うんだ。何故だかは解らない。”

 貴がコースを指差して笑う。そこには一匹のウナギに跨がったウサギが、空を回遊している。酔っぱらい達がそれを嬉しそうに煽っている。

 ウナギは、ウサギの指示のまま、空を飛ぶ雀をパクパクと補食していく。

 そのウナギに「雀は数が少なくなっているから食べちゃ駄目だ。」なんて言っても通用しなそうだ。

 ウサギのその赤い目からも意思や、理性の様なものは感じられない。まさに驚喜に満ちた光景だ。

 ウサギは酔っ払いの嬉しそうな歓声に手を振る。手を振ってウナギを引っぱたいた後、遠く多摩丘陵めがけて、うねうねと飛んでいった。それに向かって貴が何か叫んだけれど、蓮には聞き取れなかった。

 貴は変な帽子を一度手で持ち上げて、被り直し、新聞を置いてから自分の買ってきたピザを頬張った。美味しそうにそれを食べながら蓮にも勧めて、また一口食べた。

 蓮には貴の声が聞こえなかったが、きっと大きいのを当てたから、お前にもおごってやるよといっているのだと解った。

 だから蓮は一生懸命“ありがとう。”と唱えて、そのピザを手に取った。貴は「おう。」と言ったような気がした。

 そのピザは、絶品と言って差し支えない程に旨かった。チーズが程よく溶けて、具のエビが、生には負けないプリプリな食感を保っている。野菜も、火を通した独特な香ばしさをもって、スパイシーな味付けと一緒になって食欲をそそった。

 すぐに飲み物が欲しくなって、紙コップに手を伸ばす。中身は貴の好きなジントニックだ。

 いつも貴が好んで飲んでいた、上野アメ横の安いバーで出てくるジントニックを、そのまま持ってきたようなそんな味だった。

 蓮が横を見ると、それを嬉しそうに貴も飲んでいる。

 サクサクに揚がったポテトを時々つまんでは、その安いジントニックで流し込んで、大きく息を吐いた。

 幸せそうな貴の姿を久しぶりに見た蓮は泣き出しそうな気分になっていた。

 そんな事を気にせずに、貴はピザとポテトを本当に旨そうに頬張っている。いつまでも貴と競馬を楽しんでいる時間が輝かしく思えた。

 貴は、そうやって自分の食べているピザとポテトを平らげると、再び新聞紙を眺め始めた。

 本当に幸せな時間だった。

 さっきまで恐怖を感じていた快晴の空も、すっかりぽかぽか陽気で、蓮のところにもようやく日差しが訪れた。

 あんなに欲しがっていた日差しは、あまりにも呆気なく、時間と供に太陽の場所が変わり、蓮の元にも訪れた。

 蓮は幸せな気分になっていた。このまま金田を応援して、金田が一番になれば最高だなと思った。

 下では酔っ払いも、大学生カップルも、ファミリーも、みんな蓮と同じ日差しを受けて、くつろいでいる。

 そのまばらな群衆が見つめるターフの真ん中で、ビッグビジョンが、さっき行われた返し馬の映像を一頭ずつ放映していた。

 蓮はその様子を見ながら、既に決めている馬券の買い目を考察していた。

 サラブレッド達は、走ることを宿命にこの世に生を受けた。本来、サラブレッド達の先祖が捕食者達から身を守る為に身につけた、走るという武器を、人間が禁断である神の領域に足を踏み入れ、芸術の域にまで到達させた。

 サラブレッドは、その為、この世に走ることの為だけに生を受ける。走って、競争に勝ち、そして種牡馬、繁殖牝馬として、自らの血を、後世に残す。

 そうして受け継いだ血を、まるで襷のように繋ぐために、彼らは走り続ける。ただ只管自らの意思もなく、背中に乗せた騎手の指示通り、ゴール版を目指す。

 サラブレッドは、そうやって、生きる価値を引き継いでいくのだ。

 蓮は、返し馬のVTRを見つめながら、金田の細い腕が握る手綱を自分も握っているような気持ちになっていた。

 他のどの馬より、どの騎手よりも凜々しく、美しく、そしてかっこよかった。

 金田の細い身体のラインが解らない程に膨れているのは身体に身につけた防具と、斤量調整の重りのせいだろう。

 薄い緑のヘルメットを被り、深緑と赤のチェック柄になった勝負服を着ている。赤と緑が、それぞれを補完して、鮮やかに見える。

 返し馬のVTRが流れている間も、向こう正面のスタート付近ではグルグルと馬を周回させて、騎手達は待機していた。

 日が陰り始めていた。それまでぼかぼかとしていた陽気が、徐々に涼しげな空気に変わり始める中、蓮はスタートの時を待ち続けていた。

 貴は、先程の和やかなムードとは一変して、新聞とスマートフォンを交互に見て、やけに真剣に馬券を選んでいる。

 真剣に競馬をやることの多い貴も、ここまで本気になっていることは珍しかった。

 蓮はどうしたのかと聞けない自分が空しかった。

 それでも、貴はそんな蓮の想いを全く無視する様に、只管新聞を読みあさっては、スマートフォンを見て、時々どこかに電話を掛けていた。

 暫くして、会場に拍手と歓声が沸き上がった。スタートの合図を送る係員が、画面に映し出されたのだ。

 ゆっくりとクレーンに持ち上げられて、それをみている観客の拍手の音が鳴り響く。

 その音は、まるでマスゲームの様に同じ方向に小刻みに空気を裂いていく。蓮は、その恐ろしいまでの高まりの中で、金田を見守る。

 依然として何かに取り憑かれたように新聞と睨めっこを繰り返す貴の表情は、その小刻みな手拍子に後押しされるように強ばっていき、蓮はそんな貴を心配した。

 やがてビジョンに映し出された係員が、クレーンの頂点に立つと、何もない空と大地の間に、助っ人外人が軽々と放ったホームランの様に、ファンファーレのラッパの音が、重さ無く飛んで行った。

 そのラッパの音は、酔っ払いの軽い気持ちも、カップルの浮ついた心も全て乗せて、ぶっ飛ばしてしまったように、さっきまでばらばらに騒いでいた群衆の注目は、スタートのゲート前で周回を続けるサラブレットに一斉に集まる。

 その群衆の、揃った意識とは正反対にタカは、鼓動が一人別リズムを刻んで、高まっているように思えた。

 その数秒後には急に立ち上がり、蓮に何か訴えかけ始めた。やはり声は聞こえないのだが、青筋を立てて、手に持ったジントニックをぐいっと飲み干すと手を大きく動かして、叫んでいた。

 酔っ払いや、発狂した人に慣れているのか、不自然な程に周りの観客は落ち着いてコースを見つめている。

“落ち着け貴、どうしたのか落ち着いて説明してくれ。”

 蓮はまた貴にそう言おうと思ったのに声が出なかった。

「畜生。」そう貴の声が聞こえた。

“え?”

 蓮はその言葉の意味を理解できぬまま、走り去るタカの背中を見送った。

 その数十秒後、さっきまで一緒に見下ろしていた群衆が一カ所だけレースとは別に騒がしくなって行くのが解った。

 蓮は意味も解らずただそれを見下ろしている。

 群衆が密集する中、モグラが土をかき分けて動き回っているように、一筋のうねりが生まれている。

 その正体は、間違いなく貴だった。

「タカー!」

 今度は声が出た。蓮は何故だか解らないが、叫ぶことしか出来なかった。自分の身体が椅子に縛り付けられている訳でもないのに力が入らない。

 良く見ると、自分の身体は既に存在していない。ただその群衆がそこにあるだけで、周りのスタンド席もみんな消えていた。

 貴が群衆を掻き分けている間にファンファーレは鳴り止み、サラブレッド達はゲートインを待つ体制に入っていた。

 1頭1頭それぞれの用意された枠に収まっていく。

 まただ、見えない距離にいる筈の金田の顔が見える。ゴーグルの下から覗く鼻と口が、ぐっと締まり、緊張を隠し切れていない。

「ふざけんじゃねぇぞ、こらぁ!」

 群衆がざわめいている。

“貴、一体どうしたんだ。”

 どんどんと溶けていく自分の身体、異様に近く見える金田の顔、乱心の貴。

蓮は、ただその情景を見守ることしか出来なくなっていった。

 係員がとうとう金田の馬のところへ歩み寄り、ゲートへ導いた。まるで、これから処刑される死刑囚の様に暗く、悲しい表情で導かれる芦毛の馬の横で、死に神を乗せた黒毛馬が鼻息を荒く、首を振っている。

「キャー!」と悲鳴があがった。

 モグラの様に突き進むタカの周りがどんどん騒がしくなっていく。

 金田があんなに近く見えるのに、貴の方は全然見えない。見えないどころか、うっすらと空気に観客のドットが溶けていくようにすら見える。

 そんな不可解な現象の中、ゲートインはすんなり終わった。実況の声がノイズの様に会場の空気に色を付ける。

 暫くして、ゲートインが終わった事を実況が告げると、その実況の通り、ゲートから係員が離れ、扉が開くと供に、各馬が一斉に飛び出した。

 もちろんその中に金田も居た。一頭、よく目立つ芦毛の馬体は、出遅れたことをすぐに気付かせてくれた。

「ふざけんじゃねぇ!金返せ!」

「女のくせに!」

「女ジョッキーなんて辞めちまえ!!」

 どこかで聞いた台詞だった。蓮はもはや自身の存在がどうなっているかなど、気にしていなかった。

 この後の展開が予想出来た。貴はそれを何らかの方法で予知していた。

 予知をして、それを止めようと急いでいる。

“貴、今俺も行くから待ってくれ!”

 蓮はそう叫んだつもりだった。動かぬ身体を一生懸命動かそうとする。でもやっぱり動かなかった。やっぱり蓮の身体はもう存在していない。

 金田は依然として馬群の最後方を追走する。金田の乗る悲しい顔をした芦毛の馬は、とてもこの後剛脚を披露し、トップに躍り出るような雰囲気や迫力は感じられない。

 それなのに、金田は、何か運命に立ち向かうような意固地になった表情をしている。

 きっとその表情を見つめていられたのは、蓮だけだったに違いない。

 観客は、そんな金田を野次り、自分の買った馬券の行方を見つめた。

 実況が、淡々とレース状況を発表していく中、とうとう貴がコースと観客を分ける策にまで到達した。

 到達してようやく蓮は貴のおかしな帽子を見つけることが出来た。

 貴はそのまま策を乗り越えようとして、警備員と一悶着起こしている。周りにいる観客も一緒になってタカを取り押さえて、引き戻す。

 貴は顔を真っ赤にしながら蓮の時と同じように何かを訴えている。貴は自分の勘を信じているのだ。

 当然の様に誰も彼の言葉に耳を傾けようとはしない。

 蓮は、コースと、貴を交互に見続けた。

 既に馬群は第3コーナーに差し掛かるところだった。その時、観衆は、貴へ向けるものとは別に、歓声を上げる。

 金田が強引に追い抜きにかかった。悲しそうな目をした芦毛馬は、その悲しそうな目を鋭いものに切り替えて、吹っ切れたように快足を飛ばす。

 蓮にはその表情が怒り狂っているように見えた。自分の運命を呪っているように、背に乗せた人間の指示に自棄になった様に。

「いけるぞー姉ちゃん!」

「そのまま飛ばせ、飛ばせー!」

 ぐちゃぐちゃに混じり合う欲望にと酒に塗れた言の葉が、泥水の如く飛び交う。蓮は貴の存在も忘れて、勝負の行方に目を向けた。

 その時貴は、警備員に罵声を浴びて、強制的に策の内側に引きずり混まれていた。

 貴は何とか自分を縛り付ける腕を振り解こうと藻掻いている。それを強靱な警備員が取り押さえている。

 貴は、途切れそうな自身の意思を、無理矢理燃やそうと叫び続けて、それでまた観客の酔っ払いに怒鳴られている。

 金田の騎乗する芦毛馬は、ゆらゆらと、幽霊船の様に身体を動かしながら、すいすい馬群の先行集団近くまで位置をあげていった。

 金田は身をかがめて、風になろうとしている。

「いけー、姉ちゃん。一等とれるぞ!」

 観客のボルテージが上がっていく中、蓮はゆっくりと貴の近くまで舞い降りて行った。

 貴は腕の関節を極められたまま、顔を真っ赤にして蹲っている。

 植えられた木々や、芝生の緑が、真っ赤に変色した貴の顔面にまばらに付着して、金田の勝負服の様になっている。

 蓮は貴に声を掛けようとしたが、どうやらもう口すらも無くなって、目だけになってしまっているらしい。

 貴も、蓮に全く気付いていない。

 目だけになった蓮は、諦めて、コースに視線を移した。

 その時、蓮はやはり見えない筈の距離にいる馬群の中にいる金田の姿がくっきりと映った。

 金田が、芦毛馬を先頭に立たせようと手綱を再度操った時、馬群に死に神の如く潜んでいた漆黒の馬体がゆっくりと斜行した。

 金田の表情が鮮明に、そしてスローモーションの様に目だけになった蓮の瞳に映し出される。

 驚愕と、戸惑い、焦りと恐怖。あらゆる感情が、飲みかけのキャラメルマキアートの様に混ざり合い、本来の色を失っている。

 蓮は叫んだ。言葉に出来ない想いを確かに叫んだ。

 一瞬金田は蓮を見たような気がした。蓮は再度何かを叫ぶ。それに金田は一言「助けて。」とだけ返した。

 金田の、馬に比べたら圧倒的に小さな身体が、馬群の中にひらりと舞い落ちる。

 “ポテポテ”でオーナーが放った言葉が蘇る。

 金田の身体は、何十と振り落とされる、特大のホースシューによるスタンプの嵐を満遍なく浴びせられた。

 観客の声が蓮の耳から遠ざかり、ただ只管に、大量の木材が軋みながら砕け散るような音と供に、鮮血を迸らせて、原型を失っていく金田の姿だけがくっきりと目に映っていた。

 そのあまりの恐怖に、サラブレッド達は奇声をあげて走り去っていく。その奇声に引っ張られるように、会場中の女の金切り声が飛び交って、他の観客達も怒号や、戸惑いの声を上げていく。

“蛍!!!”

