2話3
まっ白に飛んだ意識が沸騰、感情の針が振り切れた。「こっ、こっ、こっ──」
「どうかした(か──)」
「だめに決まってんでしょうが! なに考えてんのよっ!」
いささか食い気味に怒鳴りつけ、エレーンはまなじり吊りあげる。
「何がそんなに問題なんだ」
「なっ、なっ、何がっ、て、だってっ!」
「狭いが、寝るには十分だろ。土間を挟んであんたは北側、俺は南で寝ればいい」
「そっ、それは、そうなん、だろうけど──でもっ!」
「なら、一人で居残るか?」
え゛……と前のめりで固まった。
一人で、ここに?
どことも知れぬ 原 野 の 果 て に……?
ばさり、と戸口で音がした。
瞬時に吹き込む夜の風。すらりと細身の長髪が、背をかがめて入ってくる。
「おんな、おとこ?」
ぽかんとエレーンは口をあけた。皆と帰ったのではなかったのか?
「今、バパとも話したんだが、明日の行程の先導は──」
靴を脱いであがりこみ、ファレスはつかつか部屋を突っ切る。
片膝立てて座りこみ、そのままケネルと話しこんだ。
こっちは無視だ。目もくれない。
直置きされたカンテラで、ちらちら炎が揺らめいた。
壁で、火影が不気味に踊る。
エレーンはつくねんと湯呑みをいじくる。二人は気難しげな顔つきで、なにやら話しこんでいる。
毎度のことだが、話に混じれず蚊帳の外。内輪の話で、手も足も出ない。すぐ近くで聞いているのに、固有名詞でさえ謎の暗号。
ふと、ファレスが一瞥をくれた。
「──な、なによっ!」
すっかり油断していたエレーンは、わたわた泡食ってケネルに隠れる。もっとも天敵は、まだ一言も発していないが。
ファレスがかがんで手を伸ばし、手から湯呑みをもぎ取った。
座った肩を土間へとひねり、柄杓で鍋から湯を汲み出す。
「──なっ……」
エレーンは瞠目、絶句した。
「なっ、なっ、な──」
衝撃の場面を目撃し、あまりのことに言葉が出ない。
ファレスが疎ましげに柳眉をしかめた。「あァ?」
「あ?じゃないわよ! あ?じゃないわよっ! なにすんのよ女男ぉっ!」
人さし指をぶんぶん振って、エレーンは涙目で振り仰ぐ。
「どーしてくれんのよ、こんなに増やしてくれちゃってえ!」
あの薬草茶の湯呑みの中に、なみなみと湯を注ぎ入れやがったのだ。
「ちょっとだけでも大変なのに! こんなに、こんなに、こんなに、いっぱい……なんであんたはいっつもそーゆー意地悪をっ!」
あんな恐い蓬髪たちを、わざわざこっちに寄越したり!
ファレスがうるさげに柳眉をひそめた。「これしきのことで、ベソかくな」
「ななななにその言い草はぁ!? あんたのせいで、もっといっぱいになっちゃったのにっ! ゆっ、ゆっ、湯呑みに半分なら、まだなんとかなったかも──」
「飲んでねえだろ、一口も」
「これから飲もうと思ってたんですぅっ!」
「ああ、一応言うが、捨てんじゃねえぞ。適量ってのがあるからな」
「ファレス」
ケネルが呼びかけ、腰をあげた。「そこまで送る。街道だろ」
ファレスは怪訝そうな顔つきで、だが「──おう」と応じて立ちあがった。
めいめい革ジャンを引っかけて、戸口に向かい、靴を履く。
目をみはって乗り出した。「ちょ、ちょっと待ってよ、どこ行く気──!」
「外に出るなよ。ああ、それと」
そつなくケネルは釘をさし、出て行く肩越しに声を投げた。
「戻るまでに飲んでおけ」
エレーンは顔を引きつらせ、ためつすがめつ胡乱にながめる。
「……むう」
こやつをどうしてくれようか……。
ちらちら炉火がひるがえる半球状のゲルの中、湯呑みは何食わぬ顔で鎮座して、ほかほか湯気をたてている。ちなみに縁まで、たぷたぷ満タン。
「たくもぉ~! あの女男はぁ~っ!」
ふつふつ煮えたぎる苦悶が高じ、クッションを抱きしめ、ごろごろ転がる。なんて余計な真似をする! 意地悪するにも限度があろう! ちょおっと顔がいいかと思って!
