2話2
洞を思わせる虚ろな瞳。見たこともない色合いの。
紗が一枚かかったような、彼方に隔絶したような瞳──白シャツの腕が、片隅で動く。
組み敷かれるのか、と身構えたが、違った。
そのまま拳を振りあげた。
エレーンは居竦み、目をつぶる。
(殴られる──!?)
──まさかと思ったが、やり返す気だ!?
だが、わかっていても、動けない。
パチパチ炉火が鋭く爆ぜた。
かたわらで何かの気配が動く。身を固くして備えるも、なんの衝撃もやってこない。
そろり、と薄目を開けてみると、向かいの壁の暗がりに、息を呑んだような白い顔。戸口にいた女男だ。──いや、それより、覆いかぶさるような気配は一体──?
怪訝に振り向き、面食らった。
間近で視界をふさいでいたのは、あの蓬髪のたくましい胸。膝を立てた中腰で、顔をしかめて睨んでいる。目線の先は、こちらの頭上。
不自然に持ちあげた腕に気づいて、それを辿って驚いた。
ギリギリ力をこめた手が、誰かの腕をつかんでいる。押しとどめているものは、拳を振りあげた白シャツの腕。
白シャツがふと身じろいだから、制止されたことに気づいたのだろう。ようやく蓬髪に目を向けた。
「なにー? アド」
「手を放せ」
「なんでー?」
「さっきのでチャラだ。わかるだろうが!」
白シャツは無言で蓬髪を見ている。
蓬髪が焦れて舌打ちした。「──だから、あの領邸で、この子の背中を斬ったろうが!」
「あー。斬ったね、コイツのこと」
いやにのんびり、白シャツは返す。
でも、とおもむろに言葉を続けた。「オレはなんにもしてないけどなー。コイツ斬ったの、あんたじゃん」
「加担したろうが、お前もあの時。今さら知らねえ顔なんざナシだぜ」
つかんだ手を突き放し、蓬髪が強く腕を引いた。
かかえこんでいた白シャツの膝から、もぎ取るようにして引っ張り出される。だが、白シャツも依然、つかんだ腕を放さない。なんの表情も浮かべていないが、今にも腕を引っ張り戻して、殴りつけそうな剣呑な気配──。
視界の片隅で、ケネルが動いた。
腰を浮かせ、右肩を突き出す。
「ウォード」
どこかで声が、白シャツを呼んだ。
緊迫をつらぬく、張りのある声──はっと視線をめぐらせば、火影ゆらめく薄暗い戸口で、首長が目を向けていた。落ち着いた瞳を白シャツに向け、噛んで含めるように言葉を続ける。
「いいか、ウォード。その子は"卵"だ」
白シャツがひるんだように首長を見た。
首長の短い一言は、顕著な変化をもたらした。
あわてて腕から手を放し、気遣わしげに顔をうかがう。「痛かったー?」
「……はっ……え?」
エレーンはたじろぎ、口ごもった。「う、うん。だって、そりゃ……」
「悪かったねー」
うっすら頬に笑みさえ浮かべて、自分の所業を白シャツが詫びた。妙に間延びした物言いと、他人を無視する独特の間で。
硬直していた空気がゆるんだ。
ケネルの背中に逃げ帰り、エレーンはどぎまぎ白シャツを見る。
気だるそうに、あくびしている。まるで何事もなかったように。
(……な、なんなの? あの人~!?)
今のは一体なんだったのだ。いきなり白シャツに殴りかかられ、蓬髪が止めて奪い返し、短髪の首長が自分を「卵」と呼ばわった途端、白シャツがあわてて手を放し──ずっと、ぼーっとしてたのに。てか、うら若き乙女を形容するに"卵"ってのはどうなのだ? そんな丸っこく見えるってことか? それって一体どのあたり──まさか、顔か!? それとも
全 体 ……!?
「しかし、ウォードが加担するとはな」
声に気づいて目をやれば、戸口の暗がりであぐらを崩し、片頬ゆがめて苦笑いしている。すんでのところで呼びかけた首長だ。
「お前ってんなら不思議はないが。なあ、ジャック」
後の言葉で"帽子"に呼びかけ、親しそうな笑みを向けた。
「久しぶりだな。あの時以来か? ほら、北カレリアの一件の──。それにしても、どこにいたんだ。また、例の調達か? そいつをとやかく言う気はないが、この子を任せたはずだよな」
「なんだよ、見てたぞ? コイツのことなら」
な? と帽子が、急に振り向く。
エレーンは「へ?」と己を指さし、まじまじ帽子の顔を見た。旅芸人に知り合いはいないが──
ジャックと呼ばれた羽根つき帽子が、指輪の手をもちあげて、くい、と帽子のつばを上げた。
大きなつばに隠れていたのは、情けないチョビひげの間の抜けた顔。昔の騎士ばりの衣装にフリル。よく見りゃ、黒い縮れ毛の先に、見覚えのあるビーズがキラキラ。
「──あっ!?」
エレーンは肩で後ずさり、顔を引きつらせて指さした。
「あんた、まさか、あの時のっ!」
そう、ここで会ったが百年目! 先の戦火で街の櫓に登った時に「注目を集めるならクラッカー」などと適当この上なくほざいた上に、姿をくらませやがった無責任男、一言で言えば 変 な 男 だ!
