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10番  作者: アテ27
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10番1章~4章

1章

夜の間中、街を濡らし続けた雨はその日、嘘の様に止んでいた。

代わりに降り注いだ日差しを七色に分けた空気は、激しく過ぎさった一週間を忘れさせるようだった。

“金田蛍、ローカルエースに騎乗でイキます!”

 駅の構内にあるコンビニエンスストアは、その日も変わらず早朝から営業をしていた。まるで造花のように店頭並ぶ乾いたパルプ紙に踊ったその一文に、寺島蓮は手を伸ばした。

レジに人は無く、手中の缶コーヒーとスポーツ新聞をレジ棚に置き、外を眺めた。

高く、透明な空を、雀がすいすいと泳ぐ様に飛んでいて、その無邪気な声が聞こえてくるように思えた。

「大変お待たせしました。」と大して待っていない自分へ、大して待たせていない様子で言う店員に商品を手渡して、蓮は会計を待った。

 蓮は、休日はなるだけ数字を見ないようにしている。それは蓮にとって数字が普段から追い求める対象であり、そして追いかけられる対象でもあったからだ。たまの休日くらいはと、意識して自身を抑制していた。

だからこの日も、適当な時間に起床し、適当な時間に家を出て、たまたま出くわした電車に乗って行こうと思っていた。会計も勿論見ていなかった。レジ棚に置かれたICカードの読み取り機が光ると、そこへ財布を置いて、音が鳴る前に商品を受け取り、音が鳴る頃には、レシートを拒否して出口に向かい動き出していた。

 自動ドアが開くと、幾分湿った、新しい日の香りが身も心も包んでいく。

駅のホームを数歩線路に向かって歩き、日の当たるところまで行くと、目を瞑り、空を仰いだ。自然と身体が伸びた。大きく背伸びをすれば、呼吸がとまり、血液が体中を駆け巡るのが良く解った。これ以上伸びれば、背中がつってしまうだろうと思った蓮は、慌てて身体から力を抜き、エスカレーターのすぐそばに備え付けられたベンチに向かい、腰かけた。臀部を伝って感じるプラスチックの温度は、昨晩の余韻を残していた。

線路と外の世界を分ける柵に、大きく建てられた看板の向うでは、ジャージに身を包んだ女子中学生が何か話しながらせかせかと歩く。それを悠々追い越していく乗用車の中は、蓮には確認出来なかった。

 コンビニエンスストアで受け取ったレジ袋から、缶コーヒーを出してプルタブを開ける。小さな金属の千切れる音が、透明な空へ抜けて、忽ちほろ苦いカフェインの匂いが漂って来た。至福とはこういう事だと蓮は思った。

 ベンチの周りに2羽のハトが、首を前後に揺らしながら周回しているのに気付かなかった訳では無い。それでも蓮が、ゆっくりと新聞紙を袋から取り出して、一気に広げると、驚いたように2羽のハトは飛び去って、向かいの看板へ飛び移って行った。ハトを追い払った新聞紙を彩るカラフルな文字や装飾は、今週末開催される天皇賞・秋の馬柱だ。

 白、黒、赤、青…

 規則的に並ぶ文字と数字は、過去に行われた幾度の名勝負をデータ化し、小さな升目に詰め込んだものだった。蓮は自身の課したルールを忘れていない。この新聞を手に取った時から、気になっていたのは緻密な検証データの集積でも、調教タイムでも、着順でもなかった。

“金田蛍”

 そのデータの闇に一点輝く名前を蓮は無視する事が出来なかった。

ローカルエースに騎乗する事を意味したその見出しは今でも蓮の心に甘酸っぱい感情を染みこませ、身体の隅々まで浸透してくる。

 ローカルエースはスターホースだ。否、そうなる筈であった。

ローカルエースは、東北の海に面した小さな牧場で育った。広大な緑と、青空に映える栗毛の馬体は太陽に反射し、黄金に輝いた。 

その優雅な馬体は地元住民のみならず、観光に訪れた人々の心を存分に楽しませた。

彼が産まれた時に立ち会った牧場長の真田は、最後に姿を現した彼の左足に神が授けた白い靴下を見て、歓喜したと言う。

「きっと、日本競馬界を背負って立つ馬になる。」

 そう信じて疑わなかった。父は英国でダービー、キングジョージⅥ世&クリーンエリザベスステークスを制し、凱旋門賞もあと一歩のところまで詰め寄った名馬だった。母親は、日本国内で敵無と言われるほどのこちらも名牝で、女馬ながら日本優駿を制すると、ジャパンカップ、有馬記念と様々なタイトルを総なめにした。奇跡か偶然か。父譲りの黄金の馬体に、母と同じ白い左後脚。関係者の両眼尻と口元を総じて引き上げるだけの力がそこにはあった。

 それでも神は、彼に試練を与えなかった訳では無い。

連日、スターホース扱いをする取材や報道のお蔭で、彼のデビュー戦は平年の入場者数を軽く上回る大入りを記録し、デビューながらにG1級と称された。掲示板には彼の名前の横を、1倍台のオッズが行き来し、新聞の予想はもっぱら相手探しの論調が並んでいた。もし、彼を買わなければそれはひねくれ者か、或いは大馬鹿者か、何も考えていないろくでなしギャンブラーとまで言ったタレントがいた。そんな世間の期待を知ってか知らずか。パドックでの彼は新馬とは思えない落ち着きぶりを見せ、感嘆のため息が辺りを埋め尽くした。

 デビュー戦となった夏の阪神メイクデビュー2歳混合戦1800Ⅿでは、2枠4番のゲートに入った。レース前、「少し発汗が目立つかなぁ。」と心配していた調教師の声も、リーディングジョッキーの沢屋敷が跨ると、直ぐに過去のものとなってしまった。多少、鶴首ぎみに見えた歩様も、No.1ジョッキーと期待の新星が組めば様になる。

 人気は一向に衰えず、とうとう単勝1.2倍でスタートのファンファーレを聴く事となったのだ。すんなりとゲートに入り、大人しく“その時”を待つローカルエースに、何を心配する事があっただろうか。会場はローカルエースがこれからどんなレースをするのか。そもそもローカルエースとはどんな馬なのか。そればかりがあちらこちらで小さな議題となって人々の間を行き来していた。

出走準備が終わり、係員が離れ、ゲートが開くと、爆発するように歓声が弾けた。それから間もなく悲鳴と罵倒、そしてため息が入り混じり、凄まじく、そして異様な熱気がスタンドを覆った。

開いたゲートの中で大きく反り返る黄金の馬体に、必死に沢屋敷がしがみついていた。何度か立ち上がった前脚をバタつかせ、それを着地させると、既に勝負の先へ走りさってしまったサラブレッド達を追った。この日の為に、前日から座り込んでいたファンも居た。遠く離れた土地からやって来た者もいた。

7割を超える馬券が、忽ちただの紙屑へと変り、希望が絶望に、期待が怒りに、そして、歓声が怒声に変わった瞬間であった。

そんな中でも、ローカルエースはそのまま終わろうとはしなかった。

右回りの芝コースの向正面をスタートしたローカルエースは、10馬身空いた時間の壁を、まるで無かったかの様にじりじりと詰め始めた。

阪神の芝1800Ⅿコースは、向正面をスタートし、第三コーナー、第四コーナーと回ったあと、スタンド前直線コースでデットヒートを繰り広げる仕様になっている。

沢屋敷は、この時、勝てると言う希望を持ったと言う。自身の身体へ手綱や鞍を伝って響いてくるホースシューの力強さが、競馬人生20余年において感じた事の無い衝撃を齎した。その希望は、スタンドを埋め尽くした幾万にも及ぶ大群衆一人一人にも伝わっていた。

オートバイの様にコースの内側へ馬体を傾け走る姿は、輝く黄金の馬体とは無関係に、大群衆を興奮の渦へと導くには充分すぎる説得力があった。

「いけ、エース!差せ、差せ、差せー!!!」

 手中のくしゃくしゃの紙屑を、汗と一緒に握りしめ、歓声はいつしか言葉を持たぬ、観衆の心そのものとなって鳴り響いた。場内実況を掻き消し、500kgの馬群が発する足音の集積すら無音と化したその瞬間は、正に狂気そのものだ。

 先頭を走るホープオブワイルド、ハワイアンレディ、ウイナーズウィングの3頭と最後方ローカルエースまでは6馬身程の差。大外を回り、怒号の嵐の中で黄金の馬体はみるみる差を詰めた。阪神の高低差の厳しい坂を、平地の如く走る姿は他の馬を過去の時間に置き去りにした。その勢いはラスト200Ⅿを切っても尚衰えず、ゴール板を通過する寸前まで、加速を続けた。

目の前で縮んでゆく絶望的だった距離が、人々の興奮を更に押し上げ、狂気はゴール板を通過するまで続いたのだった。

翌日“恐るべきハナ差の4着”としたのは日刊フリーダムだ。

その内容は決して良いものでは無く、スタート前の興奮を伝えると共に、ファンの期待とは裏腹な掲示板止まりの内容に、人々の落胆の大きさばかりを伝えた。それは決してフリーダムのみの論調では無かった事が、尚、その期待の大きさを物語っていた。

悔しかったのは何も1倍台の馬券になけなしの万札を全てぶっこんだ酔っ払いだけではない。騎手、調教師、オーナー・・・。ローカルエースの血筋に絶対の信頼を寄せていた関係者の全員が、ファン同様にその驚異的な末脚に1分近い無呼吸を経験し、夢と共に、大量の二酸化炭素を体から力なく放出したのだった。

「競馬なんてやるものじゃあないな。」そんな生真面目なセリフが、至極当然に、真っ当に、夢を追いかけるターフをつまらなそうに飛んで行った。


 その誰もが落胆したレースから約1カ月後、澄み渡る夏の札幌に舞台を移したローカルエースは、同じ距離の1800M、2歳未勝利戦へ出馬した。

それまでの話題性はすっかり落ち着いていた。観客は平常の数に落ち込み、それまでのスターを盛り上げるような激しいムードから一変して、競馬場は和やかな空気に包まれていた。

そんな空気をいち早く察知し、沢屋敷は静かに闘志を燃やしていた。それまでの熱気はローカスエースの血と、沢屋敷のコンビへの信頼の証とも言える観客の見えない声だった。それが一変して、無関心に近いものに変わった原因に、自分の腕の影響を感じていた。それは沢屋敷のプライドを大きく傷つけていた。

その沢屋敷とは対照的に、当事者のローカルエースは驚くほどに落ち着いていた。厩務員に引かれ、パドックを歩く姿は実に美しく、カメラを持って最前列を陣取るファンの心を釘付けにする。

あまりにも大人しいものだったから、また本番で慌てるのではと、沢屋敷は心配していたが、そんな心配が見事的中したのはスタートだけで、レースは完勝と言っていい最高のパフォーマンスを見せつけた。

前回同様、ゲートが開くと何かに興奮したように立ち上がり、出遅れた。出遅れてから、観客の失笑も気にせず滑るように飛び出ると、すぐに馬群を捉え何事も無かったかの様に直線で先頭を走る馬をかわし勝負を決めた。

「自力はある馬ですので、これくらいは走っても不思議ではありません。」

 そう語った沢屋敷の目は、前回負ったプライドへの傷がすっかり完治した事を思わせた。

 関係者のみならず、沢屋敷の目が放つ無言のメッセージは、ダービーへ向けられた物であることも容易に想像が出来た。

 そんな沢屋敷が場内を引き上げる際に観客から浴びせられた爽やかな小雨の様にぱらぱらとした歓声が、再び、ローカルエースの金色の走りへの期待再燃をほのかに予感させていた。

 翌週の月曜日、沢屋敷とローカルエースに降り注いだ歓声がそのまま具現化したような雨が関東に降り注いだ。

 競馬場をあとにしたときは、爽やかな気持ちで引き上げた沢屋敷だったが、この日スポーツ紙を飾ったニュースは、再び沢屋敷を自省の念に引き戻す辛い内容だった。

“ローカルエース、鼻血!ダービーに黄色信号か!”

 その見出しは、再びローカルエースへの関心の火を点し始めたファンを一気に冷め込ませるに充分な力を持っていた。

調整と休養を含め数か月を要し、場合によっては日本優駿への道が途絶えるかも知れない事態なだけに、その行方だけが、ファンの好奇心の火を辛うじて燃やし続けてくれていた。

その間にも、数千馬の同世代サラブレッド達は、着々と勝利を重ね、各2歳重賞を勝利し、世代最強への道を只進んでいた。

 TV放送では、母馬のファンや、それでもこの馬をと想うファンに向けて、復帰への報道がちらほらと流れ続けていた。お笑い芸人やアイドルが、放牧地や調教現場に駆け付けては、大袈裟にローカルエースへの想いを語り、視聴者へ同意を求める。

「復帰が待ち遠しいですね。」というアイドルの言葉に、ただ一言だけ「そうですね。」と沢屋敷が言うと、アイドルの満足げな表情が、カメラを通して全国へ配信されるのであった。


約2か月と少しの休養を終えようとした、12月になるある日。都内はこの年初めての降雪を記録した。

 綿毛のように宙を舞う雪の一つ、一つが地面に降りたっては消えて、そしてその上にまたゆっくりと降りたっては消えた。

どこから伴なく聞こえて来る子供の声と、それを諭す母親の声は、まるでその冷たく綺麗な空気を琴線にして震わせたみたいに、高く澄んだ音となって、どこまでも響いて行く。

街はクリスマスやお正月に向けて、冬の屈託のない、純正な大気の様に神聖な雰囲気に包まれていた。

そんな中で、ローカルエースの陣営は、各メディアを通してローカルエースの次戦を発表する事になる。

「次走はホープフルステークスです。札幌でのレースで解る通り力があるし、阪神でも坂は問題にしなかった。スタートに難があるけれど、距離延長は好材料だと思います。」

 次走に決まったホープフルステークスは厳しい坂が見所の、中山2000Ⅿで行われる。陣営としては、未だこのローカルエースの距離適性をさぐりきれておらず、皐月賞、ダービー、菊花賞というクラシック路線を見据えた、テストとして捉えているのではと専門家は地上デジタルの電波に乗せて持論を展開した。皐月賞と同じ、厳しいコースとそれを見据えるハイレベルな同志とのレースで、この馬がどの様な走りをするのか。

こんこんと降り積もる雪が掻き消す街の音とは反比例に、予想家の心と、議論はヒートアップしていく。

 新聞のマスに、二重丸が、団子の様に並んだ。

 

 レース当日となった12月の最終日曜日。除雪された雪が中山のコースを縁どっていた。気温自体は、厚着をしていれば冷えるほどの数値では無かったが、売店の温かいそばから上がる湯気や、白く色付く吐息、そして雪の残るコースの埒沿いが、冬の寒さを演出していた。

 この日の中山は、日本競馬界において、一年で最も重要な日の内のひとつである。それは、決してローカルエースや、その世代を代表する若駒達の未来を占う重要な一戦が行われるという意味では勿論無い。彼等の走ったそのすぐ後で、競馬ファン、関係者ならば誰もが心疼いて仕方ないビッグレース、“有馬記念”が開催されるからだ。

 パドックは昼過ぎになると、普段では考えられない賑わいを見せる。レースが終わる度、満員電車に駆け込む人々の様に、場所取りが行われる。

 日本競馬のパドックはそんな人々とは裏腹に、非常に神経質な場所である。

“フラッシュ撮影禁止!!”

“急な大声禁止!!”

 馬と言う、巨体で、そして臆病な動物に配慮したそれらの立て看板は、スポーツ会場では珍しい。競馬場での主役は人では無く、馬である。

 第8競走が終わり、“満員電車の”人々が戻って来ると、パドックは、人々の騒めきに埋め尽くされ、その騒めきは、レース名が示す通り、希望に満ちていた。

 かつて、この中山で2頭の名馬が産み出したレースはまさに悲劇と奇跡の折り重なった競馬そのものだった。

 当時無敗を記録していた生ける伝説ディープインパクトと、名手・武豊のコンビが天才外国人騎手クリストフ・ルメールの操るハーツクライを捉え切れず、スタンドを驚愕の渦に巻き込んだ。

 実況が、1000Ⅿ通過タイムを読み上げれば、或いはディープインパクトがコーナーに差し掛かる処で、エンジンをかけた様子がビジョンに映し出される度、雷のような歓声が上がった。

 競馬ファンは一つの終焉を迎えた時代と、当時の自分達の事を思い出し、それを懐かしみ、そして新しい時代の到来を喜んでいた。

 この日のホープフルステークスには、そのディープインパクトの子と、ハーツクライの子が、それぞれ3頭と1頭出馬する。そして勿論、有馬記念にも数頭エントリーしていた。人々の声には正に希望が込められているのだ。

 誘導員に導かれ、パドックに現れた第9レースホープフルステークスの出走馬達は、それまでの競走に出馬していたサラブレッド達とは一線を置く馬体を披露して、ファンの眼を楽しませた。

 三つ編みが可愛いと、指を差す女も居た。入れ込んで、立ち上がる馬にどよめく大学生も居た。年末のこの日だけは、競馬場はお祭りなのだ。

 そんな中、威風堂々と踏みしめるローカルエースの歩様は人々の眼にはつまらなく映ったのかも知れなかった。2歳重賞が揃う面子の中では、1勝2着1回の成績は特に目立って優秀な成績でも無かったし、やはりこの日ばかりは“有馬記念”の前座的立ち位置は拭いきれなかった。それに、有馬記念の影は、そしてディープインパクト、ハーツクライの因縁は、このレースにおいてもファンの期待として明白に表れていた。

 そんな中で、沢屋敷は一人、心の中にひっそりと熱を帯びた思いを馳せていた。それは冬晴れの日に、ヒンヤリと冷めきった空気中で、こんこんと降り注ぐ太陽の日差しに似ていた。冬の寒さとは裏腹に、ぼんやりと、それでも鋭く降り注ぐ日差し。

 沢屋敷は、ローカルエースは間違いなく世代最強の馬だと知っていた。それを、並の馬と同じ評価まで下げてしまった原因の一旦に、自身の腕の未熟さを感じていたし、今日、それを挽回する絶好の舞台と位置付けていた。オーナーからは、無理に勝ちに行かないまでも、“本番”に向けて良い準備が出来ればと伝えられていた。それがまた、沢屋敷のプライドを傷付けた。

 沢屋敷は解っていた。鼻血を出し、2か月の放牧明けという事もあり、ローカルエースの体調を気遣った意味もあったであろう。それでも、現リーディングジョッキーとして君臨するプライドが、“勝たなくても良い”という言葉を聞き流す訳にはいかなかった。そんな言葉を聞き流せる性格なら、リーディングトップには君臨出来なかった筈だった。

 そんな沢屋敷の意識を、急変させる出来事が、このレースでおこる事になる。

 ファンファーレが鳴り、通常どおりゲートインして、ゲートが開くとやはりローカルエースは、立ち上がった。

 何とか体勢を整えスタートすると、スタンドでは大爆笑が起きた。

沢屋敷は畜生とひとこと言って、その後を噛み殺すと、馬群を捉

える為、必死にローカルエースの首に力を込めて追った。

 するとローカルエースは、この日もグングンと距離を詰め、簡単に馬群に追いつくと、最後の直線ですんなり沢屋敷の鞭に応えて、伸びた。

 その様子を見て会場は大興奮に包まれた。有馬記念と間違えているのではと言う程の狂気だ。ローカルエースはすぐさま先頭を走る伝説の申し子達を捉えると、傍目から見ればデットヒートに見える接戦を繰り広げた。

