1話4
日はすっかり暮れ落ちて、ひんやり空気が肌寒い。
原野の広大な蒼闇に埋もれて、椀を伏せたような白っぽいものが、二つ、三つと点在していた。薄墨に呑まれた草海で、ほのかに灯かりが揺れている。
駆り立て続けた馬速を落として、ケネルが灯かりに近づいた。
「迷わんかったかね、隊長さん」
「夜分にすまない。今夜一晩、世話になる」
馬を止めて、草地に降り立ち、ケネルはそつなく応答する。
宵の草海に溶け入るように、初老の男が立っていた。相好を崩す、皺の刻まれた温和な顔。
ケネルは簡単に挨拶を済ませ、馬からこちらを下ろしてしまうと、指示された方向へ踏み出した。足を向けたその先には、あの椀を伏せたような白っぽいもの。
エレーンも男に会釈して、あわててケネルを追いかける。「ね、ねえ、ケネル。あれは何?」
「ゲルだ」
「……ゲルダ?」
なんの呪文だ。
「このキャンプの人たちの住まいだ」
「え──お家!?──そっか、そういう──えっと、じゃあ、あっちにあるのは──」
そっくり返りそうにケネルを見上げ、しゃにむにケネルについて歩く。通常歩行でも、ケネルは速い。
ケネルはいつもの無表情。初めの内こそ訊かれたことに応えもしたが、途中でふっつり黙ってしまった。
ちなみに、さっきのおじさんは、遊牧民であるらしい。家畜の群れを追いながら、広く大陸を縦断している。蒼闇に白く埋もれていたのは、ゲルと呼ばれる彼らの住居。
「入れ」
ゲルの戸口のかたわらに立ち、ケネルが厚布をもちあげた。
エレーンはあわてて脇をすり抜け、丸い建物、ゲルに入る。
「お、お邪魔しま~す……」
どこかの洞窟を思わせる、ともし火ゆらめく部屋だった。
しん、と立ちこめた暗闇に、ゆらゆら灯かりが点っている。それは、床の携帯ランプ、カンテラが三つ置いてある。
傭兵団の馬群を離れ、寂しい草原を往くことしばし、行きついたのがここだった。遊牧民の小さなキャンプ。先のやりとりから察するに、今夜はここに泊まるらしいが──
「──脱げ」
「はあ!?」
ぎょっとケネルを振り向いた。なにを言い出すこの男!?
ケネルが布を持ちあげたまま、溜息まじりに、もう一度言った。
「靴を脱げ」
「……く?」
あたふた片方ずつブーツを脱いだ。「くつ……あっ、く、靴ね! 靴っ!」
耳までのぼせて、そそくさブーツを端に寄せ、誤魔化し笑いで室内を見る。
家具や間仕切りの類いはない。
半球状の壁と天井。赤い絨毯が敷きつめられ、それのない中央の土間には、古びた窯が据えてある。その真上に天窓があり、もの珍しい丸壁は、細かな木組みでできている。──て、壁は布を張っただけ!? そういや、ケネルが「組み立て式で移動が可能」と、貴重な説明で言っていたから、頑丈なテント、というところか。
薄闇ただよう室内で、おぼろげに見分けられたのは、壁際に置かれたクッションがいくつか、壁の隅に寝具が積まれ、右手の壁の暗がりに、ぼんやりとした何かの輪郭──生活用品や水瓶らしい。調度品はわずかに一つ、向かいの壁に架かった
(──絵?)
ひんやりした絨毯を踏みしめ、エレーンはそろそろ近づいた。
中央の土間を通りすぎ、三つの小さなカンテラの、ともし火でそれに目を凝らす。金の枠の額縁だ。
(なんだろ、これ。──鳥、みたいな?)