 蓮の祈りは、もはや祈りでも何でも無くなっていた。

 完璧なまでの快晴となった空は、太陽が大地に溶けていく過程で真っ赤に染まり、その悲劇をとことんまで演出した。

“うああああああああああああああああ!!!!”

 蓮は自身の悲痛なまでの心情を、音にも形にも表せない状態で、向ける先の無い辛さと戦っていた。

 いつの間にか、真っ赤な空は、原型を無くした金田の色にそっくりな雲に覆われ、突如大雨を降らせた。

 あり得ないほどの雨に、コースはみるみる水浸しになっていく。

 次第にスタンドも水に溢れ、観客が逃げる間も無く流されていく。

“嫌だ、助けてくれ、誰かー!”

 蓮はそう叫んだ後、その洪水に流された。

 あまりの苦しさに藻掻き飛び起きると、そこには蓮を見下ろす佐々木の姿があった。


「ねぇ、大丈夫?」

 自分のかけたペットボトルの水に顔を歪める蓮を、のぞき込むようにして佐々木はそう言った。

 ぼんやりとした灯りに照らされた天井に、蓮の視界は覆われると、その赤さが、さっきまで見ていた夢の景色と混同して、蓮の意識を数秒の間惑わせた。

それからのぞき込む佐々木の顔を見てすぐにさっきまでの出来事を全て悪夢として片付けられる事に気付き、安堵と幸せを感じた。

「水浸しになってるのになんで幸せそうなの?マゾ?」

 佐々木はからかっているのか、本気なのか今一判断の付かない表情で蓮にそう尋ねた。

蓮は「あぁ。」と曖昧な返事を返した。

「びっくりしたよ。ごめんね、ひっぱたいたりして。気を失っちゃうなんて思わなかったから。」

 そうだ、ひっぱたかれたのだ。蓮は思い出すと、一点顔に残る熱の存在に気付いた。それからその原因を作った自分の出来心を思い出すと、熱の塊が一気に顔全体に広がっていった。

「もう一回やりたかったならちゃんと起こしてくれれば良かったのに。それとも夜這いフェチ?」

 佐々木は意地悪そうに、歯を見せて笑った。今度は明らかにからかいの意図が見て取れた。

 その表情に蓮の中でまた佐々木への下心の熱が上がり始めようとしたが、カウンターの左が頭を過ぎると、下半身までその熱が届く事はなかった。

 それに、さっきまで見ていた金田の表情が、夢とは思えないほど鮮明に脳裏に焼き付いている。

「気を失ってたんだから少し横になっていた方が良くない?」

 申し訳なさそうにそう言う佐々木の指示に、蓮は素直にしたがうことにした。枕がびしょびしょに濡れてしまっていたのでひっくり返し、そこに自分の頭を置いた。

 横になり、天井の薄明かりが視界を覆うと自然と夢で見たシーンと重なって、脳みその中で早送り再生される。

 何度も、何度も踏みつけられて原型を失いながら、泥と血に染まっていく金田の悲痛な叫びが聞こえてくる。その叫び声に蓮の心臓は抑えられない様に鼓動を大きくしていく。

 佐々木はそんな蓮に寄り添うようにベッドに横たわった。身体全体がしっとりと湿っていた。

 蓮は佐々木の頭を少し撫でて、自分の頬を寄せた。そうやって蓮は自分の壊れた心の修復を試みてみたが、何度佐々木の身体を撫でてみても、その傷口にぴったりと収まる事は出来なそうだった。

「どうやら今日はもう疲れちゃったみたい。」

 その言葉が2人にとって、一番納得のいく言葉で、応急処置にはぴったりな表現だった。


 早朝のホームは、澄み切った空気の中でアナウンスの声がエコーのかかるくらいに透き通っていた。

 駅にはまだ人は殆どいない。いるのは仕事終わりのキャバクラ嬢や、ホスト、酔っ払って今日も講義をさぼる予定の大学生くらいだ。

「今度は夜這いプレイしようね。」

 佐々木は化粧の少し崩れた顔でニコニコ笑いながらそう言うと、最後にキスをしてホームに向かう階段を何事も無かったかの様に登っていった。

 蓮は一応佐々木の姿が見えなくなるまで彼女に視線を送り続け、そのハイヒールが音と姿を消した頃に、自分の乗る電車のホームを目指して歩き始めた。

 ちらほらと駅をうろつく夜の住人達を横目に、ホームへのエスカレーターを登ると、まだ深海の様な色をした空が蓮を出迎えた。

 その神聖さが、蓮の弱った心をより静かにしていく。

 蓮はやってきたがらがらの電車にふらふらと乗り込み、半分崩れるように優先席に座ってスマートフォンを開いた。

 殆ど乗客のいない車内で、蓮は列車の車輪と線路の刻む一定のリズムに耳を傾けていた。

 その無意味なリズムが、蓮の鼓膜を何度も刺激しているうちに、段々と夢の中で金田を踏みつけた蹄鉄の音にリンクしていく。

 過ぎ去った幸せを他人に奪い取られた時のように、後悔の様な、怒りの様な念が押し寄せてくるのを感じた。

 その理由を蓮が自問自答で探しているうちに、列車は着々と進路を進めていき、やがて上野にたどり着いた。

 上野駅に着いて扉が開くと、これから仕事に行く人と、仕事が終わった人がぐちゃぐちゃになって列車の中になだれ込んできた。

 それを見て蓮は疲れて眠ったふりをすることにした。もしも老人や、身体障害者が自分の前に現れても立ち上がらなくて済むように。家路に着くまでのもう数十分だけ、他人を見ないでいたかった。

 そうやって目を瞑ったつもりなのに、蓮の脳は、蓮の意思に反して色んな事を考えようとフル回転しはじめた。

 佐々木が日々戦っている敵は、何か。どうやったら佐々木ともう一発出来たのか。夢の中に現れてまで貴が言おうとしていた事は何だったのか。金田は蓮に何を言ったのか。どうしてぐちゃぐちゃに踏みつぶされたのか。

 蓮の頭はノックダウンした反動で、アホみたいに次々に疑問ばかり産み続けた。蓮はその疑問ごとに、自分の答えを探そうとした。

 それでも、自分の出す答えの一つ一つが、どうしても自分を納得させる為の要素を持っていて、虚しさばかりが安い定食屋の味噌汁の味噌かすみたいに、後味の悪さを残していく。

 蓮はその味噌かすみたいな虚しさを、無理矢理飲み込んでいけば、虚しさで自分自身の心がぶくぶくと太っていって、いずれ破裂してしまう様な気がして、処理できずに溜めてしまっていた。

 何回か蓮の横に座る乗客が変わったような気がする。目を開けていないから今どこの席が空いているかも解らない。

 少なくとも足音や振動で、目の前に人が立っていることや、隣に誰か座っているのが解る。

 汗臭さから、きっと男だと蓮は思った。これが女だったらちょっと引くなと思った。目を開けて見た。女だった。

 蓮はびっくりして目をしっかり見開いてしまった。

 誰かに、寝ていたふりをしていた事が悟られないように自作の眠気眼で周りを見渡した。

よく見ると丁度自分の降りる駅だった。

 慌てて立ち上がり、顰蹙を買うくらい無理矢理扉に向かって歩みを進めた。

 降りたホームは、まだ人が少なかった。それなのに物凄く重い視線を大量に浴びている気がした。

蓮はすぐにその正体に気付いた。走り去る電車の乗客の目が、全て自分に向いている気がしたのだった。


 

6章

 蓮は佐々木と別れた日、自宅に着くとスマートフォンに一通メッセージが入っていたのに気付いた。

 アプリを開くと、メッセージを既読のまま放置していた昔付き合っていた女からの返信だった。

開くと画面にはただ一言“元気だよ。”とだけ帰ってきていたので、少しだけがっかりしたが、きっと帰ってこないだろうと思っていた分、素直に嬉しかった。

 蓮はその素っ気ないメッセージに返信をすると今度はすんなり帰ってきて、今日は休みだと女は言った。

 蓮は、“よかったら今日会わないか?”と返した。この機会が最後かも知れないと直感で思ったのだ。

 結局、そのメッセージには暫くのあいだ既読が付かず蓮の心をすり減らしたが、昼過ぎにようやく返信が帰って来た。

“いいよ、どこで?”というメッセージには温度が感じられない。

 蓮は咄嗟に“池袋東口に6時でどう?”と聞いた。女はすぐに“いいよ。”と返してきた。

 そのメッセージ通り蓮は6時に池袋東口に向かった。

東口は昨日と同じくらい人でごった返していたのに、佐々木とは違いすぐにその女の居場所を確認することが出来た。

 なぜなら女は、格好の悪い水色のキャップを深く被り、サングラスとマスクで顔を覆っていた。更に白いワイシャツの上に黒いカーディガンも羽織っていたのですぐに目に付いた。

「久しぶり。」

 蓮は駆け寄ってそう呼びかけた。

「静かにして。」

 女は、蓮にそう要求した。あまり周りの人間に見られるのを好んでいないのが良く解った。ただ、逆に自分の顔を隠そうとしている御陰で、逆にミーハーな埼玉からやってくる女子高生の注目を浴びる結果となっていた。

「あぁ、悪い。とにかく話したいことがある。店を予約してるから行こう。」

 蓮がそう言って女の右手を取ろうとした時、女は素早く右手を引いた。蓮は女の素っ気ない態度に、急に気不味さを感じた。

「自分で歩けるから。」

 酷い言い訳だなと蓮は思った。女と自分との間に生じている温度差が、思いの外大きいことが解った。

 その溝を残したまま、蓮は昨日と同じ道を女と歩いた。

昨日は蓮の左手に佐々木がへばりついていたが、今日はそれがない。同じ道が広く、軽く、そして寒く感じた。

 女は蓮にお構いなしといった態度で両手をジーンズのポケットに突っ込んでいる。

「ここだよ。」と言って蓮は昨日と同じ店を紹介するまで、全くの他人のように歩いていた。

昨日と同じ店は、店員がやかましかったが、なんだかんだ個室でのんびり出来るので、少し気に入っていた。

「ごゆっくりどうぞ。」と言って店員は個室に2人を案内するとすぐにいなくなっていった。

 女はそれを確認し、格好の悪いキャップとサングラス、マスクを顔から外した。きめ細かい綺麗な肌に、細かな擦り傷が霧吹きでかけたみたいに右頬に刻まれている。

「痛そうだな。」

 女はむすっとして蓮の言葉を聞き流している。程よく肉の削げた顔に、機嫌の悪さを前面に出している。

「見てのとおりよ。」と言われ蓮は余計な事を言ったと思った。

 蓮は自分がこの女と付き合っていた頃を思い出すと、女の表情がどこか険しくなったような気がしていた。

 身体は相変わらず細く、そして小さいままだったが、以前よりも圧力が増していた。

 女はカーディガンを脱ぐと、その下に着ていた七分丈のシャツの右袖から、ちらりと包帯を覗かせた。それが蓮の目的だった。

 女は細く、それでいてたくましい指で店員の持ってきたおしぼりを摘まむと、執拗なまでに自分の掌を拭いた。

 若い女にしては短く整えられた爪と、頬までしかない頭髪が、余計に蓮へ威圧感を与えた。

 蓮は何とかしてその包帯へ話のベクトルを運びたかったが、威圧感に若干の抵抗を感じていた。

 ドリンクを注文してから店員がそのドリンクを持ってくるまでの時間が、佐々木のときの何倍にも感じる。

 女は兎に角機嫌が悪そうだった。店員の持ってきたウーロン茶をごくごくと飲みながら自分のスマートフォンをいじるその姿に、蓮は言葉を掛けるタイミングを見失いかけていた。

 あまりにも会っていない期間が長すぎたのだと自分に言い聞かせるのがやっとで、募る話が募ったまま終わってしまいそうだった。

 個室には相変わらず和室に会わないサザンオールスターズが流れている。曲目は“いとしのエリー”。洒落にならなかった。

 女はもうそろそろウーロン茶を飲み終わってしまいそうだ。蓮は仕方が無いので無理矢理話を切り出した。そうやって無理矢理切り出した言葉が、不器用な笑顔と供に出た「最近どう?」だった。

 蓮は、腋の下が湿るのが解った。

「どうって?順調よ。」

 そういう女のあまりに雑な嘘が、蓮を吹っ切れさせた。

「順調?本当に?」

「なんで嘘をつく必要があるの、順調よ。」

「悪い噂を聞いた。」

 蓮が突然に様相を変えてそう切り出したので女は不思議そうにさっきまで威圧感に満ちていた目を、ころっとさせて蓮を見つめた。

「きみが順調だったらこうやって心配して会おうと思わないよ。」

 女は驚きが隠せないまま、蓮を見つめている。2人の間に空いた時間と気持ちの間合いに、誰かの笑い声が不用意に飛び込んでくる。それでも蓮と女の間合いをぶちこわす事は出来なそうだった。

