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7話7

 その姿を凝視して、エレーンは唇を震わせる。

 世界が動きを止めていた。

 この巡り合いを見守るように。

 野草がゆらぎ、梢がそよぐ。鳥も高みでさえずっている。けれど、二人の周囲だけ、すべてから隔絶されている。したたるような森の緑──。

 ケネルが、いた。

 あのケネルが立っていた。確かに、この目の前に。

 あのケネルの確かな気配が、手の届く場所にある──。

 胸の痛みに、顔をゆがめた。

 のろのろエレーンは目をそらし、へたりこんだ足の下、踏みしだいた草地を見つめる。暗鬱で塗り込められた、やるせない胸のどこかで、とくん、とくん、と鼓動が息づく。

(……え?)

 エレーンは戸惑い、ゆるく開いた我が手を見つめた。体に生気が戻った気がする。凍え滞っていた血流が、急に巡りはじめたような──。

 思わぬ不可解な反応に、エレーンは密かにうろたえた。どうやら嬉しい(・・・)ようなのだ。ケネルと再び会えたことが。

 ──いや、

 相手は他ならぬこのケネル。あのひどい仕打ちの張本人ではないか。次に彼に会ったなら、すべきこと(・・・・・)があったはず。

 浮つきかけた弱い心を、ぎゅっと拳に封じこめる。──言わないと。

 ケネルに、あのことを言わないと。

 旅はやめて、もう帰ると。今まで色々ありがとう。だから、これで、

 さよなら、と。

「……あの」

 ためらいがちに口をひらいた。

 少し離れて立ったまま、ケネルは辺りをうかがっている。耳を澄ますような顔つきで。小太りが戻るのを気にしているのか。──いや、その顔はどちらかといえば、何かを待って(・・・・・・)いるような。

 いずれにせよ、呼びかけに対する反応はない。思いもがけず小さな声で、注意を引くことができなかったらしい。エレーンは浅く息をつき、その姿から目をそらす。

 いざとなると、切り出しかねた。

 それを告げるということは、この彼との決別を意味する。ここで関係が断ち切れる。金輪際会うこともなくなる。唯一味方してくれたこの人と──。

 本人を前にして、心が惑った。急にひどく怖気づく。肩は引け、声は出てこず、体中が拒否している。

 だが、すでに決めたこと。

 たとえ、ここで先送りにしても、もう、結論は変わらない。この彼とは、もう行けない、心底そう思ったはずだ。ならば、告げるのは今しかない。

 無理に気持ちを奮い立たせ、ひとつ浅く息をつく。無作法ではあろうけど、今、彼の目は見られない。

 膝に目を伏せたまま、観念して口をひらいた。「あの、ケネル。あたし、もう──」

「まったく、いいとばっちりだな」

 ぎくり、と肩が強ばった。

 思いもかけない辛辣さに、きりで刺されたように胸が痛む。

 おそるおそる窺えば、ケネルは先と変わらぬ様子で、周囲の木立を見渡している。その顔がしかめられ、苦々しげに振り向いた。

「すまない。気をつけてはいたんだが。──とはいえ、これは、あんたもあんただ」

 異状の有無をあらためるように、全身を見やって、腕を組む。

「なぜ、すぐに助けを呼ばない。手がかりもなく樹海を捜せば、居場所の特定に時間がかかる。その分だけ救助も遅れる」

「だ、だって──」

 エレーンはおろおろ顔をゆがめた。「だって、怖くて……声、でなくて……」

「だったら、大人しくさらわれるつもりか。もしもの時には、大声で叫べと言ったろう」

「……だって」

 何かひどく割り切れない思いで、エレーンは唇を噛みしめた。この男には神経がないのか? あんな事をしておいて。いつものように平然としていて、いささかも変わるところがない。