両手両足投げ出して、ぱたり、と床に突っ伏した。
「……絶対、あいつ、面白がってる」
末代まで呪ってやるぅ……
じっとり呪詛でやさぐれて、どれくらいそうして渋ったろうか、せめて限界まで肩を引き、エレーンは顔をゆがめて指を伸ばした。ケネルが戻るその前に、この任務を完遂せねば。そうだ、飲んでも、たぶん死なない。天敵の悪意で増殖したが、なんとしてでも 処 理 せねば!
鼻もつままんばかりの勢いで「へ」の字口で顔をゆがめ、観念して、こくり、と一口。
うっげえ~! ととたん顔をしかめて、床を叩いて転げまわり──
はた、と停止し、伸ばした腕の先にある、件の湯呑みを見返した。
もそもそ正座で座りなおし、続けてこくこく飲んでみる。なぜだろう、苦くない。覚悟したより苦くない。もっとも、まだまだ苦い部類には違いないが。でも、さっきの 猛 毒 に比べたら。どうにかぎりぎり「口にしても可」の範疇。
「……神様って、いるのねえ」
ぽつり、と感嘆の呟きを漏らして、目を閉じ、ふっ、と不敵に笑う。
「ざまあみなさい」
べええっ、と戸口に舌を出した。
「ざぁ~んねん、女男。あんたは嫌がらせのつもりでも、なんかすんごく薄まっちゃったもんねえ!」
日頃の行いが悪いからだ。
ここぞとばかりに高らかに笑い、希望の見え始めた湯呑みを見る。この調子でいったらば、二度か三度で飲みきれる。そうとも残りも楽勝だ! とはいえ──
ちろ、と横目で柄杓を見、そそくさ、それを手にとった。
「……えっと。もうちょっと、薄めてみよっかな……」
とくとく、湯呑みに湯を注ぐ。あの天敵の真似みたいで癪だが、この際そんなことは言ってられない。
ちんまり絨毯に正座して、温かい湯呑みを両手で包む。ふーふー息を吹きかけながら、エレーンはこくこく、がんばって飲んだ。ここで、へこたれる訳にはいかないのだ。
一旦、街に舞い戻り、街道を使ってトラビアへ向かう──そういう選択肢もないではなかった。だが、それには致命的な問題がある。
トラビアまでの旅費がない。
西の国境トラビアは遠い。盗賊が出ると噂の危険地帯も道中にある。つまり、用心棒を雇うとなれば、それ相応の費用がかかる。だが、辛うじて持っていた私物の財布に、大陸縦断に要するような、まとまった金などあろうはずもない。領邸夫人の立場ともなれば、そもそも小銭など持ち歩かないし、品代を支払う必要があれば、従者が代わりに済ませるものだ。もしくは店が直接、領邸の方へ請求する。
なるほど馬車なら屋敷にもあるが、そんなことが爺に知れれば、たちまち部屋に閉じ込められる。だからこそ、こうして出奔同然で出てきたのだ。行方を探されたりせぬように、商都の公館に赴いて故郷の友人を見舞う旨、置き手紙までしたためて。
そもそも、最果ての北方では、親身に世話してくれる知人もいない。つまり、現状、
「ケネルだけが頼りっ!」
うむ、と力強く言いきった途端、はたと気づいて、脱力した。
もそもそ再び膝をかかえ、うう、と唸ってうなだれる。
「……ケネルだけが頼り、かあ」
何気なく発した己の言葉に、まざまざと思い知らされた。がんじがらめのこの立場を。
傭兵たちがどれほど嫌でも、すでに厭うている場合ではなかった。現に頼ることができるのは、ケネルをおいて他にないのだ。ならば、なるべく仲良くせねば。ケネルと。そして、傭兵たちと。だって、逃げるわけには
いかないのだから。
『 大嫌い! 』
脳裏をよぎった"声"に射抜かれ、ぎくり、と頬が緊張に強ばる。