素晴らしいレースだった。ローカルエースは、出遅れを考慮すれば、最高のレースを繰り広げた。

首差の2着。勝ったのは1番人気、ディープインパクトの子「ロックインパクト」だった。

沢屋敷は大歓声の中、敗れたローカルエースに乗って引き上げる時、惨めな気持ちと、理解出来ぬ疑問を感じながら軽量室へ向かった。

 沢屋敷にとって、負けて飛ばぬ野次は恥、今までそう思っていた。

 それがこのレースでローカルエースに騎乗し、大きく揺らいだのだ。

 後日発売された新聞に沢屋敷はこう語っていた。

「エースは、レースをしているのではないのかも知れない。」


 沢屋敷が語った言葉は、ローカルエースの評価を大きく落とした。

 勝負根性の無い馬は、毎年数千頭排出されるサラブレット界では生き残ってゆけない。

 沢屋敷は、自身の発言を後悔した。一部報道で、自身の負けを馬のせいにしたとバッシングも起きた。

 それでも、沢屋敷は何度思い返しても原因が見つけられなかった。

 調教では必ずスタートを良く走っていたし、馬体も程よく削ぎ落とされていた。パドックも落ち着いていたし、それでもスタートで彼は立ち上がった。

 並の馬なら立ち上がった時点でほぼ負けは決定するのに、ローカルエースは直ぐに馬群を捉えるし、勝ち負けになる。

 正直、最後の追い比べは、抜群に伸びて、良い意味で手ごたえが無かった。

 それは、まるで沢屋敷の指示で加速しているのでは無く、何か思い立ったように走り出す少年の様な感覚だったのだ。

 その時鞍上で感じた風は、恐ろしい程気持ちが良かった。冬の空気は刺す様に冷たい。その感覚がまるで無く、沢屋敷はローカルエースと共に、空気と一体化した。

 何度考えても負けた理由が解らなくて、一向に沢屋敷を悩ませるだけであった。

 そんな沢屋敷にとって、更に複雑な展開を神は用意していた。

 次走が、弥生賞に決まった。

 同じ中山2000Ⅿで行われる弥生賞は、言わずと知れた皐月賞への出走権を掛けたステップレースである。皐月賞はそれ自体がG1に指定された3歳クラシックの最初の一レースであるが、それと同時に、先に待ち構えているのは日本優駿、即ち日本ダービーである。

 沢屋敷は悩んだ。自身の経験から推測して、ローカルエースに感じる底知れぬ何か、その何かが何なのか解らない。そこに魅力を感じ、惹かれている自分が居る事に気付いている。

 しかし、一年に一度の大一番であり、それはジョッキーにとっても同じであった。

沢屋敷は、リーディングトップでありながら、未だダービーを制した経験が無い。当然悲願を達成したいという思いは日々強まっている。その願いは、何度、東京競馬場のゴール板を抜けても、いつも沢屋敷の頭の中でくぐり切れずに、夢として残り続けている。一日も早く、そのゴール板を、一番で駆け抜けたいと思うのは自然の摂理だった。

そんな沢屋敷にとって、パートナーを選ぶことの重要性は、誰よりも自身が一番に考えていた。お世話になったオーナーや調教師と一緒にその夢を叶えられるのならば、これ程嬉しい事は無いだろう。

自分の夢か、馬をめぐる義理か。沢屋敷の心は、揺れていた。

 幸か不幸か、弥生賞の騎乗依頼は、計3頭。ローカルエース以外の2頭は到底ローカルエースと比べる様な馬では無かったし、ローカルエースよりも先着する事は無かった。

 ただ、気がかりだったのは、この日も沢屋敷の心にモヤモヤと煙る心配の種が晴れる事は無かったという事だ。

 結局、前回より数段レベルアップした仲間達と走ったのにも関わらず、出遅れ、そして驚異的な末脚からの2着という好走。結果、皐月賞への優先出走権を手にしてしまった。ファンも、沢屋敷も、ローカルエースをどう捉えて良いのか解らない。

 一方で、そんなローカルエースに“お坊ちゃん”というあだ名が、新たな層のファンを生みつつあった。

 それは勿論、競馬番組で過度に期待されていた彼を、お笑い芸人が面白可笑しく取り上げたのが切掛けで、「実力は最強クラスなのにいつもあと一歩で負けてしまう。」ところから「皆で応援しよう!」という事になっただけなのだ。

 一緒に番組を盛り上げているアイドル達は、そんなキャッチフレーズに、直ぐに飛び付き、番組として上手く纏まっていた。

 そんな応援を知ってか知らずか、皐月賞では、沢屋敷に対するオファーはローカルエースのみとなった。内心、沢屋敷は騎乗馬を選ぶと言う余計な悩みの種が一つ消えて良かったと胸を撫で下ろした。

 ローカルエースも、調教を普段通り順調にこなしレース当日も、見事世代を代表する馬達を差し切り、鼻差でクラシック路線第一線を制し、日本優駿の勝馬候補に名乗りを上げたのだった。

「日に日に成長して、レースも上手になって来ています。当然ダービーは狙って行きますよ。」

 沢屋敷は、ぱっとしない顔で、それでも力強くアナウンサーの手に持ったマイクにそう語った。

 その言葉に嘘は無かった。

 中山競馬場を何度も走り、小回りの難しいコースを淡々と走る姿から、一つの信頼に似た実感を得ていた。更に、厳しい坂を軽々と上り切るタフネスをここ数レースで披露してくれたのは、これからのこの馬の未来を占う上で悪くない材料だった。

 会場ではインタビューに「沢屋敷!頼んだぞぉ!」と野次とも、応援とも取れぬ大声が幾重にも飛び交い、まるで馬券が丁度散り始めた桜の様に、スタンドを舞っていた。

 沢屋敷は東京に思いを乗せ、その野次や舞い散る外れ馬券に手を振った。

 東京の長く、そして均整の取れた左回りの直線。ローカルエースにとって初めてのタイプのコースなだけに、その年の沢屋敷はデビュー当時の青い日に戻った様な気分に浸っているのであった。


 お笑い芸人の宣伝の影響もあってか、デビュー前の期待とは少し違ったものの、ローカルエースの人気は再燃していた。

 皐月賞を勝っただけの馬であったのに、キャラクターグッズは、他の名馬を売り上げで凌いだ。

 ダービー当日は、パドックを見ようと押しかけた人々が、スタンドでは収まりきらず、パドックを挟むスタンドと京王線の駅の間を繋ぐ連絡通路まで溜まって、警備員が声掛けをする始末であった。

 京王線の駅を降りてすぐに見える金色の馬像が、まるでローカルエースの様だと、記念撮影の列も出来た。

 一方で、それほどまでに人気になった事とは裏腹に、オッズは2点台に留まった。

 競馬評論家からの支持は浅く、幾度もスタート出遅れからの2着を経験した事や、皐月賞も鼻差の辛勝だった事が影響した。初めての東京で、スピード勝負が予想され、距離も未経験の2400Ⅿときていた。当然の予想に思えた。

 レースが近づくにつれ、ただでさえ多い人々の数がどこまでも増え続け、そして溢れた。

 それはまるでローカルエースの故郷にある、北方の青い森林の様に、期待と言う風に揺れ、そして騒めいていた。

 3歳の若駒達の、頂点に君臨する18頭の中で、ローカルエースは一際輝いた。

 太陽がそのまま地上に降りたような栗毛は、先導する2頭の白馬の存在を無にする迫力を持っていた。

 2番人気のディープインパクトの子、ロックインパクトは3.2倍、3人気のウイナーズウィングも4倍と、実力の拮抗したレースとなり、森の住民たちは大いに議論を沸かせた。

「1人気の馬ぁは、皐月賞勝ったゆうても、それだけやろ。」

 そんな声が聞こえて来た。数字だけ見ればそれ以上でも、それ以下でも無い。ベテランという域に入っている沢屋敷自身も、そう言ったファンの声に心を動かされる事は無かった。

 ただ、淡々と、飄々と、その時を待つばかりである。

 風になる事だけ、人馬一体を何処までも追及してきた。悲願である、日本優駿のゴール板を、誰よりも早く駆け抜けるイメージを、常に練り続けていた。

 返し馬を行いながら、滲む汗を飛ばす春の風を感じていると、レースを盛り上げる入場のマーチが聞こえていた。東京の弾ける芝を、ローカルエースが楽しんでいる、そう確信した。沢屋敷は自身の鼓動が静まってゆくのを感じた。

 ウォーミングアップにコースを走る返し馬を終え、スタートのゲート前で待機をする頃には、汗で程よく湿ったローカルエースの馬体が、あたかも太陽光を吸収し、それをエネルギーに変えているみたいだった。

「今日のエースは完璧でした。実力を証明出来て嬉しいですし、一緒に頑張って来た陣営に恩返しが出来た事も、自分自身悲願だったレースですので。」

 レース後のインタビューでそう語った沢屋敷の言葉通り、ローカルエースは、キャリアで最高のパフォーマンスを見せた。

 出遅れ無く、ゲートを飛び出た時は歓声が沸いた。一切のかかりも無く、最終コーナーを曲がり、直線へ戻って来た時は、人々の歓喜の嵐を涼しい顔で駆け抜けた。

ローカルエースは、先頭を走るライバル達に追いつくと、嬉しそうに周りを見渡し、脚色を鈍らせた。

それから「ダメだ、エース!」と言って放たれた沢屋敷のこれまでに無い、強烈な鞭に首を振って、ラストスパートをかけた。

2度脚を使った2馬身差の圧勝劇。いつか日本を背負って立つ馬になると言った牧場長の言葉が現実になろうとしていた。

沢屋敷がインタビューで見せた、屈託のない笑顔が、競馬界全体の想いをそのまま表現していた。


 3歳の頂点を極めたローカルエースにとって、その称号はどんな意味があったのだろうか。

 沢屋敷は、自身の欲の上に、再度パートナーの身体に大きな負担を掛けていた事実を受け入れるので精一杯だった。

 最後の直線、ローカルエースの鈍らせた脚を、無理やり鞭で促した。

あの時、ローカルエースは楽しんでいた。馬はその巨体に似合わず、気持ちの弱い動物である。草食動物の本能から、同じサラブレッドが周りにいないと、心配で体調を崩してしまう。

ローカルエースはその傾向が顕著である。だからレースになって、周りで沢山の馬が走っていると、嬉しそうにそれを追い、そして直線では足並みを揃えてしまう。

何度も騎乗している中で、沢屋敷は気付いていた。

 本来、走る為に産まれ、調教を重ね、そして配合を繰り返すサラブレッドの特性に相反する彼の性格は、特異そのものだった。

 それを知らないメディアは、調整ミスで伸びなかった脚を無理やりな騎乗で走らせたと報じ、沢屋敷を責めた。

 どちらでも良かった。沢屋敷にとっては、自身の騎乗馬に自分自身の欲を押し付けて勝利をもぎ取り、そして再び壊してしまった事に変わりがなかったのだ。

 ローカルエースは、再び、鼻血をだして、調整場の牧場で数か月の休養に入ると発表された。

 沢屋敷にとって、初めてのダービー制覇は、いつもローカルエースがもたらす、もやもやの中で感じるすっきりとしない物になったのだった。

 数か月して、ローカルエースの調子が元に戻ってからも、レースの内容は芳しく無かった。

 復帰初戦の神戸新聞杯を4着。ジャパンカップでは11着の大敗。人気投票で辛うじて出馬した有馬記念も全く見せ場なく7着。春の天皇賞を見据えた日経賞で2着と好走するも、本番で馬群に沈み9着。陣営は力のあるローカルエースのダート適正に望みをかけてエントリーをするも、泣かず飛ばずの成績を残した。

 いつしか“お坊ちゃん”の字が新聞を彩る事は無くなり、テレビ番組では、新たな葦毛のスターホースが出現していた。

 末脚が鋭く、北海道の絡みつくような芝をも全く気にせず連勝を重ね、忽ち2歳重賞を勝ち取り、3歳になると勢いそのままダービーを制し、名を一気に轟かせた。

 父親は海外の無名な種牡馬であるが、サンデーサイレンスに埋め尽くされた日本競馬界に新たな流れを生むと期待がかけられていた。

 葦毛と言っても生まれた当初から限りなく白に近く、鬣と尻尾が漆黒に染まったツートンカラーの馬体は、アイドルホースとして、申し分のないルックスだ。

 白馬の王子を連想するという事で、女性向のテレビ企画もいくつか組まれた。男性アイドルが王子様のコスプレをしてその馬に跨り記念撮影をし、視聴者プレゼントとして贈られる内容だ。

 競馬場の売店に並んでいたローカルエースのグッズはいつしか白い馬に埋め尽くされ、消えて行った。

 新聞からも、テレビからも、売店からも追い出されたその金色の馬体は、ひっそりと競馬界を彷徨っていた。

 一体どこに向かっているのかも解らずに、何を目指して走ればよいのかも解らずに、ただ鞭に打たれ走り続けている。

 パートナーも変わり続けた。

 何かに迷い、陣営としても扱い方が解らなくなっているローカルエースに沢屋敷を惹きつける力はもう残っていなかった。

 ベテラン騎手から、新人騎手、技巧派から、思い切りの良いタイプまで、再びローカルエースを勝馬にさせる事が出来た騎手はいなかった。


 ローカルエースが競馬ファンからすっかり忘れ去られた4歳の秋のある日、再びローカルエースの名が、(小さくだが)新聞に掲載された。

 久し振りに芝に復帰し3戦目の毎日王冠で4着と好走した事に気を良くしたオーナーの村山が天皇賞・秋への出走を決めたのだ。

 最も、その根拠は何処までも乏しく、毎日王冠の夜、村山が久々に牧場長の真田を訪ねて、久々に好走したローカルエースの話をつまみに盃を交わした。

 ローカルエースがこの世に生を受けてから、ダービーを勝つまでの葛藤を思い出した。生まれた時は可愛くて、可愛くて仕方が無かった。

 ローカルエースは何故かいつもゴール前で失速する。そんな彼をただひとり、一番でゴールさせる事が出来たのが沢屋敷だ。そんな沢屋敷ですら今や見捨てたローカルエースを諦めきれない。

早熟だと言われても、ずっと見守り続けて来た自分達が諦めきれる訳が無い。

2人の酒は進んだ。

どうにかしてまた、ローカルエースのあの金色の馬体を、大観衆のスタンド前で輝かせてやりたい。

酒に顔を赤らめた2人の中年男の親心だった。

「蛍ちゃんに託してみたらどうだろうか。」

 そう切り出したのは村山だった。

「そんな。きっと下田さん怒りますよ。」

 さっきまで飲んでいた酒が実は水だったのではと疑う程の勢いで表情を固まらせた真田に、方や、こっちは確実に酒であると確信するに充分過ぎるほどべろべろになって「俺はオーナーだ。」と言ってからしゃっくりひとつこぼし、もう滴程も残って無いワンカップを口に運んだ。

 真田は、酒の力では無い汗でずり落ちる自分の眼鏡を左手の人差し指と親指で鼻骨の上にひっかけ直し、チノパンの左ポケットに入ったハンカチを取り出し、汗を拭いた。

 基本的に、馬の管理を全て任せている調教師の下田に、度々無茶をいう事があった。

 そもそも、芝適正がローカルエースには無く、本当はダートの馬だと言い出してダートにエントリーさせたのもオーナーで、その時も小一時間調教師とやりあったと言うのを真田も聞いていた。

 沢屋敷が、ローカルエースを手放したのもそれが原因では無いかと一部メディア(最もこちらも信憑性にかけるが)では取り上げられていた。

 そこに来て、天皇賞秋へのエントリーは兎も角として、若手騎手で、しかも女性を乗せると言ったら、下田の怒り狂う姿が真田の想像に容易かったのだ。

 それでも唯一の救いは、金田蛍がここ最近勝ち星を度々上げる様になってきていた事だ。

 年間100勝等という大台には到底追いつきそうも無かったものの、週に1度は勝つようなペースを続けていた。

 男性に比べて非力で、絶対数の少ない女性騎手が競馬界で男性と同等の成績を残す事は至極まれである。

 それでも金田蛍は、ローカルエースとは対照的に、安定した人気と成績を積み重ねていた。

 四角く大きな顔を真っ赤に染めたオーナーが、ソファーから立ち上がり上機嫌のまま帰った後、残った酒を真田は啜った。

 妻の素子が「色々大変そうね。」と緑茶を持ってくると、脂汗に塗れた顎をゆっくりと下げた。

「下田さん怒らなければいいなぁ。」

 酒に干からびた喉を、緑茶で潤すと、視界がゆっくりと戻って来る。

「お風呂、沸いているからね。」

 台所で翌朝の朝食の仕込みをする素子が言うと、「ああ。」と満足げに真田は言った。

 素子の刻むまな板のリズムと、鈴虫の音が、北の大地の静けさに溶け込み、真田にとって心地よい音となってしみ込んで行った。



 平日、昼間の上野の街は、まるで地方競馬場みたいに人が疎らだ。

 いつもは土日の休日か、通勤途中でしか見る事の無い上野の街も、平日に来ると寺島蓮には、別の街の様に見えた。

 アメ横では、ニュースで見る様な叩き売りも、少ない客相手には馬鹿馬鹿しいのか、やっていない。

 蓮には、妙に歩きやすいのが嬉しかったが、何かを買おうという意欲が沸くとは到底思えなかった。

 アメ横の街は、こんな街だっただろうか。

蓮は社会人になってから、がむしゃらに働いてきた。本命の大学にこそ入れなかったものの、一流と言って問題の無い大学に入り、それなりの成績で卒業した。就職に困る事も無かったし、大学生活は、ほぼ期待通りに過ごせたと言っていいはずだ。それなのに、どこか胸の奥にぶよぶよとした、得体の知れない違和感を残していた。そのぶよぶよが、蓮にとって何なのか消化しきれない内に、入社の4月1日を迎え、新たな世界に飛び込んだ。

そんな“ぶよぶよ”に構っている暇は微塵も無かった。絶えず鳴り続けているコピー機と、パソコンのキーボードの音。タバコと酒の匂いをスーツに纏わりつけた中年男性が、ずらりと並んだデスクには、A4用紙が山積みになっていた。べっとりと化粧に覆われた女たちは、それまで蓮が付き合って来た女のどれとも違った。香水の科学的な臭いを撒き散らせながら、嘘に塗れた声で、電話の受話器に話しかけていた。

唐突にコピー機が悲鳴を上げた。

「おいおまえ!」

 ひとりの中年が、自分の方を見て叫んだ。瞬時に自分と気付かず、周りを見渡したのを蓮は覚えている。

 中年男は怒り狂った。

「お前だよ、お前。お前意外に誰がいるんだ。なんでコピー機が空になる前に補充しておかないんだ。役立たずめ。」

 意味も解らず、立ち上がり、怒鳴られながら、補充する為のA4用紙を探した。

 苦笑いする他の中年男の笑顔が、冷たく感じられた。

 あれから10年以上経った。

 当時好きだったハイネケンや、バドワイザーを飲む機会もめっきり減って、今では生か瓶か。それで良くなった。

 異様な程に多国籍なこの街で、風に乗って薫る異文化の調味料の匂いは、蓮の記憶をくすぐり、蘇らせた。今でも、この道を歩いていれば、ひょいと友人が現れて、そのまま近くの韓国屋台でも、タイレストランでも入って、一杯始まってしまいそうだ。

 上野の街は、今日の夜も変わらず普段どおりに上野である為に、太陽の明るいうちから店先で、前掛けを付けた飲食店の従業員がせっせと準備に精を出している。

 朝、自宅を出た時は黄色く輝いていた太陽が、まだ幾分も経っていないと思っていたのに、蓮の真上に登っていて、白く輝いていた。

 時計の針を見て、待ち合わせの13時までの残された時間を確認する。1時間を切っていた。このまま今日もあっという間に過ぎ、直ぐに明日になってしまうのだろう、と蓮は思った。

 休みの日の時間は、もっとゆっくりだった筈だった。


 蓮には貴という友達が居た。貴はいつも変な帽子を被って、自慢げに蓮に見せた。ある時は、どこかの不動産会社の社長から貰ったアルマーニのハットであったり、ある時は、有名スポーツ選手のマネージャーから貰った選手の御下がりであったりした。