 身を硬くしてうつむいた。「……そんなこと、急に言われても」

 木立に視線をめぐらせていたケネルが、ふと気づいたように動きを止めた。

 怪訝そうに振りかえる。

「あんた、俺の話を聞いていたか?」

 言わずもがなの質問に、エレーンは戸惑い、首をかしげる。「き、聞いてるでしょ。ちゃんと、こうして──」

昨夜ゆうべの話だ」

 ぎくり、と頬が強ばった。

 あの悪夢が脳裏をよぎり、手近な木根をつかみとる。後ずさった背が土壁に当たる。

 ケネルが呆気にとられた顔をした。

 しばし絶句で、まじまじと見おろす。

「──そういうことか」

 やがて、腑に落ちた顔でつぶやいた。往生したように頭を掻く。

「それで朝から逃げ回っていたというわけか。どうりで様子が妙だと思えば。勢いよくうなずいていたから、理解したものと思ったが」

 溜息まじりに向き直った。

「顔をあげろ」

 壁に殊更に背中を押しつけ、エレーンはおどおどケネルを仰いだ。ケネルは肩をかがめて膝に手をつき、顔を覗きこむようにする。

「よし。今度こそ聞いているな?」

 うなずいたのを確認し、かがめた肩を引き起こした。

「聞いていなかったようだから、もう一度言っておく。他の隊員には近寄るな。事故が起きても、あんたの力じゃ太刀打ちできない。昨夜のことで、それは身に染みてわかったろう。言っておくが、あの程度の悪ふざけなら、部隊の誰にでもできることだ」

 あぜん、とエレーンはその顔を仰いだ。

 つまりは「脅し」だったということなのか? 昨夜のあの振る舞いは。

 言われてみれば、確かにケネルは、無口な彼にしては珍しく、一人で長々と喋っていた。

 毒気を抜かれて二の句が接げず、ただ脱力だけが口をついた。「なにそれ……」

「なにそれ、じゃないだろう。又、同じことを言わせるつもりか」

「──そうじゃなくって!」

 エレーンはたまりかねて顔をあげた。

「なにも、あんなことまでしなくても! 普通に言えば、済むことでしょ!」

「聞かなかったのは、どこのどいつだ」

 つっけんどんに返されて、出かけた文句を、思わず呑みこむ。

「再三、注意はしたはずだ」

 ケネルはやれやれと腕を組んだ。

「だが、聞かないとあらば、致し方ない。あれなら、てっとり早いしな」

「……。なにそれ」

「どんなものだか身をもって知れば、あんたも実感が湧くだろう?」

 あぜん、とエレーンは言葉に詰まった。もう、呆れてものも言えない。

 深い溜息で額をつかんだ。「……ケネルの頭の中って、どうなってるの?」

「こっちの台詞だ」

 辟易とした口ぶりに、怪訝にケネルの顔を見る。

「あんただって、やっただろ?」

「──はあ!?」

 目を剥き、エレーンは腰を浮かせた。

「あたしが? ケネルに? いつ! どこで!」

 あんなセクハラまがいの悪ふざけを!?

「きのう、街道から戻った時に」

 間髪容れずに、ケネルは返す。

 え゛──と前のめりで固まった。脳裏をよぎる不都合きわまる記憶の数々……

 ケネルの白けた視線から、そろり、とよそに視線をそらした。ならば、つまり、お返しってことか? ケネルが街から戻った時に、飛びかかって揉みくちゃにしたから、だから自分もやり返した、と?

(……どこの子供よ)

 脱力して、うなだれた。蓋をあければ埒もない。そんなしょうもない理由とは。なら、散々悩んだのはなんだったのだ。てか、涼しい顔してこの男、

 ──どんだけ負けず嫌いなのだ。

 あんたな、と顔をしかめて、ケネルが心外そうに見返した。

「俺があんたを襲うわけがないだろう」

 え、とエレーンは息を呑んだ。

 思いもかけず胸が詰まり、思わず、あたふた目をそらした。

 ぶっきらぼうに放られた言葉が、全身くまなく染み渡る。膨れに膨れた黒い疑心が、元の暗がりへと沈んでいく。

「まったく、あんたはよく分からないな」

 不可解な生き物でも見るように、ケネルはつくづく見おろしている。

「普段はあんなに、まとわりついてくるくせに」

 エレーンはげんなり額をつかんだ。

「──だから、あれはそんなんじゃ」

 ああ、相変わらずの物わかりの悪さ。どうして、ケネルには分からないのだろう、こんなにも当たり前のことが。

 誰も別に誘ってなんかない。ケネルが多分思っているような、誘惑なんかじゃ全然ないのだ。

 だからケネルは仕返しのつもりで(それなら脅しても構わない)と思ったらしいが、まったく、とんだ料簡違いだ。女が男にじゃれるのはいい。別になんの問題もない。けれど、逆は()にあらず。腕力に差がありすぎて、遊びじゃ済まなくなるからだ。現に昨夜も、あんなことに──

 ふと、エレーンは顔をあげた。本当にそれだけだったろうか。あんな恐慌に陥った理由は。

 確かに、驚きはするだろう。急に相手がのしかかってきたのだ。だが、それでも、話くらいは聞いていたはず。単なる悪ふざけと種が明かされ、あの場限りのことで済んだ。大ごとになど、なろうはずもない──そうケネルも思ったからこそ、なんの気なしに実行した。