 女は、なんとか蓮に言葉を返さなければと答えを探している。蓮は、その様子をみて、自から言葉を発した。

「久しぶりに会ったからいろいろ話したかったんだけど、僕が一番話したかったのは、その右腕の事だったんだ。」

 蓮がそう話すと、女は七分丈を無理矢理のばして隠した。

「きみと出会ったばかりの頃、僕はきみの仕事が危険なのは知っていた。とてもかっこいい仕事だけど、女でやっていけている人も少ない仕事だってのも知っていた。だけど、今回きみは危うく命を落としかけた。」

「いきなり会いたいとかいうから何かと思ったけど、何がいいたいのかよく解らないよ。」

 女は目を細めて、それから再び鋭く光らせて、蓮を睨んだ。蓮は危うく怯んでしまいそうだった。

「これまで、僕はきみの夢を尊敬して応援してきた。でも命の危険を冒してまで追うべきものかも解らない。だからもうそろそろ普通の女性に戻ったらどうだって思ったんだよ。この間のスポーツ新聞の一面、金田蛍落馬の記事を読んだ時にね。」

 蓮の言葉に女は怒りに近い衝動がこみ上げてくるのを押し殺していた。その怒りが今にも溢れそうになった瞳は熱くぎらぎらと揺らめいている。

 それも無理は無かった。蓮がそうやって対峙している女は、かつて蓮が愛し、そして別れた女であり、こうやって正体を必死に隠しているのも、紛れもない、スポーツ界のアイドル金田蛍本人であるに他ならなかった。


 蛍と蓮は同じ中学出身で、蛍は蓮の一つ上の学年だった。中学在学中は、全くと言って良い程関わりの無い2人が付き合うきっかけになったのは、蛍が騎手を試みて競馬学校を卒業したその卒業祝いパーティーに蓮がたまたま参加したのがはじまりだ。

 当時大学に入って酒を覚えたばかりの蓮は、まったく知らない女の、何祝だかも解らないパーティーに参加することに何も抵抗を感じていなかった。

 それどころか、久しぶりに地元に帰って懐かしい顔と再会できるとあって、楽しみですらあった。

 会場は中学から少し離れた駅前にある、東京では絶対に見かけないご当地チェーンの居酒屋で、同じ中学卒業のメンバーが、同窓会も兼ねて30人近く集まって蛍を中心に杯を交わした。

 どんどん酒が進むにつれて、しょんべん垂らしの頃から知っているような女達ですら魅力的に見えてくる中で、蓮にとって酒を飲まないで凜と咲いていた蛍の姿は際だって美しく見えた。

 蓮はそんな蛍に無謀にも向かっていこうと、クソみたいな勇気を必死に絞り出して声を掛けた。

蛍はそんな蓮の気も知れずににこりと笑って「蓮君だっけ、はじめまして。」と言った。

その笑顔が、マイク・タイソンの高速フックが対戦相手の顔面を打ち抜き意識をリングの外に吹っ飛ばすように、蓮の体内のどこかにある、きゅんとする部分をぶち抜いた。

 その後蓮はどうしても金田のことが忘れられなくなり、後日友人の友人の友人くらいにお願いしてその時に聞けなかった金田の連絡先を何とか手に入れた。

 すぐにスマートフォンにその連絡先を一文字ずつ打ち込んで、すぐにメールを送ってみた。それなのに全く音沙汰もなく日々が過ぎていき(といっても2日くらいだが)やっぱりいきなり連絡しなければよかったと、自分の汗の匂いが染みついた枕に顔を埋めた。

 それからまた数日したある月曜日、蓮は面白くも無いマクロ経済の講義の途中、あくびをしながら見たスマートフォンの中に、自分の目を疑わざるを得ない表示を発見した。

 金田からメールの返信があったのだ。

“連絡くれていたのにごめんなさい。新しい仕事は忙しくて、返せませんでした。私も関東にいるから、時間が合えばお食事でもいきましょう。”

 その瞬間、その日の講義は蓮にとって最早雑音以外の何ものでもなくなった。

 蓮はすぐに連絡を返して、翌週の月曜日に会いましょうとアポを申請した。

“そうだね、是非。”と金田は返してきた。

 現実の出来事とは思えないほどに喜び、他の友人に報告しまくって鬱陶しがられた。

 そんな友人達の目を、当然気付いてはいたものの、溢れ出る歓喜のエネルギーを抑える方法が蓮には解らなかった。

 休み時間にコンビニのATMに行くとバイトで貯めた少ない金を引き下ろしに行った。

デートに行く服を買いにいくから選んでくれという他力本願きわまりないお願いに呆れかえる女友達に何度も何度もお願いして、アイスを奢ってようやく近くの繁華街に付いてきて貰った。

実際に女友達は、アイスを食っただけあって結構真面目に服を選んでくれた。

蓮が「こっちのがよくね?」とか失礼な口出しをすると「いや、それは女ウケがよくないと思う。」と平気で返してきて、それが蓮には勉強になったし、実際有り難かった。

蓮は、でっかい紙袋に自分では買わないような洋服を一式ぶら下げて、満足げに女友達に手を振った。

女友達は「頑張れよ~」と言いながら明るく笑ったので、蓮は何だか解らないが、不思議な自信が付いた気がしたのだった。


蓮は、講義の時間になると友人に「今度この娘とデートをするんだ。」と言ってスマートフォンの画面を見せた。

 友人達はスマートフォンに写る蛍が、騎乗馬に跨がる姿を見て「蓮、いくらモテないからって馬はやりすぎだぞ。」とからかった。

「ちげぇよ、この乗ってる女の方だって!」と言うまでが、大体決まったパターンだったので、蓮も面白がって話していた。

 友人は当然、どこで知り合ったんだとか、もうやったのかとか、普通の女とどう違うんだとか聞いてきたので、蓮は付き合ってもいないのに、どんどんその気になっていった。

 蓮がどんどんその気になっていったある日、貴に上野で会おうと急に呼び出された。

 平日の夕方、梅雨にもうじき入ろうかという時だったので、天候はどんよりとして、アメ横もどこか元気なく沈んでいた。

 蓮は鬱陶しい湿気から少しでも逃げようと、短くカットされたチノパンを履いて、上はシャツを羽織っただけで出てきたのに、それでも湿気があると、気持ちが悪かった。

 いつも通り貴は10分くらい遅れると連絡をしてきて「悪ぃ、悪ぃ。」と申し訳なさそうに30分遅刻してきて合流した。

「あのな、この間ブランド鞄売ってる店の社長に連れて行って貰った韓国居酒屋がめっちゃ旨かったんだ、行こう。」

 そう言って貴は中国人がやっている串焼き屋という暖簾を下げた店に蓮をつれていった。最早何屋か全く解らなかったけど、この時点で大抵蓮は楽しい気分になっているのである。

「イラシャマセー」

「ママー!またきたよー。」

「オー、タカチャンゲンキネー。オトモダチー?」

「そう、蓮って言うんだ。」

 蓮に初めて中国人の知り合いが出来た。TVやネットで散々悪いイメージばかり膨らんでいたので、拍子抜けだった。

 店はたぶん昔誰かがやっていた店を居抜きで使ったんだろうなと思うような、和式の内装だった。寿司屋のネタケースもある。蓮はきっと外の暖簾もそのまま使ってんじゃねえのかなと思った。

 ママは何も頼んでないのにぽんぽん料理を出してきて、そのどれもが酒を飲むにも、腹を膨らませるのにもぴったりだった。

 残念ながら串焼き屋なのに、串焼きは殆ど出て来なくて、中華ばっかりだったけど、蓮が一番好きだったのは、すこしピリ辛に味付けされた焼きそばで、ママが出してきたのとは別に注文した。

「旨いだろ?」

「ああ、最高だ。」

 貴はいつも蓮の期待を遙かに上回って裏切ってくる。それが普通で、決してそんな意図が無いと言わんばかりに、いつもそうだった。

 やがて店には、すこしださいポロシャツをきた男が1人入ってきた。ママの知り合いの中国人だ。

 その男は得体の知れない酒を、理解不能な中国語で注文して、ママも中国語で話しながらそれを提供した。

 ママはとっても優しかったのに、中国語で話す時はマシンガンを発射するように爆裂おしゃべりになった。

 その爆裂おしゃべりをしている間は、蓮も貴も仕方が無いから2人で話していたけど、ママは時々蓮達を気遣って日本語ではなしかけてきた。そういう時のママの日本語は、中国語マシンガンの熱を帯びていたから、やっぱりマシンガンだった。

 そうやって楽しい酒を飲んでいると、知らない間に店は中国人だらけになっていて、ガヤガヤと騒がしくなっていた。

 蓮は、きっとこのまま飯を喰らっていたら、突然どこかでヒートアップした客が、ジャッキチェーンに殴りかかり始めて、カンフーの乱打戦になっちゃうんじゃないか、そして中華料理まみれになってしまうんじゃないかと思った。

 そんな幻想を思い浮かべながら食べるママの料理は、本当に3時間も4時間も食べていられた。

 貴は飯より酒だと言って、ビールとレモンサワーを交互に飲んで、たまにウーロン杯を頼んだ。

 蓮は、顔が赤くなりはじめた貴に、蛍の記事を見せた。

「おー金田蛍じゃん。なかなか勝てないけど、可愛いよな。俺、こいつ好きなんだ!」

 そう言ってから貴はレモンサワーを口に含んだ。その表情には、レモンサワーへの気持ち以外含まれておらず、蓮の言わんとしていることを、まったく予期していない。蓮は暗闇に足を踏み入れる気持ちで切り出した。

「マジで?お、俺さ、こいつと同じ中学だったんだ。」

 貴はレモンサワーを酸っぱそうに飲み干すと、目を見開いた。

「うっそ・・・。すげえじゃん!」

 何も疑わず、蓮の言葉にダイレクトに驚いた顔で、貴はそう言った。だから蓮は嬉しくなって、すぐに話を続けた。

「しかも、しかもな、こんどデートするんだ!」

 貴はレモンサワーをママにもう一度注文してから蓮に握手した。

「サイン、頼んだぞ。」

「え?嘘だと思わないの?」

「なんだ、嘘なの?」

「いや、マジだけど。」

「いよっしゃ!いつか俺にも会わせてくれよ!うらやましいなぁ。」

 ママがレモンサワーを貴に持ってきた時、貴はママにその話をした。ママは金田蛍が何だか結局解らなかったみたいだが、最後は貴と「ホタル、ホタル」と言って盛り上がり始めた。

 だから蓮も一緒に騒いだ。騒いで、蓮もレモンサワーを飲んだ。滅茶苦茶旨いと蓮は思った。

「でもさ、貴が金田蛍の事好きだったとは意外だよ。」

「そうか?」

 貴は腹もアルコールも一杯といった感じで、たばこを出して吸い始めていた。蓮はその煙の歪みが、現実の歪みであるのか、或いはアルコールが歪ませているのか判断が付かない。

「なんかさ、金田みたいな人間、好きなんだよ。自分があるっていうかさ、常識とか考えないやつ。」

 貴が口にたばこを運んで頬を凹ますと、たばこの先っちょが赤い筒状に輝いた。それからたばこを口から離して、天井に向かって汽車みたいに、煙を噴き上げた。

「前な、競馬場であいつのプロモーションビデオ見た事あるんだけど、あいつ言ってたんだよ。競馬が楽しいって。」

 蓮は、まだ蛍と付き合っている訳ではないのに、貴が蛍をあいつ呼ばわりしているのに少し嫌悪感を抱いた。でもそれよりも、自分の知らない蛍を貴が知っていることに、理不尽にも嫉妬していた。

「普通さ、楽しい事で生きていくなんて男でも大変だぜ。金田は才能があるんだろうけど、それでも凄いよ。かっこいい。だから俺は金田のファンなんだ。」

 貴はまたゆっくりとたばこの煙を含んで、横を向いて吐いた。

「だからいつか会って話してみたいんだ、あんな人間とな。蓮、お願いだ!頼んだぞ。」

 蓮は「おう!」と返事を返した。貴は嬉しそうにたばこを灰皿に擦りつけると、ママにウーロンハイを頼んだ。

 結局それからちらほらと店の中国人が帰っていくまで蓮と貴は飲み続けて、お会計をお願いするとママは「ヒトリ、ゴーセンデイイヨ。」と小声で囁くように言った。

 いかにも安くでいいよと言いたい感じだったし、2人は実際に安いと思った。だけど蓮にも、貴にも、本当に安いのか、ぼったくられているのか、その真相はさっぱりわからないのであった。


 月曜日、買ったばかりの洋服を装備した蓮は“予定通り”その日最後の大学の講義を欠席して蛍と待ち合わせた浦和に向かった。

「新宿とかの方が見るとこあるよ。」と言った蓮の言葉に、蛍は「人が多いところ苦手だから。」と断った。

 駅に降り立つと、あたりの風景は爽やかなオレンジ色の夕日に染まっていた。駅前のロータリーで待ち合わせよう、と蓮は言おうと思ってスマートフォンをいじっていたら、後ろからぽんとふいを付くように肩を叩かれた。