 どう見ても、アメ横のどこかで買った1980円の帽子にしか見えなかったが、蓮にとってはそれがどうでも良く、寧ろ彼の広がり続ける話を聞いている事の方が興味深かった。

 貴と話す時間はいつも特別だった。生きているこの時間がゆっくりと大きく、そして長く引き伸ばされて、料理を作る中国人シェフや、和食料理人も、そしてバーのマスターも別の世界の住人になってしまう。いつも貴と、蓮と、貴がナンパしてきた女と、何故か引っ付いて来る知らない男とだけが、その時間に居座る事が出来た。

 でも最後はいつも、貴と蓮だけになっていた。

朝にはG1が終わった後みたいに、新聞や居酒屋のクーポン券の散らばった殺風景な上野の街を、2人で歩いた。

「あの女、良い女だったな。」

 蓮が言うと、貴は気持ちよさそうに空を仰いだ。

「あの男が持って帰っちまったんじゃねぇか。」

 いつの間にか消えた女の事を蓮が聞くと貴はいつも同じ様に答えた。

「別に、またどっかで探して来るさ。それよりな…」

 それよりな、と言って貴は未来の話をするのが好きだった。

 蓮は知っていた。貴は、女に執着が無かったのだ。

 貴はそれ程顔立ちが整っている方でもないのに、いつも引っ掻けてくる女は、蓮がどんなに努力しても一生捕まえられないと思うような女ばかりだったから、蓮は不思議だった。どこから連れて来るのかも解らないし、必ず連れてくるから、貴と知り合って1年位した時には、もう気にしなくなっていた。

 いつも自分の好きなデザインの話を始めると止まらなくなり、彼女に一途な貴を、蓮は尊敬していた。

 都内の大学の経済学部だった蓮と、デザインの専門学生だった貴の価値観は、どこか大きくずれていた。

 貴はよく、蓮をつまらないと言った。特に何か目的があって大学を選んだ訳でもなく、大学で出来た彼女ともあまり遊びにも行かなかった。蓮もそれに反論するつもりも無く、自分はつまらない奴だと言った。

 そんな蓮を、貴は良く上野に呼び出した。呼び出すときはいつも突然で、ある時は洋服を見たいと言ったり、ある時は美術館に行きたいと言ったりした。どうして彼女といかないのかと問うと、毎日会っていたら嫌いになるだろと言って笑っていた。

 それは嘘だと蓮は思った。蓮は、毎日彼女と会っていなかった。会っていなかったのに、それが原因で彼女と別れた。

「そりゃそうだろう。」と貴は笑った。どこまでも落ち込み、沈んで、地球の奥深くまで埋もれて、無くなってしまいたくなっていた自分が阿呆らしくなった。

 少し歩いてから、蓮は、アメ横を少し外れた喫茶店に、待ち合わせよりも少し早く入った。カウンターでアイスのアメリカンを注文し、砂糖とガムシロップを断った。

 店内は特にすいている訳では無かったのに、奥の向かい合った深めのイージーチェアが、2人分不自然に空いていたので、そこで待つことにした。

 ぼんやりとしたオレンジの照明が、壁に鈍く反射し穏やかな空間を創り出している。

 蓮は、ようやくゆったりとした気持ちで、背もたれに体と心を預けられるような気がした。

 朝、駅で購入したスポーツ誌を取り出し、読んでいた途中の記事に目を通す。

 カラフルに、異様な程賑やかに装飾された馬柱に、騎手の顔がプリントされている。

 ローカルエースという、写真で見ただけの、名前だけ知っている馬の欄には、顎の細い女騎手の写真があった。一面見出しの女に違いなかった。

蓮は腕時計で時間を確認してから、本文を読み進めた。

“毎日王冠で4着のローカルエースは美浦南Aコースを周回後、坂路を行った。軽快なフットワークを見せ66秒7をマークした。下田調教師は「ダービーを勝った時に近い状態まで戻って来ている。とてもいいです。」と自身あり気。「10番という枠番も悪くないし、あとは展開次第でどうなるか。はやめの勝負が出来れば。」と復活勝利に期待を高めていた。”

 蓮はローカルエースの欄を読み終えると、軽く他の馬の欄を流し見た。明らかに、ローカルエースは、本命とは捉えられていない。

 恐らく、馬柱に1と書かれたピンクのマスをずらり並べたウイナーズロックという同世代の馬がそれなのだろう。そして、もう一頭ツートンカラーの新星がいる。

 入厩前、テレビ番組の企画で、その毛色から、クッキープリンスと命名された今年の3歳最強馬。ダービーを制し、満を持して天皇賞秋へ乗り込む彼の背中には、天才、沢屋敷が乗る事になっている。

 新聞を読む限り、かつてのスターホースのローカルエースは、女性騎手である金田蛍とのタッグを面白がられているだけであり、予想屋の本命は、ウイナーズロックとクッキープリンスであるらしかった。

 競馬コラムと題した欄には“負け組エリートの下剋上!”とあった。かつて人気を博したローカルエースの不調の原因と、今回こそ復活を果たすのだと、予想屋の持論が延々と載っている。

 蓮は、そのインチキ臭い、どこかの誰かの持論を途中まで読むと、腹の奥底から湧きあがる、酸っぱい気持ちを押し殺そうとした。

 女性騎手の写真が放つ、小さな光が、まるで暗闇を彷徨する自分と、対照的に思えたのだ。いつの日か、自分が放つことを止めた光を今でも彼女が放っていて、その光が、自分を何処までも惨めな気分に誘い込んでいる様に感じるのだ。

 白く細い顔に、鋭く切り込まれた2つの眼が、蓮へと視線を放つ。それが懐かしく、そして切ない思い出を呼び覚ます。

 席に着いてからどれ程の時間が経過したのかも解らない。ぼんやりと灯る照明の下で、蓮は新聞をいつまでも眺めた。

 喫茶店のクラシックな内装に、オブジェが設置されたかの様に、どんと座り続ける彼を、他の客や店員も、まるで石造の様に扱った。

 タバコの煙ですら、彼に近寄らず、その世界は独立していた。

 いつまでもそうやって彼は座り続けている様に思えた。誰もがそう思っていた。そんな筈は無いのに、それが自然に思えた。

 そんな時、すたすたと、歩み寄る、人影がひとつあった。

 ウエストラインがくっきり解る、タイトな白いパンツに、ブルーのシャツを羽織ったその女性は、背中まで伸びた黒く長い髪から勾玉の様に妖艶な顔を覗かせている。そのくっきりと大きな瞳の上には、それを強調する様に太い眉が走っていた。

 女性は、オブジェになった蓮の近くまで行くと、彼の顔と新聞の前に手を差し込み、2、3度シェイクした。

 蓮が驚いて目を瞬かせると、嬉しそうにその妖艶な顔を弾かせて「お待たせ!」と言った。

 蓮は、慌てて彼女の方を向き「待ってないよ。」と言った。

女性はまた笑い、栗色の鞄を蓮の向かい側の席に置くと「コーヒー買って来てもいい?」と聞いた。蓮が頷くと、鞄から財布を取り出して再びすたすたと去って行った。

蓮は彼女の振りまく香水の匂いが、タバコの臭いに変わると、自分の読んでいた新聞を畳んで尻の下に敷いた。

蓮は、高鳴る自分の胸中が、実は彼女が現れて、悪戯にセクシーな香水を振りまく前に起きていた事実に、戸惑いを隠せないのであった。


2章

 数分の内に、彼女は戻って来たが、蓮の頭はすっかり切り替える事が出来ていた。

水になった自分のコーヒーをとりあえず少し啜り、彼女の方を見ると直ぐに目があった。

「なに読んでたの。見せてよ。」

 女が言った。

 蓮は、一度尻に敷いたスポーツ誌を、女に渡した。女は、明るくも、暗くもない、あえて言うならば涼しい表情で新聞を捲った。

 何枚か捲ると、にこりと笑い、新聞を蓮に返した。

「競馬、やるの?」

 自然な疑問であった。蓮は彼女と会ってから、競馬をした事が無かったし、するとも言っていなかった。

「いや、少し気になっただけ。」と蓮は言った。

 蓮の言葉に女は顔をくしゃくしゃにして笑うと「おじさんみたいね。」と言った。だから蓮も負けじと「おじさんだからね。」と言った。

 女とは、異業種交流会で知り合った。

 蓮の会社に居た同期で、いやに独立心旺盛だった仲間が、良い機会だからと蓮を誘ったのだ。

 場所は、渋谷駅から少し離れたホテルにあるパーティールームを使って行われた。無駄に豪勢なシャンデリアが吊るされたその部屋で、スーツに身を包んだ男女が、無造作に立食用のテーブルを囲んでいた。

それぞれが名刺の交換や、互いの仕事の話を交わし、酒に酔ってくれば、気の合う仲間と2次会にいったりするものもいた。

 そこで交わされる会話の殆どが、不自然に輝いていて、自分も輝かなければいけないように思えて、それが蓮にとっては、物凄く窮屈で、強い虚無感を覚えてならなかった。

 段々と、周囲の装飾が、そんな自分と同じ、チープなものに見えて来て、そんなところに集まる自分達の価値をそのまま表している様にすら思えて来た。

「なぁ、あの人達のところにいかないか。」

 そう言って同期の促す先に女は居たのだ。蓮にとっては誰の所へ行こうと関係無かった。独立なんてするつもりもなく、今の会社で“そこそこ”出世して、定年に退職出来ればそれで良いと思っていたし、必ずしも独立が成功だと思っていなかった。だからその誘いに乗る理由も、断る理由も、特に無かった。蓮と同期は流れるままに、女の群れに話しかけた。

「初めまして、佐々木ののと申します。」

 数人の若い女の群れの中で一際美しかった彼女はそう名乗った。余りの美しさに、目をじっと見たまま固まってしまった蓮に同期や、他の女たちが笑った。余りの恥ずかしさに普段笑わない蓮も、笑って隠すしかなかった。それから暫く情報交換という名の無駄話をして、連絡先をそれぞれ交換した。蓮はそれで十分だった。同期もどこか満足げだった。

結局その日は何も無く帰った筈だったのに、翌日、佐々木からだけ、連絡が来た。

“昨日は有難う御座いました。是非これからも仲良くして頂けると嬉しいです。”

 蓮は、直ぐに返事を返した。

 学生時代別れた彼女と連絡は取っていたものの、彼女は彼女で自分の人生が楽しい様で、全く相手にされなかった。

 職場の女はどれも蓮の眼に魅力的には写らず、恋愛なんてとっくに忘れ去っていた。

 だから佐々木の連絡は、仕事の成功と同じ位嬉しかったし、胸の奥を爽やかな空気が包み込むような感覚に襲われた。

 何度かデートを重ねる内に、佐々木の色々な事が解って来た。

 勤め先はエステを経営する会社の本部で受付をしている。先日まで付き合っていた男性とは、金銭感覚のズレや、将来設計を考える上で、その無計画さが耐えられず別れたと言った。蓮は少し焦った。  

歳は蓮の2つ上だった。とてもそのようには見えなかった。料理が趣味で、特に地中海料理が好きだと言った。是非今度家に食べに来て欲しいと言った。蓮は勿論と即答した。白い肌に真っ黒な髪や、くっきりとした眉と目が走る顔立ちは、原色の洋服がとても良く似合った。すっきりとしたボディラインをキープしているのは、流石エステの会社員だと蓮は思った。何かしているのかと聞くと、週末はヨガの教室に通っているが、それだけだと言った。それなのに、佐々木はよく食べた。自分で作った料理は勿論、蓮といったイタリアンでも、ラーメンでも、鍋でもなんでも食べた。そんな彼女に蓮は魅かれて行ったのだった。

 佐々木は、クリームがぎっちりつまったコーヒーベースのフラッペを啜りながら、新聞を眺めている。

 店内は、佐々木の飲んでいる飲み物の様に、ねっとりとした空気が充満していて、溶けて行くミルクの様に、客の吐くタバコの煙が漂っていた。

「このレースって凄いの?」

 佐々木の問いに、蓮は腕を組んだまま頷いた。

「ふーん。」

 佐々木は、机に置かれた新聞を眺めながら、カップの中をぐるぐるとかき混ぜる。蓮はそれを見て、まるで佐々木が自分の頭の中に散らばるパーツを整理しているみたいに見えた。一方で、ゆっくりと粒子状の氷が溶けて、クリームと液体が混ざり合って行く様を見ていると、それが、佐々木が何かに納得していく過程に思えた。

 それから暫くして、佐々木はこのレースに連れて行けと言い出した。蓮は全く予想外の答えに困惑した。

 佐々木は金に厳しかった。簡単に言えばケチだった。どこまでもケチで、時々蓮の渡したプレゼントの価格にも文句を付けた。ただ、それでも、気持ちが嬉しいと最後は喜んでくれたから、蓮は胸を撫で下ろしていたが、そんな佐々木が競馬に連れて行けと言い出した。不自然極まりない出来事に思えた。

「駄目?」

 佐々木の問いに、無表情を貫くのは、蓮にとって至難の業だった。佐々木の眼は、まるで蓮の心を見透かす高性能機器の様に、ぴたりと照準が固まって動かない。時間が止まっているように思えた。

「駄目じゃないけど、ギャンブルだよ。」

「楽しそうじゃない。」

 一歩も引かない佐々木の笑顔が不気味でならなかった。いつか語った別れた彼氏の話が蘇る。

 実際蓮は、金銭に関してだらしない訳では無かった。同世代に比べれば、将来を見据え貯金もしている方だろう。年収だって標準を上回っているし、会社も大きい。でも、心の奥底でそんな自分のつまらなさを毎日感じていた。

 佐々木の眼が、そんな自分の低欲な心を見透かしている気がするのだ。

 スポーツ誌を見た時の彼女の顔が、鮮明に残っている。彼女の心は決して競馬を楽しみに行こうなんて純粋なものでは無いのではないか。そう蓮は疑っていた。

「あ、女の子の騎手もいるじゃん!」

 淀む蓮の心とは裏腹に、佐々木は勝手に盛り上がっていた。蓮は一人盛り上がる佐々木を見てふう、と息を吐く。全て水になったカップの中をみて、そこに微かに浮かぶ自分の顔を見て笑った。

「お前と行く競馬場、新鮮だな。」

 蓮はわざと明るく言ってみた。そんな蓮を見てあははと佐々木が笑う。

 コーヒーもミルクも、混ざってしまった様な2人をとりまく空気を、蓮は楽しめない。生クリームやら、フレーバーの効いたシロップにアーモンド。そんな複雑な飲み物を、佐々木は美味しそうに飲んでいる。

「美味しい?」

 蓮が聞くと、佐々木はこくりと頷いた。

「美味しいよ。飲む?」

 無邪気な顔だった。さっきまでの緊張の糸が、嘘の様に緩んだ気がした。蓮が、佐々木からカップを受け取ろうと手を伸ばすと、自分の身体からほんの一瞬、汗の臭いがした。歳を取ったなと思った。

 受け取ったカップの飲み物を、ストローで啜ると、ゆっくりと這い上がってきた。ねっとりと濃くて甘い、不思議な飲み物だ。口の中で、既に混ざってしまったそれらの味覚を分解する。

「ウン、美味しいね。」

 蓮はそう自分と佐々木に嘘を付いた。また、あははと佐々木は笑った。

「じゃあ、今週日曜日空けとくね。」

 そう言って栗色の皮で出来た鞄から、真っ赤な手帳を出すと、予定を書き出した。

 その真っ赤な手帳に書き込んでいる姿を見て、まさか本当に“佐々木と競馬場でデートする事に”なるなんてと蓮は思った。

 佐々木は、新聞を読むときの様に、涼しげな顔で、予定を書き込んでいた。その表情を見る度、いつかこの女性を、自分の家族に紹介する日がくるのだろうか、と想像した。きっと家族は気に入ると、蓮は思った。仕事もそれなりにこなしている。休みは少ないし、毎日帰りも遅いが、体調を崩す事も特に無かった。趣味も特に無いが、こうやって佐々木と会えればそれで幸せだった。

 佐々木と目が合った。思わず蓮はにこりと笑みを返すと、不思議そうに見つめる。その表情が何もかも忘れさせる。

「そろそろ行かないと、美術館見る時間無くなるね。」

 そう言って蓮は立ち上がった。

「あ、待って。」

 佐々木は慌てて残りのドリンクを飲み干すと、手帳とペンを鞄にしまい、上着を羽織った。

 蓮は再び、スポーツ誌を手に取り、見出しを見る。

そんな蓮に「楽しみだね。」と佐々木は声を掛けた。

「ああ。」と言って蓮は新聞をゴミ箱の中に放り込んだ。


 天皇賞が行われる数か月前の夏、蓮は遠く離れた東北の地に居た。

 辺りを、青々と茂る林に覆われたコンクリートの上に、屋根が付けられただけの簡素な無人駅で、あと数十分来ない電車を待っていた。

 どこからか聞こえて来る小川のせせらぎと、甲子園中継の音だけが無垢な空間に漂い続けている。

 緑の香りに染まった空気が、落ち着いた熱を帯びて、ポロシャツの間をすり抜けて行くと、東京を離れた事を実感する事が出来た。

 蓮が、2つ並んだ4人掛けの木製ベンチに腰を掛けて、遠くの景色を眺めていると、いつの間にか1人の少女が、もう一つのベンチに座っていた。

少女は大人しく、恐らく蓮と同じ電車を待っている。茜色のジャージに身を包んだ彼女は、地元の中学生らしかった。スマートフォンを手に、変えられぬ時間を少しでも自分の意の物にしようとしている様に見えた。見慣れた景色には、興味が無いのだろうなと蓮は思った。それも当然に思えた。

少女が来てからまた暫くすると、まるで仲間を追って集まって来た赤トンボの様に、ちょこんと少女の横へ、もう一人少女が座った。

2人は蓮に気を使っているのか、それとも無人駅が余りに静かすぎる為か、こそこそと何かを話している。どうやらそれはクラスの恋愛事情やら、クラスの派閥の話だったりするようで、蓮を微笑ましく、穏やかな気持ちにさせる。

 蓮の子供の頃もそうだった。女子はいつもそうやって、集まって、何やら話していた。何を話していたのか、蓮ははっきりとは覚えていなかったが、きっとこの少女達のように、話していたのだろうと思った。男子がちょっかいを出せば、その時もやっぱりトンボの様に散って、また集まった。

彼女達はいつも、自分達を幸せでは無いかの様に話している。何かに不満を持っていて、そして、それを嬉しそうに語っている。茜色のジャージに、白の体操服を纏った2人の少女の姿は、大地が育む広大な緑の中で良く映える。その姿と、佐々木の姿が、蓮には重なって見えた。どうしてだかは解らなかった。年齢も、容姿も全く違うのに、同じ様に見えた。

そうしてふと思い立った頃には電車が到着する時間が近づいていた。男も女も、子供から大人まで、この広大な土地の何処へ隠れていたのか、不思議な程、集まっていた。

学生服を着る子供と、ジャージの子供たちは、皆同じ、地元の中学生らしかった。互いが、互いの存在を認め合いながらも、それぞれが特定の友達と居て、それ以外は無視している様にも見える。

蓮は、そんな少年達をみると、忘れかけていた窮屈な感情を思いだし、背中から心臓を掴まれるような気分になった。それはきっと蓮が生きている限り、持ち続けるのであろう感情に違いなく、解放されることの無い、呪縛に思えた。