──あんたなんか大嫌い。
あの言葉が、胸をえぐった。あの晩ダドリーに投げつけた言葉。そして、かの人に投げつけた、二度とは消せない苦い楔。
突き放された漆黒の底で、エレーンは唇を震わせる。
泣きわめいて追いすがった幼かったあの日から、ひとつも成長していない。その関門は何度でも、往く手を阻んで立ち現れる。自分の足で乗り越えないかぎり、
──人は、何度でも試される。
顔をしかめて首を振り、務めて大きく息を吐いた。
髪先が顔に当たるほど勢いよく首を振り、振り払うようにして顔をあげる。今は弱音を吐いている時ではない。なにせ相手はあのケネル。とんでもないことを平気で言い出す無神経という名の合理主義者だ。泣き言なんか言っていたら、あっという間に負けてしまう。そうだ。万全の状態で臨まねば。負傷中だが、その分は気合いで!
「……それにしたって、ケネルの奴ぅ」
湯呑みにつけた唇を、むう、とエレーンは尖らせる。平然と言い放ったあの顔が、むくむく脳裏に思い浮かぶ。一難去って、また一難。
「本当に泊まるつもり、とか?」
いや、「二人っきりで」は無理だろう。
とはいえ、一人で残されても……てか、なんかあったら、どうする気なのだ!
ここで寝るなど、無用心にもほどがある。信じられない話だが、物置小屋でさえついている鍵が、この建物には「ない」というのだ。それどころか、そもそも扉が存在しない。戸口を仕切る布一枚で、辛うじて原野と分かたれているにすぎない。心許ないそんな住居にか弱い乙女を置き去りにして、万一、賊にでも侵入されたら、一体どうしてくれるのだ。一発で手篭めにされちゃうではないか!
『 俺の分だ。ここで寝る 』
うぐ、と詰まって、エレーンは片頬引きつらせる。ひとり悶々としていたら、ぐるんと話が一巡し、早くもケネルに追いつめられる。
「……いや……でも、だからって~……」
ひっそり静まった戸口の仕切りを、ぷちぷち恨みがましく盗み見る。美麗な長髪と出て行った、あの背が脳裏によみがえる。
ことり、と湯呑みを脇に置き、膝をかかえて、ぼんやりながめた。
「……ケネル、かあ」
街には、ちょっといないタイプだ。むしろ早々いてたまるか、あんな尊大な無礼者が。
あれを一言で形容するなら、まさしく、ぴったりの言葉がある。
「横暴」
人を人とも思わぬ振る舞い。命令口調でことごとく行動を制限し、やんわり拘束されている気さえする。言葉は悪いが、彼の監視下に置かれた気がする。なんとなく──そう、なんとなく、そんなふうに感じている。彼に自由を奪われている、と。
膝にうつぶせた耳元で、ばたばた、壁布が騒いでいた。
原野を吹きわたる風の音が聞こえる。魔物が咆哮するような暗くうごめくその音は、一度は収めた不安と不審を、不意に大きく揺り起こす。ぼんやりと、そんなことを思った。
──判断を、誤ったろうか。
あの時は、報せを聞いて、駆けつけたい一心だった。トラビアへ行くこと以外、何も考えられなくて、あわててケネルに頼ってしまった。けれどケネルは、気性の荒い傭兵の馬群に断りもなく放りこみ、こんな見知らぬ僻地の原野にいきなり勝手に連れてきて。頭ごなしに命令して──。
ケネルの真意が分からない。
ケネルのことが分からない。彼がどこの何者で、本当は何を考えているのか。
最たるものは、あの時の言葉だ。
『 あの女とガキ、始末してやろうか 』