 振り向くと、つばの小さい麦わら帽子と、それから大きめのサングラスに顔を隠した蛍が立っていた。

 両手を手錠で縛られた様に茶色い皮の鞄をもって、長めの白いスカートの前に組んでぶら下げている。

 1週間眺め続けた写真の女性が目の前に立っている衝撃は、アイドルのコンサートに行ったときよりも衝撃的な経験だった。

 蛍は久しぶりに町を歩くと言って、物凄く楽しそうだった。蓮はその楽しそうな姿に便乗するかの様に自分の気持ちが高まっていくのを確かに感じていて、蛍が笑う度に、その笑顔に心をがっちりと握りしめられてしまっていた。

 蛍は、浦和にある、東京よりもかなり規模の小さな商業施設で、飾られている服を、本当に嬉しそうに見ていた。

 その嬉しそうな顔は、飲み屋でも、競馬場でも見た事の無い素朴で、優しい笑顔だったので、蓮は親しみを感じたし、こうやって会えたことに感謝をした。

 ウインドウショッピングをしていたときに、ふと蛍は、黄色が好きだと言った。四季の始まりを思わせる輝かしい黄色は、いつも心のスイッチを入れ替える時に見るといいのだと蛍は語った。

 蛍は黄色い柄の入ったTシャツを眺めながら鏡の前で合わせてみたり、他の洋服と合わせてみたりして、夢中になっていた。

 それからひまわりの付いた麦わら帽子を今被っていたものと変えたり、サングラスをとってみたり、兎に角自分の世界に入り込んでしまったみたいに夢中になっていた。

 それで結局何も買わないものだから、蓮には良く意味がわからなかった。

 その良く解らない行動の後も、それが何度か別の店で繰り返されて、蓮の時間感覚を失わせていった。

 1店舗だけ、蓮の為に寄った男物の店では、Tシャツが1万円とかして、大学生の蓮には少し高いかなぁと思わせたが、蛍が「これ似合いそう!」と勧めると、思わず財布の中身を確認してしまった。

 そうやって、理解不能で、濃密そうな、軽そうな時間を過ごしているうちに、蓮は蛍の輝きが少しずつ弱まっていくのを感じていた。

 いつもニュース記事でみていた蛍と、目の前にいる蛍が同じに見えない。何だか、明日大学の構内を歩いていたら、飯を食っている蛍に遭遇してもおかしく無いように思えた。

 それと同時に、蛍に抱いていた気持ちがより強固に、その弱まる光と反比例して、輝いていく。

 目の前にいる、この素朴な女の子が、普段大観衆を前に馬に騎乗して、広大なターフを駆け抜けているのかと思うと、にわかには信じられなかった。

 蓮はそんな“素朴な女の子”が、お腹が空いたと言うと、自分でも説明するのが困難な安心感を覚えて、レストランに連れて行ったのを覚えている。蛍はイタリアンレストランに入り、2種類のチーズが入ったピザを頼んだ。蓮は黄色が好きだからそれにしたのかと聞いたら、違うと普通に言われた。


「なんで貴方にそんな事を言われなくてはいけないの?」

 灯りの弱い空間で、2人の若者は周りのざわめいた空気に取り残されたかのように向かい合っていた。

 右腕に巻き付けられた包帯に左手の平を乗せて、蛍は言葉を放った。蓮はおしぼりを手に取り額を少しふいて、テーブルに置いた。

 初めて会ったときよりも威圧感が増していたのは、気のせいでは無かったようだった。何かが彼女をここまで変えた事実は必ずあった。しかし、それが蓮には解らない。

「怒らせるような言い方だったと反省している。でも、僕は今でもきみの事を心配して言っているんだ。」

 斜め下を向きながら蛍は怒りを収めようと必死になっているように見えた。蓮は取りあえずレモンサワーを飲んでみたが、ただ苦いだけで味がしない。

「きみは女性だ。女性には女性の人生だってあるし、それに、女性とは思えない程の成績も残したじゃないか。」

 一瞬はっとした様な表情を見せた後、蛍は唇を噛み締めた。

「貴方に言われることではないわ。それに私は競馬が好きだからやっているし、女だからとかそんな理由でやめたくないのよ。」

 薄暗い店内では、どこかで誰かが猿や野鳥のように、金切り声や笑い声をあげている。それが聞こえていない様に2人は互いを睨み合って動かない。レモンサワーの氷が溶けてカラン、と音をたてた。

「それに、女性の人生ってなによ。」

 蓮の頭に、いくつかのワードが煮えた鍋の気泡のようにぽこぽこ浮き上がって来たが、言葉を選び間違えたら大変な事になると思って、すぐには口を開かなかった。

 これが佐々木だったらすぐに言えただろうかと蓮は思った。同じ女なのに、どうして2人はこうも相まみえないのだろうか、と蓮を悩ませる。

 佐々木も、蛍も何かに悩んでいた。それなのに蓮は、いつも辛い社会で悩んでいるのは男で、人間関係に心をすり減らしているのも男だと思っていた。

 何故ならば、職場の机でお菓子をボリボリ貪りながら、人の不幸にかじりついている女性事務員達の脳天気な顔ばかり見ていると、いつもお客と接して、帰ってくれば上司の相手をしなければならない自分たち男と、到底釣り合わないと考えていたからだ。

 それに、兄の佑都の奥さんをみれば、女とはどれほど幸せなのだろうと思ってすらいた。

 でも今の佐々木を見ていたら、とてもそうには見えなかった。

「女にはリミットがあるの。」と語った佐々木の馬鹿な通説が、いかにも現実的で、真理に近いものに蓮には思えて仕方が無かった。

その蓮の学んだ偏見と言って過言ではない世間の提唱する“女の幸せ論”に、蛍は全く耳を傾けようとしない。

蛍の前にあるウーロン茶は、もう無くなっていた。だから蓮が注文するかと聞くと、少し鈍くうんと頷いた。

蓮は、自分の頭の中に浮かんだ女性の人生を表すワードが、全て自分の偏見を含んでいる可能性があって、それを口にすることにかなりの無意味さを感じた。

もしここで自分の思う女性の人生を語ることがあったら、果たしてどれほど意味がある事なのだろうかと蓮は考えた。そうやって考えているうちに、どんどん煮えたぎる頭の中のお湯が、浮かんでいたワードを、タマネギのようにどろどろに溶かしていって、やがてなくなっていってしまった。

蛍は次の飲み物が来るまでお手洗いに行ってくると言って立ち上がった。

一人取り残された部屋の中では、さっきまでのぴりついた空気が一気に逃げ去っていったように、明るくなった気がした。

蛍もきっと同じに感じているに違いないと蓮は思った。

だから蛍が帰って来たら、交代で蓮もお手洗いに立った。

「ちょっとお腹が空いた。」

蛍は戻ってくると、座るなりメニューを開いた。

 蓮は少し拍子抜けして見ていると「貴方も何か食べれば。」とメニューを蓮に向けてきた。正直蓮は何も食べる気がしなかったし、昨日も同じ店で食べていたので、少し参った。

「ちょっとふくれるものが食べたい。」

「体重大丈夫なのか?」

「女性に体重の事を聞かないで、失礼よ。」

 すこしニコリとしながら蛍はそう言った。蓮はすこしお腹が空いてきた気がした。

「マルゲリータピザがあるよ。」

 蓮はメニューの写真を指差してそういう。蛍はさっきまでの話が無かったかの様に、表情を弾けさせて「食べたい。」と言った。

 蓮は「じゃあ注文しよう。」と言って呼び出しボタンを押した。

「はい、ただいま~。」と言ってから数秒で鶏みたいな男が飛び込んできた。蓮を見て「毎度。」と意地悪に笑った。

 蓮は知らんぷりをして注文をすると、鶏みたいな店員は、適当に注文を繰り返して、飛び出ていった。

 蛍が「知り合い?」と不思議がって聞いてきた。

 蓮は首を振ってから笑った。

「会社でここを良く使うだけ。」

「そうなんだ。」と言って蛍は蓮のレモンサワーを少し飲んで酸っぱい顔をした。


 マルゲリータピザは、絶対にレンジでチンしたんだろうなと思わせるスピードでやってきたが、酒のお供には丁度良い。

 蓮は一切れだけ貰って、あとは蛍に渡した。

 蛍は「いいの?」と言いながら既にタバスコを満遍なく振りかけていたので、蓮は「タバスコ苦手だからね。」と言った。

 蓮の苦手なタバスコがたっぷりかかったピザを美味しそうに頬張る姿は、10年前に出会った時と何も変わらなかった。

 空調の風があるのか、僅かな空気の流れが酸味の効いたタバスコの匂いを蓮の鼻孔へ緩やかに届ける。

 蓮はくしゃみが出そうだったので、咳払いをして、ドリンクを飲んで誤魔化した。

「そういえば腕は痛むの?嫌だったら答えなくてもいいけど。」

 蓮はまるで黒髭危機一髪をやるみたいに聞いてみた。

 蛍は、伸びるチーズに夢中で、答えるまでに時間がかかっている。ようやくチーズに区切りがついて、残り少ないウーロン茶で流し込むと、コーラを頼んでから、蓮の質問に答えた。

「大丈夫よ。」

 やっぱり答えたくないのだろうか、と蓮は思ったが、そのまま蛍は回答を続けた。

「落ちたときに強くぶつけて痛めたんだけど、本当に運良く他の馬に踏みつけられなかったから、打撲だけで済んだ。」

 恐ろしい事を淡々と語りながら、またチーズとのじゃれ合いに夢中になっている。

「踏みつけられたらやっぱただじゃ済まないんだろう?」

 蓮は心配が抑えきれずに、タブーを犯し続ける。

「そうね、最悪なら、怪我じゃ済まないよね。」

「怖くなったりしないのか?」

 蛍は少し黙った。黙ったというより止まった。止まってから、何か考えがついたように話し続けた。

「もちろん怖いときもあるけど、でも楽しいから。馬と気持ちが通じ合って、他のペアとの勝負を勝ち抜いた時の気持ちよさはきっと貴方には想像出来ないと思うよ。」

「そうだと思う。」と蓮は答えた。

「それにね、本当に怖いのは・・・」

 そう蛍が言いかけた時に、鶏が空気をぶちこわすようにコーラを持ってきた。

 蓮はがっかりしてはぁと息を吐いた。

「これからお楽しみでしたか?どうもすみません。お兄さん、もてますな~。」と鶏はにやにや笑っていたので、蓮は失礼と解っていながら手で払いのけた。

「うひひ、失礼します~。」と鶏は扉を閉めて、別の部屋に飛んで行った。

「新しい彼女、出来たの?」と蛍は蓮に尋ねた。

 蓮は「ああ。」と言ってから、しまったと思って金田を見つめた。

「何焦ってんの?大丈夫よ、もう貴方と私はそういう関係じゃないいんだから。」

 そう言って蛍はコーラをグビグビ飲み始めた。

 蓮も、そりゃそうだと思って水割りになったレモンサワーをちょびっと飲んだ。

「新しい人はどんな人なの?」と言われて、蓮は照れくさそうに答えた。それを蛍は嬉しそうに聞いているから、複雑な気持ちになっていった。

 蛍が着々と平らげて白くなっていく丸皿はまるで、蓮の気持ちのゲージのように見えた。

 勿論、どんどん減っているのだ。

 最後の一枚を平らげて、コーラも全て飲み干した蛍の顔は、皮肉なことに、蓮と再会したばかりの頃とは全くの別人の様に清々しい表情に満ちていた。

 だから蓮も気になって、聞いてみた。

「きみも新しい人をみつけたのか?」

 蛍はにやりとしながら首を振った。

「貴方と別れた時からいないわよ。忙しくて、恋愛なんて考えてられない。毎日が楽しすぎるのよ。」

 その言葉に嘘はなさそうだと蓮は思った。理由はわからなかったけれど、蛍は何かに縛られたり、追われているような悲壮感が感じられないのだ。

 その証明に、蓮の目を自然体で見つめながら自信たっぷりの顔をしている。勝負の世界で生きてきた事を思わせる、凜々しさみたいなものこそあったものの、その反動で、うれしさを表現するときは、爆発した。蓮はその爆風に、揺れていた。

「いつかきみがターフを走り抜ける姿を生で見に行きたい。」

「おいでよ。新しい彼女さん連れてさ。いつでも待ってるよ。」

 蓮は理解不能な寂しさを感じていた。自分でもその不条理に気付いていながら、説明が全く出来ないのである。

 蛍の持っている、佐々木にも、蓮にもない何かにぐっと惹かれたのだ。蓮はその何かが知りたかった。

「本当に?いつがいいかな。」

「うーん、まだ解らないけれど・・・」

 壁に飾られたキキョウの花に目を向ける。釣られて蓮もキキョウを見たが、昨日の様にメッセージを受け取ることは出来なそうだった。

「天皇賞。」

「天皇賞!?」

 蛍はこくりと頷いた。

「天皇賞に騎乗出来そうなのか?」

 蛍は自分の鼻の前で人差し指を立てて少し怒ったような表情をした。蓮はごめんと謝った。

「まだ解らないんだけどね、もしかしたチャンスが廻ってきそうなの。馬は内緒だけどね。」

 蓮はひさしぶりに感じるわくわくとした感情に胸が躍った。自分の一番大好きなレースに、蛍が騎乗して出馬するのだ。それを一観客として生で応援できる日が来るとは思ってもいなかった。