やがて、けたたましい金属音を上げながら現れた、2両編成のローカル線が透明な泉の様に静粛な空気を劈いた。

学生たちは、わいわいはしゃぎ、誰かの名前を呼びながら、入り口付近を占領して、それに大人や、老人が続いた。

蓮も、彼等に続き、塗装の剥げた車両に乗り込むと、空いていたボックス席の窓側に腰かけた。

列車は、再び轟音を放ちながら線路を行く。

坊主頭の少年が勢いよく窓を開ければ、列車が切り裂く空気が吹き込んできた。そしてそれは少年の意図とは関係なく、人々に幸福を齎す。

蓮も窓を開けた。そこから見える景色を、出来るだけ近くで見たかったからだ。空気を、生のまま、味わいたかった。腹いっぱい吸っても、身体に良さそうな、そんな高級で新鮮な空気を食いたかった。吸えば、吸う程、社会の泥に汚れた自身の心の砂抜きが出来る様に思えた。本当は、ちっともあの頃と変わっていないのかも知れない。そんな自分に気付いているからこそ、そうやってあの頃に、少しでも戻る事が出来たならと思って、そうしているのかも知れないと蓮は思った。

過ぎゆく田んぼや、野山が、まるで自分の生きて来た時間を巻き戻すかのように見える。

まだ少年だった夏の日に、蓮は初めて自転車を買って貰った。歓喜の余り、自転車に飛び乗るとすぐに家を飛び出た。それから親友の家まで行って、愛車を見せると、2人で川辺に向かった。川沿いを走っていたのに、いつしか街を越え、見知らぬ土地にいて、挙句帰り方が解らなくなった。蓮は、親友と共に泣きながら走っていると、すれ違ったお巡りさんに声を掛けられた。

「ちょっと止まりなさい。」と近づいて来るその姿に蓮達は、得体の知れない恐怖を感じ、何故か逃げた。追いかけて来るお巡りさんの意図も知らず、逃げ続けた。結局体力がつきて、捕まった後、事情を話すとお巡りさんは大笑いして、家までおくってくれた。家では母親が、真っ赤になりながら待っていて、お巡りさんと共に戻って来た蓮に拳骨を落とし、お巡りさんを慌てさせた。

それから数年が経過した春、高校の入学式へ向かう時も、この電車だった。両親と座る座席の向かいで、同じ中学校から進学した女の子が、数人で話しているのを見ると、恥ずかしくて黙り込んだ。母親は凄く嬉しそうな顔をしていた様に思う。蓮はそれどころじゃ無く、入学式なんて、ボイコットしてしまいたかった。

東京の大学に入学が決まって、東北を発つとき、そこに父の姿は無かった。ひとり心配そうに、駅で手を振る母を、蓮は無視した。  

あの時は、自分で全て解決出来るような気がしていた。東北なんてどのつく程の田舎に、人生で2度と用がないと思い込んでいた。

あれから10年以上が経つ。都会なら、時代と共に激変していく風景も、蓮の故郷は、変わらずそこにあり続ける。寧ろそれを売りにしていた。もし変わったところがあるとするならば、少し離れた郊外に、7年ほど前ショッピングモールが出来た位じゃないのだろうか。 

だから、尚更、記憶がそのまま止まった時計に電池を入れた様に、鮮明に動き出す。駅を1つ超える度に、音も、味も、温度も、色も、蘇る。

蓮の実家の駅に着く頃には、蓮と、あの茜色の少女のうち一人だけになっていた。蓮は、少女の行く先が少し気になったが、相変わらずスマートフォンにかじりついて離れないまま、電車と共に線路の彼方へ消えて行った。

列車が過ぎ去ると、夕日に焼かれた広大な街が顔を表す。その先に広がる大海原まで敷き詰められた家々の中に、蓮の実家はある。

日本は、こんなにも明るい土地だっただろうか。空はこんなにも広く、海の彼方まで広がっている。逆光で黒くなったカモメが、弧を描きながら旋回するのを見るのも久しぶりな気がした。ほんのりと薫る潮の匂いが蓮の心にも沁みた。

迎えは無いので、蓮は一人歩く事にした。正直、タクシーを呼ぶ事も出来た。それでも、蓮は歩く事にした。どうしても歩きたかった。もしここでタクシーを呼んでしまえば、折角思い出しそうな大切な何かを、忘れてしまいそうな気がした。

蓮は、駅を出ると、まるで、沈みゆく夕日を追いかける様に海岸へ一直線に伸びる国道を歩いた。周りに人は無い。野良猫すら姿を現さない。時折すれ違う、大きなワゴン車を見る度に、東京とは違う、長く緩やかな時間を歩いている気がした。

何度も歩いた筈の道が、遠く、果てしないものに感じた。にじみ出る汗が、頬を伝らない。その事実に、時の流れを感じた。

まだ、半分も来ていないのに、足の裏が痛んで、かかとに靴擦れを起こした。

それでも、蓮は爽快感を覚えていた。いつから日本は狭いと思い始めたのか、解らないが、日本はこんなにも大きかった。蓮を照らす夕日と、海から吹き付ける潮風が、今にも蓮を走りださせようとしていた。

目安の交差点に着いた頃、自動販売機で水を買った。蓮が少年だったころから変わらず設置されているその自動販売機には、何処で製造されているかも解らない商品が並んでいる。

蓮は良くそこで、小遣いの入ったコインケースから100円玉を1枚出して水を買った。知らない山の名前が入ったその水は、氷の様に冷えていて、1日中遊んだ少年の喉を潤す最上級の飲み物だった。蓮少年は、コーラより、メロンソーダより、水が一番「おいしい」と知っていた。しかし東京に出て、数年すると、記憶を飛ばしてくれるアルコールが一番美味しいと感じる様になっていた。

蓮は再び歩き始めた。少しの間でいいから、水が「美味しい」と感じていたかった。例えそれが、嘘でも、幻でもいい。それが、この地に帰って来た最大の理由な気がした。

「水が美味しい。」

 蓮は、昔の自分に、そう語り掛けた。


 国道を外れ、住宅街を抜けた辺りに里山を背景に、いかにもと言った感じに広い庭を構えた木造住宅がる。木造と言っても、外壁にしっかりとした陶器やら石素材を使っていて、素人目には木造かどうか直ぐには判断が出来ない。

 ずっしりと、山が隠れてしまうのではと錯覚してしまう程大きなその家の中に、黒いアウディが止められている。

 洋風の柵が差し込まれた白い外壁に、その家は囲まれていた。表札のところまで行くと凛々しい書体で“寺島”と書かれている。

 蓮は、慣れた手つきで鍵を開け、中に入る。すぐさま、くたびれたゴールデンレトリバーがかけて来て、蓮に飛び付いてきた。この地に帰って来て、ここまで歓迎してくれるのは、この犬だけだった。蓮は、大袈裟に犬の頭を数回撫でてやり、歩みを進めた。

 玄関まではキャッチボールが出来そうな程距離があり、大人になった蓮にとっては到底存在価値の理解出来ないものだった。

 蓮はブロンズ色のドアノブを捻り、扉を引いた。鍵は掛っていなかった。

「ただいま。」

 低く響いた声に、指を加えた子供が廊下に現れた。それを直ぐに抱きかかえたお腹の大きい女性が蓮を出迎えた。

「あら、蓮君。帰って来たのね。ほらユリ、挨拶しなさい。」

 そういって子供を揺するのは、この家に蓮の両親と暮らす、兄の奥さんだった。

「お、ユリちゃんおっきくなったね。いくつになったのかな。」

 蓮の問いに、小さな指で一生懸命自己を表現しようとするその姿が、本能的に蓮の表情を緩めた。蓮は可愛さの余り、あははと笑って頭を撫でた。ユリちゃんは、驚いて首を引っ込めた。

 その会話を聞きつけて、白い髪を巻いた母が現れた。現れるなり、「帰って来るなら言わねば。」と怒っていた。蓮もきっとそう言われると思っていたが、家に帰るだけだからと面倒がった。

 蓮の父と兄は、同じ職場に勤めていた。同じ職場と言ってもそれは、何代も前から蓮の家系が繋いできた小さな病院で、蓮も務める筈だった、父の大切な城だ。

「もすこしで帰ってくるから、中に入ってゆっくりしてな。」

 あの時と変わらず、お節介な程に母は蓮に優しかった。たまに遊びに来た看護師や、学校のPTAの人々からは“お医者さんの奥さんらしくない”と評判だった。

 大きな家も、高級車もあるのに、そんなものには到底興味が無く、いつも質素な洋服を着て、自分で作った料理を振る舞うのが好きだった。それでも蓮の友達の母親達は美味しいと喜び、蓮の母は、そんな彼女らの姿を見るのが好きだった。

蓮は、きっと自分はそんな母に似たのだと思っている。きっとそうであって欲しいと願っていた。

 蓮はユリちゃんに手を振って、廊下を抜けると、大袈裟な程広いリビングに行き、大袈裟な程柔らかいソファーに座った。

 母の用意した、ホットウーロン茶を飲みながら2人が帰るのを待つ。蓮が通って来た廊下のすぐ横に掲げられた縦長の大きな振り子時計には、記念贈呈品と刻みこまれている。

 そのすぐ横にある棚の上に、父が学生時代に受賞した様々な賞の記念品が並んでいた。その中に、母と2人で授賞式に参加した写真も掲げられていた。母は、まだ髪を巻いておらず、父も禿げ上がっていなかった。

「遠いから疲れたでしょう。お腹空いているんじゃないの。」

「大丈夫。皆来てから一緒に食べるよ。」

 そう言って、蓮はまた、ウーロン茶を啜った。

 蓮がこの家を出てから、色々と変わっている様だった。もう最後に来たのは何年前か覚えてすらいない。

 兄は大学院を卒業し、父の病院で働き始めた。数年後、大学時代から付き合っていた今の奥さんと結婚したと、東京に遊びに来た時に初めて知らされた。

 蓮が家を出た時にもあった、焦げ茶色のダイニングのテーブルとは別に、リビングに低いちゃぶ台が置かれていて、ユリちゃんの特等席が設けられている。

 テレビの前には、周りの高級家具には似つかない、淡いピンクと黄色の絨毯が敷き詰められ、窓際にはおもちゃ箱が置かれていた。ユリちゃんが、兄夫妻に囲まれながら、ナイフとフォークを持ってはしゃいでいる姿が目に浮かぶ。

 蓮の座るダイニングと、テレビのあるリビングを遮る物は無いが、それでも、そっちに行く気には到底なれなかった。最早、かつて自分のいた家では無く、他人の家である様に思えた。

 蓮はどこか気まずい気持ちを振り払おうと、振り子時計の傍の棚に目線を戻した。そこには皿やら、骨董品が並んでいるが、それは昔から父が趣味で集めているもので、特に珍しいものでも無かった。

 それでもその中に、1点見慣れない絵画が申し訳なさそうに飾られているのを見つけた。

「これ何?」と蓮が母に尋ねると、キッチンに寄りかかって雑誌を読んでいた母が、恥ずかしそうに笑った。

 大きな水辺らしき風景を描いたその絵画は、筆のタッチが優しく、それでも大きなドットを描いていた。

 母は、最近絵画を習い始めたのだと言った。昔から、働き者で、父と、兄2人、蓮の、男4人分の炊事、洗濯、PTA活動と動き回っていた母に、趣味の一つも無かった。

 蓮が東京に出てからは、家事をする量がめっきり減ったと言い、空いた時間を持て余していた。ユリちゃんが産まれてからは、兄のお嫁さんの手伝いをしながら毎日を過ごしていたけれど、働き者の母には物足りなかったらしい。

「飾るの、恥ずかしいんだけどね。」

 そう言って母は、また、雑誌に目を落とした。蓮は、とても良い絵だと思った。

「こんど、俺にも教えてよ。」

 蓮がそう言うと「無理。」とだけ母は言った。蓮は残念そうにソファーにもたれかかった。じっとしているのが苦手なのは、やはり母に似ているのだろうなと、蓮は思った。

 

 暫くして、先に兄の佑都が帰って来た。蓮の顔を見るなり、感情が込み上げたのか失笑して「おかえり。」と言った。

 蓮は「ただいま。」と言った。

 すぐにスウェットに着替えて、ダイニングに戻って来た佑都は、冷蔵庫からビールを出して、チーズをちぎりながら、貪り始めた。

「お前も飲むか。」と言って、「母さん!」と呼ぶ佑都の声を「いや、大丈夫だから。」と遮った。母さんは、既にビールとチーズを手に持っていた。

 佑都は蓮に色々問いかけた。今どんな仕事をしているのか、彼女はいるのか、休みは取れているのか、給料はどれだけ貰えるのか。

 蓮は全て正直に答えた。嘘を付く意味もないし、自分の人生に恥じる事など何も無いと思っていたからだ。それでもきっと、兄と、これから帰って来る父の2人には、何やかんや文句を言われるに違いないと思っていた。

 蓮が大学受験で医大を諦めた時もそうだった。蓮は諦めたとは言いたく無かったが、彼等は諦めたのだと言い張った。

 蓮は、医者は素晴らしい職業だと思っている。それでも、まだ蓮が物心つく前から、そうなる事が決まっていて、そうなる事だけが幸せの様に教えられているのが、最後まで理解出来なかった。

 蓮が母に相談したのは、大学受験を1浪した夏だった。自分は将来、医者では無い、別の仕事に就きたいといった。大学に入って、様々な可能性を試してみたいと思った。自分にどんな選択があるのかを知りたいと言った。

 母は、困り果てた顔をしていた。蓮の意思を尊重してやりたい親心と、岩木山の様に頑固な父親の事を思うと、どうにもしてやれないもどかしさがそこにはあった。

 案の定、父は激怒した。「そんなもの、怠け者の逃げる口実に過ぎない。医者になるのが一番の幸せで、名誉ある生き方だ。」と言い張った。蓮は、とてつもない寂しさに支配された。

 そこで蓮は、父に提案した。偏差値で、早慶と同じかそれ以上を目指す。だから医学部以外の受験を許して欲しいと言った。

 父は、すこぶる不機嫌になりながら、渋々、その条件を飲んだ。

「お前、バカじゃないのか。」と一番上の兄が笑った。

それも無理はない。医学部に入学した長男の佑都と、蓮との間に居る賢人は、デザイナーになると言って専門学校に入学した。その時に、医者の息子として余りにも突拍子のない発想に、父は母に八つ当たりをしたり、佑都や蓮に「お前たちは絶対にあんな風になるな!」と怒鳴り付けたりした。

 佑都の言う“バカ”とはそう言う事だった。寺島家では、医者にならない事は、馬や鹿と同等なのだった。

 蓮はあとから、父も、祖父から散々怒鳴られていたという話を聞いた。代々受け継がれる、医者の家系として、佑都が繋いだそのプライドが、どんな意味を持っているのか、蓮にはまだ理解しきれていなかった。

 そんな父が帰って来て、佑都とテーブルを囲む蓮を見る目は、死んだ家族を見る様な悲しい眼差しに見えた。

「帰っていたのか。」と一言掛けた後、お帰りの言葉も無く、風呂に入った。部屋の空気は一瞬にして重く、緊張したものになった。

「父さん、今日役所の人が病院にみえていたから、疲れているんだよ。」と、佑都がフォローした。蓮は「そうか。」とだけ返した。

 父の頭は、昔から薄かったが、それよりももっと薄くなったなと、蓮は思った。佑都の髪が後退していないのを見て、自分は母似だから大丈夫と言い聞かせた。

 父が上がったら、風呂に入る様に佑都に言われ、そうする事にした。もし、佑都が先に入ると、父と2人でテーブルに座る事になるかもしれない。とても耐えられなかった。

 父が風呂からあがって来てダイニングに顔を表すと、佑都が蓮に風呂へ入るよう促した。蓮はそれに従った。父はうんともすんとも言わず、母の用意した缶ビールに口をつけた。

 蓮が洗面所に着くと、洗濯物籠に父と佑都の洗濯物が無造作に脱ぎ捨てられていた。蓮は、来ていたシャツをそれと混ざらないよう籠の外にそっと置いた。

 鏡に映る自分は、この地を去った時よりもだいぶ白く、そして肥えたようだった。学生時代、ランニングの形にくっきりと焼けた肌を見ては、どこかそれが自分の努力の証の様で、見る度に満足感を感じていた。

 同年代の男子よりも一回り細身だった蓮の身体も、今は一サラリーマンの身体として立派に脂肪を蓄えている。重力に負けた腹が、もうあの頃の様に走れないのだと自分に主張している様にも思えた。

 顔も、少し大きくなった気がする。鼻の両サイドから綺麗な放物線を描いて豊齢線が刻み込まれている。鏡の自分に向かってにこりと笑って隠そうとすれば、目尻の横に、別の皺が現れた。

 パンツを脱いで、シャツに重ねて、上半身よりも小さくなった下半身を露わにすると、もう鏡を見る気にはなれない。いつも自分の部屋にいる時には、さっぱり気にしなかった事だが、やはり蓮は当たり前に、歳を取っていた。

 学生時代、蓮はいつも汗だくの身体で帰宅すると、洗濯機に着ている下着と、鞄の中の汗にまみれたユニフォームをぶち込んで、子ヤギの様に風呂に駆け込んでいた。

 当時陸上部でマラソンをしていた蓮は、何よりも走る事が好きだった。ゆっくりとウォーミングアップを行って、徐々にエンジンを掛けて行けば、まるで自分の身体が、高性能マシンの様に大地を走り抜けた。

 脹脛に強力なバネが入っていて、つま先が地面を捉えると、それに瞬時に反応し、50kgの身体を自由自在に走らせることが出来るみたいだった。

 空気は風となり、蓮の身体を取り込んで、疾風の如く吹き荒れた。目的なんて解らなかった。十代の蓮には、目的などいらなかった。ただ、風になれるその特別な時間を少しでも長く感じていたかっただけなのだ。

 蓮が道を駆け抜ければ、誰もが振り向いた。風意外、付いて来ることが出来るものはいなかった。遠く海まで続く道のりも、いや、その先に広がる海までも、蓮は走って行けるのではないかと思った。

 そうやって毎日走る時間は、蓮にとって、もっとも重要で尊いものであった。

 蓮は数字が嫌いだった。嫌いと言うのは、数学が苦手とかいうことではない。

 蓮の周りの人間は大抵、蓮の事を数字で判断している様に、蓮は思っていたのだ。蓮がいつもテストで100点をとったり、学年で上位10人に入ったりとしていると、尊敬の眼差しで蓮を見た。

 父はその最たるものであった。いつもテストの週になると、終わってから、蓮に結果を報告させた。

テストの点数が低いと、どうして取れなかったのかを問われたし、その内容が気に食わないと、どれだけの時間を勉強に費やして、どれだけの問題を解いたのか、提出させた。

 だから蓮は、なるべく高得点で、順位も、高くなければならなかった。目的も解らず、ただ只管言われるままに結果を目指してきたのは、マラソンも、勉強も同じだった。

 同じクラスの生徒は、一定の仲の良い友達を除いて、蓮のことを「勉強が出来る人」とか、「マラソンで県大会上位の人」という見方をしていた。

 蓮はそんな自分を、誇りに思っていたが、それと同時に、自分が何なのか、何のために努力をしているのかが、時々解らなくなっていた。

 蓮は医者になるのだと、父は言った。蓮はそれが当たり前になる一方で、オリンピックや、世界陸上で歓喜の渦の中、国旗を羽織る外国人選手に憧れた。

 彼等の見ている景色に、想像が膨らんだ。彼等は臨んで走っているのだろうか。もしそうであるとするならば、母国の期待を背負い、その強靭な肉体を活かして、走り抜いたその先にみえているものは何なのだろうか。蓮に、その人生を歩む選択肢は、無いのだろうか。

 父はスポーツ中継が大嫌いだった。実況の煽るような声と、スポーツそのものの“無意味さ”を嫌った。

「あんな事して、何になるんだ。スポンサーの金稼ぎに過ぎない。」と父はいつも言った。

「そんなもの見ても、大企業を潤す手助けをしているだけだ。勉強しなさい。」そういって、自室に戻って行った。

 佑都がそう感じていたか定かではないが、彼もスポーツに興味がある訳でも無さそうだったし、賢人も、同じだった。2人とも、そこにストレスを感じていない点で、蓮とは感覚がかけ離れていた。

 優等生だった蓮に、最初の転機が訪れたのは高校2年生の夏休み明けの時だった。大学受験を控えた蓮の進路相談で、当時進路を担当していた教諭の放った一言が、蓮の心を大きく揺さぶった。