ゲンコをにぎって、エレーンはなじる。
「ちょっと、どーしてくれるわけっ? 言う通りにしたら、怒られたじゃないのよっ!」
あの後、ケネルに大目玉くらった……。
ちなみに、なぜにこんなのが、大物面して座っているのか。仮装男の分際で。
帽子についた羽根先をゆらし、きょとんとジャックが小首をかしげた。
「けど、静かにはなったろ? 一発で」
「──う゛っ──くうぅ~っ!」
紛れもない事実であるので、言い返せないのが、実にくやしい。お陰で街門外のケネルにまで、ガン見で注目されまくり。
当の帽子は悪びれるでもなく、首長におもむろに目を戻す。
「レッドピアス、あんたの依頼は果たしたぜ。だから見てみろ。怪我の一つもなかったろうが」
一同、ふと、目をあげた。何かを合点した顔つきで。
「だっから見ろよ。ピンピンしてんだろうが、この通り。あんなに目立つお立ち台に、ぼさっと突っ立ってたのによ」
大きなつばの羽根つき帽子が、ウハウハがははっとそっくり返り、ぺらぺら得意げに喋りたてる。
エレーンは片頬ひくつかせ、ふるふる密かにゲンコを握る。
(ちょっとなによ! コイツってえ!?)
まったく、なんて厚かましい。もういっぺん成敗したろか──!
帽子がまき散らす喧騒の中、一同が身じろぎ、膝を立てた。
どうやら、これでお開きらしい。
ばさり、と戸口の厚布が降りる。
皆を送り出して戻ってくると、ケネルが目の前であぐらをかいた。
床のクッションを抱きしめて、ぐんなり伸びていたエレーンは、げんなり虚ろな目を向ける。
(今度はなに。明日にしてよ……)
一連の騒動で、どっと疲れた。今日は一日じろじろ見られて、ずっと気を張っていたところへ、襲撃犯と対面させられ、妙な白シャツに捕まって、あまつさえ変なチョビひげにまで、なんか偉そうにデカイ面された。まったく、返す返すも口惜しい。しがみついたクッションに、顔をしかめて潜りこむ。
はた、と顔を振りあげた。
(──やばい)
わたわた這いつくばって探しだし、ささっと滑りこんだ正座の姿勢で、そそくさ口元にもっていく。間違っても飲んだりしないが。
「──あ、まってまって! 怒んないで?」
ぱたぱた牽制の片手を振って、愛想笑いをケネルに向ける。
「こ、これね? これよね? 今から飲もうと思ってたとこでっ!」
そう、すっかり忘れていたが、ケネルがくれた薬草茶。ちなみに、ケネルはすぐ怒る。
「訊いておきたいことがある」
進捗具合を答える前に、ケネルはおもむろに言葉を続ける。
真顔でまともに顔を見た。
「戻るか、ここで」
ぽかんとエレーンは口をあけた。「……え?」
「移動の初日から、その調子じゃ、命の保証はできかねる」
「あ、だけど──」
「今なら、まだ、楽に戻れる。半日も飛ばせば、十分だ」
湯呑みを持つ手に力が入った。
暗い壁に視線が惑う。試されているのかと訝るが、ケネルの顔はことのほか厳しい。
本気で、ケネルは言っている。
ざわめく胸を整えながら、火影の踊る絨毯を見た。
"この移動を打ち切って、ノースカレリアに引き返す"
それは、不意打ちの誘惑だった。
確かに嫌気がさしていた。冷やかしの視線を向けられて。
ここで旅を打ち切れば、傭兵たちから解放される。嫌な思いをすることも、値踏みされることもない。下卑た口笛を吹かれることも──
「行く」
未消化のままの、決意がこぼれた。
口をついたその言葉に、自分でも密かに戸惑いながら、旅装の膝をエレーンは見つめる。
「行く。あたしの、せいだもん」
「──あんたの?」
ケネルが怪訝そうに眉をひそめる。
壁で、火影が揺らめいた。
土間の窯で燃えさかる炉火が、絨毯の床を照りかえす。
「早く飲め」
ケネルが膝を崩して立ちあがった。
寝具の積まれた隅へと歩き、それらを無造作に投げ広げていく。枕を、毛布を、上掛けを、敷布を。
「横になって睡眠をとれ。痛みは体力を奪うからな」
あぜんとエレーンはその顔を仰いだ。「……いいの?」
「いいも何も、あんた次第だ」
その理由を事細かく、問い質されるかと思ったが──。
ケネルはふとんを敷きながら、こちらにはまるで目もくれない。どうやら、こっちの事情になど、一切興味がないらしい。
手持ち無沙汰に見まわした視界で、掛け時計が目に留まる。「あ、でも、寝るにはまだ、」
「まだ、なんだ」
「あ、だってまだ八時半……」
「夜は、睡眠をとって、体を休めるためにある。それに、あんたは熱もある」
正論に一瞬呆けるが、我に返って追従笑い。
「あっ、そっ、そーよねっ! うん、そうだ。そうだったっ!」
へらへら直ちに引き下がる。ケネルの機嫌を損ねてはならない。こんなことで盾ついて、また「戻るか」などと言いだされてはコトだ。ケネルとは仲良くやらないと。
そう、はっきり自覚していた。
断じて、断念できないと。
なんとしてでも、トラビアへ行くのだ。まだ、伝えねばならないことがある。
そそくさ視線をめぐらせた。
「へ、へえ、用意いい~。もう一組あるんだ、ふとん」
ふとんなんぞに興味はないが、思わずうっかり逆らった、今の粗相を挽回せねば。
ケネルが事もなげに振り向いた。
「俺の分だ。ここで寝る」
は? と笑顔が凍てついた。
右から左へやり過ごしかけた、言葉の尻尾を引っつかまえる。
「え──えええーっ!?」
愕然と戦慄、ケネルを見た。なんだと? 俺も、
ここで寝るぅ!?