 目を閉じて、ゆっくりと天皇賞秋のカラーである紫のゴール版を想像する。

 大観衆が馬や騎手を鼓舞する。爽やかな秋の風がその一人一人の熱気とターフの香りを巧みに混ぜ込んでいく。誠に爽やかで素晴らしい情景だった。

 目を開けると、蛍はコーラを飲み終えて一息ついていた。ピザが彼女の尖ったものを丸ごと包んで胃に持って行ってくれたようだ。

 店内の音もだいぶ落ち着いて来て、静けさが紛れ込んでいた。

「もしきみが天皇賞を勝つような事があったら大事件だね。」

 この蓮の言葉が、その紛れた静けさに鋭さを持たせた。感情の一番弱いところをいきなり引っ掻いたように、蛍の表情が一変した。

「関係ない。」

 鋭さは怒りの熱と色を帯びて、目から蓮に向かって放射された。

「そんなの関係ないよ。確かにモチベーションを保つためにはそういうのも大切かも知れないけれど。」

「どうしてそんなに怒るの?僕は悪気があったわけじゃ無いんだ。」

 解っていると言った態で蛍は頷いた。

「良く言われるんだよ。同じオーナーさんから依頼を貰うとさ。きっとオーナーに身体を売っているんだとか。」

 廊下を歩く音が響く。それを少し気にしながら、蛍は声量をすこし変えて話し続けた。

 蓮は申し訳なかったが、蛍の話を中断しようとは思えなかった。

「でもね、そんな事当たり前にしたことないし。それに色んな人から依頼だって貰えるようになったのは、自分で努力してきたからなんだ。」

 蓮はゆっくり深く頷いた。そうすることで出来る限りの敬意を持ったつもりだった。

「それなのに世間は女、女って。たまにアイドルジョッキーみたいな特集をくまれたりすると少し嬉しいけど。」

 嬉しいんだ、と蓮は思った。

「それでも私の本業は騎手だし、勝ちたいのが一番の目標。天皇賞を勝ったら、私は一ジョッキーとして表彰されたいの。努力を表彰されたいの。わかる?」

「何が?」

「ターフの上では女でありたくないのよ。」

 がっかりしたようなさみしい目で、すっからかんになった皿を蛍は眺めた。その姿はまるで自分の心を覗いているみたいにもみえる。

「でも、それを理解してくれている人もいるだろう。」

 そんな蛍に、蓮は言った。

「勿論よ。」

 蓮の言葉に反応して蛍の目に、再び光が戻った。

「その代わり、いつまでも理解してくれない人も必ずいるはずだ。」

 蓮は自分のレモンサワーをゆっくりと口に運んで、口内で転がした。空気と同じ温度になってしまったレモンサワーは、苦みだけがしっかりと主張してくる。その主張は、蓮にはどうでも良かった。

「そういう人たちは何で私がそうだと思うのかな。」

 蛍は全く理解できないという顔で蓮にそう問いかけた。それから綺麗に手入れされた爪で、顔の小さなかさぶたをぽりぽりとかいた。

「それは、人によるだろうから推測に過ぎないけれど。」

 蓮はそう言って前置きをして、言葉を探した。蛍は何かを期待していた。本当の意味で答えが得られると思っているかは別として、自分の疑問の落としどころを探していた。

「きっときみの成功を羨ましいと思っているか、本当に何か馬鹿みたいな想像をしているか。兎に角、きみが一生懸命考えるほど、何か真面目な事ではないと思うな。」

 蛍は「そうか。」と無に近い表情で息をついて、肩をすとんと落とした。

 その落ちた肩が、一体どっちに落ちたのか、蓮には心配でならなかった。

 時々みせる突拍子も無い、ころんとしたビー玉の様な目が、蓮に何かを訴えるように見つめる度、蓮は笑って返すしかなかった。

 蓮は何度も、何度もそうやって蛍に笑って返す度に、蓮の中の蛍が輝いていって、そして、また消えた。

 その日、それ以上特段その場で話すことは無かった。蓮は来てくれたお礼におごると言ったが、蛍は「生意気ね。年も年収も下の癖に。」と笑って、会計学の半額分の札を出した。

 蓮は正直に、心の中で“情けないな”と呟いた。

 店を出てから、蓮は蛍と次の場所を探そうとは思えなかった。もうそんな雰囲気でも無かったし、時期にしては気温が下がっていて体調管理に厳しい世界に生きる女性が相手なだけに、無理は言えなかった。

蓮はゆっくりと蛍の左手を取ると、蛍はそのまま蓮の手に導かれるように、身体を寄せてきた。

「寒いね。」

 蓮の握る細く、つややかな指の感触とリンクしたような声で蛍はそう言った。蓮は蛍の掌をぐっと握りしめた。

 夜の灯りが人々を陰に変えていく中で、蓮には蛍だけが輝いて見える唯一の存在に思えた。

 先が冷たかった蛍の指がゆっくりと熱を取り戻していくと、蓮は握る掌の力をそっと緩めた。その緩めた間に冷たく新鮮な空気が紛れ込んでくると、2人の間に生まれた熱の正体がなんだかわかるような気がしていた。

 暫くすると今度は蛍の方から手を強く握りしめてきた。いつもこの手が本当に手綱を握って、そしてあんな巨大なサラブレッドを操っているのだろうかと、不思議なほど柔らかく、滑らかな握力が蓮の心ごと掌を包み込んでいく。

 そうやって、蓮と蛍は、駅までの短い道のりを無意識に過ごした。

「じゃあ。」

 途中まで同じ列車に乗っていた蛍は、素っ気ない別れ際の言葉を残して自分の住む街の駅のホームに下車して、人の群れと一緒に消えて行った。

「おう。」

 蓮も素っ気なく返した。それが蓮にとって蛍への礼儀であり、佐々木への懺悔のつもりだった。

 ふと蓮が駅の柵に目をやると、そこに植えられたサネカズラが綺麗に立ち並んでいるのに気がついた。

 月明かりに照らされ、その深緑と赤の姿が、互いを支えるように存在感をアピールしている。それに気付いて立ち止まる人はいない。

 蓮も、きっとあんな草木に気を止めているのは自分くらいなものだろう、なんであんなものが埋まっているのか、と思った。

 間も無くして発車の合図が鳴り響き、列車の扉が閉まると、ふっと気が切れたようにサネカズラの存在が目に入らなくなった。

 蓮はスマートフォンを開き、いくつか来ていたメッセージに目を通すと、外を再び見た頃には、もう街は人々の生活で溢れるいつもの景色に戻っていた。


7章

 蓮が蛍と会った日から間も無くして、地方で開催されていた夏競馬が終わり、代わりに始まった中山開催のレースで騎手金田蛍はレースに無事復帰した。

 一時、自身の行動を左右される程の衝撃を感じていた蓮にとって、全く何事も無かったかの様に開催されるレースで、野次やら応援やらを受け流してターフを走り抜ける蛍の姿と、競馬界の呆気なさに胸の芯を持って行かれたような張り合いのなさがあった。

 蛍が着々と勝利数を伸ばして、度々メディアに名前を挙げられるようになってきた頃、蓮は喫茶店で優雅に時間を潰していた。

 腕時計をしていたけれど、自分で見ているスマートフォンの画面で時間を確認しながら、コーヒーとは最早別物の飲み物をドロドロと啜る。向かいのテーブルに座っているサラリーマンもどうやら同じものを飲んでいる様に見えた。

 蓮はサラリーマンが行き来する大通りに面した窓際の席で、その飲み物を啜りながら、蛍の活躍を、写真と文字で確認していた。

 時間は午後の2時を回っていた。営業先の店が、いつもよりも混んでしまい、悪いけれど約束の時間を1時間ずらして欲しいと連絡が入っていた。蓮は心の声とは裏腹に「とんでもないです、では3時にお伺いいたします。」と店の要求を快諾した。

 こんなことならば本の1冊でも持ってくるべきだったと悔やんだが、過ぎてしまったものを悔やんでも仕方が無いと割り切った。

 御陰でスマートフォンの画面で蛍の活躍を確認することが出来た。

 あんなに恐ろしい目に遭っていたのに、歯を食いしばりながら鞭で馬の尻を思い切り引っぱたいている姿に安心していた。

 それとは逆に蓮の腋と掌には、ほんのり汗が滲んできていた。時計は気にしていなかった。のんびりと過ぎる時間と、写真の迫力のギャップが、蓮の身体を冷たく冷やしていたのだ。

 蓮は金田蛍で検索した画面をゆっくりとスクロールした。

 画面が蓮の油で少し濁る。太陽光で、その指紋がうっすらと浮かび上がる度に、袖口で拭いた。

 その蓮がスクロールした動きに連動したように、通りを歩く人々は動き続けている。

 画面には金田蛍の名前や記事がその人々と同じくらいの間隔で並んでいて、蓮の指に導かれ、過ぎ去ってゆく。時間とは違い、気になれば引き戻すことができた。

 蓮は、流れゆくものの中で、気になる記事を適当に選んでクリックしては、少し読んで消した。

 そうやって時間を潰していれば、すんなりと3時になって、蓮はコーヒーショップを出て、営業に入る事が出来る予定だった。

 通りの向かいにある営業先の店から暖簾をかきわけてサラリーマンが数人出てきて、そのあとOLか女子大生か解らないような女の子が2人入っていった。

 その暖簾が翻った一瞬に見えた雰囲気から言って、まだまだ店は暇にならなそうだった。蓮はきっと自分の仕事は断られるのだろうな、と思った。

 蓮は、また目をスマートフォンに戻す。スクロールするのも段々と面倒くさくなってきた。通りの人は一向に減らない。

 そんな時に、1つ興味のある記事が見つかった。

“金田蛍、天皇賞初騎乗”

 とうとう公に出たかという、得意な気持ちが蓮に湧いた。

 クリックすると、蛍が話した事以外にもいくつか情報が書き込まれていた。蓮は店の状況と記事を交互に確認した。

 騎乗馬はローカルエースという馬なのだそうだ。蛍の言うとおり、オーナーから直々にオファーが入っていて、今回の騎乗に繋がったとの内容だった。

 スクロールを続けると、まだ読み切れていない写真の上部だけが表示されている。

 綺麗な青空だった。

馬の写真はいつもそうだ。天候を操っているのではと疑いたくなるほどに、綺麗で大きな空と、ターフに挟まれたサンドイッチの具みたいに、馬が駆け抜けている。

蓮は向かいの店を見た。どうやら少しずつ落ち着いて来ているようだ。ようやく店員が“商い中”の表示を“準備中”にして、中の客の相手に集中しだした。

蓮はまたスマートフォンに目を戻す。

綺麗な金色の馬がそこには居た。まだ顔も半分しか写ってはいなかった。横に立っている人の頭だけが見える。多分、記事の内容から蛍なのだろうと予想がついた。

蓮は時計を見る。2時50分を過ぎていた。

自分のコーヒーを最後まで啜り、鞄のチャックを閉めた。スマフォを閉じて、ポケットに入れたら空のカップをダストボックスに捨てに立ち上がった。

 店員が「ありがとうございます。」と蓮を見送る。

 大通りは人が途切れない。ふぅと蓮は息を吐き出した。


 会社に戻る途中、通りに並ぶ銀杏の並木が金色の雨を降らしていた。すっかり夏の熱を吸収して、日焼けした肌がぽろぽろと落ちるように、銀杏の木々もそうしているようだ。

 蓮の今回の営業は、思った通り上手く行かなかった。いや、それよりも駄目だったかも知れない。

 店のオーナーはすこぶる明るい関西人だった。べらべらと話し始めて、勝手に進行してくれるのは営業としてはありがたい一面もあった。それでも、最後にはやっぱり決まって同じ事を言う。

「お兄さん、もうちょいでいいんや、安くなりまへんか?」

 蓮の扱っている広告商品は、パッケージ化されていて、工事見積もりのように、値引きを前提に提供していない。厳しい要求だった。

 蓮は、店の宣伝費はだいたい売り上げの数パーセントで済む、それは一般的な集客商品、方法に比べ格安である、なおかつ自由度も高く、ネットの露出も大きいとまくし立てて話したが、あまり気にしていなかった。

「定価じゃやれまへんわ。」

 そう一蹴された。

 蓮は店をちらりと見渡すと、どこか内装が安っぽく見えてきた。それがこのオーナーの努力の一端だと解ると、とても味わい深く、親しみやすさを覚えた。

「勉強して出直します。」

 笑顔でオーナーにそう伝えると、嬉しそうに肩を叩いて見送ってくれた。

 そんなオーナーの顔を思い出しながら駅に向かう一方で、事務所に戻ればマネージャーや荒井が騒いでいるかも知れないと思った。

 輝いて見えた銀杏の葉が、鬱陶しくなった。


 蓮が事務所に戻ると、思っていた光景はそこになかった。マネージャーも荒井も自分の席に座っているし、雑談で盛り上がっている雰囲気もない。

「おかえり。どうだった?」

 迎えてくれる主任に、首を横に振って合図をした。

「まぁ、あそこは繁盛店だからな。」と主任は言ってくれた。

 蓮のチームの勢いの無さを象徴している。多少結果が出なくても前向きに頑張っていこうという、ある意味ネガティブなベクトルが渦巻いている。蓮はそれをどうにかしようとも思っていない。