 けれど、実際に起きたことは──

 深い木立を貫いて、どこか遠くで、鳥が鳴いた。

 いや、鳥の声とは少し違う。もっと長くて、均質な音色──そう、変わった節の口笛のような。

 ケネルは聞き入るように目をすがめ、じっと動きを止めている。

 やがて、軽く息をつき、力が抜けたように身じろいだ。

「ほら、立て。戻るぞ」

 振り向きざま、つかつか近寄り、こちらに向けて片手を突き出す。「そんな所で座りこむな。服が泥だらけになるだろう」

「……え……え?」

 一転してせっつかれ、エレーンは地面についていた手を浮かした。差し出されたその手をとろうと、反射的に手をもちあげ、

 ためらい、その手を引っこめた。

「どうした」

 ケネルが怪訝そうに顔を覗いた。

 エレーンはへたりこんだ足に目をそらす。

「……ごめん。まだ無理。立てないみたい」

 ケネルは拍子抜けしたような顔をして、やれやれと背を起こした。

「仕方がないな。もう少し休むか」 

 上着の懐を探りつつ、隣の幹へと歩いていく。

 エレーンは目を伏せ、足のすねをゆっくりとさする。心に走らせた探査の触手が、その(・・)理由を掘り当てていた。説教に便乗した悪ふざけで、恐慌をきたしたその理由を。

 心に怖れがあったから。

 元よりケネルに、不審を抱いていたからだ。

『 あの女とガキ、始末してやろうか 』

 暗雲を縫って閃いた声に、ありありと経緯いきさつがよみがえる。

 すでに辿りついたはずだった。結論は出ていたはずだった。彼とは、もう行けないと。そう、だから(・・・)、ケネルとは、

 ──もう一緒にいられない。

 鋭く走った胸の痛みに、たまらずエレーンは唇を噛む。

 ケネルは木根で足を投げ、木幹にもたれて喫煙している。普段と何ら変わらない、淡々としたあの瞳。あの姿を見るのも、これが最後。

 ──言わないと。

 ケネルに「さよなら」を言わないと。

 きちんと、お礼を言わないと──。熱い塊が胸に突きあげ、たまらず顔を振りあげる。

「ケネル!」 

 ふと、ケネルが目を向けた。

 指で紫煙をくゆらせて、目線で先を促している。

「あの……」

 こみあげた熱で、胸がつまる。

「あの、あたしは──」

 声が震え、言葉が途切れる。まっすぐ見返すケネルの瞳。

「……あの」

 周囲をかこむ高い木立に、ひっそり静寂が浸透した。

 森は光に満ちている。唇をかんで逡巡し、浅い呼吸を繰り返す。どうしよう、思い出が、今、目の前で進んでいる。

 時が、止めようもなく進んでいく。

 風が流れていくように、二人の脇をすり抜けて。

 過ぎた後では取り戻せない、この時だけの、大事な一瞬。

「……あの」

「何かあるなら言ってくれ」

 辛抱強く待っていたケネルが、げんなりしたように嘆息した。「そそっかしいあんたのことだ。どうせ又、ろくでもないことなんだろう」

「そ、そんなんじゃ……」

 エレーンは目を伏せ、ためらった。別れの言葉を彼が聞けば、この絆は切れてしまう。本当に、細くて脆い絆なのだ。今、この手を離したら、二度とケネルと会えなくなる。

 指で紫煙をくゆらせて、ケネルは言葉を待っている。

 ──なにか、言わなきゃ。

 どうせ終わりになるのなら、彼の心に残るように。

 彼の心に届くように。

 とくん、とひとつ、胸が波打つ。

「……あのね、ケネル」

 ふっと、糸をつかんだ気がした。

 ──今、言うべきことがある。

 鬱々とした暗がりで、閃いたのは、この言葉。

 そうだ。この場に必要なのは、きれいに着飾った言葉じゃない。今の自分がなすべきこと(・・・・・・)

 幕を引いてしまう、その前に。

 務めてゆっくりと息を吐く。心を決めて、顔をあげた。

「ずっと、ケネルに訊きたかったことがあるの」

 このまま訊かずに別れたら、ここで逃げてしまったら、きっと一生後悔する。

「あの時ケネル、本当に、」

 梢がそよぎ、木漏れ日がゆれる。

 覚悟を決めて、彼の目を見た。

「本当に、サビーネのこと殺そうとしたの?」

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