1話5
背をかがめ、編みあげ靴を脱いでいる。
それは待ちわびたあの黒髪──ケネルがつかつか踏みこんだ。
ぐい、と片手を突きつける。
「飲め」
見れば、手には、白く湯気のたつ湯呑み。
それを受けとり、何の気なしに、エレーンは湯呑を傾ける。
「──かっ!」
顔をしかめて突っ返した。
「かっ! にがっ!──な、なによ、これっ!」
「薬草茶だ」
ツーン、と目にくる刺激臭。
湯呑みの中をあわてて覗けば、茶色というのか緑というのか、腐った苔の色とでもいうのか──。思わずケネルを振り仰いだ。「ね、一つ確認するけど、」
「なんだ」
ケネルはとうに背を向けて、左の壁の暗がりへ──水瓶の方へと向かっている。
とっさに切り出しはしたものの、言葉に詰まって目が泳ぐ。
「あっと──。ううん、いいやっ! なんでもない」
愛想笑いで首を振り、エレーンはそそくさ目をそらした。だって、聞けない。もしかして、 毒 殺 す る 気 じ ゃ ないわよね? とは。
とはいえ現に、湯呑みは、ここに、あるわけで……。
むう、と刺激臭の液体を見た。こうして受けとってしまったからには「要らない」と言うのも感じ悪い。さりとて飲み干す勇気もない。てか、誰が飲めるかこんな沼!
途方に暮れて、しばし硬直。
とはいえ、どれほど睨んでも、溶けてなくなるものでもない。むしろ、たっぷり残っている。そう、湯呑みに半分ほども。うっかり弾みで舐めたあれから、ただの一口も減ってない。どーする?
コレ。
「早く飲め」
ケネルは瓶から水を汲み出し、コップで飲み干し、土間の向こうへ歩いていく。
「痛みがとれて楽になる」
どさりと床に腰を下ろした。手を伸ばしてザックをとり、片手で中を探っている。
「この薬を作るために、貴重な材料を借りたんだからな」
え……とエレーンはまたたいて、まじまじ湯呑みの液体を見た。なら、ケネルが作ってくれた? 一日中、馬を駆り、きっと疲れているのだろうに。なのに、わざわざ、
あたしの為に?
かあっ、と顔が熱く火照った。
どぎまぎうろたえ、片手でパタパタ顔を扇ぐ。
(わ、わりと、いいとこあるのよね~……)
そう、あの時もそうだった。
ディールの使者に降伏を迫られ、渦中に取り残されたあの時も。
ケネルだけが助けてくれた。
こちらと関わりを持つことを周囲の者がことごとく避け、誰もが尻込みする中で。ケネルだけが言ってくれた。
『 俺 が 行 く 』
とくん、と胸が跳びはねた。
胸にあたたかな灯がともり、知らず微笑みが込みあげる。それでもケネルは、恩着せがましく言いはしない。今もあの仏頂面で、土間の向かいに座って
──ない。
向かいの暗がりを見直した。
炉火の向こうに目を凝らすが、あの姿はどこにもない──
ぎょっと、エレーンは後ずさった。
「ななななになにっ? なんか用?」
闇の中を動く人影。
なぜに、こっちにやってくる!?
「あ、これ? お茶のことっ? えっと──今から飲もうかなって、ちょうど今、思ってたとこでっ──あ! でもこれ、けっこうまず──いや、苦くって! だからっ!」
簡単ながら説明も聞いた。
痛み止めのお茶ももらった。昼でもろくに口をきかない無口な奴が、今さら世間話でもないだろう。いや、こんな夜更けに二人きり。この接近が意味するものは……
そうか、そういうことか、と気がついて、エレーンは顔を引きつらせる。
それは、さぞや都合が良かろう。ここだけ何故か他のゲルから離れてて、いわば野中の一軒家状態。泣こうがわめこうが誰もこない。街道も使わず、宿も使わず、変だ変だと思っていたら、
──やっぱり、そういう魂胆かー!?
床を這いずり、わたわた撤退。だが、間仕切りもない狭い部屋。
土間で焚かれた炎を背にして、ついにケネルが立ちふさがる。
壁に張りついてその顔を見あげ、エレーンはごくりと唾を飲んだ。確かにケネルは見た目がいいし、けっこう好みのタイプだが、いやだがしかし、だからといって、社会の倫理に反するような、ふしだらな真似をする気はない。自分は既婚者、これでも常識は弁えている。もう結婚していることは、ケネルだって知ってるはずで──
はた、とそこで、嫌な可能性に気がついた。
彼らは元より遊民で、すなわち他国の異邦人。こっちの国の常識が、通じなくてもおかしくない。つまり、ケネルは、
──気にしない?
壁で、火影がゆらめいた。
土間の炉火の逆光で、ケネルの表情はよく見えない。
張りついた壁でへたり込み、エレーンはびくびく拳を握る。
(ちょ、ちょっとでも触ってみなさいよ?)
──大声あげてやるんだからっ!