「なぁ、天皇賞が面白い事になっているみたいだぞ。」

 蓮が、多少競馬が解ると知っている同僚がそう蓮に言った。同僚のパソコンは検索エンジンに天皇賞と書かれていて、関連した記事が並んでいる。

「さっきマネージャーが話していたんだけどな、今度の天皇賞に女ジョッキーが出るらしいんだ。」

「へぇ。そうなの。」と蓮は知らない振りをした。

「凄いと思わないか。女だぞ。」

 天皇賞は春と秋に開催されるレースだ。それぞれ開催地は春が京都、秋は東京都なっていて雑誌や、新聞で“盾”と称されるのは、皇室より、その栄誉を称え、唯一賞金以外に盾を下賜されるからである。

 春の京都では4歳以上3200m、秋は3歳以上2000mに設定され歴史が古く栄誉あるレースであるが、とりわけ秋に関しては春の3歳クラシック路線を戦ってきた若駒の代表と、古馬との激突が見られるとあって人気の高いレースである。

 コースも、直線が広く長く平坦で、有利不利が少ないとされる東京競馬場の2000m。比較的短い距離を得意とするマイラーや、長距離を得意とする馬も参加でき、事実上の最強馬決定戦とみるファンも少なくない。

 そんなレースの騎乗を任されるのはベテラン騎手や、実力や経験豊富な外国人騎手が常で、新人や女性騎手が騎乗するとあらば、大抵はいつも騎乗しているお手馬が出馬するときや、人気薄馬の時にチャンスが巡ってくるのだ。

「確かにすごいな。」とだけ蓮は返した。同僚の表情はゲームのレアモンスターを逃がした少年以上につまらなそうだった。

「お前解ってないな、本当に。」

 同僚の検索エンジンには、綺麗な競馬の記事が規則正しく並んでいる。その規則正しさが、時には不快な文字を浮き上がらせる事もある。蓮はそれを見つけた自分に気付いていたが、見つけていないのだと言い聞かせて、忘れることにした。

「買ってみたらいいじゃないか、当たるかもよ。」

「そんなギャンブル出来ないね。女は競馬場で買うものじゃない。」

「言うとおりだ。」

 蓮はそう言って、立ち上がった。

「女でも買いにいくのか。」

 にやにや楽しそうに笑っている同僚の顔が憎めない。蓮は笑って首を振った。

「もう定時だし、今日は帰るよ。」

「一杯だけ行こうぜ、今日は主任の誕生日だ。」

 蓮は情けない気持ちになった。平日の夜に野郎だけで集まって野郎の誕生日を祝うなんて、いい歳こいて何をやっているのだろう。

「そうか、じゃあ先にいって店で飲んでいよう。」

 そうやって同僚を引っ張り出した。

そとの空気は思春期の女の子が振りまく香水のように、秋の香りをしっかりと帯びていた。


蛍は、荒れ狂うように勝利を重ねる新人騎手とは違い、小さいレースをコツコツと着実に勝利に結びつけていた。

そもそも騎乗数が伸びてきたとはいえ、一日に乗れるレースの数は限られていて、2桁人気の馬のみしかないなどざらだ。

それでも時々人気馬に乗せて貰えた時は、持ち前の平常心を存分に発揮し、丁寧に乗ることでしっかりと勝利に結びつけるから、関係者からの信頼も数値化出来ればうなぎ登りといって間違いが無いだろう。

その一方で、インタビューやテレビ出演の機会も増えていった。競馬を盛り上げようとテレビ局がセッティングしたアイドルグループと並んでも遜色が無い容姿を持っていたから、企画をいくつか持ち込まれたが、蛍は自分の性格上、2つの事に集中出来ないのを知っていて悩んだ。

最初はグッズだった。写真を何枚か撮って、それを元にキーホルダーや、抱き枕などを作成しようと持ちかけられた。

自分は写真を撮られるだけなので、これはOKを出した。

その次はテレビ番組への出演だった。これも競馬に支障がでるスケジュールになるのならNGを出すという事でOKをだした。

最後には歌を出そうと言われた。蛍は自分の音痴がコンプレックスでカラオケにも行かない。断った。

次第にそうやって自身の活躍する場所が競馬に限らず増えていく事で、良い経験にもなるし、息抜きになった。

蛍は本業がおろそかになって来ていないかとの質問をインタビューで受けて、天皇賞について記者に反論をした。

「そんな事は無いです。騎乗数が先月少し落ちたのでそう思われるかも知れませんが、それは怪我等の影響があったと思います。今月はこの間隔でいけば騎乗数は今までで一番のペースですし、勝利数も着実に伸びています。天皇賞まで良い感じで行ければ、快挙も充分ありえると思っています。」

 快挙という表現を使った蛍の返答は、とらえ方によっていくらでも解釈が出来たが、大方の見解は勝ちを指していた。蛍自身もそのつもりで発した発言であった。

 競馬関係者のコメントは大抵が強気で、謙虚を時々失うことも珍しくない。そんな中、蛍の人気の一端を担っていたのは、その謙虚さだった。いつも勉強と言って、反省の意ばっかり述べているわけではなく、必ず勝ちに繋げようという意思表示もはっきりとしていて、おじさん達に“理想の部下像”として人気の裏付けにもなっていた。

 その蛍が表現こそ曖昧なものの、レース前にG1の中のG1、天皇賞・秋を勝ちにいくと宣言したと捉えられる発言をした事でメディアは面白可笑しく取り上げた。

「どうして今回はあんなに闘志満々なんだかねぇ。」

 お笑い芸人に聞かれた競馬評論家はそんな感じで受け流していたが、結局誰にもその意図はわからないものの、競馬を盛り上げる上で重要な素材が、しっかりと役割を果たしたに過ぎない出来事だった。

 蛍は、インタビューを受けて間も無くは、自分の発言を恥じていた。いきなり好戦的な事を言ってしまった事を失言と思っていた。

 しかし、それに説明がつかなかった。何故勝ちに行くと言ってはいけないのだろうか。自分は勝つためにやっているのにそれを言葉にしたら何がいけないのだろうか。

 そう思ったときに、蛍は、発言に対して自信が持てた。それと同時に、今まで自分で無理矢理に押し込めていた信じられないほどの気持ちが何かを突き破って放出された。

 言って良かったと蛍は思った。


 蛍は天皇賞で騎乗を任せられたローカルエースの前哨戦として、同馬に騎乗し毎日王冠に出馬することに決まった。

 多くの馬がこのレースを天皇賞のステップとして使用するために、本番の結果を占う意味で大きな注目を集める。

 距離は1800mと本番よりも200m短いものの、同じコースを走るとあって、実践をイメージするにもってこいのレースだった。

 この日の1番人気はウイナーズウィング。良血である上に、厳しい流れの中でもしっかりと逃げ切れる二の足を持った正真正銘現役最強馬だ。蛍はこの馬に勝つために、ローカルエースの脚を最大限にいかして差しきらねばならない。鼓動のリズムが、否が応にも早まってくる。

 空気は涼しく湿っているのに、どうしてか日差しは厳しい温度を漏らしていた。

 その御陰で、ローカルエースの股の間は乾いた汗で白く染まっていた。首をだらんと下げて、あまり覇気が感じられない。

 蛍はパドックで跨がる鞍の上でローカルエースの体を優しく撫でてみた。滑らかで繊細な体毛の感触が、手を伝わってきた。

 その蛍の内的な言葉を察したかのようにローカルエースは首を上下させて応えて見せたが、蛍を安心させるに至ることは無かった。

「この馬は出遅れ癖を持っていた馬だ。古馬になってしっかりしてきたところはあるけれど、頭の隅に残しておいてくれ。」

 調教師の下田から蛍に伝えられた言葉だった。

 のっし、のっしと蛍の体にこみ上げてくるローカルエースの歩様が放つパワーが、他の馬よりも大きく思えてくる。

 汗を滲ませたのは、ローカルエースだけではなかった。

 この日のローカルエースの評判は悪くなかった。再三の乗り替わりや、出走プランの変更、そしてここ最近の成績を見ても、3番人気に推された事は、良くも悪くも陣営の予想を裏切った。

「しっぽをあんだけ振り上げている、何かあるんだな。」

 ハンチングを被り、その陰に怪しい目線を隠した老人がパドックで呟いた。それを聞いているものは誰もいない。何があるのか老人も言わない。

「くさいよ。お馬さんのうんちのせいかな。」

 自身の体を支える父親の腕の上で小さな男の子がそういう。やっぱり誰も聞いていない。父親だけが、相槌を打つ。

「馬でけー。」

「あ・れ・もでかいのかな。」

 Tシャツからほんのり焼いた肌を露出したカップルが柵にもたれ掛かりながら、人目を気にせず垂れ流す。誰も聞いていない。女がのどが渇いたと言って、2人は足早にスタンドへ消えて行く。

 パドックは、柵を挟んだ客側は真っ白なキャンバスの様に無だ。その無の空間の中で、人々の生活の色を持った言葉が、無造作に書き加えられていく。そうやって出来上がっていく絵にならない無秩序な筆跡の集積が、ただそこにあり続ける。

 パドックの内側で、その絵の具の飛沫に気をつけながら、騎手も馬も平常心を保ち続けなければならない。

 その時は、刻々と迫り続けるのだから。


 パーンパパパーンパパパーン!

 吹奏楽の奏でるファンファーレの音色は、どうしてこうも、青空にしっかりと刻み込まれ、そして吸い込まれるように消えて行くのだろうか。

 その広大な自然の造り出す芸術作品の様な青い背景の下で、風を切って走る馬の姿は、人知の及ばぬ領域にあると言って良い。

 当の本人(馬?)達はそれどころでは無いのだろうけれど。

 実況の声が、エコーを繰り返しスタンド客席に届くと、ざわざわと観衆が騒ぎ始める。スタートの瞬間はすぐそこまで来ていた。

 ローカルエースは尻尾を振りながら、自身に振り分けられた2枠3番というゲートに促され、入っていく。

 蛍は違和感もなく、ローカルエースの力を最大限に活かす事だけを考え続けていた。

 ウイナーズウィングは大外の12番。先行して走りたい馬にとっては大きなハンデとなる。

 ガシャンという金属音と共にゲートが開いた。

 ポンと押し出されるように各馬が芝のコースに飛びでた時、蛍ははっきりと安心した自分の気持ちを理解していた。その後すぐに勝負へ気持ちを切り替えるのに必死になっていた。

 コーナーに近づくにつれて絞られていく馬群に自分の位置を主張するように、蛍はローカルエースの馬体を導いた。

 スピードに乗ると、小さな粒になったように、空気が顔にぶつかっては消えて行く。その圧力を音にした様に耳元で轟音が通り過ぎていく。

 ローカルエースは、聞いていたよりも遙かに大人しい馬だと蛍は思った。外から内から荒々しく主張してくるサラブレッド達の圧力を、いなしながら、自分の居場所を探している。

 レースには致命的だ。

 結果的に、外々を回らされる展開をしてしまった。

 前では人気薄の牝馬が、斤量の軽さを有利に使おうと前残りを狙って大逃げを打っている。ウイナーズウィングは出遅れたか、じりじりと前目に登っていく最中だった。

 コーナーに差し掛かり、ようやくウイナーズウィングが先頭集団に合流出来るかと言うところで、蛍も少しずつ位置を上げようとローカルエースに合図を出した。

「あれ?」

 蛍は、他の騎手が言っていた事をここで実感する。動かなかった。

 となりにいる他の馬と併走することを楽しむようにその位置を離れない。力の比較的弱い蛍が一生懸命追ったところで動かないのか。

 蛍は悔しくなった。

 最終コーナーを回る頃、レースを作っていた、先頭の牝馬はここでお役御免とばかりに、力尽き、じりじりと馬群に飲まれていく。

 後は観客も、実況も、ウイナーズウィングの少し早いウイニングランを見届けるだけというムードに突入していた。

 勿論、他の騎手達は、そのムードをぶちこわすのが仕事だから、気が狂ったように鞭を振るう。

 蛍も同じだ。

 「早く、動いて。」

 蛍はゴーグルの下で、その瞳を輝かせながら、祈りに近い一撃を、ローカルエースの体に打ち込み続けた。

 一説によると、馬の分厚い体に、人間が鞭を叩き付けたところで、痛みを与えることは、到底叶わぬものらしい。その小さな感触、振動で、騎手は馬へ、自身の思いを伝えなければならない。人馬一体を目指さなければならない。