「寺島君は、全ての科目で優秀な成績を残していますし、部活動でもそれは同じです。選択肢はいくらでもあります。東京の有名校も十分狙えますよ。」

 とても穏やかな表情で、それでも真剣に話す教諭の言葉は、蓮の脳裏に鮮明に残っていた。東京の有名校の中には、年末、駅伝で全国放送されるレースの常連校もある。それに、東京は修学旅行でしか行ったことの無い土地で、そこで暮らし、学問を学ぶ事は想像の域でしか無かった。

 それでも一緒に教諭の話を聞いていた母の表情は、あからさまに引きつっていた。その理由が蓮には解っていたし、それは蓮の四肢から力を奪い去っていくものだった。

 家に帰り、母が父にその話を告げると、父は案の定怒り狂った。

「なんだそいつは。一教師のくせに、他人の人生に余計なちゃちゃを入れやがって。蓮は医者になる。」

 テレビを見て、聞こえないふりをした。自分の可能性が、本当は医者だけでは無いと知った蓮には、せめてその日だけでも聞きたくない言葉だった。

 母が、その時どんな顔をしたか蓮は知らない。それでも母だけは、自分の幸せを願ってくれていると信じていた。そうでなければ、自分は生きて行く自信を持つことが出来ないような気がした。

 蓮は、その日のベッドの中で、教諭の表情と、言葉を何度も思い出していた。自分の可能性を示唆してくれた。今まで自分を決めつけて来た数字が、実は自分を広げてくれていた。教諭が放った言葉は、数字の持つ強大な力を示していた。

 蓮は暗闇の中で想像した。有名大学の一員として年末全国ネットで走る自分の姿。様々なタイプの、今まで会った事の無い友達と、学ぶ自分の姿を。まだ見ぬ、親友、恋人の姿を。

 自分は、何がしたいのか考えていると、蓮の頭は休むことを躊躇った。全身から汗が噴き出て、鼓動が早くなっていった。

“医者になりたくない”とこの時初めて蓮は思った。


 湯船に使って、湯気の籠る浴室に浸っていると、熱によって意識がどこか遠くにいってしまったようだった。

 蓮は2、3度顔を湯船のお湯で濯ぐとゆっくりと立ち上り、風呂場を出た。鏡に映る白かった肉体は、茹蛸の様に赤く染まっている。

 バスタオルで髪を拭いてから、ゆっくりと下に向かって体に付着した水滴を拭い取っていった。

 新しい下着を身に着け、寝間着に着替えて廊下に出ると、ぐっと下がった気温が、心地よかった。

 廊下を抜けてダイニングに戻ると、父と兄が向かい合って何かを話していた。どうやら病院の経営について話しているらしかった。

 佑都は、蓮を気遣ってか、風呂は後で入ると言った。ダイニングテーブルで、久々に家族そろって夕食をとろうと言ったのだ。父は、やはり特に何も言わなかった。

 キッチンで母と、佑都の奥さんが夕飯の支度をしている間、佑都は膝にユリちゃんを乗せていて、父はあまり緩むことの無い目尻を緩めて、その様子を眺めている。

 次々に運ばれてくる料理は、かつて蓮が子供の頃食べていた料理とは少し内容が違って、やはりそれは佑都の奥さんの影響を思わせた。

「仕事はどうなんだ。」

 ようやく口を聞いた父の言葉だった。蓮は上手くいっていると返した。

父は、佑都と同じく詳しく聞いて来た。月収はいくらなのか、休みは取れるのか、貯金はしているのか。蓮はお節介だと思った。

 正直、人に心配されるような給料ではないという自負があった。ただ父が、蓮に言いたかった事は、そういう事では無くて、蓮の選んだ道にケチをつけたいだけだった。

 蓮の仕事は、情報商材を扱った広告代理店だった。流れの早く、移り変わりの激しい業界で生き残る手段の一つとして、あらゆる業種、業界に対応出来る広告代理店という業態に魅力を感じていた。

 蓮がいたのは、その広告代理店の営業部署だ。給料は、基本給だけでは到底暮らしていけない様なものだったが、売れば、同年代では考えられない様な額を手にする事も可能だった。

 それでも、医者の父からすれば、そんなものはギャンブルみたいなものだと言った。いつまでもそんな仕事を続けていける訳が無いし、保障されている訳では無い。そもそも、ネット広告なんて虚業に近いとすら言い放った。

蓮は、怒りを抑え、聞かない振りをしていた。

「佑都を見ろ。」と父は言った。30歳になる前に結婚し、子供ももうすぐで2人目が産まれる。車はベンツに乗っているし、近々家も購入する予定だそうだ。父が言いたいのはそういう事だった。

 佑都の生活は、正に父の言いたかったもの、そのものだったのだ。まるで「お前はどうなんだ。」と言わんばかりに、矢継ぎ早に飛ぶ質問は、あの時と何も変わっていない。納得させる数字が無ければ、父は気が済まないのだ。

 当然、その比較はいつも医者で、他の価値観など中々受け入れてくれない。自分の仕事の楽しさを伝えても、そんなものは「逃げた結果の口実」でしかないらしく、認めてはくれなかった。

 だから蓮は数字が嫌いだった。自分の全てを、何も知らない癖に、数字で判断する父が嫌いだった。

 父がその日の最後にしたのは、結婚の話だった。蓮は咄嗟に、予定が無いと誤魔化した。佐々木の存在は、まだそんな事を意識するようなものでは無かったし、今は仕事の事で目一杯で、現実に、結婚なんて考える余裕が無かった。

 父は、そんな蓮を、男として半人前だと言った。所帯を持たずに、30歳を過ぎてふらふらしているなんて、情けないと言った。蓮は父を納得させる数字が思い浮かばなかった。父に、晩婚化した世の話をするのか。そんな話をする為に戻って来たのかと思うと、馬鹿馬鹿しくなった。

「賢人も賢人だ。訳の解らん仕事をして、そこそこ貰っている様だが、いつか食えなくなって、泣きついて来るに違いない。」

 父はそう言って、日本酒に口を付けた。肌の露出した頭が、少しずつ色付き始めていた。

「男は一国一城の主でなければダメなんだ。解るか蓮。東京で仕事して、一人前になったなんて錯覚しているようじゃ駄目だ。」

「そんなつもりじゃない。」と言いかけて、蓮は止めた。ただでさえ頑固な父が、既にアルコールに支配され始めていた。

 東京なんて、皆が思っている様な街じゃない。そんな理屈が通じる様な時間は、既に通り過ぎていた。

 蓮は、いつの間にかテレビの前に移動したユリちゃんと、佑都の奥さんが食事をとるリビングに目を向けた。無邪気に、口の周りを汚しながら一生懸命、食べ物を頬張る姿が、自分とかけ離れている様に思えた。

 蓮は、佐々木とちゃぶ台の横に座り、父と母が見つめる先で、まだ見ぬ子供を囲んでいる姿を想像した。

それは、あり得ない光景だった。違和感が、曇りガラスのように拭いきれぬ隔たりとなって、邪魔をした。

 それはまだ、佐々木と出会ってから日が浅いせいなのかもしれないが、理由は定かでなかった。まるでそれはテレビ画面の中で、流行りのPOPミュージックを謳いながら踊るアイドルとデートをする様な、そんな感覚に近かった。

 作り上げた幻想でしか無く、心の奥底で、有り得ないと思い込んでいる。そんな事は、微塵も望んでいないのに、そう、決めつけて、拒絶しているのだ。

 望んでいる未来を、心の中で拒絶しているという矛盾。それは蓮が学生の頃から、度々おこる矛盾だった。そんな、自分でも理解不能な心理状態に陥ると、蓮は恐怖した。自分が、望むもの、全てが幻想の内に過ぎ去って、そしていつか何も無くなって、この世か、別の世界か解らないような場所で、一人膨大な感情に押しつぶされてしまうのではないのかと。

 そんな時、蓮はトレーニングウェアに着替えて外に出た。外に出ると、そんな感情の小ささを思い知らされた。

 どこまでも続くコンクリートの道と、実態の知れない、存在すらしていないのかも知れぬ空に挟まれて、自身の小ささを確認した。

 確認して、それから蓮は全てを解放する様に走った。地面を蹴り、自分のちっぽけな体を弾ませ、どこまでも走った。

 東北の夜道は、孤独だった。そんな孤独が、蓮は好きだった。人も、動物も、先生も、父親も、数字すらも・・・何からも自由だった。

 暗闇に包まれながら、蓮は孤独と言う究極の自由の中で、恐怖と、喜びの狭間を味わっていた。いつまでも続く筈の無い、その非日常が、少年だった蓮の心を、抱え込んで、癒してくれるのだった。


 久々に父親と話した翌朝を、蓮はかつて少年時代に、毎朝眠気と格闘を広げていたベッドの上で迎えた。

 昨夜、駅から歩いて疲れたのか、窓から溢れる日差しを心地よく受け止める事が出来た。心なしか、東京のアパートで浴びる日差しよりも、さっぱりとしていると蓮は思った。

 ダイニングでは、10年前と変わらず母がまな板を叩いており、佑都と父が、食パンをかじっていた。

 あの時と変わらぬローカルチャンネルに、耳と、目を張り付かせる2人の姿と、自分の間にある見えない隔たりを、蓮は越えたいとは思えなかった。

 まだ、朝なのに父のスマートフォンは小刻みにメールの受信を知らせる為、懸命に震えている。機体の持ち主である父は牛の様に、あるのかないのか解らない口内の食パンをかじりながら、その内容に目を通している。一通り目を通すと、少しいじり、また目を通していた。

 それは佑都も同じだった。蓮は、2人の邪魔をしないように、ゆっくりと席に座り、母の入れたコーヒーを啜った。

 会話の無い空間を、テレビのアナウンサーの声が埋めている。寧ろ、テレビを点けているのは、その虚無な世界を、少しでも虚しいままにしておかない為にあるようにも思えた。

 その、アナウンサーの声を掻き消す様に、ユリちゃんがどこかで泣いていた。

 喉の奥をビリビリと震わせて、小さな体のずっと奥の方から、絞り出される心の叫びは、やっとの思いで外にでると、空気と建物を振動させて、何かを訴えていた。

 それを聞いた母が、水道で手を洗い、エプロンで手を拭いて、小走りでどこかへ向かって行った。それから間もなくして、泣き止んだユリちゃんと、佑都の奥さんが母と戻って来るまで、父と、佑都は、まるで農場で鶏が鳴いているのを聞くように、あたかもそれが何てことない日常なのだと主張する様に、微動だにしなかった。

「ほぁら、ユリちゃん。ミルクのむかぁ。」

そう言って母が、暖めたミルクをマグカップに入れてユリちゃんに渡すと、ユリちゃんは小さなソーセージの様な手でそれを上手に飲んで、母を安心させてみせた。

 蓮が、久しく見ていない母の顔だった。それでも確かに、いつか見たその顔を蓮はしっかり覚えている。

 今の自分に、母をその顔にさせてやる事が出来るだろうか、と思った。父の言葉が、頭を過った。自分にはその力が無いと、思った。

 母の喜ぶ顔は、あたかも、あの小さなユリちゃんの手がつくりだしている様であり、実際はそうでは無い様な気がしたのだ。今こうして、母の作ったスクランブルエッグを頬張り、コーヒーで流し込むと言った行動においても、おこがましいのではないだろうか。そんな念に、蓮は悩まされていた。

「いつまでこっちにいれるの?」

 父と、佑都が出勤し、一気に静かになった家の中で、母が蓮に聞いた。蓮は、正直2、3日居るつもりで、洋服も用意してきたが、今日、帰ると言った。

「昨日来たばかりじゃない。仕事?」

 残念そうに顔を歪める母に、そうだと言った。特段に急ぐ理由など無かった。それでも、早く家に帰らねばいけないような気がした。

 蓮は、食べた食器を台所に返すと直ぐに東京へ帰る準備をした。

「またくるよ。」

 下駄箱で、蓮がそう言って靴を数回地面に叩きつけると、母は少し笑って頷いた。その表情が、ユリちゃんに向けたそれに似ている様な気がしたが、蓮はそれに気付かぬふりをして、玄関を押し開けて外に出た。

 暫く、ユリちゃん親子と、母親が、蓮の歩くのを見送ってくれていて、蓮がもういいよと、振り返りながら手を挙げるまで、それは続いていた。

 蓮は、シャワーの様に降り注ぐ日差しを浴びながら、でこぼこのコンクリートを登ってゆく。その日差しの暖めた強風が、大海原を旅して来て、それに疲れたかの様に、ねっとりとした塩気を帯びて蓮に覆いかぶさる。

 なつかしい風だった。蓮はその風の持つ人懐っこさに足が重くなっていった。何日も前に降った様な雨が、古いコンクリートのでこぼこに溜まり、真っ直ぐには歩けない。それでも、蓮は駅に向かって歩いた。

 雲に覆われ、それでも尚且つ、その雲を引き裂き漏れる日の光に導かれるように、蓮は歩いた。

 遠くに、子供の姿が見えた。小学生が、丁度、登校する最中だった。その頭にかぶる、帽子と同じように、黄色い声を発しながら、無邪気に駆けずり回る。

 その無邪気で、無限のエネルギーを放ちながら、駆け巡る彼等の背中にも、同じ潮風が、吹き付けていた。その潮風を物ともせず、顔いっぱいに受けながら、大きなはしゃぎ声を上げる姿は、遠い昔に過ぎ去った記憶そのもので、蓮の心と頭を行き来していた。

 蓮には、その潮風を、背中で受け止める以外にどうして良いのか解らなかった。今更、子供の様に顔いっぱいに受け止めるなんて、出来なかった。重くのしかかる潮風の、気持ち良さも、あとで、べっとりと体中を襲う不快感も、振り返れば、そこにある、キラキラと輝く大海原の雄大さも、全て同じだった。

 その潮風を、浴びて、その気持ち良さに素直に、そして真っ直ぐに走り、汗をかき、腹の声から感情の塊をぶちまける子供たちの姿が、蓮の心にのしかかる。

 それでも、蓮は臆することなくその潮風を浴びて歩いた。急いでいる訳でも、焦っている訳でもなく、その重さを楽しんでいた。だから蓮は、昨日の往路よりも、10分程度、遅れて駅に到着した。

無人の券売機で、切符を購入し、階段をあがる。もう、すっかり足の重みは消えて、疲れも無くなっていた。駅のホームから、陽射しが無地のコンクリートで作られた階段を照らすと、グレーと、オレンジのツートン模様が出来上がる。その自然でシンプルなツートンカラーを踏みしめて、ホームにでると、蓮は、絶句した。

昨日と変わらず、そこには大海原が、昨日とは少し違う色で、煌めいている。それは、こうやって、いつまでも、変わらず、脈々と受け継がれてきた景色に違いなかった。良くも悪くも、その景色は蓮を、待ち続けていてくれる。

その雄大さに、蓮は心奪われ、そして感謝し、手を合わせた。自分でも解らぬ言葉にならぬ祈りを、大海原に捧げ、そうして心を潤しながら、蓮はやがてやって来る、帰りの電車を待つことにした。



3章

 すっぽりと空いてしまった時間を、無かったものにしたいような嫌悪感と、空に浮かぶ、絞っていないスポンジの様な雲はとても良く似ていた。あのまま浮かんでいられるはずも無く、きっと誰かがくしゃみをした途端に、あの雲を支えている何かがぷつりと音を立てて壊れ、そしてそのまま落ちて来て、街を洪水にしてしまうのではないかと蓮は思った。

 蓮は、人に比べ、汗っかきな方だった。それでも、大学を卒業し、トレーニングという意味でのランニングを引退してからは、随分と発汗量が減ったと感じてはいたが、それでも汗っかきだと同僚から指摘されていた。

 その為、6月にはそうそうに“クールビズ”に衣替えをして出社していたが、8月に入って太陽が正気を失ってからは、どこにいても、蓮がただそこに存在するだけで汗が噴き出して来た。ハンカチを2枚位持ち歩いていないと心配だった。

 そんな蓮にはひとつの悩みがあった。

 通勤電車の中で、人と密着してしまう事である。朝の通勤時間に、その乗車率が、確実に100%を超してしまっている缶詰の様な電車の中で、どうしても、人と密着してしまう。

 ただでさえ、密着する人々のなかで、その人々一人一人の放つ体温でスチームされる事に相当なストレスと、申し訳なさを感じていた。夏の半袖Yシャツ同士で密着すると、蓮は自分の汗が他人の心を不快にするのではと気になった。

 勿論、体力に余裕がある日は、早起きをして、あまり人の居ない時間を選んで乗車していたが、会社に早く付き過ぎてしまうし、今日に至っては寝坊した。だから蓮は、駅で長い行列に紛れて、東北とは違う、数分に一度やってくる電車を多くの人々と待つ事になった。

 やがてやって来た電車は、まるで実験動物の様な、それこそ死んだ目をしたサラリーマンやOLがぎゅうぎゅうに押し詰められ、身動きが取れなくなっていた。

 蓮は、その光景に気力から、何から根こそぎ奪われ、それからどっと疲労に支配されて、結局その電車を見送る事にした。3台目だった。

蓮が見送るたびに、電車は、知らぬ顔でゆっくり、ゆっくりと走り始めて、そして重力から自由になっていく。はじめは圧倒的に力不足で動き始めた電車も、高い金属の擦れる音を出しながら進み始めると、乗車率を知らないふりをして、いつものスピードを出し、そして駅から消えて行く。

 滑る様に走り去る電車は、まるで優等生の様な顔で、蓮を見つめた。その電車を見送った事を、後悔しているだろうと言わんばかりに、蓮に視線を向けた。

 蓮は、そうやってまた、どっと疲れた。深呼吸をして、リラックスをしようとしても、鼻から入り込んでくる湿気は、マイナスイオンなんて洒落た物では無くて、排気ガスとか、隣にいる老人の屁とか、酒に酔いつぶれた若い女の口臭とか、そう言ったものが風に飛ばされて、天に昇って、複合的に混ざって、また湿気として降ってきている。そんな気がして、大きく吸い込む気になれなかった。

 4つめで、ようやく心を決め(勿論時計に急かされたのもあるが)、電車に乗り込むと、その気持ち悪さはより一層濃厚さを増し、蓮を襲ってきて、それが綺麗な青空すらも、気色の悪いものへと変化させ、やがて苛立ちに変わっていった。

 たった20分の乗車時間が、この上ない苦痛となり、毎朝の様に蓮を襲ってからもうすぐで10年になろうとする。

 よくも10年も耐えたなと思う反面、これでいいのだろうかと自身を疑う日々に、蓮は慣れてきてしまった。自身に遠い昔から、いや、生まれた時から連れ添った持病の様に、その痛みも、辛さも、全て自分自身の一部として受け入れ、何も感じなくなってしまいそうになっている。

 駅の改札を出て、オフィスのある馬鹿みたいに大きなビルに向かう蓮の運命は既に決まっていて、大きなハプニングがあるとすればそれは、嫌なお知らせがあるくらいだろう。

 蓮は少年の頃、教育テレビでアフリカの荒野をヌーが大群を組んで、駆け抜けるシーンを見た事がある。

彼等の生活する地表付近は、余りの熱さに光りが屈折し、グラグラと揺らめいていて、辛うじて生えている草もその揺らめきに勝てない。

 ヌー達は自らが喰い尽くし荒野と変わった大地を、無責任にもあとにし、次の草原を探す。

 その行く先には、いつでもワニやら、ライオンやら、ハイエナと言った捕食者が目を光らせ、くっさい涎を垂れ流しながら、間抜けな個体を探し回っている。

 ヌー達は、そんな捕食者から身を守るために、決して一人になる事はない。例え、その向かっている先が、ワニの群れがいる大河だとしても、迷わず走り続ける。そして、哀れな仔牛が、悲痛な叫びを上げながら、捕食者の命を明日へと繋げるのである。決して、大人のヌー達は謝らない。それが自然の摂理だからだ。ワニも、わざわざ頂きますなんて言わない。

