1話3
又か、といわんばかりに顔をしかめて、ケネルがファレスに顎を振った。
馬群の先頭にファレスが指示し、馬群の速度が若干ゆるむ。それでもかなり速いことに変わりはないが。
彼らの馬速は、とんでもなく速い。
その怒涛の勢いたるや「すごい」を通り越して「恐い」の域だ。集団で固まって走っているから、振り落とされでもしようものなら、あっという間に蹄の餌食──。
だから、ケネルに抗議したとも。バンバン背中を引っ叩いて。
陽を浴びた原野の緑が、どこまでもどこまでも続いていた。
かなりの速さで走っているのに、景色がまるで変わらない。
いま話題のおいしいお店や、近頃ハマっている駄菓子のお店、いま人気のラブコメの筋書き、こないだ聞いた噂等々、思いつくかぎり話を振るも、ケネルはまるで乗ってこない。むしろ、なんにも応えない。いつものあの仏頂面で、進行方向を見ているだけで。
馬を操るその肩に、エレーンは不貞腐ってもたれかかった。案の定というべきか、まるで会話が成立しない。ケネルの応答は最小限。それさえ不要と判断すると、だんまりを決め込んでしまうのだ。けれど、それでは退屈だから一方的に頑張るが、やがて会話も途切れてしまい、たちまち轟音に包まれる──。
髪に、肩に、もたれた頬に、午後の陽が降りそそぐ。
緑ののどかな風景が、延々と果てなく流れ去る。皆が着ている革の上着もうなずけた。こんなに常に、向かい風を受けていたら──
「……そっか」
ふと、エレーンは合点した。
「あの上着って、風よけなんだー」
妙な感じがしていたのだ。夏というのに、分厚い上着を着てるから。
抗議したから速度は落ちたが、それまでの馬速はかなりのもの、馬での移動が常の皆には、むしろこれが通常なのだ。
それにしても、手持ち無沙汰だ。
目に入るものといえば、疾走する数十頭もの馬──黒いのや、茶色いのや、実に色々な馬がいる。体が茶色でタテガミと尻尾だけ黒い馬、脚の先だけ白い馬、鼻筋や額が白い馬、町では見ない白っぽい馬まで混じっている。手入れが行き届いているのだろう、どれもつやつや光っている。
ケネルの馬は、馬群のちょうど真ん中あたり。部隊を率いる隊長というから、颯爽と先頭を往くかと思えば、あんがい地味な位置どりだ。ちなみにすぐ隣には、あのファレスが髪をなびかせ、付かず離れず伴走している。
ケネルの馬さばきはなめらかだ。大きな振動がほとんどない。
むろん他の人たちも、馬の扱いには長けていて、街の辻馬車の御者などとは比べ物にならないほど達者だが、ケネルのそれには及ばない。──あ、さてはケネルの奴、この腕で隊長にのし上がったか。
ケネルの馬が、大地をすべるように進んでいく。人馬一体の感覚は、いっそ心地良いと言えるほど。規則正しい振動が、うららかな眠気を連れてくる。瞼がだんだん重くなり──いや、だめだ、眠ったら。夏とはいえ、ここは北方。こんな涼風にさらされて、うっかりそのまま寝入ったら、たちまち風邪を引いてしまう──
くわ、とあくびで目をこすった。
日ざしで温まった上着の革地に、何気なく顔をすりつけて、心地良い振動に身をゆだねる。ああ、ほんとに気持ちいい……
相変わらずの轟音だった。
そういえば、さっきより、風がいく分冷たくなった? 一時強まった夏の日ざしも、大分やわらいでいるような──
くかっ、と思わぬ大きないびきに、はっとエレーンは目をあけた。
(……やばい。寝た?)
あわてて頬のよだれをぬぐい、ケネルをさりげなくチラ見する。
ケネルは先と変わることなく、原野の往く手を見据えている。幸いバレてないようだ。実は、うたた寝してたけど。
けれど、言わんこっちゃない。馬上で寝たら風邪を引くと、そう思った矢先ではないか。ほら、だから、肩も冷たくなって──
ない。
自分の肩を「……あれ?」と見やる。たしか半袖ブラウスを着てきたはずだが?
重たい上着がかかっていた。使いこんだ硬い革の。
寄りかかってもたれた頬には、汗ばんだ綿の肌触り。背中に回した手のひらに、丸首シャツの薄い生地、そして、すぐ下の筋肉の感触──。
どきどき鼓動が脈打った。
ケネルの体温が伝わってくる。ケネルの懐に
──入っている?
なぜ……? の疑問がぐるぐるまわり、……もしや、と息を呑み、硬直する。
(い、い、いつの間にあたしってば!?)
寒くなってきたもんだから、寝ぼけて潜りこんだのか!? いや、ケネルは馬に乗る前、上着の前を閉じていた。だったら、それをこじ開けて、無理に潜りこんだとか──いや、いくらなんでも、それはあるまい。でも、だったら、どうして、ここに──
止めていた息を飲みこんで、そろり、とケネルをうかがった。
もたれた肩を片手で支えて、ケネルは馬を駆っている。行く手を見やったその顔は、これまでと何ら変わらない。
もしや、と戸惑い、視線が泳ぐ。自分に覚えがないんなら、他にはただ一人しかいない。ケネルが上着に
──入れてくれた?
どきん、と胸が跳びはねた。
異様な乱打で、胸が打ち出す。
かあっ、と顔が熱くなり、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。
視界の端で、何かが動いた。
風になびく長い髪──伴走していたファレスの馬だ。他の馬をぐんぐん追い抜き、群れの前へと移動していく。
ついに、最前列へと踊り出て、さらに馬群を引き離す。
独走するその背はやがて、原野の向こうに消え入った。
ケネルにしがみいてエレーンは見送り、眉根を寄せて首をひねる。
(なによ、あいつ。一人でどこへ行くつもり?)
まあ、あんな冷血漢、どこへ行こうが、どうだっていいが。
そうだ。道で会ったのに、荷物も持ってくれないろくでなしだ。こっちはか弱い女子の上、背中に大怪我してるのに。ここでは数少ない顔見知りなんだから、少しくらい気にしてくれたっていいのに。
馬群が蹴立てる轟音に包まれ、果てしない緑の原野を進む。
馬の振動に身を任せ、原野を疾走することしばし、先頭を走る一団が、雑木林へ道をそれた。続く馬群もことごとく右折。
「……え゛?」
何が起きたか、とっさにわからず、馬群とケネルとをおろおろ見やる。
ケネルの馬一頭だけが、向きを変えずに直進していた。
馬群はどんどん離れていく。原野の往く手を見据えたままの、ケネルの表情は変わらない。
(な、なにこれ。どういうこと?)
あぜんと顔を引きつらせ、エレーンはケネルの顔を見つめる。
──一体どこへ連れてく気!?