 蛍は、観衆の大歓声に自身の想いがかき消されていくその刹那まで、鞭を振るい続けた。

 想いが届くとは思えなかった。折角任せてくれたオーナーや、調教師の顔が浮かぶ。力が抜けていきそうだった。

「危ない!!」

 観客の一人が大声で叫んだ。若いスーツを着た、サラリーマン風の男だ。

 その声が示すとおり、内から斜行した馬に、はじき飛ばされようにローカルエースが馬群から弾き出された。

 蛍は傍目から解らぬレベルでバランスを崩し、馬体から落ちそうになる自身の体と意識を、その声で何とか引き戻すことが出来た。

 それはローカルエースも一緒だったのだろうか。

 さっきまでの優しく、丸かった目を、炎がともったかのようにぎらつかせ、蛍の打ち込んだ鞭をため込んでいたエネルギーみたいにしてウイナーズウィングを追い始めた。

 その剛脚に歓声が破裂した。いつもよりも折り合いをかいたウイナーズウィングの脚色は芳しくない。

 ウイナーズウィングの後ろを追走する2頭に並ぶ。そのゴール瞬間でローカルエースの目は元に戻ってしまった。

 掲示板には3の文字が上から4番目に表示されている。その一番上には審議の文字。

 着順の曖昧さと、レース中の進路妨害もあって、このレースの審議は10分近く続いた。

 それでも勝つ可能性がゼロと確定していた蛍にとって、その時間は無に等しい。

「よく頑張ったね。また頑張ろう。」

 蛍はローカルエースにそうやって声をかけて、スタンドから浴びせられる自分への野次をかき消そうとするしかなかった。


 その日、蓮は新宿三丁目のビジネス街にある喫茶店で、顧客と会う約束をしていた。

 日曜に休日出勤とあって、あまり気乗りはしなかったが、わざわざ呼び出してくる位の顧客だったので、断る訳にはいかなかった。

 秋の入口にいた新宿は、半袖姿の若者と、ジャケットに身を包んだビジネスマンが入り交じっている。

 学生らしい女の子は、半袖シャツの肩に上着を結びつけている。

 日差しがあたるテラス席で待ち合わせていた蓮は、たまに吹き付ける風の気まぐれに、ジャケットを脱いだり着たり、落ち着かない時間を過ごしていた。

「寺島さんですか?」

 そういって声をかけてきた男性は年齢の割にやせていて、芯のしっかりした黒縁眼鏡をかけた男性だった。

 肌も白く、ジェルでしっかりと整えられた頭髪の黒さに映えた。

「はじめまして。」と蓮は挨拶をした。

 男性は、イタリアンレストラン“オリーブカフェ”を経営する河西という男で、年齢は40代くらいに見えた。

 河西は名刺を蓮と交換すると、こんな人間もいるのかと感心するほど暖かい笑顔を浮かべながら名刺を眺めた。

 そんな河西の表情をみて、自身のモチベーションの低さを蓮は恥じた。

 河西はチノパンの上に白いシャツ、紺色のカーディガンを羽織っているだけのラフな格好だ。

 気まぐれな風が時々届けてくれる彼の香りは、薄らと甘い少し遊び人の匂いがした。

「早速ですが」蓮はヒアリングを始めた。

 彼の持っている店舗は、ビジネス街にあり、ランチは良く集客出来るが、夜の売り上げが少し物足りないと言うことだった。

 他の従業員達は「不景気」の一言で片付けてしまうので、どうにか新しい方法を見つけなければと思っていたそうだ。

 そんな時、たまたま蓮と共通の知り合いがいた河西は、その知り合いを通し、なんとか休日である土日に会うことが出来ないかという話を持ち込んできたのだ。

 チェーン店すべて会わせれば10店舗近い企業からの申し入れに、蓮は重い腰をあげた。

「僕はね、ギャンブルが好きなんですよ。」と河西は言った。

「ギャンブル、意外ですね。」と蓮は返した。

 経営者の中には、不確定要素が大きい事を嫌うものも少なくない。経営とギャンブルの関係性における論争は、今も終わり無い平行線を辿る線路の様に走り続けている。

「そうですかね。意外ですかね。私は世の中、すべてギャンブルみたいなもんだと思ってるんですよ。だってそうでしょう。この飲んでいるコーヒー、550円もしました。その値段に見合うだけに格別に美味しい。それに、こんな素晴らしい場所であなたとお話が出来るなんて、思ってもみなかった。これは素晴らしいコストパフォーマンスですよ。でもね、時には逆もある。普通のコーヒーショップと比較して、値段や店の内装、店員の雰囲気、それから口コミ。あらゆる情報の中で僕らは選択を繰り返して生きているんです。」

「はい。」蓮は顎を引いて、相槌をうった。

「今日だって、とても天気が良いからこういう格好で来ました。天気予報でもほぼ確実に今日は一日中晴れだと言っていた。でもね、この世の中で、誰が100パーセントの予想が出来ますか?その証拠に、天気予報が外れて文句言う人は誰もいません。そんな不確定な情報を元に、僕らは経験や、知識を使って“予想”し、そして“選択”をしている。まさにギャンブルですよ。」

「確かに。」と蓮は同意した。

「経営も、そうやって考えるとね、とても楽しい。立地も、コストも、システムも、全て自分で選択する。勿論従業員や、コンサルの人たちと相談しながらね。そうやって自分の“予想”を育てて行くんです。そうやって育てた予想を、いざ“走らせてみる。”当たったときの配当は、お金以上の価値があるんです。」

 河西の目は輝いていた。蓮の胸は温かくリズムを刻んでいる。

 広げているプランに河西は目を通す。案1、案2、案3と見比べる姿。確かに競馬新聞を読む競馬ファンそっくりだ、と蓮は思った。

 その小一時間に及ぶ検討は、真剣そのもの。根掘り葉掘り、重箱の隅をつつくように違いを聞いてきた。メリットは、デメリットは、他社より優れているところは。全てだ。

 甘い香水の香りは、確かに遊びの匂いを帯びていた。その甘さが、鋭さを増して蓮の鼻孔を刺激する。

 時計の長針が2周目に入ろうとしていた。コーヒーの抜けたコップが汗を掻いている。人間達も限界が近かった。

「寺島さん。今回はこの辺で持ち帰らせていただいても良いですか。」

「勿論、構わないですよ。」

「どうしても案1と案2で決着が付きません。そこで今度は僕から提案なんですが、この後ご予定は?」

「いいえ、今日は河西さんの為に空けてありますので。」

「それは申し訳無かった。では、何なんですが。」

「はい。」蓮は身構えた。河西の顔が緩んでいくのが解った。

「今から競馬場に行きませんか?」

 緊張の糸を優しく撫でられて、間抜けな音を鳴らされた気分だった。蓮の表情も一気に緩んだ。

「喜んで。」


「今日は、注目の馬がいるってんで、G2と言えどお客が多いかもしれませんね。」

 競馬開催に伴って準特急も臨時停車する東府中駅で、競馬場へ向かう一駅だけの各駅停車の電車に乗り換えるところで河西がそう言った。

 蓮達が乗ろうとしている電車は、競馬場正門前へ向かう電車だから、その周辺に住んでいる人が利用するなど特別な場合を除いて、ほぼ全部乗っている人は競馬場に向かうとみて良い。

 その割に混雑していたので河西はそう言った。

 蓮も全く同意だった。手にした腕時計は飾りじゃ無いんだとばかりにジャケットを捲って時間を確認する。あと30分でその注目の馬が走る。丁度良い時間だった。

 2人は新宿を出るときに買ったスポーツ新聞を読みながら来たから大方の予想は決まっていた。あとは競馬場の雰囲気、空気、臭いやで予想を変動させるだけだった。

「寺島さんは予想するとき、何を基準にしますか?」

「調教と、上がりタイムですね。」と蓮は言った。

「なるほど。」と河西は言った。

「河西さんは?」

「相性ですかねぇ。」と言いながら、コツコツと競馬場に足音を刻む。

 競馬場には様々な音楽、言葉、声、音が飛び交っている。その音の中から河西の声だけを抽出するのには少々もどかしさが生じる。

「相性ってどういうことでしょうか。」

 河西は顔を折り紙みたいにくしゃくしゃにして、仏のような笑顔を作った。

「馬と馬。馬とコース。馬と騎手。馬と天候。馬とレース。馬と時期。馬と体重。馬と枠。馬は色んなものと繋がっているんです。その相性ですよ。勿論寺島さんのおっしゃった様に馬と調教の相性もあるでしょう。」

 河西はスタンド内の売店に向かった。

「僕も今日はこれで終わりです。お礼に1杯奢らせて下さい。」

 そう言って河西はビールを2つ購入した。少し肌寒い気候にビールは意外にも良く会う。

「お疲れ様です。」と言って河西は蓮にビールを手渡す。蓮と河西は、ビールの口の下を取るつばぜり合いを一瞬行って、蓮が勝負に勝って、河西のカップの口下に合わせて乾杯の儀式が終わった。

 スタンドの外はやはり河西の言うとおり普段よりも混雑していた。既に柵の前では場所取りのブルーシートが何枚も置いてあり、カメラも設置してある。

 蓮と河西は、馬券を買うと人混みを交わしながらスタンド出口からコース観覧エリアに出たところでその優雅な空気と、野蛮な空気の入り交じる空間を楽しんでいた。

 暫らくしてから河西が、よく見えるようにと上に登ろうと言い出した。蓮はそれにしたがって、場所取りやら、人の多さやらで椅子の機能を果たしていないスタンド席の階段を上っていく。

 椅子の列と列の間で既に立ち見の様に人がぽつぽつと観戦していたので、わざわざ座って見ようなんて感情は湧いてこない。

 適当にコース手前全体が見えるところまで登って、2人は落ち着いた。河西は柵に寄りかかって自分の馬券を眺めている。ウイナーズウィングの単勝だ。

「単勝ですか。男ですね。」

「単勝が一番さっぱりしていて面白いですよ。寺島さんは何を買われたんですか。」

 蓮はローカルエースと書かれた馬券を無言で見せた。何か勘ぐったようににやついて河西は頷く。

「女ジョッキー。今人気の穴馬ですねぇ。」

「人気なのに穴ってのはおかしいんじゃないですか?」

「特別おかしな事は無いですよ。人気の穴場スポットって言うでしょう?そういうところは本当の意味でのおいしさが薄れちゃうんですけどね。」

 蓮は肩をすぼめて見せた。

「それに、女の穴に突っ込むと、終わった後が空しいだけですよ。」

 仏の顔に、いやらしさと、ユニークさが加わる。世間ではそれを人間味と言うのだろうか。蓮には憎たらしく思えた。

「何だか来そうな気がしたんです。」

「ギャンブルです。遊びです。気楽にやりましょう。外れても経営みたいに首釣る必要もなし。それに、そういう勘って意外と当たるもんですよね。」

「そうだといいなぁ。」

 蓮には少し前に見た悪夢が競馬場だったせいで、悪い予感ばかりが意味もなく過ぎる。正夢なんて言葉を今は聞きたくない。そう思った。

「蛍ちゃーん!頑張れー!」と誰かが叫ぶ。失笑の様なざわめきの後、口笛が鳴った。

 蓮の頭もビールがゆっくりと溶かしていく。叫んでしまおうか、いや駄目だ。競馬場だけれど一緒にいるのは顧客だ。蓮は小さな葛藤を繰り返す。

「さっきの返し馬の映像ですね。ウイナーズロック、問題なしです。他の馬もいいけど、やっぱり彼に比べたら見劣りする。」

「綺麗な走りですね。」と蓮も合わせた。

 ファンファーレが空を飛んでゆくと、心もわくわくとしてくる。それは決して蓮だけでは無いのが、会場の送る手拍子、河西の表情からもわかる。

 画面に映し出された12頭の馬がゲートインする姿を大観衆が見守る。蓮達の居場所からは、コーナーを回ってくるまではその情報が真実だ。

 蓮には金色の馬体に跨がる1人の女の姿しか目に入らない。

 その女を含む12騎の人馬がゲートインを完了しスタートを切る瞬間、ほっとした声と心が蓮に飛んできた。張り詰めたものが一瞬飛んで行った。

 それを祝うように会場からはぱらぱらと拍手が飛び散る。

 長い文章を機械が印刷する様に、実況アナウンサーは淡々と馬の名前を、馬群の進行状況を、人々の耳に刻んでゆく。

 誤字脱字の無い、綺麗で完璧な音だ。観衆はそれに聞き入りながら、画面を見つめる。

 河西がウイナーズウィングの進行に難を示していたような気もしたが、蓮はどさくさに紛れて聞き流した。

 馬群はコーナーを曲がるまで一つの生き物のように、先行する1騎の牝馬を追い続けた。

そしてコーナーを曲がる瞬間にそれを飲み込むと、一斉に別々の生き物の様に意思を持ちだした。

ウイナーズウィングは特に強い意志で加速し、馬群から抜け出した。河西の興奮は最高潮に向かっていた。

蓮は、ウイナーズウィングも、勝負の行方も正直どうでもよかった。金色の馬体が無事走り抜けてくれる事だけ、それだけで良かった。その願いを神様が聞いてくれていなかったのか、その瞬間は訪れた。蓮は、内にいた馬に跨がる騎手が、強引に進路を変える瞬間、外にいるローカルエースが体制を崩すのが解った。

「危ない!!」

 思わず出た言葉だった。

 差せ!でも、そのまま!でもない、勝負に関係の無い言葉だ。

 特異で色違いな言葉は、その場にいた人々の意識をすぐに引きつけた。その意識の鎖が一つになったとき、悲鳴の連鎖を起こした。

 弾き出されたローカルエースに悲鳴と怒号が飛び交う。それを受けたローカルエースは、今までとは全く違う馬の様に観衆の前を矢のように飛び抜けた。

「マジかよ!」

 我を忘れて河西が叫んだ。漆黒の馬体を金色の馬体が追いかける。煽るように観客が盛り上がる。

 鼓膜を突き破るような歓声が沸く。

 ゴール版をいつ過ぎたのか解らない程に、歓声は鳴り響き続けていた。


 河西の呼吸は荒れていた。大合唱するように鳴り響く歓声に参加するように河西も声を張り上げた。

 呼吸が荒れていたのは蓮も同じだった。声は出ない。

 蓮は大歓声が響いていたレース中、声が枯れる一歩手前まで、思いを音にして口から張り上げていた。

 それと同時に、祈った。

 目の前で起きようとしていた最悪の出来事が、どうか現実にはなりませんようにと祈った。

 その時、一瞬だけ脳裏を過ぎった“貴”の姿が、余韻としてぼやけている。

 蓮は“貴”祈ったのだ。蛍を守って欲しいと。この場にいるはずもない彼に、蓮は祈りを捧げ、守ってくれるように。

 幸いにも蛍は落馬することも無く、不利を受けたレースだったが、剛脚を使ってなんとか勝負に持ち込んだ。

 ローカルエースの勝負根性か、それとも才能か。

 素人の蓮には、その辺を判断することは出来なかったが、本当にもしかすると、もしかしたかも知れない。そう思わせるに充分な迫力を持って、蛍とローカルエースはゴール板を駆け抜けた。その迫力は、巻き起こった人々の歓声と、真っ赤な顔で息を荒げる河西の姿が物語っていた。