 蓮は、大人になってその意味が良く解った気がする。大人って言うのは、総じてそういう人間が多いものだ。

 改札を出て、駅構内を出ると、まだ8時半だと言うのにギラギラと早朝営業のお日様が、蓮の肌を焼く。

 信号の青い合図を受けて、黒い鞄を下げて、夢では無い何かに引き摺られながらサラリーマンたちが一斉に横断歩道をクロスするその光景は、蓮にはヌーの群れと大差が無いように思えた。

 蓮は、一刻も早くオフィスに着いて、厚化粧の事務さんが注いでくれる冷たい麦茶を飲もうと、ヌーの群れをオーバーラップした。


「おはようございます。」

 そろそろ入社して半年になろうかという、新米社員の朝の挨拶は、依然として衰えを知らない。まるでこれから戦争に行くような気合いを、「おはようございます。」の9文字に乗せて、発射してくる。

 その無差別テロの様な気合いが、全ての社員を飲み込む事で、この会社における上下関係の入り口は始まっている様に思えた。それにまた、新米の彼もその無差別テロの被害者である様にも思えた。

 蓮が席に着き、パソコンに埋め込まれた小さなボタンを押し込んで電源を入れ、起動するまでの間にトイレに行く。そしてそこから帰って来ると、同じ課の事務員が、今日も暑いですねとか言って、麦茶を注いできてくれる。

 とても美味しい麦茶だった。当然の様に、席に着くと事務員が用意してくれるその透明で茶色い液体は、大量生産される安っぽさと、期待の無さ、それ故の安心感が相まって、喉を潤すときに、色んな熱と共に、蓮の心を洗い流してくれた。

 そんな落ち着きも、まだ始業前だと言うのに、一体どこの誰が送っているのかも分からない広告がコピー機から吐き出されると、影を潜める。

 新米社員は、蓮以上に緊張していた。やっぱり彼もヌーの群れの一頭である事に変わりなく、せかせかと動いている事で、ワニの餌食になる恐怖から逃げるしか無かったし、他の方法を知らないのである。

「おはようございます。」

 また発射された。総勢約60人の社員が、同じフロアの中でデスクをずらりと並べて一斉に勤務時間を共にする。つまり、新米は毎朝60回のテロを起こす。そうやって唱える「おはようございます。」が彼を、確実に天国へと導いていく言葉の様に強固なものになっていた。そして、その言葉を、入社して来てからずっと同じように発射してきて、今は貰う側となった人たちは、ただ単に言わなくなっただけであって、その不自然な「おはようございます。」の支配から逃れる事が出来ずに朝を迎える。

「おはようございます。」

 そうやって何度も聞いている内に、段々と慣れてくる筈のその挨拶も、今年の新人が放つと、少しだけ色が違って見えた。

 違ったと言うのは、声が特別大きいとか、変とかそんなちっぽけな事ではなく、気付かなければ、ずっと解らないようなものだった。 

 今年の「おはようございます。」も例年通り、変わらず煩かったし、不自然だった。ただ、今までと違ったのは、全く持って耳障りではない事だ。

 タイミングだろうか、声質だろうか、キーの高さだろうか。蓮は、自身の仕事の準備に取り掛かりながら、いつも中途半端に悩み、それからその疑問を頭の隅に取り敢えず置きっぱなしにしている。

「おはようございます。」

 余りにも不思議だった。楽器を不器用に鳴らしたような、不自然で、下手くそな筈のその挨拶が、浜辺に響く波音の様にすんなりとオフィスに染みこんでいく。

 だから、良い意味で彼には初々しさが無く、毎年の新米品評会みたいな、中年男達の楽しみは、海を眺める様なものに変わってしまった。絶対にそんな事は無いのに、彼の姿が、若い日の自分達と同じだと錯覚して、ずうずうしくも、自己陶酔に浸っているのである。

 蓮もその中の一人だった。新米の姿をみて、若き日の自分を思い浮かべている。それでも蓮の場合、他の中年社員と少し違うのは、そのイメージの重なりが比較的、合致する部類に入っていた事だ。

 少年時代、父親の持つ、医学部進学という絶対的な要求に1年間付き合った後、結果的にその道に進むことは無く、都内の大学の経済学部に蓮は入学した。

 偏差値で六大学に肩を並べる大学の体育会出身、アホみたいな自己顕示欲も無く、見た目も至って普通。非の打ち所のない、大学生といったところだった。

 唯一、若者らしいところと言えば、長距離を走る事が日常となっていたお蔭で、手足にぴっちりとフィットして、袖が少しおじさん達よりも短いスーツを、着こなしている事だった。

 テキパキと仕事をこなし、先輩社員の要求に先回りする能力に長けていた蓮を、オフィスの住人達は可愛がった。無論、営業職である故の宿命で、成績を求められることもあったが、蓮はそれすらも、マラソンの様に、涼しい顔でやってのけていた。

 あの時と、驚く程にオフィスは変わらない。南側に大きく窓を設けた長方形のオフィスは、その反対側の中央が入り口となっている。

 7本の机の列が窓に向かって並び、入り口に対して中央やや斜め前に対象図の様に2つ、管理職の少し高価な机が置かれている。そこに座るマネージャーと呼ばれる2人の中年も、蓮が新人と呼ばれなくなった辺りにやって来てからずっと変わっていない。変わるのは新人ばかりだった。

 始業の9時に近くなると、オフィスは社員でだいぶ賑やかになり、時計の長針が垂直に上を向くと、録音したラジオ体操が流れ、賑やかさに統一性が加わる。その時間だけは、年齢も役職も、経験も何もが関係無くなり、飛んだり跳ねたりするので、新人の頃、蓮はこの時間が苦手だった。

 いつも仏頂面の主任やら、課長やらが、間抜けな顔をして手や足をぶん回すし、済ました顔に、巧みに造形された声で電話をとる事務の女達もケツを付き出す。そして音が止むと、何事も無かったかのように普段の姿に戻り、朝礼が始まるのだ。そんな非日常が日常と化している空間が、とても異様に思えた。

 そんな異様なものを見ていた感覚が時と共に徐々に薄れていくにつれて、見たくない物が見えて来た。

 どうしてだか、蓮には解らなかったが、何処のチームの主任と、庶務課の女が密会しているとか、現在もっている事業も満足に運営出来ていない中で、新たな事業を立ち上げる計画が出て来たとか、そう言った情報が邪悪な意図を持って、知らぬ間に蓮の周りにも、充満していた。

 実際に、蓮には関係の無い話で、雑音でしかない筈なのに、ジャンクフードの様に、定期的にその情報を欲する様になっていた。

 だから蓮は、そんなジャンクフードを貪りに、度々夜の繁華街に出向いた。一緒に行くのは大抵の場合、同じチームの同僚や、庶務の新人で、相手は誰でも良かった。兎に角、そういう同じ志を持った振りをしている何人かで、アルコールを使って思考を飛ばしては、何処の誰は誰とやったとか、会社は実は赤字だとか、代表は接待で三ツ星ばかり使うとか、そんな中学生みたいな話をしていたかった。

 そんな時の仲間達の顔は、安いアルコールを吸収して、赤く、大きく膨れ上がっていき、暗くぼんやりとした空間の中で、実態を失っていく。そして女達をコーティングしていた粉が皮脂とまじり、まるでカビの様に浮かび上がってくれば、そこに秩序の様な物は無くなり、偽りの自由が生まれた。

 その自由は、世界を極端に小さくさせる力を持っていて、アルコールに支配された蓮達を、その中心だと錯覚させた。やがて幸福に似た開放感が、それぞれの脳と身体を訪れると、その余韻が翌日の昼まで、夢と言う名の幻想に導いてくれるのだった。

 そうやって、蓮は休日の殆どを浪費する生活を繰り返していた。

 前日話した会話が、果たして居酒屋であったのか、それとも夢の中での形の無いものなのかを考えながら、一人冷蔵庫を開けると、その冷気が寂しさを誘発し、恐怖へと誘って行った。

 その恐怖を乗り越えて週明けに出社すると、あの時崩壊していたメイクをきっちりと直し、パソコンに向き合う女社員や、油をしっかり拭きとって、ネクタイをぴっちりと締めた同僚が、またラジオ体操をしている。

 いつしかそう言った不自然に思えていた光景に、安心や、愛着の様な優しさを装った感情が伴ってくると、疑問とか、理由とかそう言うものが邪魔に感じる様になっていった。

 いつしか蓮も、仮面の様に表情を固定させて、運動不足の四肢を思いっきり、ぶん投げていくようになった。


 人工的につくられた爽やかな音階が鳴り止むと、蓮の身体に少しぼんやりと残っていた重い感情が、幾分すっきりとしているのを感じた。それだけでも、苦手な時間にそれなりに理由を見つけられた様な満足感に蓮は浸っていた。

 周りを見渡し、他の社員もそう言う事を感じているのだろうかと思ったが、大抵はいつもと変わらぬ表情をしていて解らなかったし、唯一別のチームの小太りの社員と目が合っても、少し気まずく目を逸らされただけだった。

 其々がスーツの裾や、腕時計を直しながら、前で書類を手に話すマネージャーの話に耳を傾ける中で、やはりあの「おはようございます。」の社員だけは、一人窓からの光を全て受けている様にぽっかりと浮き出ている様に見えた。

「じゃあ、今日のスピーチは荒井!」

 そう言って呼び出されたのは、「おはようございます。」の新米社員だった。彼の名前が呼び出されると、大きな白菜を水で洗って、その水気を振り落したような、瑞々しい空気に切り替わる。

 彼が、釈然と自身の抱えるまだまだ小さな仕事で得た経験に、直属の先輩上司とのやり取りを交え、語ると、そうだろう、そうだろうと、中年達の顔が満足げに変わって行く。

 そんな世界の要望を、しっかりと捉え、荒井と言う青年は、人々を幸せにしていった。そうやって、幸せを提供した張本人は、最後に礼をして、提供した幸せを反射したような拍手の中、自身の居た場に戻って、消えた。

 消えた後は、マネージャーが昨日の営業報告をしている間も、連絡事項を羅列する間も、さっきまでの輝きを失い、そしてそれは最後まで戻る事は無かった。

「本日の朝礼は以上。それから第4営業班、10時に第2会議室に集まる様に。」

 そう言ってその日の朝礼は終わりを告げた。

 社員の殆どはその最後の言葉に無関係で、その無関係ですという主張をする様に、そそくさと自席に戻っていく。そしてパソコンに向き合って、ゆっくりとコーヒーやら、紅茶を啜りながら、景色に溶け込んでいく。

 そんな中で、第2会議室に呼ばれた一人が、マネージャーの所に駆け寄って行った。蓮の同僚だ。その日の営業先との予定が重なる為、参加できない旨を伝えに行った。マネージャーは何かを言って、同僚は小刻みに礼を繰り返す。そんな事が何度か繰り返された後に、同僚は戻って来てジャケットと営業鞄を左手に持ち、駅員の様に右手の人差指で忘れ物チェックを行った。それが一通り終わると、そのまま手をパソコンのマウスに被せ、くるくると回し、電源を落とした。

「行ってきます。」

 そう言って彼は、手に持つジャケットを風に靡かせながら「いってらっしゃい。」の声も聞かぬ内に姿をくらました。

 蓮は、その姿を見届けると、予想していた通りの内容なのだと確信した。

 ここ数か月、蓮のいる第4営業班の成績はじりじりと勢いを失い始め、トップ争いをしていた頃とは、比べ物にならない位に低い数字を叩き出していた。

 だからその日呼ばれた時に、何を言われるのかといった緊張は無く、鼻を穿った課長の顔を見た時の様な、至って普通の感情でしか、居る事が出来なかった。

 それが良かったのかどうかは、蓮には理解出来なかったが、少なくとも、冷静さを持つという意味では大きな効果を出した。

 第2会議室で、会議という名の説教じみた注意喚起が終わり、「チームで少し残って話します。」と主任がマネージャーを追い出した後、その主任を含めた先輩、同僚達との文句の言い合いが始まった。特に意味の無いものであったが、それもいつもの流れだった。

 狭くて、採光のとられていない会議室の中で、昨日の酒も抜けきっていない様な体で話す男たちの話が、何か画期的なアイデアを生み出す事なんて、到底あり得ない事を蓮は知っていたし、そのどんよりとした空気の中で過ごす事に、慣れてしまった自分に、自己嫌悪を感じなくなっていた事も解っていた。

それは蓮にとって、嵐の中で、ほぼ存在価値の無くなってしまった傘を差しながら、ぐちょぐちょのジーンズとスニーカーを、我慢して踏み鳴らし、行くあても無く歩いている様なものだった。

 時々鳴る、雷の鋭利な音も、濡れた体に吹き付ける生暖かい風も、何もかもに、鬱陶しい以外の感想が沸いて来ず、そしてそれらを回避しようと言う選択肢は、いつの頃からか選ばないようになっていた。とにかく、歩き続けなければいけないという腐った意識だけが蓮を日々、会社に向かわせていたのだ。

 会議室を出て、事務所に戻り深呼吸をする。13時からは一つ営業先を訪問して提案をする約束が入っていた。

 事務所のどこかで荒井を呼ぶ声が聞こえる。

「はい!」と鋭いジャブの様な返事を返して、荒井の走る音が聞こえた。

 話の内容が良く聞こえる。マネージャーが荒井の営業に同行するという。

荒井が礼をいって、支持を受けている。

蓮は、自分の手が止まっているのに気付いて、首を振った。

「どうしたの?」と事務の女が笑って蓮の顔を覗く。

蓮は「何でも無いよ。」と言った。本当に何でもなかった。蓮は事務所に居るのが嫌になって、資料を仕上げると、出て行った同僚の様に、そそくさとパソコンの電源を落とし、ジャケットを翻しながら「行ってきます。」といって事務所を出た。

一斉に上がる「いってらっしゃい。」は、新米らしく荒井の放った声が一番大きく、事務所の中で響き渡っていた。


大江戸線森下駅を降りて、清澄通りを月島方面へ10分位歩いたところに小さな洋食屋があった。

数日前、蓮の会社にそこのオーナーから、インターネットで広告を出すか、ホームページを始めてみたいとの問い合わせが入り、丁度エリアの担当だった蓮の予定が空いていた為、すんなりと営業の話へと繋がった。

綺麗に整備された清澄通りを、心地よさそうに車が行き来すると、その車輪の稼働する音が、道路に沿って車と共に、何処までも走り抜けていく様だった。

蓮は、車道と並行して通る歩道を、少し早歩きで進む。左手に巻き付けられた腕時計はもう少しで窮屈なカタカナのレの字になろうとしている。

自分が歩く横を、自転車が追い抜いていく。後ろの籠に食材を、前に赤子を乗せた若い主婦の後ろ姿を見ると、汗が余計に拭き出してきた。

蓮が、その主婦の後を追って急ぐ先に、オレンジ色の看板が見えた。白い文字で“ポテポテ”と書いてある。

蓮は再度時計を見た。なんとか間に合いそうだった。それでも早く着く事に超したことは無いので、革靴で地面を叩くリズムの調子を上げた。すると鞄ががしゃがしゃと、余計な伴奏を奏でる。それに合わせるように、鼓動が自動的に上がって来た。

主婦はもう、ポテポテをとっくに通り過ぎ、その先にある信号を右折して、消えて行った。チカチカと光る信号は、関係無いのに蓮を急かしている。

蓮は、ポテポテの一歩手前にある古い建物の、暗い入り口のガラスドアに、自分を移して、服装を直してから、一度深呼吸をした。鼓動がゆっくりと収まっていく。本当にそのまま収まってしまうと死んでしまうので、蓮は良いところで一度咳払いをし、ポテポテの木材で縁どられた扉をゆっくりとのぞき込んだ。

灯りは点いている様だったが、どこか薄暗い。これから昼を食べる人がいてもおかしく無い時間ではあったが、店内にある人影は、白い帽子と白衣を纏った老人がひとりだけだった。

少し見ていると、老人が蓮に気付いて、にやりと笑いながら歩み寄って来て、扉を開けた。

「いらっしゃい。」

 やけに明るい声が、バックの薄暗い店内と対照的に、映えた。蓮は、社名と、名前を告げると「あぁ、待っていましたよ。どうぞ。」といって、その男は帽子を取って蓮を招き入れた。

 店内は、それ程広く無く、入った右手にあるキッチンに設置されたカウンターが6席と、左手にある壁に沿うように2人席が2つ。奥のスペースに4人席が2つ設けられていた。

 2人席とカウンターの間は、人が一人通ると丁度良いくらいの幅しか無く、蓮はそこを少し窄みながら歩いて、通された奥の4人席に座った。

 鞄を、膝に乗せて待っているとオーナーが水を持ってやって来た。

 蓮が胸ポケットから名刺を用意すると、慌てて、キッチンの横にあるSTAFF ONLYと書かれた扉に飛び込んで、屋根裏に住んでいるハクビシンの様に、どたばたとしてから、少し黄ばんだ名刺を持ってきた。

 名刺には、栗山功と書いてあった。栗山が座ったのを確認すると、蓮もゆっくりと腰をかけて鞄を膝に乗せた。

「お忙しいところ、貴重なお時間ありがとうございます。」と蓮が挨拶をすると、栗山は鼻の下に生やした白い髭をM字に曲げて、大きく笑った。

「兄ちゃんも冷やかしが上手だね。忙しかったら、呼ばないよ。それに、見ての通りさ。」

 ぼりぼりと顎に蓄えた白い髭を掻き毟りながら、栗山は蓮の瞳を見つめた。

 店内にはさっきまでオーナーが吸っていたのか、カウンターにタバコの箱と、角度的に見えないが、恐らく吸い殻の入っているであろう吸い殻入れがおいてある。

 その横には皺でくしゃくしゃになったスポーツ誌が置いてあり、一面には何か書いてある。蓮はその記事を見ようと、外から入る光が目に入らぬ様に、手を額にかざした。

“金田、落馬!”