描かれているのは "黄金の鳥" 単純な線に、単純な構図。背景はない。絵画というには拙いが──
「座るな」
ぎくり、と飛びあがって振り向けば、ケネルが戸口で背をかがめ、編みあげの靴を脱いでいる。「西は神聖な方角だ」
「──あっ? 西……う、うん、わかった!」
中腰で止まった腰をあげ、あわててエレーンは壁から飛びのく。
「ご、ごめん。あたし、知らなくて」
案外ケネルは敬虔らしい。あんまり、そうは見えないが。
そういえば、と思い出す。このゲルに入る前、静かな夕暮れの西空に向かい、祈りを捧げていたことを。
意外な思いで右手へ移動し(ここら辺なら、いいわよね……?)ときょろきょろ辺りを見まわしながら、そろそろ壁沿いに腰を下ろす。「あ、ねえ、そういえば、なんで、あたし達だけ、こっちに来たの?」
膝をかかえたすぐ横に、ケネルが荷物を放り投げた。
「あんたに野宿は無理だろうからな」
(……どうしよ。ケネルと)
二人きり。
ケネルを盗み見る上目遣いで、荷物を抱きしめ、うずくまる。
気配が気になって仕方ない。ケネルが少し身じろぐだけで、飛びあがって反応してしまう。
土間でケネルは、火を熾しているようだ。ずっと口をつぐんだままで、窯に燃料を放りこんでいる。
そうした動作の端々に、粗暴な仕草が垣間みえた。ふとした拍子に気づいたような顔をするから、どうやらケネル本人は、なるべく見せまいとしているようだが。
ぱちぱち、炎が鋭く爆ぜた。
窯に火が入ったことで、室内は大分明るくなったが、隅の方はまだ暗い。黙りこくった沈黙の中、不安と焦りがふくらんでいく。
何を考えているのか、わからない。ケネルが何を考えているのか。
確かにケネルの言うように、野宿なんかは遠慮したいが、間借りをするくらいなら、街道で宿をとればいいのに。しかも、どうして一人だけ、皆から引き離して連れてきたのだ。うら寂しい原野の果てまで。
窯を眺めるケネルの顔を、炎が赤く照りかえす。
片膝ついた横顔からは、なんの感情も読みとれない。
気まずい沈黙がのしかかり、エレーンはもそもそ無為に身じろぐ。
手を伸ばし、左の肩をそっと抱いた。
疼くように脈打っている。あの事件で負った傷が。昼には何ともなかったのに、こうして宿までたどり着き、気がゆるんでしまったか──
「どうした」
ぎくり、とエレーンは顔をあげた。いぶかしげにケネルが見ている。
あわてて首を横に振った。「あっ。ううん、なんでもない。ただちょっと──」
「ちょっと、なんだ」
「──あ、いや、ちょっと痛いかなって、背中……」
「なぜ、それを早く言わない」
火加減を見ていた窯の前から、即座にケネルが立ちあがった。
「あんた、薬は。飲んだのか」
「の、飲んだもん、ちゃんと。朝だって。さっきだって」
「効かなかった、ということか」
ケネルが顔をしかめて舌打ちした。「──まったく。変なところで意地っ張りだ。余計なことなら、いくらでも喋るくせに」
「あ、あたしは別に、意地なんか──」
つかつかケネルが戸口に向かった。
脱いだばかりの編みあげ靴を、無造作に突っかけ、戸口をくぐる。
「え──なにっ!? どこ行く気?」
あわてて身じろいだその矢先、ばさり、と戸口の厚布が閉じた。
のろのろ手を、膝に下ろして、エレーンは床にへたり込む。
「お、おいてかないでよ。こんな、知らない所なのに……」
火影が、壁で揺らいでいた。
取り残された室内は、闇に呑まれて静まりかえり、窯の音しか聞こえない。包帯を巻いた背中の傷が、思い出したようにしくしく痛む。
肩を抱いて唇を噛み、エレーンは膝に突っ伏した。
「……こんなの、あたし、聞いてないしぃ」
てっきり普通に旅をするものと思っていた。
辻馬車を乗り継いで中央に向かい、商都で長旅の疲れを癒し、トラビアに向けて出発する。その間、店も人目もある街道を使い、町に入って休憩し、夜は小奇麗な宿に泊まって、付近の店で食事をとって──。まさか夢にも思わなかった。あんな馬群で荒野を疾走するなんて。行けども行けども景色の変わらぬ大自然のただ中を。
こっちの方が早いから、とケネルは事もなげに言うけれど、町も店も宿もない、目印など皆無の原野じゃ、どこまで来たのか、どこにいるのか、こちらにはまるで見当もつかない。最寄りの町まで戻りたくても、徒歩で戻れる距離じゃない──。
秘めた不審が、胸をよぎった。
そう、ずっと不安だった。だって、ケネルをよく知らない。知っている事があるとすれば、いつもなぜか怒っていること、めったに口をきかないこと、用がなければ見向きもしない、その程度。
窺うような一瞥を見るたび、慎重に距離をとっているのかと思ってみたりもしたけれど、これまでの行いを見るかぎり、そこまで深い考えはない。
無駄なことを、ケネルはしない。
何事にも動じることなく、淡々とした顔を崩さない。それが今日一日でよくわかった。だが、そうだというのなら、なぜ、付き添いを承諾したのだ。護衛として雇ったわけでもないのに。
窯にかけた鍋の湯が、しゅんしゅん小さく騒ぎ始めた。
しん、と静まった暗がりで、窯の炎が爆ぜている。打ち消しては立ち現れて、彼への不審がぐるぐる回る。だって、疑いたくもなる。厚意でなければ、なんだというのだ。
ばさり、とどこかで、音がした。
厚い布を払う音──はっとして振り向けば、戸口の暗がりに人影があった。