「あ、危なかったぁ。はは。寺島さんの勘が、危うく的中しちゃうところでした。いや、間違っていなかったんですね。」

 仏のような笑顔を取り戻しつつある河西は、そう蓮に語りかけた。

「まぐれですよ、きっと。」と蓮は言った。その心に謙遜も嘘もなかった。それよりも、蓮は、蛍の無事を確認したことで、四肢の先の間隔が怪しい。

「ギャンブルは、これだからやめられない。」

 河西は自分の馬券と画面を交互に見つめてそう言う。

「単勝は2倍くらいはつかないかな。」

 軽い願いの籠もった言葉だった。暫くして、その願いは無情にも裏切られたが、それでも良いと河西は言った。

「予想が当たった。これが一番嬉しい事ですよ。」

 負けた相手を前によく言う、と蓮は思ったが、これで接待になるなら安いものだとも思った。

「もし、寺島さんの穴が来ていたら2桁倍率でしたからね。本当に美味しい馬券でしたね。今度は複勝でも買ってみたらどうですか。」

「検討してみます。」と蓮は言った。

 ぐちゃぐちゃと文句や、レースへの思いをこぼしながら人々がスタンドへ帰っていく。そのこぼした想いが具現化したように馬券や新聞紙が鏤められている。とても気持ちの良い光景では無かった。

 蓮と河西は、その残骸を踏みしめながら京王線の駅へ向かった。

 河西は新宿に着くと、地下鉄で帰ると言って、去って行った。

 河西の黒い背中が遠ざかっていくのを見送って、蓮はJRの駅に向かった。


“毎日王冠、惜しかったな。怪我は大丈夫?”

 蓮は家に帰ってから蛍にメッセージを送った。既読すら付かない。レースが終わったその日だ。当たり前すぎる虚しさが、一人の部屋でぐんぐん幅を利かせていった。

 そういう類いの寂しさに苛まれるのは学生の頃以来だった。社会人になってからは、そんなものが心を侵食する隙間すら無いような気がしていた。だから整理が付かないまま、どんどん部屋と共にとっちらかっていって、訳がわからなくなっていた。

 だから蓮は今の心の余裕がある瞬間も、どうしていいのか解らずにいた。

 そんな日に限って佐々木は「女子会に行ってくるから。」という連絡をよこしてきた。蓮が仕事を入れたのだから、仕方が無かった。

 蓮は近くの安い定食屋で安い夕食とビールのセットで腹と心を取りあえず埋めて、無理矢理眠ることにした。

 そういう時の週明けほど気分が優れないものはないと蓮は思った。

 事務所につくまで、見るもの全てに八つ当たりがしたかった。次の休みまであるたった5日の就労が、一体どれほど長いのだろうと思い悩む。そのストレスが、たばこまみれの中年に満たされたJRの電車内をどこまでも不快なものにさせてくれる。

 事務所に着く頃には、蓮の心の部屋は、汚いゴミ屑のような気持ちで一杯になっていた。

「おはようございます。」と声を張り上げる荒井の清々しい姿すら鬱陶しい気分だ。

「おう。」と返してしまう自分にも嫌悪感を抱く。

 事務の入れてくれるお茶の温度すら気に入らない。兎に角何もかもが自分を傷つける。

「あぁ、俺はなんて小さいんだろう。」

 そんな言葉がぽろっと出てしまい、慌てて周りを確認する。居るのは遠くで別の部署の机を拭いている荒井だけだった。

 不思議と、聞こえない距離の筈なのに、荒井の顔がにやけているように見えた。もしかして、今の蓮の声が聞こえたかと思う程に。

 蓮ははぁ、と息をつきながらパソコンのスイッチをいれ、タイムカードを切ると、一つ咳払いをして気持ちを入れ替えた。

 荒井が挨拶の声を張り上げる度、人が増えていくのが解るのはその日も同じだ。

 何も変わらない。蓮はその普遍的な日常に、不快感を抱いていた。

 もっと安定したい。

 もっと刺激が欲しい。

 相反する気持ちを胸に、人々の呼吸が折り重なっていく空間に身を任せる瞬間が、今日も始まる。

「聡美、もしかして髪切った?」

「うん、切った。」

 だからどうしたと蓮は思った。髪をきるなんて言う行動は、人生という名の料理における不純物でしか無い。或いは、味を変えるに影響しない小さな、小さな科学物質だ。

 勿論それが積もり重なって行けば、味を形成する素材や調味料になるが、大抵の場合数年すれば忘れたくなるような出来事になってしまう。若い内の髪型なんてそんな物だ、としか蓮には思えない。

 それなのに、心を大きく動かす、だから不純物なのだ。

 味の解らない人は、そんなまやかしに騙されて、自分の判断を奪われる。人生という料理の味が解らなくなってしまう。

 蓮は、仕事も同じだと思った。時折挫折しそうな程辛い思いをすることがある。今にも全てを投げ打って、無かったことにしてしまいたいことがある。逆に、素晴らしい瞬間が訪れる事がある。この仕事をしていて良かった、本当に良かったと心から思う瞬間。毎日の平凡な生活に、スパイスと言わないまでも、そういう不純物が混じる時、蓮は自分の仕事の本質が解らなくなる。

 蓮は就職して10年近く経った今、思い返す出来事の一つ一つが、その当時とてつも無く大きく、そしてドラマチックに思えていた事に気付いていた。

 それなのに、10年という月日を経て見ると、それは本当に一瞬。人生というスープを煮込んでいる途中で、熱によって無くなってしまうミクロな異物に過ぎない。

 大事なのは味を決める、酒、醤油、みりんだ。それが何だったのかは、死ぬときまで解らないだろうなと蓮は思った。

 河西からメールが来ていた。次の週の土曜までに希望を決めるので、また会って欲しいと言う内容だ。

 蓮は少しがっかりしながら、快諾のメールを作成する。気分が乗らない。誰かが蓮の空いたコップに気付き声をかけた。

「おかわりいります?」

「頼みます、ありがとう。」

 多分おかっぱ事務員だったと思った。

 蓮はメールを急いで仕上げる。よく見ると、始業近い。

 カタカタと指がキーボードを軽快に飛ぶ。

「おまたせ。」

 蓮は顔を上げた。

やっぱりおかっぱ事務員だった。否、今日はもうおかっぱじゃない。綺麗に整えられたショートカットは、顎ラインの綺麗なその娘にぴったりだ。こんなにも顔立ちがしっかりしていたのかと驚いた。

驚いて蓮は思わず声をかけた。

「髪、切ったんだね。」

「ええ。イメチェンです。」

 おかっぱ事務員は俯いている。

「前のも可愛かったけど、今度のもいいね。」

「え?」とおかっぱ事務員は言った。首を傾げたから小さくて綺麗な耳が顔を出した。蓮はその耳にもう一度言ってくれと言っているように見えた。

「とても似合っていると思うよ。」

 おかっぱ事務員はにやにやして、そのにやにやを「えへへ。」という発音で表現した。

 蓮はその笑顔に釣られて、一緒にニヤついた。何しているんだと内心思っていたが、楽しい気分が湧いたのだから仕方ないとその感情を放し飼いにすることにした。

 蓮のスープにも、何てことの無い、異物が混入していた。


 事務所で男達が興奮している。男が興奮するのは大抵の場合、綺麗な絵を見たとか、感動的な場面に出くわしたとか、欲しい洋服が手に入ったとか。

そんな事ではない。

 女か、金だ。

 事務所の椅子にビールで育てた霜降りのもも肉と腹を乗せて、臭い息と共に興奮した想いをぶちまけている。

 それに便乗して他の者も煽っている。これもスープの異物の一つだろうか。

「昨日の毎日王冠、とっちまったよ!!」

 3連単、頭(一着のこと)にウイナーズウィング、2番目に3番人気の馬を来ると予想して、あとは3着に何が来ても良いように流したと言うことだった。

 競馬では、全通りの馬券を購入する事を“流す”と表現する。

 その声を荒げた男は1着、2着、3着の順番をぴたりと当てる3連単方式で馬券を購入して、1着と2着だけ考えて、3着は何が来ても良いように、残り頭数10通り全て買ったのだそうだ。

 それが上手くはまり、3着に大穴の馬がきたものだから、倍率がそこそこあったらしい。

 それで声を荒げているのだ。

「最後の直線で、一頭関係ない馬が突っ込んで来たからはらはらしたよ。これが競馬の醍醐味だね。」

 そんな醍醐味で興奮出来るなら、いっその事外れてしまえばよかったのに。そうすれば今日も変わらず静かな一日を送ることができた。蓮は彼らの騒音と言って差し支えない話し声にそう心の声を呟いた。

「そうそう。それにあの馬に乗っていたのは女だったみたいじゃないですか。驚きましたよ。」

 荒井が余計な合の手を入れた。本人は至って満足げだし、言われた方も、期待の新人が自分の話題に興味をもったとあって喜んでいる。

「おお、そうなんだよ。お前、競馬やるのか。」

「いいえ、今朝ネットでちょっと拝見したものでして。」

 荒井はわざとらしく後頭部をさすって、愛想笑いをする。

「がははは。さてはお前、アイドルジョッキーにちょっと鼻をのばしていたな。」

「いやぁ、“アレ”は自分、ないっすわ。」

 蓮の耳が少し大きくなった。もう雑音じゃない。

「なんで?おじさん達から見れば可愛いからアイドルなんだぞ。」

「可愛いとは思いますけどね。」

 この野郎、と声が出そうなのを蓮は抑えた。蛍はこういう批判も受け入れる覚悟で、あえてあの世界に踏み入れた。蓮はあえて自分がぶち切れるのは、何か違う気がしていた。

 男達の会話からはまだ金と女の話しか出ていない。どの馬が凄かったとか、騎手の技術はどうだったとか、どうでも良いのだ。

 残りはいつも決まった台詞。

「ところで、いくらになったんですか?みんなで飲みに行きましょうよ。」

 誰も言わなくても、必ず誰かがいう。

 どうせなら、どうしてその馬券を買おうと思ったのか。勝ち馬のどこに惹かれたのか。4着に突っ込んで来た馬は何故選択から切ることが出来たのか。それを聞いて、今度から自分で当てればいいものを、決まって男達はそういう。

「いいねぇ、嫁にばれない金だ。そんなに当たってねぇけど、多めには出してやらぁ。」

 いつも負けてばかりの癖に、たまに当たると決まって羽振りが良くなる。金はこうやって回っていくのか。

 女達はそういう話になってようやく興味が湧いてくる。同じ性別の人間が、あわやおこしかけた奇跡に全く興味などない。

「なんだか競馬熱いっすね。」

「そうだろう、競馬は楽しい。今度連れてってやろうか。」

 荒井は余計な事を言った。大切な休日を1日、上司に捧げる宣言。何も自分から言わなくてもいいのに。

蓮は哀れみの気持ちを彼に送った。ところがそのテレパシーが、誤ってうるさい方にいってしまった。

「おい、寺島。お前も競馬やったよな。」

「え!」という声が自然とでた。荒井やマネージャーが驚いて蓮に視線を送っている。逃げられる気がしない。

「今度マネージャーと一緒に荒井を天皇賞に連れて行こうと思うんだけど、お前も来てくれよ。多少詳しいだろ。」

 荒井だけならまだましだった。マネージャーを入れているあたり、断れなくするのが上手だとしか言いようがない。

「あ、大丈夫ですけど、これとデートかも知れないんですよ。」

 蓮が立てる小指は一同をきょとんとさせた。

「えーなんだよお前。女連れてくるなんて。」

 意地悪そうににやけるその表情に、少し期待した。もしかしたら別の機会にとなるかも知れない。なにも競馬は天皇賞だけではない。

「いいよ。」

「え?」

「女も連れてこい。多い方が楽しい。」

 蓮は唖然とした。いつもと違う。まぐれ馬券が当たった事で上機嫌になっている。完璧に蓮の判断ミスだった。

「いいんすか?寺島さん。」

 荒井が目を輝かせる。完全に気持ちの折れた蓮に、その目の真偽は最早わからない。

「いいよ、気にするな。」そうやって言うのが精一杯だった。

 佐々木を職場の人たちに見せるのは初めてではない。きっと後でブーブー文句言われるだけで、その場は取り繕ってくれるに違い無い。蓮はそう自分に言い聞かせた。

 荒井は楽しそうにネットで競馬の知識を指導して貰っている。

“畜生、仕事しろよ。”

 蓮の機嫌は悪くなった。

 事務の女達はマネージャーと今日の夜、何を奢って貰うか相談している。それぞれ表情がキラキラと輝いている。

 蓮は事務所を見回した。こんな悲劇が起こったのに誰も蓮を気にしていない。

 やっと、いつも通りの、何もない1日がスタートしたのだった。


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