 そう書いてあるように見えた。

 蓮は、すぐにオーナーの方へ、自身の注意を戻そうとしたが、その見出しの持つ意味に、動揺が隠せない。落馬すると、どんな気分なのだろうか。やはり怖いし、痛いと思った。もしかしたら、馬に踏まれて、ぺちゃんこになってしまうかも知れない。

 蓮は、そんな仕事に不要な雑念を振り払おうと、目を瞑って深呼吸をした。

店内をほんのりスパイスの香りが、漂っているのが解った。

「女騎手だ。なかなか無理だよ。アイドルみたいにチヤホヤされているけど、危ないし諦めた方がいいのにねぇ。」

 オーナーは新聞を見た蓮の様子に気付いて、そう呟いた。

「落馬すると、怪我とかしますよね。」

「なんだ、兄ちゃんもあの娘の追っかけか?まぁ、今回はすぐに起き上がったみたいだし、怪我も軽かったみたいだけど、やっぱり馬もでかいからな。500kgの体が蹄鉄をつけた足で踏んづけてくるんだぜ、危ねぇよ。」

 想像をしただけでも腹筋がぎゅっと締まった。だから騎手はヘルメットをしているし、防具を着て乗馬する。

 男でも怪我をするのだ、金田の様な小さな娘が踏まれれば、一溜まりもないのは、当然のことだった。蓮の握った拳が、汗でいっぱいになった。

「そんな事よりよ、広告はどうなんだ。」

「ご安心下さい。オーナー様のご希望の集客が出来る様に、プランをいくつかお持ちしましたので。」

 蓮はそう言って、資料を鞄から取り出すと、テーブルに広げて見せた。すると栗山は、今度は難しい顔をして、鼻の下の髭をM字にした。

 店内は、スパイス以外に、香ばしい油の匂いが漂い、2人席の壁にはキッチン用品をモチーフにしたインテリアが飾られている。カウンターは少し高い椅子が並んでいて、天井からは電球が剥き出しになったお洒落な照明が、人数分垂れ下がっている。暫く掃除もしていないのか、蓮は傘の部分に誇りが溜まっているのが気になった。

「このお店はどれぐらいになるんですか。」

 30年位と、栗山は言った。蓮は自分と同じくらいだなと思った。

栗山は、開店当初の希望に溢れていた気持ちを喜々として語った。

 出迎えてくれた時から明るい人だなという印象を持っていた蓮だったが、その印象よりも、もう少しだけ、明るく感じた。

「俺はさ、高校を卒業してから印刷会社に入社してよ。そこで20年働いていたんだ。そこでかみさんと出会って、いつかは2人で店やりたいななんて夢持っちまって。だからコツコツ金貯めていたんだよ、安月給の印刷会社でよ。無茶苦茶大変だったな、今思うと。でもよ、そうやって仕事してると何でかな、皆優しくなってきてよ。毎日が楽しくなってきたんだ。かみさんと毎月通帳みて、電卓弾いては喜んでいたな。」

 蓮は栗山の嬉しそうな顔に、少し嫉妬心を抱いた。

「ようやく20年経って貯金が目標に達して辞表出した時は本当に悲しかったよ。」

「悲しかったんですか?」

 蓮は営業の手前、大袈裟に驚いて見せた。案の定、嬉しそうにその禿げ上がった頭を頷かせると、待ちきれないと言った感じで、栗山は話続けた。

「そりゃあそうよ。店やる為って言ったってお前、20年一緒に働いた仲間だからね。悲しいよ。今生の別れって訳でも無いけどさ。でもね、仲間は大事だな、やっぱり。俺の店にも良く来てくれたよ。」

「そうだったんですね。」

「最初はてんてこ舞いでさ、どうにもこうにも人手が俺と、かみさんだけじゃ回んないわけさ。そんな時も、手伝いに来てくれたりして。でさ、少ないけどバイト代払うって言ったら要らないって。代わりに今日は金曜日だからこのまま皆でパーティーしよう、栗山の得意料理頼むって。そのまま朝まで馬鹿騒ぎよ。」

 蓮はやはり、嫉妬した。それでも、急に暗くなった栗山の表情に、すこしハッとして、顔を作り直した。

「それでもさ、そんなにうまい事続かねぇんだな。」

 ようやく自分の仕事だと蓮は思った。

「どうしたもんか、段々と客脚が遠のいて行ってよ、気付けばこの通りすっからかんよ。かみさんも、本当にあっけなくいなくなっちまってさ。あんちゃん、どうにかしてくんねぇかね。」

 栗山は、ガハハと無理に笑い、水を一口飲んで、右手で思いっきり拭った。

 蓮が店に入ってから、数十分。人が入って来る気配はない。人通りがあるのにも関わらずだ。

 蓮は、自社のプランをいくつか紹介し、その後“ポテポテ”用に組み替えたプランを提案して、栗山の様子を窺った。

 栗山は、胸元から少し油の跳ねた小さめの眼鏡を取り出してかけると、資料を見ながらプラン1とプラン2ではどう違うのかとか、どうして、そのプランがおすすめなのかを必死に聞いていた。

 机に両肘をついて、顔をぐっと前に突き出す姿が、漫画を貪り読む小学生のそれにそっくりで、胸を強く引っ張った。

 結局、その日は現在の店の予算を考えて、一番低価格な広告から初めてみると言う結論に達し、契約を結んだ。

 嬉しそうに蓮の渡した、ボールペンを握り、契約書にサインする姿に、蓮は達成感を感じていた。

「後日、広告掲載用の写真を撮影しにスタッフが参りますので、日程調整の電話が入ります。」

「おう、頼んだぜ。また繁盛したところ、かみさんに見せてやりたかった。たのしみだなぁ。」

 そうやって、蓮に礼を言って手を振った栗山は、最後に頭を下げて店に入って行った。

 森下の駅に向かって歩く途中、話しの内容を思い出すと、心がぽかぽかと温まった。きっと栗山の料理もそうであるに違いない。

 蓮は少ししてそんな思いに“ポテポテ”を振り返った。いつかきっと、客として訪れてみたいと思った。

 そうやって蓮がふと“ポテポテ”に目をやると、一台の自転車が見えた。短く切った髪をくるくると巻いた白髪の主婦が、丁度自転車を“ポテポテ”の前に停めているところだったのだ。そのまま買い物袋を下げて、店に入っていく。

 なんだか、ただいまと聞こえた様な気がしたが、蓮は聞かなかった事にして、帰社を急いだ。


 帰りの大江戸線、蓮は契約が出来た安堵からか、店内で見た記事のことを思い出していた。

 拡大して引き延ばした、写真に転がる金田と、その周りに無造作に降り注ぐ馬の脚の絵が、恐怖を駆り立てる。

 蓮は思わずスマートフォンを開き、“金田”と“落馬”で検索してみると、ちゃんと落馬のニュースがトップに掲載されていた。

 蓮が検索結果の一番上の文をクリックすると、スポーツニュースのサイトに掲載された記事が出てきた。新聞のとは違う角度で撮られた写真は、より鮮明に、色よく写っている。そのせいなのか、新聞の記事に比べ、恐怖心が幾分和らいでくれた。

“23日の小倉11Rでサイレントプリンスに騎乗した金田蛍は4コーナー入口で落馬し、右肘を打撲、全治不明。馬に異常なし。12R山崎に乗り代わった。”

 蓮は記事を読み終わると、もう少し状況が知りたくなり、検索結果に戻って、一般の人が投稿している掲示板もクリックした。

“いきなりの斜行。あれじゃあ落馬もしょうがない。”

“力が無いから抑えきれなかったの?”

“なんで女なんか乗せたんだ?俺の馬券返して欲しい。”

“もう競馬にアイドルなんか要らないよ。しっかりとした騎手をのせて欲しいね。”

“打撲で全治2週間という情報があるが、本当にあれで骨折しなかったのか?”

“もう、人気馬に女を乗せるなんてやめてくれ!”

“無責任オーナー!馬券返せ!!”

 蓮はインターネットのウインドウを閉じた。地下鉄の轟音が車内の音をすべてかき消す。前の席で話すスーツの女の幸せそうな顔が恨めしかった。左手は、その話す相手の男の膝に乗っている。男はその掌をさすりながら、女の目を見つめている。

 轟音が鳴り止まなければいいのに、と思った。

 蓮は、スマートフォンを再び開くと、思い立ったようにメッセージアプリを開いて、過去の会話履歴をスクロールした。

 かなり古いものもあった。既に、アカウントが消えたか、番号が変わったかで、相手の顔が表示されていない履歴もある。

 蓮はスクロールしていく。無い。

 目の前で、とち狂ったようにいちゃつくカップルの存在は映らなくなっていた。履歴の最下部までいって、目当てのアカウントが見つからなかった。

 蓮は、見落としたのだと思いもう一度下からスクロールしてみた。

 懐かしい履歴がいくつもあって、つい覗いてしまいそうな心を、意図的に無視して、スクロールを続ける。

 蓮は、見つけた。大学時代付き合っていた女のアカウントだ。

 蓮の前の席は、カップルの残した焼酎の空き缶と、スナック菓子のゴミ屑が、さみしく捨て去られている。そしてゆっくりと列車が動き始めると、ころりと床へ転げ落ちた。

 蓮は、そのゴミに目を向けること無く、そのアカウントにメッセージを送る。

 ただ一言「元気?」と送った後、一度スマートフォンを閉じて、すぐにまた意味もなく、スタンプを送った。

 結局、蓮が目的の駅を降りるまで、そのアカウントが示したのは既読の形跡を残すのみで、返事を返してくることは無かった。

 蓮は「そりゃあそうだべな。」と自分を慰めるように呟いて、人混みの中を、会社に向かっていつものペースで歩いて行った。


4章

 会社に戻ると、なにか事務所が賑わっていた。時計を見ると、まだ定時までは時間に余裕がある。

 蓮は恐る恐る事務所をのぞき込むと、何やらマネージャーと荒井を取り囲んで、盛り上がっている。大学生がコンパでお誕生日会をやっているような、ちんけで、手作り感に溢れた、そういうアットホームな盛り上がり方だった。

 蓮は、すぐに巻き込まれないように給湯室に向かうと、コーヒーを入れようとした。

 いつもは事務に入れて貰っているので、イマイチ機械の操作が解らず、おどおどしていると、細く優しい女性の声がとんと背後から蓮の心臓を押した。

「いれましょうか。」

 驚くほどに、か弱く、可憐な声にも関わらず、蓮は押された心臓の振動に体を揺らされ、即座に振り向いた。

 そんな蓮に、おかっぱで小さな事務服の女の方が、今度はびくりと震えた。

「あ、ああ。すみません、お願い出来ますか。」

「いいですよ。」

 そういって、おかっぱの女はコーヒーの粉の入った瓶を「ちょっとごめんなさい。」と、蓮の脇にある棚から取り出した。

 瓶の中から粉を機械に移し、水を注いでスイッチを押すと、機械は鈍い声を発しながら反応し、機動し始めた。

 蓮は、特に気まずいとか、沈黙がいやだった訳では無いが、そのおかっぱの事務員が、小動物のようにきょろきょろと、そしてそわそわしているので、荒井達の事を尋ねてみた。

 するとおかっぱの事務員は、さっきよりも少しだけ落ち着きながら、蓮の質問を聞いて、頭で整理しながら答えた。

 どうやら、今日マネージャーに同行して営業先に向かった荒井が、研修を終えて初めての営業だったにも関わらず、見事契約を貰ってきたとの事だった。

 得意気に話すおかっぱ事務員は自分の鼻息が少し荒くなっている事に、気付いていない。

蓮はその興奮に合わせるように、頷いて、話を促した。

 おかっぱ事務員は、続け様にマネージャーの興奮した様子を語った。帰って来るなり社員を集め、荒井が自分の教えをたった一度でマスターしてしまった、天才だと大騒ぎして、いちいち話した内容や、先方の反応を解説して、今に至るらしかった。

 蓮は、少し、いや、だいぶ自分の席に戻ることに抵抗を持った。きっとこのまま席に戻れば自分もその話を聞かされるに違いなかった。蓮はおかっぱ事務員に再び尋ねた。

「マネージャー、戻って来てから結構経つのかな?」

 おかっぱ事務員は垂れる髪をすこし揺らして「30分くらいですかね。」と言った。

 蓮はマネージャーの取り巻きを見る。盛り上がりは、いっこうに収まりそうに無い。

 蓮は、はぁ、と諦めの息を漏らし、シンクに寄りかかった。

 シューと機械が蒸気を吹き上げて、準備が整った事をアピールする。おかっぱ事務員が、小さな体をいっぱいに伸ばして天井から降りる棚の中にある紙コップをとろうとしていたので、蓮は代わりに開けて手を伸ばした。

「ありがとうございます。」といって、おかっぱ事務員はえへへと笑い頬を赤らめた。

 蓮が棚から紙コップの積み重なった袋を取り出すと、おかっぱ事務員はリスの様にその紙コップを奪い取り、2つ取り出す。

「君も飲むの?」と蓮は聞いた。

「はい、飲みます。」とおかっぱ事務員は言って、蓮に紙コップの塊を返した。蓮は黙って、速やかにそれを棚に戻した。

 おかっぱ事務員が機械の下に紙コップ置いて、コーヒーを注ぐ。だいぶ機械が古いのか、ちょろちょろとしか出ない。蓮は、湯気を放つコーヒーはそのまま気化して無くなってしまうんじゃないかと思った。

「ミルクか砂糖は・・・」

おかっぱ事務員が聞く。

「僕はいらない。」と蓮は言った。

「嘘、ムリー。」とおかっぱ事務員は言った。意味不明だった。意味不明だったけど、蓮はその“ムリな”ブラックコーヒーを受け取って「ありがとう。」と言った。

「いいえー。」とおかっぱ事務員は言った。

 蓮は受け取ったコーヒーを啜りながら、事務室を覗く。やっぱりまだ盛り上がりは収まりそうに無い。コーヒーの香りが、つんと鼻を刺激する。

 おかっぱ事務員はそんな蓮の姿に気付いてか、くすりと笑った。

「寺島さんも昔はそうでしたよね。」

 何気ない一言が、蓮の心臓をまた叩いた。

 おかっぱ事務員は、さらさらと黒いコーヒーに砂糖を注ぐ。まるでブラックホールが光を吸収するように、砂糖は瞬く間にその姿をくらます。おかっぱ事務員は、ゆっくりとティースプーンで、それをかき混ぜていた。

 おかっぱ事務員の言うように、蓮もかつて新米だった頃、瞬く間に契約を取ってきて賞賛を浴びた経験があった。今となってはそんな物がなんの意味も無いことを蓮は知っていたが、なぜか切ない気持ちになる。

 それに、初契約が早かっただけで、蓮の場合は初めての営業での事では無かったし、そのときは誰かと同行していた訳でも無かった。だから、少しだけ荒井との状況も違っていた。

 おかっぱ事務員を見ると、既にミルクも投入されて、クリーム色に染まっているコーヒーをうれしそうに両手で抱えている。

「俺は違うよ。」と蓮が言うと「何がですか?」とおかっぱ事務員は言った。

 蓮は「いや、何でもない。」といって笑った。

 おかっぱ事務員は一瞬きょとんとしたが、何事もなく、手に持ったコーヒーをゆっくりと啜った。

 蓮も、自分のコーヒーを啜った。缶コーヒーとも、店とも違う、独特の埃っぽさが、好きだった。

 蓮はその埃っぽさに想いを馳せ、マネージャー達の会話に耳を傾けた。乾いた笑い声に縛り付けられたような台詞が、事務室を漂い続けている。

 その台詞をむしゃむしゃ貪る音が、驚くほどクリアに、蓮の耳元へ流れてくる。

 普段、事務所で過ごす社員達は、そんな音に気付かぬ振りをして何気ない表情で過ごしている。いや、むしろそれが優雅で、素晴らしい景観の様に賞賛し、感嘆の意思表示すらしている。

 その意思表示が、尚更事務所へ乾いてボロボロの会話を飛ばし、空気から水分を奪い去っているように思えた。

 蓮は、自分のコーヒーを飲み干すと、紙コップを握り潰しゴミ箱に捨てた。それからおかっぱ事務員にお礼を言って鞄を手に持った。

 おかっぱ事務員はゆっくりとコーヒーを楽しみながらスマートフォンをいじっている。

「戻らなくて平気なの?」と蓮が聞くとこくりと頷いた。その表情は無に近かったが、どこか明るく、嘘の様に思えた。

 蓮はうらやましかった。

 蓮が戻っても依然として事務室は盛り上がっていた。中心で笑う荒井は上手に笑っている。

 マネージャーはその荒井の肩へ自慢げに腕を乗せている。

「お、寺島。戻ったのか。」

 上機嫌だなと、一瞬で解った。当然だった。いつも嫌々話を聞いている女社員達が、新人である荒井の話とあって多少は真偽の真に近い注目を浴びせていた。

 その注目が、マネージャーの無駄にでかい声で、一瞬だけ蓮に向いた。蓮は「ただいま戻りました。」と嘘をついた。

「今日はな、ビッグニュースがあるんだ。なぁ荒井。」

 そうわざとらしく言って、荒井に視線を向ける。荒井は恐縮の意を、わざとらしく返して、謙遜した。そのやりとりを、とりあえず他の社員達も鑑賞する。鑑賞しながら、感嘆の声をあげるタイミングを今か、今かと見計らっていた。

マネージャーは、うれしそうに荒井の体を自分に引き寄せ、荒井の初契約までのプロセスを語った。

 周辺の社員達の表情は、その話がきっと既に何度か繰り返しされたものであるのだと想像するに容易く、作り上げられたものになっていた。蓮も、その社員達に倣った。

 事務所で、マネージャーが得意気に話す全く反対側の場所で、給湯室から戻ってきたおかっぱ事務員は楽しそうに同僚の事務員と笑っていた。

 もしも人間が動物に戻ったら、きっとあんな表情だろうかと蓮は思った。それくらい、自然で気持ちの良い表情をしていた。

 マネージャーはまだ話している。蓮が戻ってきてから2周目に入ったような気がした。ちゃんと聞いていないから解らない。

「そんな訳で、こいつは一発で契約を取ってしまった訳だよ。解るか。俺は天才だと思ったね。このままいけば、必ずこの会社背負って立つ存在になる。それは間違いないな。」

 荒井はマネージャーの自尊心の詰まったその腕をうれしそうに肩に乗せて、仁王立ちしている。白い顔を、笑顔でくしゃくしゃにし、目玉が見えないほど目を釣り上げていた。

 蓮はその不気味な笑顔を見つめていた。目の焦点は合っていない。荒井はその細くつり上がった目から、気味の悪い光を放っている。

 マネージャーはその笑顔をうれしそうに眺めながら、重く、太い声で高笑いする。

「どうだ、凄いだろう。こいつも、俺も。」そんな声が、聞こえて来そうな笑い声だった。その笑い声を、たばこと、酒と、若干の権力で黄ばんだ歯の隙間から押し出している。誰も逆らえそうにない、汚い笑い声だった。当然蓮も、自分の心に嘘をついた。

「おい、寺島。」

 上機嫌がピークに達したマネージャーは蓮を呼んだ。社員達の注目を、無理矢理蓮に寄せた。かつては蓮も、自分の力で引き寄せていた注目も、今では気持ち悪い。

「お前も頑張らないと、こいつにすぐに抜かれてしまうぞ。」

 蓮は「アハハハ、そうですね。頑張ります。」と強がった。それがマネージャーには気にくわなかった。

「先月お前、何番だったんだ。」

 蓮に、先月の成績を聞いた。蓮は「28番ですね。」と答えた。40人いる営業で、その順位だった。

「本当に抜かれちまうんじゃねえか?ギャハハハハ!」

 マネージャーが白く濁った目玉を大きく見開き、カスで覆われた舌を口からほっぽり出して、大袈裟に笑った。笑いながら荒井や、他の社員達の方へ顔をぐるりと向けて、同意を求めると、社員達は一斉に笑った。

 手枷足枷に縛られた笑い声は、事務所で弾けるように響き渡り、やはり、湿気取り紙の様に社員達の心を奪い去っていった。

 その時、遠くの方で楽しそうに話していたおかっぱ事務員達がすでに居なくなっていたのに蓮は気付いた。自分のスマートフォンを開いて時間を確認する。定時はとっくに過ぎ去っていた。定時は過ぎ去っていたし、電話とメッセージが入っていた。

 それでも蓮がマネージャーの方を向くと、まだ暫く荒井の肩からその腕を下ろすつもりもなさそうだったし、営業社員はみんなジャケットを脱いだまんまで、女性社員達も背中を丸めて座っている。