初日の戦が収束し、戦域から引きあげてきた夕暮れの道で、ケネルはサビーネの暗殺をもちかけた。だが、そうかと思えば、こんなふうに手を貸してくれる。どちらが本当の顔なのだ。強く頼もしい親切な英雄? 人を人とも思わぬ冷血漢? 現にあの戦の時にも、多数の軍服の兵たちを虫けらのように殺害した。何度やめるよう懇願しても、ついに聞く耳を持たなかった。確かに窮地は救ってくれた。けれど、あの結末を望んでいたかと問われれば──
胸に込みあげた苦さに耐えかね、エレーンはきつく瞼を閉じる。あの光景を忘れない。きっと生涯忘れない。晴れた歩道の端に積まれた、青い軍服の亡骸の山──。
膝をかかえた両腕に思わず強く力を込めて、身を守るようにして体を丸めた。正視せぬよう務めてきたが、あの日焼きついた光景は、容赦なく現実を突きつける。ケネルはつまるところ傭兵で、その仕事の大半は、他人を手にかけること。沿道に積まれたあの彼らを、つまり、ケネルが
「殺した、のよね……?」
口をついた無自覚な言葉に、寒々と背筋が凍った。
火焔に巻かれて絶叫する人々を、彼らは平然とながめていた。店先の皿でも見るように、淡々と首尾を吟味していた。信用していいのだろうか。
ケネルを信じていいのだろうか。
何度追いやっても立ち戻る、あの疑問が頭をもたげた。やはり、どうしても釈然としない。やはり、どうしても分からない。彼はなぜ、命を張ってまで戦ってくれた? 今もこうしてトラビアに向かってくれている? 広い大陸を縦断し、西の最果ての国境まで。大勢の傭兵を動かしてまで。
あのディールとの戦に際して、金銭の支払いはしていない。この旅の同伴にしても、なんの契約も取り交わしていない。ケネルにすれば、どちらも無償だ。あまりに親切すぎないか? 同情してくれたにせよ、これはあまりに大掛かりだ。何か話がうますぎる。だって、こちらは赤の他人にすぎないのだ。もしや彼には──
ふと、エレーンは眉を曇らせ、唇の端を軽くかむ。もしや彼にはまた別の、秘めた思惑があるのではないか? はた目には計り知れない、良からぬ企みがあるのだとしたら──
ふっ、と炉火が大きく揺らいだ。
ひんやり、夜風が頬を掠める。
やっと戻ってきたらしい。暗澹たる思いを密かに引きずり、エレーンは戸口に目を向ける。
果たしてゲルの仕切りがめくれ、夜を背景にした暗がりに、ズボンをはいた足が見えた。
だが、片手で仕切りを押さえたまま、なぜか足は動かない。そう、こんな肌寒い夜間の戸外に、なぜ、いつまでも突っ立っているのだ?
なにか様子がおかしいことに、エレーンはようやく気がついた。何がそんなに気になるのか、周囲を窺っているようなのだ。それに、普段の動作が雑なわりには、物音一つしなかったし──。
手が、仕切りの布を払った。
かがんで、頭が戸口をくぐる。その動きを目で追って、ぎょっとエレーンは居竦んだ。
「──あ、あのっ! ケネルに用事っ?」
何が起きたか、遅まきながら悟った。
エレーンは頬を引きつらせ、じりじり尻で後ずさる。
「す、すぐに戻ると思うから、その──っ」
あいまいに笑みを浮かべつつ、すばやく視線をめぐらせた。どうしよう、
一人きり。
そして、どこにも逃げ場がない。
うまく外に出られても、ケネルの居場所が分からない。たとえ、それを知ってはいても、きっと、そこまで逃げ切れない──。
ぽっかり開いた夜の戸口を、おろおろしながら盗み見る。
戸口の土間の暗がりに、男が一人立っていた。
この背中を斬りつけた、無精ひげの蓬髪が。