 結局蓮は、スマートフォンの内容を確認せずに画面を閉じてポケットにしまった。

 だから蓮は、事務員の女が、女子会に遅刻しそうになって慌てて事務所を飛び出すまで、そのメッセージを確認することが出来なかった。


 事務所を出て、駅に向かいながら蓮はスマートフォンのメッセージを確認した。佐々木からだった。

“また連絡します。”とだけメッセージがあり、そのメッセージの通り、それから20分後に着信が1件入っていた。

 蓮は慌てて電話をしたが出なかった。出なかったが、駅に着く前の最後の信号で折り返しの着信があった。ワンコールで取った。

「もしもし、ごめん。着信気付いてなかった。」

「いいのよ。それより今どこ?」

 電話口からは、佐々木の声の周りに雑音が聞こえた。どこか屋外にいるようだった。

「今電車乗るところ。」

「良かった。今から池袋で合わない?」

 蓮は承諾して、そのまま駅に向かうと、丁度来ていた山手線に飛び乗った。時計を見ると、7時を回っていた。それでも平日の山手線はそれなりに混んでいた。

 車内の人の頭と頭の隙間から、窓の外を走り抜けるビルの陰が見える。

 朝日を浴びて、グレーに染まっていた東京の町は、すっかり暗闇に支配され、蓮の感情すらもその色に染めてしまいそうだった。

 蓮は無意識にその暗闇に視線を飛ばし、飛ばした視線が過ぎていくビルの放つ光に持って行かれる度に、新しい光を探した。そうやって、暗闇に引き込まれることを拒んだ。

 目の前にいるサラリーマンの背広から漂う酒とたばこの臭いも、OLの放つ香水の臭いも、すべてが一日の終わりを感じさせる。

 車内は、そんな終わりのムードに支配され、電気に照らされているとはいえ、外の景色と同じくらい、暗く、そしてさみしく感じた。

 やがて山手線は、池袋の駅のホームに飛び込むと、アナウンスと供に大量の乗客を吐き出して、蓮もその一人になった。

 巨大な蛇が這うように、人々の群れは地下にある改札への道をうねうねと動いていく。

 蓮は腕時計見て、それからスマートフォンを開く。佐々木は既に池袋に到着している様だった。

“東口にいます。”というメッセージには蓮が時計で見た時間よりも10分程前の時刻が表示されている。

 人々でごった返す地下道は、若い声や、異国の会話、時々上がる叫び声に満ちあふれている。蓮はその中を縫うように東口へ急いだ。

 人混みは地下道を抜け、東口と書かれた駅の地上入口に行っても同じくらいの密度で存在し続けていた。車道を抜けどこまでも続く人混みに、蓮はすぐに佐々木を見つけられなかった。

 電話をかけると佐々木はすぐに出た。出て「宝くじ売り場の横にいる。」と言った。

 駅の前に走る歩道に建てられた薄汚い宝くじ売りのボックスに視線を向けると、ひとり佐々木が前で手を組んで立っていた。蓮は走って近寄り、ごめんと謝ろうとしたが、そうするまえに佐々木は満面の笑みを見せた。見せてから「お疲れ!」と言って腕を組んできた。蓮も笑みがこぼれた。

「ごめんね、いきなり呼んで。」と逆に謝られた。

「今日いろいろあったから話したかったの。」と言う佐々木から上品な香りと、すこし疲れているような香りがした。

「どこか座れる場所にいこう。」と蓮がいうと「うん。」と言って組んでいた腕を解き、手をつないだ。

 2人は信号を渡ると、人の群れの中をゆっくりと歩いて進んだ。行き先の無い人々の群れを、蓮達も進む。本当に無計画に進むと、どこか知らないところへ行ってしまうので、蓮はとりあえずサンシャインの見える通りを目指した。

 サンシャインの見える通りは人々の欲望に満ちあふれていた。その欲に飲み込まれるように2人は歩みを進める。

 見えるものすべてが灯りに照らされている。既に欲望に飲み込まれたサラリーマンや、女子高生の顔がぼんやりとした灯りに浮かび上がる。そうやって、すれ違っていく人々の幽霊の様な表情に、蓮は寒気がして佐々木の体を自分の方へ少し抱き寄せた。

 佐々木は不思議がって蓮の方を見たが、蓮が照れ隠しに笑いながら目線を外すと「意味わかんない。」と言って笑った。

 通りを少し眺めながら、蓮と佐々木は店を選んだ。選んだと言っても、結局どこにでもありがちで、すこしこっているフリをしたチェーンの居酒屋をチョイスしただけだ。急だったしいいだろうと蓮は自分に言い聞かせた。佐々木も不満は無かった。

 前掛けをしたままのキャッチに導かれるままに店のある2Fへひょいひょいと着いていく。蓮の後ろからコツコツとハイヒールを鳴らしながら上ってくる佐々木の音が聞こえる。

 キャッチが自動ドアのボタンを押すと、発狂したように店員達が大声で迎えてくれた。

 キャッチは中の店員にピースで2人と合図して、中の店員は人差し指と親指で丸を作った。

「ごゆっくりどうぞ。」そう言ってキャッチはそそくさと外へ出て行く。蓮と佐々木は、店員に促されるままに靴を脱いで、店内へ上がった。

 漂ってくるアルコールや、油の熱を帯びた香りは、愛情に溢れた“ポテポテ”のものとは違い、力任せに喜びをぶちまけたような、独特なものだった。

 今度はさっきとバトンタッチをした店内の従業員に導かれ、木材を基調とした和のテイストの個室に案内された。

 個室は入って向かいの壁にテーブルがくっついている掘り炬燵だった。その左右に座布団が2枚ずつ敷いてある。

 おそらく偽物である掛け軸と、キキョウの花が、壁に丁寧に飾られている。壁に埋め込まれたキキョウの花には外の通りと同じようにぼんやりと証明が掛けられていて、さみしげな美を演出していた。

「キキョウの花、きれいだね。」と佐々木は言った。蓮はそう言われるまで、キキョウの花に全く興味を示していなかったが、よく見れば確かに綺麗だった。丁度時期なのだろうか、花瓶の中の水をその青い花びらの先まで吸い上げて、汗でもかきそうなほど瑞々しい。

 ずっと見つめていると、その花びらがまるで、蓮に何かメッセージを発するように存在感を増していった。

「ねぇ、座れば。」

 そう佐々木が言わなければ、蓮はいつまでもそこに立ち尽くしていたかも知れない。

 上着を脱いで隣の座布団に置いた。佐々木は既にメニューを広げている。店内に流れるBGMは何故かサザンオールスターズだった。そのサザンオールスターズと同じくらい騒がしく店員が「失礼しまぁす!!」と鶏の様に部屋に入ってくる。

 佐々木は気にせずメニューを見ている。蓮は大したものだと思った。店員も何食わぬ顔で、おしぼりを蓮達の前に置いていく。

 おしぼりを置いて立ち去ろうとする店員に、佐々木は注文をするからと引き留めた。店員はやっぱり何食わぬ顔でもう一度振り返り、膝を折った。

「私はマンゴーサワーにするけど、蓮君はどうする?」

「生。」

 店員は無言で注文をハンディ機器に打ち込むと「以上でよろしいですか?」と確認した。それから蓮達の反応をみて、パタンとハンディ機器を閉じて、部屋を去った。

 去った後は再び室内がサザンオールスターズになった。サザンオールスターズが揺らす空間に合わせるように小刻みに佐々木が揺れる。小刻みに揺れながらもしっかりと目だけはメニューからは離さない。

「私すっごくお腹空いてるの。」

 佐々木は小刻みだった揺れを一度だけ大きくしてそう言った。

「俺もそう。いっぱい食べよう。」と蓮も同意した。

「あのね、これが食べたいの。」

 そう言って佐々木は刺身の盛り合わせを指差した。大きく期間限定と書いてある。

「ほら、旬のイサキが入ってるんだって。」

 あまりに喜ぶ佐々木の顔を見て、蓮は、そんなに“イサキ”が好きならば、いつか井崎脩五郎先生の本でもプレゼントしてあげようかと思った。

「それから・・・唐揚げ食べない?」

「いいね、ポテトも付けよう。」

「そうね。とりあえず頼んじゃおう。」

 蓮は頷いて、呼び出しボタンを押した。どこかで返事が聞こえた。聞こえた返事は男だったけど、注文を取りに来たのは眼鏡をかけた、金髪の女だった。

 女はテンポ良く注文を受け、あっという間にいなくなりそしてまた、再びサザンの時間がやってきた。

「そういえばさ。」

 蓮はおしぼりで顔を拭きながら佐々木に話しかけた。

「話したいことがあるって言っていたけど、どうしたの。」

「ごめんね、嘘。なんか急に飲みたくなっただけ。」

 佐々木は黒くて長い髪を少し触った。

 鶏が唐揚げを運んできて、どたどたと出て行った。

「わぁ、美味しそう。」

 表情無く、佐々木はそう言って箸を割った。蓮もそれに続いた。

唐揚げはまだ油の音を鳴らしている。

「これ見て。」

 佐々木は左手の箸で唐揚げを持ったまま、右手で自分のスマートフォンに写った写真を蓮に見せて来た。

 画面の中には白いドレスに身を包んだ新婦と、タキシードの新郎が仲良く写っていて、その後ろに数名いる女性の中に佐々木がいた。

「可愛いじゃん。結婚式行ってきたの?」

「そう。由香ちゃんの。」

 蓮は新婦を見た。知っているような、知らない様な顔だった。新郎は絶対に知らない顔だった。

 試しに佐々木に、自分と面識があるかと聞いてみたら、佐々木の中学時代の友達で、全く知らない人だった。どうりで見覚えが無い筈だった。

「凄く楽しかったよ。なんかまた先を越されたって感じ。」

「別に人生に先も後も無いよ。」

 蓮は必死になだめた。このままとんでも無い方向に話が進んでしまいそうな気がした。

 金髪女がポテトを持ってきた。やっぱりポテトはまだ油を光らせながら鳴いている。活きの良いポテトだった。

 蓮は猫舌だったので、とりあえずビールを飲んで、ようやく音が鳴り止んだ唐揚げの方に手をつける。丁度良い温度になっていた。

「男はいいよね。リミットが無いから。」

「リミットって?」

 蓮は惚けた。すこし佐々木はむっとした。

「女はね、リミットがあるの。一定の年齢が過ぎれば出産だってぐっと難しくなるし、見た目だって老けたら男と違って結婚だって出来なくなるでしょ。」

 キューキュー鳴くポテトを容赦なく頬張り、ムシャムシャとかみ砕くと、佐々木はマンゴーサワーを飲み干して呼び出しボタンを押した。いつになく荒れていた。

「そんな事ないと思うけど。」

「そんな事、あるわよ。由香ちゃん、もう住む家建て始めてるんだって。埼玉の武蔵浦和よ。4000万を30年ローン。」

「へぇ。」

 鶏が刺盛りを持ってきた。どうやら、今日のこの店のホールはこの鶏と、眼鏡女しかいないみたいだった。

 佐々木はカシスソーダを注文した。蓮は生を飲みほし、もう一杯注文した。

「それはいいね。」

「いいでしょ?いつか私も、CMでやっているみたいな大きい家に住んでみたいの。それで大きな犬飼って。」

「動物、好きなんだね。」

「好き。ずっと家のパパが飼っててさ。私が就職する前に死んじゃったけど。いつか結婚して、大きな家を持ったら飼うんだって決めてるの。」

 佐々木はそう言うと、刺身の盛り合わせのイサキに紅葉おろしとネギを乗せて、上手に包んだ。それを差しちょこに注いだポン酢につけて口に運ぶと、うれしそうに目を瞬いた。

 蓮はその表情に唾を飲んだ。

「美味しそうだね。僕も食べよう。」

 そういって、佐々木の真似をしたけれど、上手く薬味が包めなくて、諦めてネギをボロボロと落としながらポン酢に刺身をつけた。紅葉おろしはポン酢に洗われてしまって、結局ポン酢のついただけのイサキになってしまったけど、新鮮なのか、臭みは全く無かった。

「美味しい。」

 思わず蓮はそう呟いた。噛んでポン酢が唾液と混ざる頃、後からじわりと感じる甘みが絶品だった。

 蓮はその上品な甘みをもう一回味わうために、凍ったグラスに注がれたビールで舌をリセットした。

 佐々木も再び刺身に薬味を上手に包んで口に運んでいる。蓮は羨ましかったし、悔しいから何度も挑戦したが、結局ポン酢にネギが積み重なって行くだけで、上手く行かなかった。

 そんな蓮に佐々木は優しく微笑んだ。その笑顔は、今まで蓮が受けてきた笑顔のどれとも重ならない、特別な笑顔だった。

 まるで一日に受けてきた嫌な物をすべて一息でぶっぱらってしまうような力を持っていた。

 佐々木の笑顔は、そうやって蓮の胸の中にある性感帯をやさしく刺激してきた。蓮はそんな慣れない愛撫にくすぐったさを隠せずに、吹き出してしまう。それを見てまた佐々木が笑った。

 そういう事が佐々木は上手かった。きっと色んな男をそうやって癒やして来たんだろうなと蓮が想像するのも無理はなかった。

一方で蓮はそんな佐々木が、良く解らなかった。

 いつも話すのは友達の恋愛の話や、テレビ番組の話、それから仕事の愚痴だった。

 普通と言えば普通の会話だったけれど、佐々木という人間がどんな人間なのかを理解する決定打になるような会話が出て来ない。どこのOLもみんなそう言うだろうなと言う話ばかりで、味気ない感じがしていた。そう言った意味で、今まで付き合って来たどの女よりも、佐々木と居る事に刺激は無かった。

 それでも蓮が佐々木を同僚や上司に紹介すると、大抵の場合は物凄く羨ましがられた。それは、佐々木と別れ、同僚達とだけになっても「お前の彼女、お前にはもったいないな。」と言われたぐらいだったので、間違いない事実ではあった。

「何が勿体ないんだ。」と蓮が聞くと、大抵「美人過ぎる。」とか「気が利く。」とか、やっぱりありきたりな答えしか返ってこなかった。

 蓮はその度に、お世辞なんかどうでもいいやと思って忘れるようにしていた。

 ただ、蓮自身も、今まで付き合ったどの女性よりも、完璧に近いと思っていた。その完璧が、明確に何か示せと言われても全く出て来ないけれど、蓮にとっての完璧な女性が佐々木だった。

 佐々木は完璧なのに、どうしてか、蓮の心にいつも乾きを残して消えていった。

 その癒やしと、乾きの狭間で、佐々木という存在に虚しさすら覚えていた。その虚しさは、会う度に形を失っていって曖昧な物へと変わっていった為、蓮はすでにその姿を追い求めようとは思っていなかったものの、心と頭の片墨にいつもじわりと湿ったシミのように存在感が残っていた。

「何か飲む?」と蓮は聞いた。

 佐々木は「うーん、うん。」と言ってメニューを開いて、カシスグレープを選択した。

「甘い酒好きだよね。」と言うと「別に何でもいいんだけどね。」と言った。でも蓮はまだ佐々木が焼酎や酒を飲んでいるところを見たことが無かった。それでも敢えて突っ込むと面倒くさいなと思ったまでだった。

「蓮君は何飲むの?」

「僕は、ビール。」

「ビールばっかだよね。」

「別に何でもいいんだけどね。」

 佐々木が笑った。蓮も笑った。

注文を取りに来た男が、鶏の様に飛び込んできて、慌ただしくラストオーダーだと言った。

蓮と佐々木は、それで良いと言った。



 最後の酒を飲み干して佐々木がトイレに立っている間に、金髪眼鏡の女が会計を持ってきた。

 蓮はそのまま万札と一緒に会計を金髪女に渡した。金髪の女は佐々木が戻ってくるよりも早くレシートと、数枚の札と小銭を持って現れて、そしてまた帰って行った。

 外へ出ると夜風がすっかり秋の匂いを漂わせていて、残暑の温もりと供に2人の空気を優しく包み込んでいた。

 その空気がアルコールと相まって自然と2人をネオンの奥へと導いた。いつもなら蓮の方から予定を聞いたが、その日は佐々木の方から聞いた。

 蓮は、特に無いと言った。佐々木は嬉しそうに笑って、握る蓮の手を、少しだけ強く握った。

 2人が使う場所はいつも決まって安かった。駅から近くて、手軽に使えて、いつも空いている部屋。それが蓮にとって理想であったし、佐々木も、綺麗に清掃が行き届いていれば不満は無かった。

 佐々木は部屋に着くとそそくさと、身につけていた洋服を脱ぎ、風呂場に入ってシャワーを浴びた。その間蓮は有料冷蔵庫の水を飲んで待った。

一緒に入っても良かったが、何だかそこまでするような気分でも無かった。

 蓮は佐々木と寝たのはこれで何度か覚えていない。それでも佐々木の身体は出会った時から何も変わっていないように思えた。日々のメンテナンスが行き届いた精巧な機械の様に、動きも、早さも、展開のタイミングも、すべてが完璧に同じだった。

 蓮はだからいつも同じ映像を見ているような、夢の中でループをしているような感覚に陥ってしまうようで、いろいろ仕掛けてみる事があったけれど、佐々木はまるで居酒屋の店員をいなすように、蓮の試みを難なく受け止め、流してしまった。

 それでも蓮の目に映る、美しい佐々木の姿と、爽やかな香りは蓮を充分に満足させ、心地よい気分にさせた。

 だから佐々木は蓮の不満に気がつかなかった。自身が完璧である故に、その完璧がもたらす、僅かなずれを、認知することが出来なかった。蓮は、それに気付いていたから、自分がそのズレを補うことで、すべてが上手く行けば良いのだと思って、自分の気持ちと供に、佐々木の身体へ放出するのだった。

 同じような事を、2人だけのベッドの上で数回繰り返すと、佐々木は気を失ったように眠りについた。

 蓮の身体にへばりついた佐々木の香りが、寝息と一緒にふんわりとあたりを漂い始める。きっとずっと前から漂っていたのに、それに気付いて居なかっただけだと蓮は思った。

 部屋の天井をかすかに照らす灯りは、居酒屋の物と全く変わらなかった。違うのは、サザンオールスターズが流れていないことと、自分たちが洋服を着ていない事、それからキキョウが咲いていないことだった。

 さみしく、多くの来客達の幸せそうな姿を眺めながら、美しくそこに咲き続けるその瑞々しい花びらが、佐々木の素肌に被って見えた。サザンオールスターズの歌にかき消された寝息が、もしかしたら聞こえていたのかも知れない。

 寝息を立てながら、ゆっくりと上下する佐々木が、細波のように押しては返していた。

 その細波のような寝息が、空間をじわりじわりと引き延ばしていく。今まで光の様にビュンビュン飛ばしていた時間の一つ一つが、時の概念を全く無視したかの様にスローペースに書き換わっていくのである。

 蓮は佐々木の事を見つめた。

 居酒屋で佐々木はずっと友達の結婚の事を羨ましがっていた。いつも一杯酒を飲めば、大抵2杯目はソフトドリンクを注文していた佐々木が、3杯すべてアルコールを注文した。

 鞭で叩かれて最後の直線で鼻息を荒げている競走馬みたいに、何かに追い立てられているかの様に唐揚げにかぶりついていた。

 完璧さ故に、蓮には気付かなかった。佐々木は、とても弱い生き物の可能性がある。その弱さを、完璧な美貌と、器量でカモフラージュしていた。

 蓮はその器量事態が、佐々木をどこまでも追い詰めて、無難で、形の無い女にしているような気がしていた。

 壁に掛けられた明るいグレーのパンツスーツが、鉄の鎧の様に圧倒的な存在感を放っている。

 そのスーツに、佐々木の色はない。完璧なスーツだった。見事に、人間でごった返したコンクリートジャングルに溶け込む保護色に染まっている。

 蓮は自分のスーツも見て笑った。自分も全く同じだった。少し濃い目のグレーに、赤いネクタイ。それが佐々木のパンツスーツに仲良く並んでいる。今の2人はその保護色を脱ぎ捨てて、捕食者に見つかれば、すぐに食べられてしまう、か弱い状態だった。

 か弱い筈なのに、どうしてこんなに安らいでいるのだろうかと考えると、段々眠気が襲ってきた。

 蓮はその眠気がピークに達する前に、佐々木にもう一度覆い被さって見た。ずっと何かに追い立てられて、そのストレスを自分と会うことで解放出来たとしたならば、蓮にとってもそれが癒やしになった。そう思っていると、佐々木に再び愛おしさが沸いてきたのだ。

 蓮が佐々木の布団をはぎ取ると、規則的に寝息を立てていた佐々木の肩が止まり、目がゆっくりと開いた。

 蓮は佐々木の身体に覆い被さり、ゆっくりと口づけをしようと顔を寄せる。同時に佐々木のすっかり乾いた身体に手を這わせた。

 その瞬間、佐々木の左腕は大きな弧を描き、先に付いている掌は光の速さで蓮の顎を打ち抜いた。

その掌は蓮の頭を90度回転させ、別の意味で蓮の意識をどこか遠くへとばしていったのだった。



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